2015年8月9日説教「本当の味方はだれか」金田幸男牧師
説教「わたしの味方」
聖書 マルコによる福音書9章38-41
38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
要旨
イエス・キリストは弟子だけを集めて、ぐるりと取り囲んでいる彼らの中に座して教えられます。ただ一方的に話をされるだけではなく、意見を聞き、質問に答えられました。その一つがここに記されています。
【使徒ヨハネ】
それはヨハネの言葉です。マルコ福音書で、ヨハネが単独で語っているところはここだけです。ただし、彼は「私たち」という言葉を使っています。ヨハネが語っていますが、他の弟子たちを代弁しているといってよいでしょう。ただヨハネが代表して語ったことには意味があると思われます。
【あなたの名を使って悪霊を追い出す者】
ヨハネの意見は、イエス・キリストの名を用いて悪霊を追い出しているものがいるが、止めさせた、というものです。この当の悪霊を追い出している人物がどういう人なのかここからは分かりません。イエスの名を用いるとはイエスの権威によって行う行為に他なりません。
この人は12人の弟子たちとは違う人物です。しかし、イエスの名を用いるからにはイエスのことをそれだけよく知っていたことを示します。悪霊追放は医療行為のようにも見られていました。この人物はそういうところから医師のような働きをしていたのかもしれません。イエスの名を用いるとたいへん効果的であることを学んでいたのです。営利事業のようにしていたかもしれません。彼が広い意味でのキリストの弟子団に属していたかどうか分かりませんが、可能性は高いと思います。
12弟子はこの人物を不快に思っていたことは確実です。その理由はいろいろと推測できます。ヨハネはそうでありませんでしたが、他の弟子たちは、てんかん症状を引き起こす悪霊を追い出すことに失敗していました。ところが12人の弟子でもない人が悪霊を追い出している。失敗ばかりしていると成功している人をねたましく思うものです。12人の弟子ではない、いわば格が低いものが悪霊を追い出すという奇跡を行うことができる、それはなかなか理解できないことでありました。したがって意識しないまま、弟子たちはやめさせた。つまり、悪霊追放を妨害することになります。
【悪霊追放の権能】
第二に、悪霊追放は特別な権能です。弟子たちはそれを授けられました。ところが、その権能行使に関してはあまり交遊もない人物が悪霊を追い出しています。これは弟子たちの持っている特権を害することになる。弟子たちにして見ればけしからぬことに思われたはずです。自分たちだけに許されている悪霊追放を実行している。これは特権を侵害するものと考えられます。そして、弟子たちのエリート意識を叩き壊すことになります。神の国が完成するとき、その国で弟子たちは特別な地位を獲得するでしょう。弟子たちにしてみれば、イエスの名で悪霊を追い出すこの人物は12人の弟子たちの自尊心を傷つけるものであったはずです。
キリストの弟子たちの心理状態はもっと分析することが出来るでしょうが、とにかくその行動を阻止しなければならないと思ったことは確実です。ヨハネが登場するのはこのためであったと思います。ヨハネはボアネルゲス(雷の子)と呼ばれていました(マルコ3:17)。推測に過ぎませんが、ヨハネは大きな声の持ち主であったかもしれません。ヨハネが大声でその悪霊を追い出している人の行動を止めさせたこともありえます。大きな声はそれだけで威嚇になります。
【わたしの名で力あるわざを行いながら、わたしをそしることはできない】
ところがイエス・キリストの言葉は意外なものです。まず止めさせるな、と言われます。イエスの名で悪霊を追い出して成功しているなら、奇跡を行った直後にキリストの悪口は言えまいといわれます。キリストの名によって悪霊を追い出しています。悪霊追放はキリストの権威に基づきます。奇跡を行った直後にそのイエスの悪口を言うと、先に行った奇跡は信用されなくなります。イエスの名で、その権威で奇跡を行ったのですから。
【わたしの味方とは】
そして、キリストは、「わたしに逆らわないものは、わたしの味方である」といわれます。普通、キリストに敵対するものは敵である。これはそのとおりです。敵味方を明確にしたがるのが私たちです。敵か味方か、はっきりしたいのです。すると、イエス・キリストに反対はしない、ただ、傍観者の立場にいるだけ。こういうあいまい態度表明をする人をどうするか。しばしばそういう人たちを敵扱いすることが多いのではないでしょうか。キリストに逆らわないけれども、態度を曖昧にしたままとか、一定の距離を保ったままにする人を敵対するものと同類にします。そういう人は卑怯者、あるいは、信念に欠ける人物扱いするというようなこともおきます。
キリストに対して何らかの事情もあって明確に態度を示せない場合も多々あります。しかし、それでキリストを否定しているのでもありません。キリスト教信仰を嫌悪したり、敵意を持って眺めているのでもありません。そういう人たちはキリストに逆らっているのではありません。キリストは大胆にもそういう人たちはわたしの味方であると断言されます。
いわば中立の人もいます。あるいは中間を好む人もいます。しかし、キリストは彼らを敵だとは言われません。むしろ、味方なのだ。
私たちはともすれば教会員とは味方であるが、そうでない教会の外の人たちを敵対者と見なす傾向にあるのではないでしょうか。欧米では一応キリスト教国となっています。生後あまり時間の経たない内に洗礼を受けます。こういうところでは、信仰を明確に告白していない人も当然キリスト者扱いです。信仰があるかないか判断することができません。それでもその人たちはキリスト者扱いです。翻って日本では、明確な信仰的な態度が表明できなければならないという先入観があり、明確に信仰を持っていない人はキリストの弟子団の外にあるかのような扱いを受けます。そして、神の国から疎外されているかのようです。
【わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方】
罪人を救うのは神の主権です。誰を救うか神の御心にあります。だから、私たちが勝手にキリストをはっきりと信じて、信仰の態度を明らかにしない人はみな「非」信者であって、救いからはるかに遠いと見なされます。それが信者の家族でも同じです。信仰を告白していなければ教会の外に放り出されているものたちという観念と結びつきます。しかし、キリストは、キリストに敵対しない人、その中には中立を決め込む人もいるでしょう。傍観者の立場のままでいる人もいます。態度を表明しないままの人もいます。キリストはそういう人もキリストの味方であると言われます。はっきり信仰を告白していなくても、キリストに対して好意的な人はたくさんいます。そういう人をキリストはわたしの味方なのだといわれます。家族、伴侶、友人知人、地域の住民・・・そういう人に中にはキリスト教に対して反対をしないという人も多くいます。キリストはそういう人をどうご覧になっているのか。少なくともキリストの敵だとはされていません。
確かに信仰を明確に表明しないし、洗礼を受けることもしない、そういう人は周囲にたくさんいます。私たちは少数派ですから周囲はすべて異教徒です。異教徒だから私たちはいつも敵対すべきなのでしょうか。少なくとも敵と見なすべきなのでしょうか。そうではありません。
キリストに対して明確に敵対しない人をキリストは味方であると認められたこの原則は今日こそ大いに適用されるべきなのです。
【弟子に、水一杯を飲ませるものの報いは大きい】
キリストはもうひとつの言葉を与えられます。キリストの弟子という理由で、キリストの弟子に水一杯を飲ませるものに大きな報いがある。のどが極度に渇いているとき水を与えられることは大きな感激です。しかし、実は水一杯のもてなしほど小さな行為はありません。イスラエルの人々にとって、宿を提供すること、食事を整えることこそ大きな美徳とされていました。水一杯などささやかな親切でしかありません。ローマ帝国下でキリスト者が迫害されているとき、キリスト教に好意的だというそれだけの理由で逮捕されたり、投獄されたりしました。キリスト者とは関わりを持たないということが賢明な策であったかもしれません。しかし、人目を忍んでキリスト者に水一杯だけを与える。これは最小限の親切でした。キリストはこのような親切に対して報いを与えると宣言されます。報いは小さなものではありません。神が報われるのです。それは素晴らしい祝福そのものを含むでしょう。キリスト教はときに迫害されます。そのようなとき、キリスト者は萎縮してしまい、孤立するということがおきます。誰をも信頼せず、ひたすら嵐が収まるのを待つ。このような接し方をする場合が多いと思われます。
【キリストへの善意から】
しかし、私たちはこの世でも、同じような経験をします。周囲はすべて敵対するものばかりです。そのような中で、私たちはどうするべきか。
周囲はすべて敵だと決め付けるような態度は正当ではないと思われます。冷たい水一杯だけですが、それでも親切心から出る好意を示されます。たかが水一杯と考えるべきでしょうか。そうではなく、そのような行動の背後にあるものを見なければなりません。それはキリスト者への、すなわちキリストへの善意です。私たちは緊急事態のときでも、困難なときでも、そこに人々」の助けを受けることになります。彼らは敵ではありません。敵ではないものは味方なのです。敵ではない態度、言動を示す人たちを私たちはキリスト者ではないから切り捨てたいと思うこともあります。けれども彼らは神から報いを受けています。神の報いは小さなものではありません。
味方であれば、無理やりに敵意を示す必要もありません。キリストの味方である以上は、彼らを神がよく扱い、ついには神の救いの恵みにあずかるように祈っていかなければなりません。それこそ、彼らの心が開かれるきっかけとなるでしょう。(おわり)
2015年08月09日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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