2015年8月30日説教「最も小さい者であるわたし」宮崎契一牧師
L150831001.wav(前半) ←クリックで説教が聴けます2015/8/30 説教「最も小さい者であるわたし」宮崎契一牧師
今日は西谷伝道所での奉仕が許されて感謝しています。初めて、この新会堂に来ることができて嬉しく思っています。私が以前奉仕に来たのは、おそらく4~5年ほど前のことだったと思います。まだ新会堂ができる前です。
今朝お読みしました、エフェソの信徒への手紙を書いたパウロという人も、キリストの教会を建て上げることに用いられた人です。しかし、教会を建て上げると言っても、パウロが手紙の中で言っていることは、単にこの建物を建てるということではありません。キリストの恵みによって、信仰によって、この教会という建物を成長させていくという中身の成長をその手紙の中で語っています。このことがどの教会にとっても大事なのだと思うのです。
パウロの務め
そして、教会の成長という時に、それは私自身の成長、ということと切り離して考えることはできません。聖書には、教会はキリストの体であり、一人一人はその部分だと言われています。一人一人が教会の一部分で、それぞれの働きによって、この体は成長されていくと言われるのです。教会という場所は一人一人のことが大切であり、必要です。私自身がどのような恵みに生かされているのか、ということが大事なのだと思います。それは、全体の成長につながります。この3章でパウロは、そのような恵みを受けたわたし、について語るのです。教会という場所は、もちろん全体としての歩みですけれども、その部分であるわたしということがまた大事です。
パウロは2節で、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。」と言っています。神がわたしに恵みをお与えになった次第、こうパウロは言うのです。では、そのわたしに恵みが与えられたことによって、わたしはどういう者にされたのか。恵みが与えられるということを考える時に、私たちは毎日の生活の中で、いろいろなことを想像するかもしれません。何か自分の欲しいものが与えられた、自分の願っていたことが実現された、など。しかし、パウロにとって、神の恵みを受けるということはどういうことだったでしょうか。それは、自分が救われて、この福音に仕える者にされた、ということでした。これが、何よりのことだったのです。信仰者にとって忘れることのできない出来事です。神がわたしに恵みをお与えになった次第、ということに続けて、パウロはそのようなわたしのことを語っています。
パウロは3節で「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」と自分に与えられた恵みについて展開しています。秘められた計画、というのはどういうことでしょう。パウロは続く4節で、そのことについて「キリストによって実現されるこの計画」と言っています。この「秘められた計画」というのは、それまで人々に明らかにされていなかった隠されたご計画です。それが、キリストというお方によって実現された、そういう神様の救いのご計画のことです。
5節では、「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」と言われています。キリストによって実現される神様の救いのご計画ですから、イエス・キリスト以前の時代、旧約聖書の時代にまだこの計画は人々には明らかにされていませんでした。しかし、イエス・キリストが地上においでくださった。そのことによって、今や聖霊によって、使徒たちや預言者といった人たちにそのことが啓示をされた。そして、この使徒たちや預言者たちによって、この隠された神様の救いのご計画が人々に大胆に語られるようになった。そういう神様のご計画が私にも啓示された、そういうことをパウロはここで言っているのです。
その計画というのは、6節でも言われていますように、選びの民とされていた旧約以来のユダヤ人だけではなく、異邦人も、このイエス・キリストの福音とは無関係ではない、ということでした。それをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者だし、同じ約束にあずかる者だ、と言うのです。全く変わらないのです。ユダヤ人にとって、それ以外の外国人、異邦人というのは、汚れた存在です。律法の無い人たち。救われることのない人たち見なされていました。そういう区別があったのです。だから、交際することも禁じられていました。外国人を訪問することも禁じられていた、こういうことが聖書に記されています。
けれども、神様という方は、人を分け隔てなさらない。異邦人は駄目だ、それ以外にも私たちの生きている世の中にはいろいろな区別とか差別があるのだと思います。この人は良い、この人は駄目だ、違う、こういう区別が私たちの現実にはあると思います。そういうものを人間は造り出してしまうと思うのです。しかし、神様の前ではそういう区別はありません。だから、異邦人もユダヤ人と全く同じように、同じ一つの体であり、共に神様の約束に与かる者だということ。キリストの救いは、あらゆる人に分け隔てなく向けられているということ。そういうこれまで秘められていたキリストによって実現される救いの計画を、パウロは啓示されて、使徒としてそれを伝えていました。神様の救い、この福音は全ての人に向けられているものなのです。
一番小さな者
改めて、パウロという人のすごさを教えられるように思います。それまで人々には秘められていた神様の計画が彼に啓示されました。そして、それを伝えているという、本当に新しく大きな働きをパウロはするようになりました。
しかし、そのパウロ自身は一体自分のことをどのように考えていたのでしょうか。7節と8節でパウロはこう言っています。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」。彼は福音に仕える者とされた自分について、こう言うのです。
ここで私たちの目を引くのは、パウロが自分について「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と言っていることです。「聖なる者たち」とは、神様に救われた者たちのこと、教会の一人一人のことです。その全ての者たちです。教会の中で立派な働きをしている人たちや、中心的な働きをしている人たちのことを言っているのではありません。その全ての人たちの中で、最もわたしはつまらない者だ、これほどのことをこのパウロが告白しているのです。「つまらない者」とは、小さな者、という意味です。最も小さな者だと、彼は「わたし」のことを言っています。
パウロは、自分の小ささについて、コリントの信徒への手紙(15章9節)の中でこう言っています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」。パウロは、以前は激しく神の教会を憎み迫害していました。そのような自分の過去を振り返って、私は使徒の中で一番小さな者、その値打ちの無い者だと言います。ここでも、いちばん小さな者、という言葉が出てきました。また、パウロはテモテへの手紙の中では、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」とも言っています。
ここで、最も小さな者、とパウロが言っていることがどういう小ささなのか、ということです。何か単に謙遜ぶって小さな人、と言っているのでしょうか。謙虚な人、立派な人であることを見せようとしているのでしょうか。16世紀フランスの宗教改革者ジャン・カルヴァンという人がいます。私たちの改革派教会のルーツと言って良い人です。カルヴァンはエフェソ3章8節でパウロについて、「かれがこのように自分を低めるのは、決して駆け引きのためではない。」と言います。そして、彼は「ほんとうは心の中が傲慢で満ちていながら、謙遜であるごとくにみられようとするものがたくさんいる」と言うのです。「たいへんな尊敬に値するとみなされたがっていながらも、いうことだけは最も小さいもののようにいうひとが、たくさんいるのだけれども、パウロはほんとうに心から自分の小ささを認めていたのだ」と言うのです。
500年前の人ですけれども、ここでカルヴァンが言っていることは、案外その通りなのかもしれません。人間の心というのは、その中が傲慢で満ちていながら、謙遜であるように見られたがっている者がたくさんいる。尊敬に値すると見なされたがって、言うことだけは最も小さいもののように言う人がたくさんいる、と言うのです。私たち人間の謙遜というのは、案外こんなものなのかもしれません。言うことだけは最も小さい者であるかのように言うことがあります。人から立派に見られたがっている。しかし、その心の内側は、傲慢に満ちているというのです。私たちの謙遜には、いつもこういう限界があるのだと思います。しかし、ここでパウロが言っている小ささは、「罪人の中で最たる者です」と言うように、罪深いという小ささです。何よりも神に対して、あるいは、人に対して、自分は罪のある者である、そういう神の前での自分を知っている人こそ、本当に謙遜な人なのです。
恵みによって
しかし、パウロは何で、こんなにも自らが最も小さいということを知ったのでしょうか。聖なる者たち、信仰者の中で自分は一番小さく、罪深いとまで彼は知ったのでしょうか。この言葉は、本当に砕かれた人の言葉です。本当の自分を良く知っている人の言葉なのです。
パウロがこのような自分を知ったのは、それは彼に神様の恵みが与えられたからです。7節には、「神は、その偉大な力を働かせてわたしに恵みを賜った」と言われています。これが与えられる中で、この恵みは最もつまらない者である自分に与えられた、と自分自身の姿が明らかにされます。この恵みは、神様の偉大な力によって与えられているというほどの恵みです。だから、パウロは自分の姿が露わにされる中で、しかし、ただこの自分に与えられた恵みだけが、罪深い自分を生かす、ということを確信していました。恵みが与えられた人は、この恵みを喜んで受け取り感謝する人です。そして、それが与えられた自分は、本当に小さな者、神様の前に一切何も誇るところのない自分であることを良く知らされた人なのです。
先ほども言いましたように、パウロは、以前は神の教会を憎み迫害していました。しかし、その彼に恵みが与えられて、全く彼は変えられます。恵みは人の生き方を変えます。「この福音に仕える者としてくださいました。」こう言うのです。最も小さな者、また最も罪深く神の教会を迫害していた者が、福音に仕える者にされた。これは全く変えられたのです。ここにありますように、恵みはその人を全く新しくします。これが神様の恵みだと、聖書は言うのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙(15章9-10節)の中で神の恵みについて、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」と言いました。「神の恵みによって今日のわたしがある。」これは、全ての信仰者が心から言うことのできる言葉だと思います。何か自分だけで頑張ってここまで教会生活やってこられました。自分の能力でここまできました。信仰者は、そのように言うことはできません。なぜなら、恵みが与えられているからです。神の恵みとは、何よりもそれによって今日の自分がある、そう心から言うことのできるものです。
そして、この恵みが、キリストを信じる一人一人に与えられている。これが、今日の聖書の言葉が私たちに語り掛けていることです。神の恵みを見失いやすい、毎日の生活の中で私たちはそういうことが多いのではないでしょうか。恵みを与えられた者として、仕える、ということも全く考えないかもしれません。仕えることよりも、とにかく他人はどうであっても、自分自身のことで精一杯、ということもあるかもしれません。
しかし、ここで神様の導きを共に覚えたいと思うのですけれども、神様はイエス・キリストという救い主を通して、私たちを御自分の近くに引き寄せてくださるのです。12節にこうあります。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」これは、信仰者のことです。私たち一人一人の姿です。私たちも、最もつまらない者、最も小さな者でした。しかし、その人にもキリストへの信仰は与えられ、これまでも見向きもしなかった神というお方に心を向けて近づく人にされたのです。そして、イエス・キリストというお方が、私たち罪人のために御自分が小さくなられ死んで甦ってくださいました。そのように、私たちも身を献げてこの場所で仕えていく。そういう神様への導き、仕えるための恵みが、私たちには与えられています。
結
私たちが神様に祈り求めるものは何でしょうか。それは、小さな者に与えられる恵みです。パウロは、本当に恵みが与えられたことを感謝して、喜びながら7節のことを言ったのだと思います。最も小さい者に恵みが与えられる、このことは喜び以外の何ものでもありません。私たちは毎日の信仰生活の中で、自分自身の小ささ、つまらなさを思わずにはおれません。しかし、そこに与えられるのがこの神の恵みだと言われるのですから、この神が賜るものを受け取るというところに、私たちの成長があります。そして、教会の成長もあるのです。私たちは今週一週間も、それぞれ遣わされている場所で、恵みによって、キリストが私たちのためにしてくださったように、仕える歩みを、キリストを差し示す歩みをしたいと思うのです。そのために、神様はその力を働かせてくださいます。
2015年08月31日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙
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