2015年8月30日説教「最も小さい者であるわたし」宮崎契一牧師
L150831001.wav(前半) ←クリックで説教が聴けます2015/8/30 説教「最も小さい者であるわたし」宮崎契一牧師
今日は西谷伝道所での奉仕が許されて感謝しています。初めて、この新会堂に来ることができて嬉しく思っています。私が以前奉仕に来たのは、おそらく4~5年ほど前のことだったと思います。まだ新会堂ができる前です。
今朝お読みしました、エフェソの信徒への手紙を書いたパウロという人も、キリストの教会を建て上げることに用いられた人です。しかし、教会を建て上げると言っても、パウロが手紙の中で言っていることは、単にこの建物を建てるということではありません。キリストの恵みによって、信仰によって、この教会という建物を成長させていくという中身の成長をその手紙の中で語っています。このことがどの教会にとっても大事なのだと思うのです。
パウロの務め
そして、教会の成長という時に、それは私自身の成長、ということと切り離して考えることはできません。聖書には、教会はキリストの体であり、一人一人はその部分だと言われています。一人一人が教会の一部分で、それぞれの働きによって、この体は成長されていくと言われるのです。教会という場所は一人一人のことが大切であり、必要です。私自身がどのような恵みに生かされているのか、ということが大事なのだと思います。それは、全体の成長につながります。この3章でパウロは、そのような恵みを受けたわたし、について語るのです。教会という場所は、もちろん全体としての歩みですけれども、その部分であるわたしということがまた大事です。
パウロは2節で、「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。」と言っています。神がわたしに恵みをお与えになった次第、こうパウロは言うのです。では、そのわたしに恵みが与えられたことによって、わたしはどういう者にされたのか。恵みが与えられるということを考える時に、私たちは毎日の生活の中で、いろいろなことを想像するかもしれません。何か自分の欲しいものが与えられた、自分の願っていたことが実現された、など。しかし、パウロにとって、神の恵みを受けるということはどういうことだったでしょうか。それは、自分が救われて、この福音に仕える者にされた、ということでした。これが、何よりのことだったのです。信仰者にとって忘れることのできない出来事です。神がわたしに恵みをお与えになった次第、ということに続けて、パウロはそのようなわたしのことを語っています。
パウロは3節で「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」と自分に与えられた恵みについて展開しています。秘められた計画、というのはどういうことでしょう。パウロは続く4節で、そのことについて「キリストによって実現されるこの計画」と言っています。この「秘められた計画」というのは、それまで人々に明らかにされていなかった隠されたご計画です。それが、キリストというお方によって実現された、そういう神様の救いのご計画のことです。
5節では、「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。」と言われています。キリストによって実現される神様の救いのご計画ですから、イエス・キリスト以前の時代、旧約聖書の時代にまだこの計画は人々には明らかにされていませんでした。しかし、イエス・キリストが地上においでくださった。そのことによって、今や聖霊によって、使徒たちや預言者といった人たちにそのことが啓示をされた。そして、この使徒たちや預言者たちによって、この隠された神様の救いのご計画が人々に大胆に語られるようになった。そういう神様のご計画が私にも啓示された、そういうことをパウロはここで言っているのです。
その計画というのは、6節でも言われていますように、選びの民とされていた旧約以来のユダヤ人だけではなく、異邦人も、このイエス・キリストの福音とは無関係ではない、ということでした。それをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者だし、同じ約束にあずかる者だ、と言うのです。全く変わらないのです。ユダヤ人にとって、それ以外の外国人、異邦人というのは、汚れた存在です。律法の無い人たち。救われることのない人たち見なされていました。そういう区別があったのです。だから、交際することも禁じられていました。外国人を訪問することも禁じられていた、こういうことが聖書に記されています。
けれども、神様という方は、人を分け隔てなさらない。異邦人は駄目だ、それ以外にも私たちの生きている世の中にはいろいろな区別とか差別があるのだと思います。この人は良い、この人は駄目だ、違う、こういう区別が私たちの現実にはあると思います。そういうものを人間は造り出してしまうと思うのです。しかし、神様の前ではそういう区別はありません。だから、異邦人もユダヤ人と全く同じように、同じ一つの体であり、共に神様の約束に与かる者だということ。キリストの救いは、あらゆる人に分け隔てなく向けられているということ。そういうこれまで秘められていたキリストによって実現される救いの計画を、パウロは啓示されて、使徒としてそれを伝えていました。神様の救い、この福音は全ての人に向けられているものなのです。
一番小さな者
改めて、パウロという人のすごさを教えられるように思います。それまで人々には秘められていた神様の計画が彼に啓示されました。そして、それを伝えているという、本当に新しく大きな働きをパウロはするようになりました。
しかし、そのパウロ自身は一体自分のことをどのように考えていたのでしょうか。7節と8節でパウロはこう言っています。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」。彼は福音に仕える者とされた自分について、こう言うのです。
ここで私たちの目を引くのは、パウロが自分について「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と言っていることです。「聖なる者たち」とは、神様に救われた者たちのこと、教会の一人一人のことです。その全ての者たちです。教会の中で立派な働きをしている人たちや、中心的な働きをしている人たちのことを言っているのではありません。その全ての人たちの中で、最もわたしはつまらない者だ、これほどのことをこのパウロが告白しているのです。「つまらない者」とは、小さな者、という意味です。最も小さな者だと、彼は「わたし」のことを言っています。
パウロは、自分の小ささについて、コリントの信徒への手紙(15章9節)の中でこう言っています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」。パウロは、以前は激しく神の教会を憎み迫害していました。そのような自分の過去を振り返って、私は使徒の中で一番小さな者、その値打ちの無い者だと言います。ここでも、いちばん小さな者、という言葉が出てきました。また、パウロはテモテへの手紙の中では、「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」とも言っています。
ここで、最も小さな者、とパウロが言っていることがどういう小ささなのか、ということです。何か単に謙遜ぶって小さな人、と言っているのでしょうか。謙虚な人、立派な人であることを見せようとしているのでしょうか。16世紀フランスの宗教改革者ジャン・カルヴァンという人がいます。私たちの改革派教会のルーツと言って良い人です。カルヴァンはエフェソ3章8節でパウロについて、「かれがこのように自分を低めるのは、決して駆け引きのためではない。」と言います。そして、彼は「ほんとうは心の中が傲慢で満ちていながら、謙遜であるごとくにみられようとするものがたくさんいる」と言うのです。「たいへんな尊敬に値するとみなされたがっていながらも、いうことだけは最も小さいもののようにいうひとが、たくさんいるのだけれども、パウロはほんとうに心から自分の小ささを認めていたのだ」と言うのです。
500年前の人ですけれども、ここでカルヴァンが言っていることは、案外その通りなのかもしれません。人間の心というのは、その中が傲慢で満ちていながら、謙遜であるように見られたがっている者がたくさんいる。尊敬に値すると見なされたがって、言うことだけは最も小さいもののように言う人がたくさんいる、と言うのです。私たち人間の謙遜というのは、案外こんなものなのかもしれません。言うことだけは最も小さい者であるかのように言うことがあります。人から立派に見られたがっている。しかし、その心の内側は、傲慢に満ちているというのです。私たちの謙遜には、いつもこういう限界があるのだと思います。しかし、ここでパウロが言っている小ささは、「罪人の中で最たる者です」と言うように、罪深いという小ささです。何よりも神に対して、あるいは、人に対して、自分は罪のある者である、そういう神の前での自分を知っている人こそ、本当に謙遜な人なのです。
恵みによって
しかし、パウロは何で、こんなにも自らが最も小さいということを知ったのでしょうか。聖なる者たち、信仰者の中で自分は一番小さく、罪深いとまで彼は知ったのでしょうか。この言葉は、本当に砕かれた人の言葉です。本当の自分を良く知っている人の言葉なのです。
パウロがこのような自分を知ったのは、それは彼に神様の恵みが与えられたからです。7節には、「神は、その偉大な力を働かせてわたしに恵みを賜った」と言われています。これが与えられる中で、この恵みは最もつまらない者である自分に与えられた、と自分自身の姿が明らかにされます。この恵みは、神様の偉大な力によって与えられているというほどの恵みです。だから、パウロは自分の姿が露わにされる中で、しかし、ただこの自分に与えられた恵みだけが、罪深い自分を生かす、ということを確信していました。恵みが与えられた人は、この恵みを喜んで受け取り感謝する人です。そして、それが与えられた自分は、本当に小さな者、神様の前に一切何も誇るところのない自分であることを良く知らされた人なのです。
先ほども言いましたように、パウロは、以前は神の教会を憎み迫害していました。しかし、その彼に恵みが与えられて、全く彼は変えられます。恵みは人の生き方を変えます。「この福音に仕える者としてくださいました。」こう言うのです。最も小さな者、また最も罪深く神の教会を迫害していた者が、福音に仕える者にされた。これは全く変えられたのです。ここにありますように、恵みはその人を全く新しくします。これが神様の恵みだと、聖書は言うのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙(15章9-10節)の中で神の恵みについて、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」と言いました。「神の恵みによって今日のわたしがある。」これは、全ての信仰者が心から言うことのできる言葉だと思います。何か自分だけで頑張ってここまで教会生活やってこられました。自分の能力でここまできました。信仰者は、そのように言うことはできません。なぜなら、恵みが与えられているからです。神の恵みとは、何よりもそれによって今日の自分がある、そう心から言うことのできるものです。
そして、この恵みが、キリストを信じる一人一人に与えられている。これが、今日の聖書の言葉が私たちに語り掛けていることです。神の恵みを見失いやすい、毎日の生活の中で私たちはそういうことが多いのではないでしょうか。恵みを与えられた者として、仕える、ということも全く考えないかもしれません。仕えることよりも、とにかく他人はどうであっても、自分自身のことで精一杯、ということもあるかもしれません。
しかし、ここで神様の導きを共に覚えたいと思うのですけれども、神様はイエス・キリストという救い主を通して、私たちを御自分の近くに引き寄せてくださるのです。12節にこうあります。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」これは、信仰者のことです。私たち一人一人の姿です。私たちも、最もつまらない者、最も小さな者でした。しかし、その人にもキリストへの信仰は与えられ、これまでも見向きもしなかった神というお方に心を向けて近づく人にされたのです。そして、イエス・キリストというお方が、私たち罪人のために御自分が小さくなられ死んで甦ってくださいました。そのように、私たちも身を献げてこの場所で仕えていく。そういう神様への導き、仕えるための恵みが、私たちには与えられています。
結
私たちが神様に祈り求めるものは何でしょうか。それは、小さな者に与えられる恵みです。パウロは、本当に恵みが与えられたことを感謝して、喜びながら7節のことを言ったのだと思います。最も小さい者に恵みが与えられる、このことは喜び以外の何ものでもありません。私たちは毎日の信仰生活の中で、自分自身の小ささ、つまらなさを思わずにはおれません。しかし、そこに与えられるのがこの神の恵みだと言われるのですから、この神が賜るものを受け取るというところに、私たちの成長があります。そして、教会の成長もあるのです。私たちは今週一週間も、それぞれ遣わされている場所で、恵みによって、キリストが私たちのためにしてくださったように、仕える歩みを、キリストを差し示す歩みをしたいと思うのです。そのために、神様はその力を働かせてくださいます。
2015年08月31日 | カテゴリー: エフェソの信徒への手紙
2015年8月23日説教「心の頑なさと神の掟」金田幸男牧師
説教「心の頑なさと神の掟」
聖書:マルコ10章1-12
要旨
マルコ10章1で、イエス・キリストは「そこを」立ち去ったとありますが、それはガリラヤ湖周辺のカファルナウム(8:33)を指しています。そこからユダヤ地方とヨルダンの向こう(東側)に向かわれます。ヨルダンの東はペレヤ地方と言い、当時、ヘロデ・アンティパスが領主として治めていました。キリスト一行はペレヤを抜けてそこからエリコの町に入り(10:46)、エルサレムに向かわれます。エルサレムでキリストは十字架の上で贖いの死を遂げられます。
【ヘロデ・アンティパス】
ヘロデ・アンティパスは6章14以下に記されていますように、ヘロデヤとの結婚を批判した洗礼者ヨハネを投獄した上、殺害しています。
イエス・キリストはペレヤでも群衆に教えましたが、ヘロデ・アンティパスの近くで活動されたのです。そこにファリサイ派が登場します。彼らはイエス・キリストの質問をしますが、むろん教えを請うためにやってきたのではありません。
2節に「試そうとした」とあります。その試みは悪意から出たものですが、離婚について問うということは、あわよくば、ヨハネと同じ運命に陥らせようとするものであったと考えられます。イエス・キリストがヘロデとヘロデヤの結婚を非難するなら、そのうわさはすぐにヘロデの耳に入るはずです。このようにファリサイ派の質問は決してまじめなものではなくイエスを亡き者にしようとする意図が見え隠れします。ですから、ファリサイ派は離婚の是非を質問したり、論じ合ったりするつもりはなかったと見るべきです。
【妻を離縁すること】
妻を離縁することは律法に適っているかどうか。合法的かどうか。もし、イエスが不法だと言えばどうなるでしょうか。ヘロデを非難することになります。この質問の下心を、イエス・キリストは見抜いておられます。だから、キリストは質問に答えず、逆に質問をします。「モーセの律法には何と書かれているのか。」ファリサイ派は直ちに答えます。妻を離縁することは合法的である、これがファリサイ派の答えです。
ファリサイ派が根拠とするのは申命記24章1以下です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。」(1-4)
離縁状を書いて渡せば離縁することが出来る。ファリサイ派はこのように離婚を合法としていました。ただし、ファリサイ派には大きな議論がありました。離縁の理由となる「気に入らなくなる」についての解釈をめぐって厳格派と穏健派が対立していたのです。厳格な立場は妻の不貞が明らかになった場合と解釈しました。穏健派は例えば妻の料理が下手だとかというように広く解釈するものでした。この両者に白熱した議論が交わされていたのです。
ファリサイ派の質問には、イエス・キリストがどちらの味方なのかという点をはっきりさせようと思いが見え隠れします。一方の立場を支持すれば反対派からは敵視されます。結局キリストを論争に巻き込む結果となってしまいます。
ファリサイが申命記を持ち出しましたが、よく見るとたいへん恣意的な用い方をしています。そして、当時のユダヤ人の結婚に対する考え方、習慣をも見ていかなければなりません。申命記の規定は離縁状さえ書けば結婚が合法的だなどという意味が主ではありません。ここはそのあとに書かれてあるように、いったん離縁した妻ともう一度再婚はできないということを規定するのが本来の律法の目的なのです。
【弱い女性の立場】
ユダヤ人の社会では、男は女と結婚するのですが、女が男と結婚は本来できない存在でした。女は結婚されるだけであったのです。つまり、結婚の主体ではありませんでした。ですから、離婚も女性は不利な立場におかれます。夫の方に例えばその職業、あるいは夫の不貞、暴力、病気などの原因があり、妻から離婚を申し立てる場合は裁判所に行かなければなりません。裁判でいろいろ尋問され、離婚は認められます。しかし、彼女には汚名が着せられます。夫の場合は離縁状を書けばあっさり離婚は成立します。このような不平等な習慣が通用している社会でした。
イエス・キリストの答えはこのような背景で考えられなければなりません。キリストは指摘されます。モーセの律法は確かに離縁を認めている。しかし、それは結婚を維持できない事情のあることを認めた上での規定とされます。ところがファリサイ派はそれを人間の権利、あるいは特権のように扱います。特に妻を離縁することが夫の自由、恣意的な決定で決まると解釈します。
【結婚の意味】
そこで、キリストは創世記1,2章に記される結婚観を明らかにされます。イエス・キリストはなぜこんな個所を持ち出されたのか。当時の状況を見ていかなければなりません。当時のローマ人社会の家族制度は家父長制度です。家長は特に子どもに対しては、生殺与奪の権すら握っていました。奴隷に売り払うことも合法的であるとされていました。ユダヤ人の間でも家長の権限は大きなものでした。結婚も家長の許可なしに出来ません。しかし、結婚すると、父親は子どもに対してもはや絶対的な権威を振るうことが出来ません。むしろ、結婚したものの絆が固い。
ここで、「神が結び合わせたものを切り離すな」と命じられるとされますが、この箇所を離婚を禁じる御言葉だと解釈されてきました。しかし、キリストがここで指摘されているのは、離縁が安易に行われている事実に対するものです。聖書を一箇所引用して、夫が離婚する身勝手さが合法化されます。
このような聖書も用い方は今日でもしばしば見られます。自分の都合のよいように聖書の言葉を持ち出します。しかも文脈を外れて解釈したものです。あるいは聖書に書かれていないから自由だとされます。カルヴァンは「聖書に書かれていないことは禁じられる」と主張したのもこの人間の恣意的な解釈の弊害を避けるためでした。聖書の全体を十分に理解し、その全体的な理解から聖書の言葉を理解すべきなのです。聖書には必ず答があります。ただし、明瞭に分かる部分もあれば明白ではないところもあります。それを丹念に研究していくときに答えは明らかになってきます。
【ファリサイ派の間違い】
キリストは離婚そのものを罪だとか、よこしまなことだと言われていません。創世記を挙げられているのは結婚の絆が父親の権限以上だといわれているだけです。ですから、今結婚をしているものは固い絆で結ばれている。父親ですらその絆を解くことは出来ないというのです。結婚の本質はその一致の堅さにある。ファリサイ派はそれを安易に評価していました。だから、申命記を用いて男性が妻を離縁しやすいようにしてしまっていたのです。家長は自分の思いとおりに権力を行使するのは間違っているとキリストは言おうとしておられます。
【不法な結婚】
家の中でキリストは弟子たちにさらに教えられたとあります。ここでは三つのことを挙げたいと思います。まず、同じような記事はマタイ19:1-12に記されています。マタイ19:9で「不法な結婚でもないのに」という言葉が記されています。実際、不法な結婚が行われていました。例えば人身売買的な結婚です。そういう結婚で束縛されている人の離婚を不当とすることはできません。
【男女平等】
第二に、キリストは夫と妻の両方を挙げています。妻の場合、離婚の申し立ては不利な立場におかれていました。ところがキリストは区別をされていません。夫も妻も同じように扱われなければならないという意味です。今日では結婚は両性の合意によるのであって、一方的ではないとされていますから、キリストの指摘は当たり前のことにあっていますが、当時はまったく事情は異なります。
【姦通の罪】
第三に、妻を離縁して他の女と再婚すると「姦通の罪を犯す」とあります。なんともおどろおどろしい表現のように見えます。しかし、ここは、姦通の罪を犯させると理解すべきです。当時、妻は不当に離婚させられました。つまらない理由で夫が妻を追い出したのです。彼女には何の落ち度もありませんでした。そのような女性は社会的には不遇な立場におかれます。彼女から申し立てた裁判では申し立てどおりになっても彼女は汚名を着せられました。それは不当なことです。その上、離縁されたものの生活は惨めな場合が圧倒的に多かったのです。よほどの財産を持っていなければ離縁された女性の境遇は極めて悲惨でした。だから、再婚するしかありません。不本意な再婚である場合が多かったのです。こういう不本意な再婚を強制的にさせることは罪を犯させることと同じです。離婚そのものをキリストは罪だとか邪悪だとかいわれていません。むしろ、不当な扱いを受けざるをえない女性に対して同情以上に好意的です。言い換えれば恣意的な離婚の権利を振舞わす男性を断罪するものと見てもよいでしょう。弱い立場に追いやられるものの味方になろうとされるのがキリストです。
ここに記されていることは、今日の結婚、あるいは離婚にそのまま当てはめると変な話になります。同時に、不当な扱いをされているもの、それは男女を問いません。そのような苦しむものにとってキリストがどういう考えを持っておられるかを知ることは大きな慰めです。そして、さらに大切なことは自分の欲していることを聖書から合理化して正当とするのではなく、もし過ちがあれば主に許しを求めるべきです。主の十字架を仰いで、許しを求め、許されている幸いを感謝して立ち上がるべきなのです。(おわり)
2015年08月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年8月16日説教「本当に恐れるべきこと」金田幸男牧師
説教「本当に恐れるべきこと」
マルコ9章42-50
要旨
イエス・キリストが弟子たちだけを集めて語られた教えが続きます。42節以下50節までは三つの部分(42、43-48、49-50)に分かれていますが、それぞれ別個の教えとも取れます。しかし、つながりがあるとも考えられます。その見方でこの部分を学びたいと思います。
【小さな者】
まず42節ですが、41節と結びついていると考えられます。「小さな者」とは子どもを意味しますが、ここでは「わたしを信じる」とありますから、イエス・キリストの弟子たち、しかも12人の弟子たちだけではなく、広くその他の弟子をも指していると見るべきです。
イエス・キリストを信じているものたちを躓かせるものは首に石臼を巻きつけられて海、この場合はガリラヤ湖に投げ込まれたほうがいい。石臼を首に結わえられて湖に放り込まれたら溺死は避けられません。生きたままですから、当然苦しみながら死ななければなりません。これは法に則った処刑ではなく、個人的な憎悪からなされる私刑ではないかという人もいます。できるだけ苦しむように殺すやり方です。
キリストの弟子たちを躓かせるとは、キリストの弟子として生きることを妨げる行為を意味しています。キリストの教えに従うことを阻み、その道から落伍させてしまうようなこと、その中には暴力的に圧迫して棄教させることも、誘惑で信仰の道から外れてしまうようにすることも含みます。
キリストの弟子たちを惑わせ、試み、信仰から逸脱させるようなことをするものは、ひどい殺され方で死ぬほうがよほどましだ。キリストの言葉は激烈です。世間では宗教とか信仰とかは小さな問題で、信仰の道を行くものを脱落させても些細な問題だと思われています。
しかし、キリストは弟子を信仰から外れるようにすることは最大級の悪虐行為だとしています。罪を犯させることは決して神の前では小さな問題ではありません。それは恐るべき邪悪な行為なのです。宗教など小さな問題、取るに足りない問題に過ぎないと片づけられてしまいます。神の眼からすればそうではありません。小さいもの=キリストの弟子たちに一杯の水を施すものには大きな報いがあります。その逆にキリスト者を躓かせるものは最大級の処罰があります。
43-48節には、手、足、目が取り扱われます。一方の手、足、目が躓かせる。罪を犯させるという意味です。42節で躓かせるのは外部の人間を指していましたが、ここでは本人です。本人の手、足、目が躓かせる。罪を犯させる。その根っこには邪まな願望や欲望があるでしょう。何かを無闇に欲しがるようなことを念頭に置けばいいのでしょう。その場合、片手、片足、片目を切り捨てたり、潰したりしたほうがよい。両手、両足、両岸が無事だが地獄に陥るよりもそのほうがよほどよい。
【地獄:ゲヘナ:ベン・ヒノムの谷】
ここで地獄と訳されている元の言葉は「ゲヘナ」です。このゲヘナは、実在するヘブライ語でいうベン・ヒノムの谷のことなのです。ヘブライ語をギリシヤ語で読むとゲヘナとなるのです。
ベン・ヒノムの谷とは丘の上に立つエルサレムの右側の谷を指します。ここは旧約聖書に出てきます。列王記下23:10にはヨシヤ「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした。」
モレクは近隣の諸国で礼拝されていた偶像神ですが、ベン・ヒノムの谷ではその神が礼拝されるだけではなく、子どもを犠牲ささげていたというおぞましいことが行われていました。ヨシヤ王は改革の中途でエジプト軍と戦いあっけなく戦死をします。その後のユダの状況はエレミヤ7:31-32で知ることができます。「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことをわたしは命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。それゆえ、見よ、もはやトフェトとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る、と主は言われる。そのとき、人々はもはや余地を残さぬまで、トフェトに人を葬る。」
ユダ王国滅亡寸前の時代までこのような悪弊が行われていました。こののち、この谷はエルサレムのゴミや汚物が投げ込まれる場所とされました。また、死んだ動物の死体も、ときには人間の死体も投げ込まれました。エルサレムの町から見ればいつもゴミを焼く火が見え、悪臭が漂い、骸骨さえ転がっている薄気味悪いところとされました。エルサレムの人たちはそれが地獄絵のように見えたのです。醜悪で、汚染し、気味が悪い、とても人間のいるべきところではない様子を見て、地獄とはこのようなところだと想像したのです。
聖書には不思議なことに地獄についての詳しい描写はありません。48節では「蛆が尽きず、火も消えない」と言われていますが、これだけでは地獄が十分に描写されていません。地獄に行って戻ってきた人はありませんから当然のことかもしれません。ゲヘナつまり地獄とはベン・ヒノムの谷のようなところだと想像されました。それはあたかも地獄絵のようだと思われたのです。
地獄はそれ以上の、想像を絶した恐ろしいところとしかいいようがありません。地獄の存在を否定する人が多くいます。しかし、聖書は、人間の目で見る最悪の災害、それは人災であり、自然災害であるのですが、特に戦争などが引き起こす悲惨な光景はまるで地獄のような風景です。地上にも地獄のような光景が展開されます。しかし、それは地獄そのものではありません。地獄は想像を超えたところであり、景色なのです。
地獄はそれは恐ろしいところです。もし、手、足、目が私たちを躓かせるならば健全なまま地獄に落ちてしまうでしょう。しかし、両手、両足、両眼が健全なまま地獄に落ちてしまうよりも片手、片足、片目を失うほうがよほどいい。イエス・キリストの言葉はここでも過激です。しかし、私たちは躓き、つまり、罪によって神から裁きを受けることを恐れるべきなのです。それは本当に恐ろしいことなのです。躓き以上に恐ろしいことはありません。罪を犯すことは些細な問題ではありません。罪は放置しておけば地獄に落ちてしまう原因となります。それは最大級に私たちが警戒すべきことなのです。ところが、手が、足が、目が、罪を犯しても平気、些細な問題と片づけけられています。これは恐ろしいことなのです。これこそ身震いするべき重大問題です。
地獄は恐ろしいところです。しかし、私たちには想像を超えています。罪がもたらす地獄の問題は小さい問題ではありません。それは世界最大級の問題です。ところがこの罪の問題ほど軽く思われているものはありません。罪がもたらす大きな災いを誰も念頭に置きません。地獄の問題は空想とされます。だから、罪の結果が地獄だと言われても平気です。この世の地獄を見たと言う人でも、神が用意されている本当の地獄が恐ろしいとは思いません。この世界の地獄絵以上に地獄は悲惨なのであり、悲劇的なのです。キリストはこのように罪の結果を軽視することに警告を発せられます。
49-50節は、43-48節と直接に関係にない話のように思われるかもしれません。塩のたとえ話です。しかし、49節で「人は火で塩味をつけられる」とあります。この火は前とのつながりから言えば地獄の火と言うことになります。人間と言うものは地獄の火で味気がつく。地獄絵を見たものはそれによって塩味をつける。ところが当時の塩は岩塩を砕いて利用しました。岩塩には不純物が含まれ、塩化ナトリウム以外の物質が含まれています。そういうところをいくら砕いても塩味にはなりません。まさしく味気がありません。何の役にも立たないのですが、いくらこの世の地獄を見たと言っても、それで味気を持たないなら何とも食えたものではありません。
地獄を想像し、あるいは恐れ、身を引き締めることもないようなものは塩気がないために食べても味のないつまらないものとなります。地獄を教えられても、それを聞き流すだけ、あるいは無視するだけ。そういう人は結局、塩味のない食べ物と同様と言うことになります。
では、塩が塩気を失えばどうするか。そのような塩は捨てられるだけですが、もうひとつの方法は自分の内に塩を持つことだと言われます。この塩とは何なのでしょうか。地獄と言う火で塩味をつけられない場合どうするか。そのままでは煮ても焼いても食えない状態、つまり何の役にも立たない状態です。しかし、塩を内に持つことができます。
【塩の役割】
その場合の塩とは何か。旧約聖書を思い起こします。レビ記2:13「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」神は日々穀物のささげものをささげることを命じられます。ささげものは献身のしるしです。それは動物の犠牲だけではありません。ささげるのは祭司ですが、それは民の代表として行なう行為です。そして、このささげものには塩を加えなければなりませんでした。
塩はむろん保存用に用いられるのですが、そのような実用以上の目的がありました。それは神との契約を示す役割です。イスラエルの民は穀物に塩を混ぜた供え物をささげて、神との契約を確認しました。契約は、神がイスラエルの神、イスラエルは神の民であると言う契約です。こうしてイスラエルは神から特別の民とされ、憐れみと救いの対象とされます。塩はこの神の契約のしるしでした。
塩は契約の神に対する信仰を示します。神こそ契約を締結して私たちを贖われる。この塩を内に持つとは契約の確かさを真実に信じる信仰に他なりません。
契約の民であることの自覚は、互いに平和であることに結びつきます。イエス・キリストの12人の弟子たちの間に亀裂が生じそうでした。キリストはそれを察知して、弟子たちに、まことのささげものの塩を持ち、互いに契約の民と自覚して、互いに一致せよと命じられていると受け取ることができると思います。(おわり)
2015年08月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年8月9日説教「本当の味方はだれか」金田幸男牧師
説教「わたしの味方」
聖書 マルコによる福音書9章38-41
38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
要旨
イエス・キリストは弟子だけを集めて、ぐるりと取り囲んでいる彼らの中に座して教えられます。ただ一方的に話をされるだけではなく、意見を聞き、質問に答えられました。その一つがここに記されています。
【使徒ヨハネ】
それはヨハネの言葉です。マルコ福音書で、ヨハネが単独で語っているところはここだけです。ただし、彼は「私たち」という言葉を使っています。ヨハネが語っていますが、他の弟子たちを代弁しているといってよいでしょう。ただヨハネが代表して語ったことには意味があると思われます。
【あなたの名を使って悪霊を追い出す者】
ヨハネの意見は、イエス・キリストの名を用いて悪霊を追い出しているものがいるが、止めさせた、というものです。この当の悪霊を追い出している人物がどういう人なのかここからは分かりません。イエスの名を用いるとはイエスの権威によって行う行為に他なりません。
この人は12人の弟子たちとは違う人物です。しかし、イエスの名を用いるからにはイエスのことをそれだけよく知っていたことを示します。悪霊追放は医療行為のようにも見られていました。この人物はそういうところから医師のような働きをしていたのかもしれません。イエスの名を用いるとたいへん効果的であることを学んでいたのです。営利事業のようにしていたかもしれません。彼が広い意味でのキリストの弟子団に属していたかどうか分かりませんが、可能性は高いと思います。
12弟子はこの人物を不快に思っていたことは確実です。その理由はいろいろと推測できます。ヨハネはそうでありませんでしたが、他の弟子たちは、てんかん症状を引き起こす悪霊を追い出すことに失敗していました。ところが12人の弟子でもない人が悪霊を追い出している。失敗ばかりしていると成功している人をねたましく思うものです。12人の弟子ではない、いわば格が低いものが悪霊を追い出すという奇跡を行うことができる、それはなかなか理解できないことでありました。したがって意識しないまま、弟子たちはやめさせた。つまり、悪霊追放を妨害することになります。
【悪霊追放の権能】
第二に、悪霊追放は特別な権能です。弟子たちはそれを授けられました。ところが、その権能行使に関してはあまり交遊もない人物が悪霊を追い出しています。これは弟子たちの持っている特権を害することになる。弟子たちにして見ればけしからぬことに思われたはずです。自分たちだけに許されている悪霊追放を実行している。これは特権を侵害するものと考えられます。そして、弟子たちのエリート意識を叩き壊すことになります。神の国が完成するとき、その国で弟子たちは特別な地位を獲得するでしょう。弟子たちにしてみれば、イエスの名で悪霊を追い出すこの人物は12人の弟子たちの自尊心を傷つけるものであったはずです。
キリストの弟子たちの心理状態はもっと分析することが出来るでしょうが、とにかくその行動を阻止しなければならないと思ったことは確実です。ヨハネが登場するのはこのためであったと思います。ヨハネはボアネルゲス(雷の子)と呼ばれていました(マルコ3:17)。推測に過ぎませんが、ヨハネは大きな声の持ち主であったかもしれません。ヨハネが大声でその悪霊を追い出している人の行動を止めさせたこともありえます。大きな声はそれだけで威嚇になります。
【わたしの名で力あるわざを行いながら、わたしをそしることはできない】
ところがイエス・キリストの言葉は意外なものです。まず止めさせるな、と言われます。イエスの名で悪霊を追い出して成功しているなら、奇跡を行った直後にキリストの悪口は言えまいといわれます。キリストの名によって悪霊を追い出しています。悪霊追放はキリストの権威に基づきます。奇跡を行った直後にそのイエスの悪口を言うと、先に行った奇跡は信用されなくなります。イエスの名で、その権威で奇跡を行ったのですから。
【わたしの味方とは】
そして、キリストは、「わたしに逆らわないものは、わたしの味方である」といわれます。普通、キリストに敵対するものは敵である。これはそのとおりです。敵味方を明確にしたがるのが私たちです。敵か味方か、はっきりしたいのです。すると、イエス・キリストに反対はしない、ただ、傍観者の立場にいるだけ。こういうあいまい態度表明をする人をどうするか。しばしばそういう人たちを敵扱いすることが多いのではないでしょうか。キリストに逆らわないけれども、態度を曖昧にしたままとか、一定の距離を保ったままにする人を敵対するものと同類にします。そういう人は卑怯者、あるいは、信念に欠ける人物扱いするというようなこともおきます。
キリストに対して何らかの事情もあって明確に態度を示せない場合も多々あります。しかし、それでキリストを否定しているのでもありません。キリスト教信仰を嫌悪したり、敵意を持って眺めているのでもありません。そういう人たちはキリストに逆らっているのではありません。キリストは大胆にもそういう人たちはわたしの味方であると断言されます。
いわば中立の人もいます。あるいは中間を好む人もいます。しかし、キリストは彼らを敵だとは言われません。むしろ、味方なのだ。
私たちはともすれば教会員とは味方であるが、そうでない教会の外の人たちを敵対者と見なす傾向にあるのではないでしょうか。欧米では一応キリスト教国となっています。生後あまり時間の経たない内に洗礼を受けます。こういうところでは、信仰を明確に告白していない人も当然キリスト者扱いです。信仰があるかないか判断することができません。それでもその人たちはキリスト者扱いです。翻って日本では、明確な信仰的な態度が表明できなければならないという先入観があり、明確に信仰を持っていない人はキリストの弟子団の外にあるかのような扱いを受けます。そして、神の国から疎外されているかのようです。
【わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方】
罪人を救うのは神の主権です。誰を救うか神の御心にあります。だから、私たちが勝手にキリストをはっきりと信じて、信仰の態度を明らかにしない人はみな「非」信者であって、救いからはるかに遠いと見なされます。それが信者の家族でも同じです。信仰を告白していなければ教会の外に放り出されているものたちという観念と結びつきます。しかし、キリストは、キリストに敵対しない人、その中には中立を決め込む人もいるでしょう。傍観者の立場のままでいる人もいます。態度を表明しないままの人もいます。キリストはそういう人もキリストの味方であると言われます。はっきり信仰を告白していなくても、キリストに対して好意的な人はたくさんいます。そういう人をキリストはわたしの味方なのだといわれます。家族、伴侶、友人知人、地域の住民・・・そういう人に中にはキリスト教に対して反対をしないという人も多くいます。キリストはそういう人をどうご覧になっているのか。少なくともキリストの敵だとはされていません。
確かに信仰を明確に表明しないし、洗礼を受けることもしない、そういう人は周囲にたくさんいます。私たちは少数派ですから周囲はすべて異教徒です。異教徒だから私たちはいつも敵対すべきなのでしょうか。少なくとも敵と見なすべきなのでしょうか。そうではありません。
キリストに対して明確に敵対しない人をキリストは味方であると認められたこの原則は今日こそ大いに適用されるべきなのです。
【弟子に、水一杯を飲ませるものの報いは大きい】
キリストはもうひとつの言葉を与えられます。キリストの弟子という理由で、キリストの弟子に水一杯を飲ませるものに大きな報いがある。のどが極度に渇いているとき水を与えられることは大きな感激です。しかし、実は水一杯のもてなしほど小さな行為はありません。イスラエルの人々にとって、宿を提供すること、食事を整えることこそ大きな美徳とされていました。水一杯などささやかな親切でしかありません。ローマ帝国下でキリスト者が迫害されているとき、キリスト教に好意的だというそれだけの理由で逮捕されたり、投獄されたりしました。キリスト者とは関わりを持たないということが賢明な策であったかもしれません。しかし、人目を忍んでキリスト者に水一杯だけを与える。これは最小限の親切でした。キリストはこのような親切に対して報いを与えると宣言されます。報いは小さなものではありません。神が報われるのです。それは素晴らしい祝福そのものを含むでしょう。キリスト教はときに迫害されます。そのようなとき、キリスト者は萎縮してしまい、孤立するということがおきます。誰をも信頼せず、ひたすら嵐が収まるのを待つ。このような接し方をする場合が多いと思われます。
【キリストへの善意から】
しかし、私たちはこの世でも、同じような経験をします。周囲はすべて敵対するものばかりです。そのような中で、私たちはどうするべきか。
周囲はすべて敵だと決め付けるような態度は正当ではないと思われます。冷たい水一杯だけですが、それでも親切心から出る好意を示されます。たかが水一杯と考えるべきでしょうか。そうではなく、そのような行動の背後にあるものを見なければなりません。それはキリスト者への、すなわちキリストへの善意です。私たちは緊急事態のときでも、困難なときでも、そこに人々」の助けを受けることになります。彼らは敵ではありません。敵ではないものは味方なのです。敵ではない態度、言動を示す人たちを私たちはキリスト者ではないから切り捨てたいと思うこともあります。けれども彼らは神から報いを受けています。神の報いは小さなものではありません。
味方であれば、無理やりに敵意を示す必要もありません。キリストの味方である以上は、彼らを神がよく扱い、ついには神の救いの恵みにあずかるように祈っていかなければなりません。それこそ、彼らの心が開かれるきっかけとなるでしょう。(おわり)
2015年08月09日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年8月2日説教「誰がいちばん偉いのか」金田幸男牧師
説教「誰が一番偉いのか」
聖書 マルコ9章30-37
要旨 新共同訳聖書では、9章30-32と33-37はふたつの部分に分けられていますが、相互に関連するものとしてまとめて取り扱いたいと思います。
イエス・キリスト一行はそこを去ったとありますが、14-29節がフィリポ・カイサリア地方で起きたことでありますと、一行は南のほうに下り、ガリラヤ地方のカファルナウムに至ったと考えられます。そこでは家に着いたとありますが、いつもカファルナウムではペトロの家を用いていたと思われます。
【弟子たちにだけ語るイエス】
30節では人に気づかれるのを好まなかったとあります。以前は公然と群衆を相手に語っておられましたが、このたびはそのような人々を避けられます。なぜこんなことをされたのか。ひとつは働きの範囲をガリラヤからエルサレムに移すため、ガリラヤでの働きにピリオドを打つためであったと考えられますが、その他にも目的があったと思われます。キリストは31節では弟子たちにだけ語られ、33節では家の中で、つまり群衆を避けて、弟子たちだけを集めて教えを語られます。
35節にある、弟子たちとをぐるりと座らせ、ご自身が彼らの前に座る光景は当時の教師が弟子を教えるスタイルそのものでした。キリストは腰を据えて弟子たちに特別に教えようとしておられます。ではこんなことをしてまでもう一度弟子たちを一から教えようとされたのでしょうか。
弟子たちに、人の子=メシヤは苦難を受け、死に、しかし、復活すると二度も語られています(8:31)。同じことを二度繰り返すのは強調のためという場合があります。ここは強調とは思えません。むしろ、弟子たちの無理解が原因であったと思います。キリストは肝心要のことを語ろうとしています。
ところが最初のときもペトロがそのようなメシヤをまったく拒否する態度を示し、そのためキリストから厳しい叱責を受けます。弟子たちは二回目のキリストの言葉を聞かされました。
8:31と9:31の違いは若干記されます。9;31では長老、律法学者、祭司長から排斥を受けるとありますが、彼らは最高法院=サンフェドリンを構成します。最高法院はユダヤ人の宗教問題について裁判権を持っていました。ここでは「渡される」とあります。誰が渡すのか明記されていません。当然、キリストを渡したのはイスカリオテのユダでしたが、ユダというよりも神ご自身がキリストを渡されたのだという解釈もあります。これは興味深い理解です。
キリストの苦難は最高法院が裁判を行い、あるいは裏切ったものが神殿警察に身柄を引き渡したことを意味しますが、実はそうされたのは神であり、キリストは無実であるのに裁判にかけられ、処刑される。あるいは、死に渡される。それはキリストの苦難が神の計画の実現に他ならないことを示します。
【弟子たちはメシヤの苦難と復活の意味が怖くて尋ねられない】
弟子たちは再度キリストからメシヤの苦難と復活を語られるのですが、今回はその意味を尋ねることが出来ませんでした。その理由は怖かったからだと記されます。
分からないことは尋ねよ、は解決の秘訣ですけれども、弟子たちは恐れから聞けなかったのです。聞けないのは、彼らがメシヤについて今まで教えられ、信じてきたことをひっくり返される不安を感じたからだと思われます。ユダの人々にとってメシヤの期待は民族の希望であり、信仰であり、確信でした。それがひっくり返らされようとしています。イエスのいう人の子=メシヤは彼らが思ってきたメシヤと違っていたのです。さらに、弟子たちの間に亀裂があったのではないかと推測します。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人は主の栄光を垣間見ました。誰にも語るなと命じられていましたが、何かあったと他の弟子たちは思ったはずです。そして、残りの9人は悪霊を追い出すことが出来ませんでした。これは失策です。弟子たちの間にふたつのグループが出来そうです。それは分裂の兆しです。
弟子たちには信仰的不十分さが見られます。長い間キリストと行動を共にしながら理解は不十分、こういうことは起こりえます。私たちの教会も肝心の信仰の中心が曖昧になったり、分裂が起きたりします。危機的状況と言ってもよいでしょう。そのときどうしたらいいのでしょうか。いろいろ知恵を集めてあれでもないこれでもないと議論をしても始まりません。世間の知恵を借りて問題解決を図ろうとします。その道の専門家から忠告を聞こうとします。しかし、全然解決しないのです。
【キリストに聞く】
イエス・キリストはどういう方法を取られたでしょうか。弟子たちを集めて直接教えられました。問題を解決する方策はキリストに聞くことです。それ以外に方法はありません。私たちはいろいろの声に耳を傾けるべきでありますが、それは決定的な方向を示される道ではありません。困難なとき、惑うとき、悩むとき、私たちはキリストに答を見い出すべきです。聖書にはキリストのみ言葉が記されます。だから、聖書に聞き、答を求めるのです。この世の人々が言うような解決策ではないかもしれません。でも、そこにキリストの意志が示されます。それが最も正しい道なのです。
弟子たちは議論をしていたのでキリストは尋ねられたとあります(33)。メシヤの苦難と復活については問うことが出来ませんでした。しかし、メシヤが来るとき神の国が完成するという信仰は弟子たちの共通の信仰でした。神の国は神の直接的な支配を意味します。弟子たちはそのような国が現実に成就すると信じていたのです。もっといいますと、弟子たちにとっては、神の国はローマ帝国のようなユダを圧迫する国家を打ち倒すことで成立し、ローマ帝国のような強国を打倒する現実の国家なのです。
神の国は弟子たちにとっては夢幻の国家ではなく、現実に存在する新しい国家そのものでした。むろん、神の国についてさまざまな考え方がありましたが、弟子たちがそこで高い地位を得られると言う望みを抱いていました。ところが弟子たちの中で3人組とその他の弟子たちの間で亀裂が生じ、神の国が完成したとき誰が一番高い地位につくかと議論を始めたと考えられます。
【間違ったメシヤ理解】
根本にはメシヤについての理解に間違いがあります。弟子たちはキリストから再度メシヤの苦難と復活を教えられましたが、受けいれられず、固執していました。それだけではなく、その国で高い地位に付くのは誰か議論をしていたのです。キリストは弟子たちの不十分さを叱り付けられていません。むしろ、神の国で一番偉いのは誰かということを教えられます。
【神の国では一番えらいものとは】
キリストの教えは、一番えらくなりたいと思うものは仕えるものとなれというものであり、そのためにキリストは子どもを彼らの前に連れ出されます。この子どもはペトロの家のものかもしれません。ある注解書によると、アラム語では子どもと召使は同じ語であるそうなのですが、そうであればキリストが子どもをみんなの真ん中の立たせたのはどういうことか分かります。
一番えらいものは誰か。一番先に立つもの、先頭を切るものは誰か。それは一番あとのもの、身分が低いものだと言うことになります。仕えるものとは、召使、奴隷のことです。当時の社会では身分の違いは決定的でした。ところが神の国が来たとき起こることは何か。それは普通に考えられているのとはまったく違う事態なのです。神の国では一番えらいものとは召使のように人に仕えるものだ。
一番えらいものは最高の召使、奴隷なのだと言われます。つまり、神の国で実行される原則は、この世界とは逆なのです。子どもは古代ローマ社会では価値のないものとされていました。父親は嬰児を殺害する権利を持っていましたし、成長した子どもを奴隷として売り払うことも認められていました。子どもが権利を認められる、いえ、それ以上に人格を認められるようになったにはほんの数百年までで、それまでは子どもの権利などまったく認められていませんでした。キリストはそのような子どものようなものが神の国では権威があるとされています。
そして、教会はその神の国の予表です。教会は予め完成された神の国を示します。ですから教会は神の国で通用する原則が生きているところです。教会では最高の地位あるものは一番へりくだっているものです。
教会で、上に立つものが権力を振るうということがよく起きます。物理的な力、暴力さえときに用いられます。しかし、教会が神の国を予め示すものであれば、その教会は神の国で通用する原則に生きているところといえます。
神の国の主はキリストです。そのキリストは、神の子でありながら、その栄光をかなぐり捨てて人となり、それどころか私たちのためにご自身を犠牲にされました。それはしもべの姿でした。キリストは最高に仕えるものとなられました。キリストこそ模範です。
キリストのなされたことはこの世界の知恵とはまったく逆です。この世界では力を持つものが上に立ちます。政治的権力を握るもの、金の力を掌握するもの、ときには伝統とか技量とかを振るって上に立とうとします。地位とか学歴もときには上に立つための条件とされます。能力のあるものがもてはやされ、上に立つものと見なされます。キリストはそうではないと宣言されます。
キリストの言われていることは理解はできます。ただ実践できるかと言われるとそうではありません。この世界のただなかに生きている私たちは、キリストの弟子たち同様、この世の原則や価値観で行動します。キリストの教えと齟齬を来たします。それが当然です。神の国の原理はこの世と異なります。私たちは神の国の原則に立つときこそ、神に受け入れられます。
子ども=価値がないと思われているものを受け入れる、それはキリストの教えを受け入れることです。キリストを受け入れるものには神を受け入れることになります。神を受け入れることこそ、神に受け入れられる条件となります。キリストの弟子たちは、このようにして正しい道を歩むことが出来るようになるのです。(おわり)
2015年08月02日 | カテゴリー: マルコによる福音書