2015年7月5日説教「イエスに従う者の決意」金田幸男牧師

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説教「イエスに従うものの決意」金田幸男

聖書:マルコ8:34-9:1

 

要旨

【キリストをいさめるペトロ】

 イエス・キリストはペトロから「あなたこそメシヤ・キリスト」という告白を受けました。しかし、キリストはそのことを誰にも話すなと命じられます。キリストはメシヤがユダヤの最高議会で裁判を受け、殺されること、そしてよみがえると予告されます。

 

ペトロはそのようなことはありえないとキリストをいさめます。ここでいさめるとは叱ることです。弟子がその師を叱っているとは。ユダヤ人の期待していた救い主が死ぬはずがないということでしょう。キリストが殺されるなどというのはペトロにはたわごとと聞こえたのです。

 

それはまたキリストを陥れようとする、キリストの贖罪的な死を阻もうとする、サタンの策略でもありました。キリストはそのペトロを厳しく叱りつけます。

 

【34節「それから」】 

34節は「それから」とあり、前の記事と連続しているようですが、主題は異なります。だから、この「それから」は時間的な連続性を示しているのではないと理解したほうがよいと思われます。ただ、まったくつながりがないわけではありません。弟子たちにとってのキリストが苦難を受けるのであれば、その弟子たちもまた苦難を避けることができないという連続性です。

 

【弟子と群衆に語られた】

 キリストは弟子と群衆に語られたと記されます。そこには弟子であるためには過酷な運命が待っているとされています。なぜ弟子だけではなく群集にもこのようなことが語られたのでしょうか。   この場合、将来信者になるはずの人々であるという意味だとされます。しかし、ここはそのような限定は記されていませんし、暗示もありません。そうだとすると、キリストの弟子になろうかと思っているような人々を指して、弟子になることは甘いことではない、よほどの覚悟がなければ弟子になれないと、予め釘をさしているのだと受け止めることも出来ます。生半可な気持ちで弟子にはなれないという警告かもしれません。

 

確かに、キリスト教会はローマ帝国から迫害を受けることになります。その日は近くなっています。キリストは弟子になろうか、あるいはならないか逡巡しているような人を対象に語られたと受け止めることもできます。迫害に耐えられないものは去れ、というのです。

 

【弟子になるふたつの条件】

 確かに一読して、キリストの弟子になることは大変な覚悟が必要です。キリストは弟子になるためにはふたつの条件があるとされます。

 

第一は、自分を捨てるということです。第二は十字架を背負うということです。このふたつはときどき本来の意味を曲げて理解され、誤解されていることがあります。

 

十字架は十字架刑を意味しています。当時のユダヤ人は十字架刑をよく知っていました。それはいくつも種類があるローマの処刑法の一つで、ローマに反抗した政治犯などを処刑する方法で、その残酷さのゆえに最も身分の低い階級の囚人を対象としました。ローマは見せしめのために十字架刑を公衆の面前で執行しました。十字架刑に処せられる囚人は処刑場まで十字架を背負わせられました。ゆえに、十字架を負うとは何か重荷を背負う意味によく取られますが、ここではズバリ死を意味します。ですから「自分を捨てる」とは単に自己主張をしないとか、財産、名誉、地位などを捨てると解釈されますが、ここでは死ぬことを意味しています。つまり、キリストの弟子になることは死を免れないといわれているのです。

 キリストの弟子になるためには重大な決心が求められます。それは死ぬ覚悟でなければなりません。ということを聞いて不安にならない人はいないでしょう。キリスト教を信じたいならば死を覚悟せよ。こういわれてぎくっとしない人はいません。

 

【殉教】

 確かに、キリスト教の歴史は殉教の歴史と言っても過言ではありません。古くはローマ帝国下での猛烈な迫害、日本でも豊臣徳川時代のキリシタン弾圧、キリスト教信仰のゆえに殉教の死を遂げた人は数多くいます。キリストはその弟子になりたいと思うものは殉教者となる決心をしなければならないと言われたのでしょうか。文字通り読めばその通りです。そして、実際信仰のゆえにさまざまな困難を忍ばざるを得ず、中には命を失ったものも珍しくありません。

 

 このようなことを言われて怖気づかない人はいないでしょう。誰も死ぬことは嬉しいことではありません。勇気をもてない人がいても不思議ではありません。誰も死に立ち迎えられるほど信仰が強いわけではありません。死は誰も一度しか経験できません。死を恐れない人もいますが、そんなに死に対して達観できている人は多くありません。死を考えると恐怖心におそわれても少しも不自然ではありません。

 

肉体の死は誰もが薄気味悪く、不安にかられるものです。ですから、キリストが弟子となる条件を示されたとき、誰が耐えることが出来るでしょうか。恐ろしい話です。

 では、キリストは安易に弟子になれないと警告されているのでしょうか。予めキリストは弟子の条件を示して、多くのものが入信することを拒んでおられるのでしょうか。そういうことはあり得ないと思います。

 

【永遠の命が与えられるために】

 確かに、キリスト教信者になることは危険を伴います。苦難を忍ばなければならない場合もあります。苦境の中を生き、ついに命さえ奪われることもありましょう。そういうことをキリストは否定されるのではありません。ただし、だから予め入信者に特別な決意を求めているのでしょうか。そうであれば多くの人たちは立ち止まってせっかく心に決めたこと、つまり、キリストの弟子となることを断念してしまうでしょう。

 

 キリストは自分の命に固執するならば、つまり十字架を背負うことを拒否するならばどうなるかを教えられます。キリストのために、その福音のため、伝道のために命を失うものは、命を得ることになる。逆説的なことを言っているように聞こえますが、肉体的な命、つまりその命でもって、現実に私たちが今生きているのですが、その死ぬべき命ではない、朽ち果てない命が与えられると語られます。肉体の命は死んでいきます。その肉体的生命ではない永遠の命の与えられる局面をキリストは語られます。

 

 その命はいつ与えられるか。むろんキリストを信じるときに与えられるのですが、特に終わりのとき与えられると語られます。

 

 38節は、み言葉を恥じるものについて語られていると理解できますが、これを反対側から見ることも出来ます。み言葉を聞いて受入れ、信じるものは、その日、栄誉を受けるものとされると言われているととることができます。終わりのとき、キリストの弟子として生きているものは大きな栄誉にあずかる。

 

 9:1も理解しにくい文章ですが、神の国は現われるとき、つまり神の国が完成するときを指しています。終わりのとき、キリストが再び聖なる天使と共に下ってこられます。そのときに、死ぬことのない奇跡にあずかるものがいると語られていると理解します。

 

 キリストはここで言われていることは、キリストの弟子として生きるときに与えられる祝福のことです。それは比べるもののない大きな神の幸い、恩寵です。キリストが与えられる幸いを思うならば、それを失うことの損失は計り知れません。キリストは弟子たちにこの幸いを必ず与えられます。この命の代価は考えることができないほどです。それほど壮大で偉大なものです。キリストに従わないで、自分のことばかり考えているものはこの命を失います。つまり神はこの命を与えられません。

 

 キリストはこうして、終わりのときに神を信じ、キリストに従って生きるものの恩寵を確言しておられます。このことは単にあれとこれの比較の問題ではありません。

 

 キリストに従って生きていくことは至難です。死をも覚悟しなければなりません。誰でも死を覚悟して信じることはたやすいことではありません。だからこそためらい、決心がつかないのです。

 

ではどうすれば決心できるのでしょうか。死を覚悟しないと弟子になれないといわれるとたいていの人は二の足を踏みます。当然です。私たちは信仰のゆえに殉教をしなさいと命じられたら躊躇することになるでしょう。当然です。

 

【キリストに従うことで得られる絶大な光】

 しかし、私たちはキリストに従うことで得られる栄光を教えられます。それは、終わりのときに明確になるものです。メシヤ・キリストから誉れを受け、もはや死ぬことのない、新しい命に復活させられます。このことをキリストは約束されています。文章そのものには出てこないのですが、言わずもがなで語られています。

 

 この栄光に比べれば、その他は色褪せるだけです。

 よほどの覚悟をしろといわれるだけでは誰も覚悟など出来ません。死は未経験であるだけ気味が悪いものです。またそれは不安と恐怖をもたらします。しかし、もしもキリストが約束されている絶大な価値のある永遠の命を考慮すれば、私たちは弟子として苦難を受けることの覚悟をすることができるでしょう。

 

 単純にキリストの弟子となることに伴う危険性を考えれば私たちはなかなか決心がつかないでしょう。私たちが求められるのは神の前で恥を受け、命さえ喪失するという負の側面だけを考慮しないことです。それよりも私たちが与えられるであろう幸いの大きさを心に留めることこそ肝心だと思います。そうあってこそ、私たちは恐怖を乗り越え、不安を制御できるようになります。(おわり)

2015年07月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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