2015年7月26日説教「信じるものは何でもできる」金田幸男牧師
2015年07月26日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年7月19日説教「苦しみを受ける救い主」金田幸男牧師
説教「苦しみを受ける救い主」
聖書 マルコ福音書9章9-13
9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
要旨
【このことはしゃべるな】
おそらくヘルモン山だと思われますが、そこで、キリストは栄光の姿に変えられました。その山から降りてくるとき、キリストは誰にもこのことはしゃべるなと命じられます。ただし、それは条件がついています。人の子=メシヤが死者の中から復活するまでは誰にも言うな、と言われました。
キリストは復活した後はそれを明らかにしなければならないのです。なぜしゃべるなと言われたのか。それは復活までに他の人に語られると誤解を生じるからです。特に山上での変貌が予示するキリストの復活について間違った情報が伝えられかねない、これが禁止理由であったと思います。
【復活とは何か、弟子たちの議論】
事実、弟子たちは、キリストが復活するまで誰にも話すなといわれましたが、早速復活について議論を始めています。キリストが言う復活とは何か。
今日でも復活についてはさまざまな見解が流布しています。
一番多いのは、復活などありえないと言う立場ではないでしょうか。聖書に書かれてあることで一番信じがたいのはこの死人の復活です。死者がよみがえるということを頭から否定する人が圧倒的に多いことでしょう。
あるいはキリストは仮死状態であった、その後蘇生をしたのだが弟子たちはそれを復活と勘違いしたのだというものもあります。
また、復活は弟子たちの精神が異常な状態になっていたときの幻視、あるいは思い込みだという説もあります。見なかったものを見たと妄想しているのだともいわれます。
現代ではどういうふうに信じられているか。キリストの最初の弟子たちが復活を信じたことは確かとされます。彼らはキリストの裁判、十字架上の処刑のとき、逃げてしまいました。ところが、その後弟子たちは命がけでキリストの復活を語り始めます。初代の教会がキリストの復活を信じたことは紛れもない事実です。それは確実だが、実際に復活があったかどうかはもう誰も証明できない。これが多くのキリスト教研究の専門家の結論です。これ以外にも復活に関してさまざまな見解があります。
弟子たちはキリストから「復活」という言葉を聞きましたが、その意味するところが理解できません。復活については当時既にいろいろな説がありました。弟子たちもどれが復活なのか分かっていなかったのです。それで互いに論じ合うのですが、ついに師であるイエス・キリストに質問をします。
【復活とはエリヤが再来する?】
律法学者はエリヤが来ると言っていますが・・・この質問と復活とどう関係するのだろうかと思われる方もいるでしょう。関係ない事柄だと思われても仕方がありません。しかし、エリヤに関する質問は復活をめぐる問いかけでもありました。律法学者の多くはファリサイ派に属していましたが、このファリサイ派が復活を信じていたことで知られています。使徒言行録23:8では、パウロは裁判の席につけられますが、そのとき、彼はサドカイ派が復活はないと主張し、ファリサイ派は復活はあるという立場で対立していることを見抜き、両者を対立させて、彼の見解に同調させようとします。律法学者の大半はファリサイ派に属していました。ですから、ここで挙げられている律法学者は復活を信じていたものと推測できますが、エリヤが来ると主張していたのは、ただ、恐るべき日の到来に先立ってエリヤが再来するという、マラキ3:23の預言を受け入れていたというだけではありません。
おそらく、律法学者は、エリヤの再来こそ復活だと主張していたのです。つまり、復活とはエリヤの再来に示されているというのです。
エリヤは列王記下2:11によれば、火の戦車に乗って天に挙げられたとあります。エリヤは向こうの世界、つまり、彼岸と言われているところに死を見ることなく送られたとされていますが、エリヤは生きているものから見れば別の世界にいました。ところが、エリヤは天に挙げられた者たちの中から戻ってくるとされていたのです。マラキの預言はそのようにしか読み取れないとされています。エリヤは死なない。そして、元の世界に戻ってくる。これが復活だとされたのです。
死を見ない。今日では形は少し違いますが、霊魂は死なない、不滅である。復活とはこの霊の再生に過ぎないとされます。死なない霊魂が戻ってくる。それが復活だ、こういう主張はのちの教会にも侵入してきます。グノーシスという立場は肉体は穢れている、肉体が復活するはずなどない。復活するのは霊魂だというのです。
【霊媒、口寄せの類の厳禁】
聖書は生きているものと死者の間を峻別します。その間に交流はあってはならないとされます。その証拠が霊媒、口寄せの類の厳禁です。律法はそれらを厳禁しています(申命記18:11)。この禁を破ったサウル王は悲惨な最期を遂げます。彼は王として解決できない問題に直面し、既に死んでいるサムエルの霊を呼び出そうとします。それはしてはならないことでした(サムエル記下28章)。ここから明らかになるのは、死んだものと生きているものは交流できないことです。
むろん、死者が生きているものと関わるような実例は今日でもあるかもしれません。そういう不可解な現象がないと断定はできません。合理的に説明できないことも多々あります。死者の亡霊と生きているものが出会って対話するような事例もあるでしょう。そういうことは一切ないとはいえないと思います。しかし、そういうことがあろうとも、神はそれを厳禁されています。死(者)の世界は生きているものの世界とは隔絶してしまっています。ところがサウル王はそれを超えてしまったのです。
エリヤが戻ってくるのであれば、死者の世界から現世へ戻ってくることを意味します。エリヤは死ぬことなく天に挙げられたとはいえ、現世にいたわけではありません。そもそも、エリヤは戻ってくることができるのでしょうか。ここをよく読めば、主イエスはエリヤの再来を復活などと肯定されているのではありません。つまり、律法学者のいう復活をキリストは認めておられるのではありません。ただし、エリヤが来ることをキリストは認めておられます。マラキの預言は成就しなければならないのです。マラキは終わりの日にエリヤは来ると語りましたが、その預言はむなしくなることはありません。マタイ11:14では、イエス・キリストご自身、洗礼者ヨハネがエリヤだといわれています。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼が現れるはずのエリヤである。」
しかし、キリストは、では洗礼者ヨハネがエリヤの生まれ変わりだとか、あるいは変身をしたものだとか言われているのでは決してありません。そういうことを復活というのではありません。天上にいる、死ななかったエリヤが戻ってくることを復活とは言いません。あるいは生まれ変わりでもありません。輪廻転生というような思想はここでまったく関係がありません。洗礼者ヨハネがエリヤだという場合、決して、エリヤとヨハネが同一人物だというのではありません。天にいるものが現世に戻ってくることを復活とは言わないのです。
【洗礼者ヨハネがエリヤの再来とは】
では洗礼者ヨハネがエリヤの再来と言われるのはどうしてでしょうか。列王記上17章以下でエリヤの活躍が記されていますが、エリヤが相手にしたのはイスラエルの王アハブとその妃イゼベルでした。特にイゼベルはイスラエルにバアル礼拝を導入しようとします。エリヤはこのようなイゼベルの行動を強く反対したのです。夫のアハブはその間で動揺します。エリヤはイスラエル王を厳しく批判をします。ヨハネはこのような統治者に批判者である点では共通します。彼はヘロデ・アグリッパとその妻となったヘロデヤを激しく攻撃します。そのためについにヨハネは捕らえられ、首を切られてしまいます。エリヤとヨハネの共通点はイスラエルに悔い改めを求めたことです。それは、来るべき救い主、メシヤの到来の備えをするためでした。エリヤが来て、すべてを元通りにするとはこのことを指しています。
エリヤとヨハネは使命において共通しています。エリヤはイスラエルに反省と悔い改めを求めましたが、その使命を再度行うものは洗礼者ヨハネでありました。ヨハネは決してエリヤの再生、生まれ変わりなどではありません。両者は別人です。ただ、使命において共通している。エリヤがしようとしたことをヨハネは繰り返します。マラキの預言とはこのヨハネの働きにおいて実現されるのです。
では、キリストの復活とは何か。誰かの再生、転生ではありません。あるいは死を経験しなかったものの再来ではありません。キリストは確かに死んだのです。
【死に対する勝利者はキリストのみ】
死んだものは二度と生き返ることはありません。死はそれほど厳粛なものです。しかし、キリストは復活したのです。死人の中からキリストはよみがえったのです。
復活とはただ生き返るというのではなく、死に対する勝利です。
その死もまた単なる自然死ではありません。苦しみを受けて死ぬ死です。その苦しみは意味があります。キリストは身代わりとなって死んだ犠牲の死です。この死からキリストはよみがえられたのであって、単なる蘇生でもなく、生き返りでもありません。
死を克服し、死に勝利する方はキリストだけです。
弟子たちは未だこの時点では復活を正しく受け止めていませんでした。当時の専門家の言うところを聞いてはいますが、それを十分理解できていたのでもなかったのです。だから議論をするだけで結論を出せませんでした。復活とは何か。しかし、まもなくその目でキリストの復活を目撃することになります。復活とは何かが分かります。それは単なる蘇生でもなく、誰かの転生、再来でもなく、復活は死に対する勝利、その征服でありました。
この復活は単なる魂の(不滅)復活ではありません。それはからだの復活でした。復活はからだのよみがえりです。キリストを信じるものはこの復活にあずかることができる。これが確固たるキリスト教信仰です。疑い得ない信心なのです。
2015年07月19日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年7月12日説教「イエス、山上の変貌」金田幸男牧師
説教「山上のイエスの変貌」
マルコ9:2-8
要旨
【六日ののち】
六日ののち、イエス・キリストは12人の弟子のうち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを選んで高い山に登られました。先ず、六日とはいつからか明示されていません。また、高い山がどの山かも記されていません。キリストが主としてみわざを行われたガリラヤ湖周辺であるとすれば、エスドラエロン平原からよく見えるタボル山であろうと推測する注解者がいます。タボル山は533メートル。これで高い山と言えるかという疑問が生じます。そこで、この高い山はこの地方の最高峰、ヘルモン山だと考える人もいます。
ヘルモン山は2814メートルですからかなり高い山と言うことになります。ヘルモン山の麓にフィリポ・カイサリアの町が建設されていました。フィリポ・カイサリア地方で、ペトロがイエスを指して「あなたはメシアです」と告白をしました。キリスト一行がフィリポ・カイサリア近辺におられて、ペトロの驚くべき告白から数えて6日後と解釈することができます。すると、キリスト一行4人は6日間かけてヘルモン山に登られたと受け止めることができます。6日もあればヘルモン山のいただき近くまで十分に行くことができます。そこは人が殆どいない場所であったと考えてよいでしょう。キリストは誰も見ることのない人里離れた山中でその姿が変わるという大きなみわざをなさったのです。
【山上の変貌】
ここに記されている記事は山上の変貌と言われます。キリストはその前に、人の子―メシアは苦難を受ける。つまり、ユダヤ人の最高議会によってさばかれ、有罪とされ、処刑されるとメシアの運命を予告されました。同時にキリストはメシアが復活すると明言されます。
復活は単なる蘇生ではありません。仮死状態から息を吹き返すというのは復活ではありません。復活は死人の復活であり、死に対する勝利を意味します。それはまた、死をもたらす罪を帳消しにし、赦しと贖いの結果でもあります。このような復活は普通の人間が経験するものではありません。それは神の力を持つもの、それ以上に神の性質と働きを併せ持つ方そのものを指しています。
つまり、変貌するキリストは神の栄光の輝きを照らし出し、神ご自身であることを告知されるのです。変貌は単に姿かたちが変化したと言うのではなく、キリストの本質が明らかにされたと言うことを示しています。復活するメシヤはどういう方か明らかにされます。その姿を見て弟子たちはしっかりしたメシヤ観を持たなければなりませんでした。特にペトロが問題でした。彼はメシヤが受難すると言うことを受け入れられませんでした。それでは栄光に満たされたメシヤを理解し、受け入れることができるかどうか。それはのちに分かります。
山上の変貌は、キリストの栄光を垣間見させます。まだ、完全に現される時は来ていません。キリストはゴルゴタの丘で十字架にかけられますが、そののち三日して墓からよみがえられました。それは神の栄光の御子を指し示しています。山上の変貌は栄光のキリストが一瞬ご自分を現された事件、出来事なのです。
【光り輝くキリスト】
キリストは真っ白に輝かれます。その白さはどんな職人に布をさらして白くすることが出来ないほどの白さであったとされています。白は清さを表します。キリストはあらゆる罪とは切り離され、罪を一切担わないお方です。ここでキリストは単に白い衣を着ているのではなく、また白く変化した着物を着ていたというのではありません。内から強烈な光が上着を刺し貫いているのです。そのためにキリストは白く輝いているように見えたと言う意味でしょう。それほどまでキリストは光となっておられます。キリストは光の光、光の主となられています。光は神の栄光を啓示しています。
神はしばしば光り輝く方と表現されます。神は見ることは出来ません。しかし、その臨在は光において知ることができます。キリストは神の栄光の輝きによってご自身が神であることを明白に現されます。キリストが神であることを明瞭に語る、そのゆえにこの記事はとてつもなく重大です。
しかし、ここに記されていることは現実にありえないと思う人が圧倒的多数だと思います。聖書を読む人が単純にここに書かれてあることを受け入れるわけがありません。聖書は宗教書だから、奇跡など信じがたいことが書かれる。しかしそれは事実ではない。たいていの人はそう思います。ここに記されていることが作り話ではないとしても幻想、幻視の類なのだと考える人もいます。とにかくありえない、そういう印象を抱かれます。
【三人の弟子たちの証言】
ふたつの理由で、この山上の変貌は事実であったと認めなければなりません。第一は三人の弟子たちの存在です。聖書が書かれた時代、ユダヤ人社会では二人以上の証人の証言は何よりも確実な証拠でした。今日では物的証拠という客観的、科学的な証拠の方が証拠能力があるとみなされますが、古代では逆です。人間の証言ほど確実なものはないとされていました。三人の弟子たちが選ばれたのは彼らが確実な証人となるためでした。
【キリストは神ご自身であること】
第二に、キリストはこの変貌によって神の力を持つ神的な人物、それ以上に神ご自身であることを証言されます。キリストが神の栄光をあらわすということは決して見過ごしにしてはならない真実です。これは事実でなければ、キリストが神の御子であることをあいまいにしてしまいます。山上の変貌が事実であれば、キリストは神の栄光を担う大いなるメシヤ、救い主であられます。
【エリヤとモーセ】
この場面にエリヤとモーセが登場します。エリヤについては旧約聖書列王記上17章以下に登場します。しかし、ここで重要なのはマラキ3:23の預言です。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」エリヤは火の車に乗って姿を消しますが(列王記下2:11)、終わりの日に再来すると信じられていました。エリヤは死ぬことなく天に挙げられた稀有な存在です。それゆえにエリヤは再来すると信じられたのです。その信仰はキリストの時代に人々の心を捉えていました。モーセもまた終わりの日に現れて、第2の出エジプトを敢行させる、つまりイスラエルを再度救済されると信じられていました。このことは明確に旧約聖書には記されていません。モーセは確かに死んでいます(申命記34:5)。モーセは自分のような預言者が立てられると語っていました(申命記18:15)。モーセのような人物が再来する。特にモーセは出エジプトの立役者でした。モーセがしたような救済のわざを神は行われる。そのような信仰が人々を捉えていました。
【終わりの日】
エリヤとモーセの登場は、終わりの日の接近を語ります。間もなく終わりが来る。かれらの出現はそれを示します。ということはキリスト・イエスのみわざの完成も近いという意味でもあります。終わりの日とは恐るべき審判の日でもあります。しかし、強調すべきは救いの完成でしょう。
ペトロの言動が続きます。彼は3人が話し合っているところに介入したとあります。口を挟むなどということは出来るような人たちではありませんでした。どうしてそこにいた人物がエリヤ、モーセだと分かったか記されていません。ペトロには面識などなかったわけですが、それ以上の大きな問題は、この二人は旧約を代表する偉大な人物です。ペトロはのちにはよく知られた大使徒になりますが、それでも、エリヤとモーセは偉大すぎます。こういう人の会話に介入するなどとはありえないことです。その上、彼は、小屋を建てようと提案しています。ここは高い山であって人もいません。この小屋はテントを指しています。雨露をしのぐための家という意味でしょうか。しかし、エリヤとモーセ、それにイエスをとどめておくような施設ではありません。小屋など作ってどうしようと言うのでしょうか。ペトロの言っていることは支離滅裂です。彼はおそらくパニック状態に陥ったのでしょうか。わけの分からないことを口走っています。
しかし、このような場面に居合わせた者は誰でもおそらくペトロと同じようになるのではないでしょうか。ペトロのように何を言っているのか分からない混乱振りを示すだけではないでしょうか。山上の変貌は誰もが見聞しても信じがたい光景であったでしょう。
雲が起こり、そこに居合わせた人たちを覆い隠します。そして、声がありました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」この言葉はキリストの聖霊のときの声に似ています。
ペトロは大混乱を起しました。当然です。このような光景を見たらパニックになるでしょう。ペトロはメシヤは苦難を受けるというイエスの言葉を受け入れることができませんでした。今度は栄光のメシヤを見ても信じがたいというか、わけが分からなくなっています。誰でも同じことです。容易にキリストが神の栄光を担う偉大な救い主であると信じがたいのです。
【栄光のメシヤ】
しかし、天からの声は、キリストに聞け、でした。キリストのみ声に聞くことこそ栄光のメシヤとは誰かを認知する道だというのです。
私たちが栄光の主と言われてもなかなか理解することが出来ません。しかし、ペトロは徐々にキリストこそ栄光の主であることを知るようになります。時間はまだまだかかりますが、ペトロはキリストとは誰かをはっきりと認識するようになりました。そのためには十字架の主を見、また復活の主を目撃しなければなりませんでした。主イエスから彼は教え続けられます。私たちもキリストのみ言葉を何度も学びながら、キリストとは誰かを学びます。そして、ついに栄光の主がどういう方か明瞭に知ることができるようになっていきます。(おわり)
2015年07月12日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2015年7月5日説教「イエスに従う者の決意」金田幸男牧師
説教「イエスに従うものの決意」金田幸男
聖書:マルコ8:34-9:1
要旨
【キリストをいさめるペトロ】
イエス・キリストはペトロから「あなたこそメシヤ・キリスト」という告白を受けました。しかし、キリストはそのことを誰にも話すなと命じられます。キリストはメシヤがユダヤの最高議会で裁判を受け、殺されること、そしてよみがえると予告されます。
ペトロはそのようなことはありえないとキリストをいさめます。ここでいさめるとは叱ることです。弟子がその師を叱っているとは。ユダヤ人の期待していた救い主が死ぬはずがないということでしょう。キリストが殺されるなどというのはペトロにはたわごとと聞こえたのです。
それはまたキリストを陥れようとする、キリストの贖罪的な死を阻もうとする、サタンの策略でもありました。キリストはそのペトロを厳しく叱りつけます。
【34節「それから」】
34節は「それから」とあり、前の記事と連続しているようですが、主題は異なります。だから、この「それから」は時間的な連続性を示しているのではないと理解したほうがよいと思われます。ただ、まったくつながりがないわけではありません。弟子たちにとってのキリストが苦難を受けるのであれば、その弟子たちもまた苦難を避けることができないという連続性です。
【弟子と群衆に語られた】
キリストは弟子と群衆に語られたと記されます。そこには弟子であるためには過酷な運命が待っているとされています。なぜ弟子だけではなく群集にもこのようなことが語られたのでしょうか。 この場合、将来信者になるはずの人々であるという意味だとされます。しかし、ここはそのような限定は記されていませんし、暗示もありません。そうだとすると、キリストの弟子になろうかと思っているような人々を指して、弟子になることは甘いことではない、よほどの覚悟がなければ弟子になれないと、予め釘をさしているのだと受け止めることも出来ます。生半可な気持ちで弟子にはなれないという警告かもしれません。
確かに、キリスト教会はローマ帝国から迫害を受けることになります。その日は近くなっています。キリストは弟子になろうか、あるいはならないか逡巡しているような人を対象に語られたと受け止めることもできます。迫害に耐えられないものは去れ、というのです。
【弟子になるふたつの条件】
確かに一読して、キリストの弟子になることは大変な覚悟が必要です。キリストは弟子になるためにはふたつの条件があるとされます。
第一は、自分を捨てるということです。第二は十字架を背負うということです。このふたつはときどき本来の意味を曲げて理解され、誤解されていることがあります。
十字架は十字架刑を意味しています。当時のユダヤ人は十字架刑をよく知っていました。それはいくつも種類があるローマの処刑法の一つで、ローマに反抗した政治犯などを処刑する方法で、その残酷さのゆえに最も身分の低い階級の囚人を対象としました。ローマは見せしめのために十字架刑を公衆の面前で執行しました。十字架刑に処せられる囚人は処刑場まで十字架を背負わせられました。ゆえに、十字架を負うとは何か重荷を背負う意味によく取られますが、ここではズバリ死を意味します。ですから「自分を捨てる」とは単に自己主張をしないとか、財産、名誉、地位などを捨てると解釈されますが、ここでは死ぬことを意味しています。つまり、キリストの弟子になることは死を免れないといわれているのです。
キリストの弟子になるためには重大な決心が求められます。それは死ぬ覚悟でなければなりません。ということを聞いて不安にならない人はいないでしょう。キリスト教を信じたいならば死を覚悟せよ。こういわれてぎくっとしない人はいません。
【殉教】
確かに、キリスト教の歴史は殉教の歴史と言っても過言ではありません。古くはローマ帝国下での猛烈な迫害、日本でも豊臣徳川時代のキリシタン弾圧、キリスト教信仰のゆえに殉教の死を遂げた人は数多くいます。キリストはその弟子になりたいと思うものは殉教者となる決心をしなければならないと言われたのでしょうか。文字通り読めばその通りです。そして、実際信仰のゆえにさまざまな困難を忍ばざるを得ず、中には命を失ったものも珍しくありません。
このようなことを言われて怖気づかない人はいないでしょう。誰も死ぬことは嬉しいことではありません。勇気をもてない人がいても不思議ではありません。誰も死に立ち迎えられるほど信仰が強いわけではありません。死は誰も一度しか経験できません。死を恐れない人もいますが、そんなに死に対して達観できている人は多くありません。死を考えると恐怖心におそわれても少しも不自然ではありません。
肉体の死は誰もが薄気味悪く、不安にかられるものです。ですから、キリストが弟子となる条件を示されたとき、誰が耐えることが出来るでしょうか。恐ろしい話です。
では、キリストは安易に弟子になれないと警告されているのでしょうか。予めキリストは弟子の条件を示して、多くのものが入信することを拒んでおられるのでしょうか。そういうことはあり得ないと思います。
【永遠の命が与えられるために】
確かに、キリスト教信者になることは危険を伴います。苦難を忍ばなければならない場合もあります。苦境の中を生き、ついに命さえ奪われることもありましょう。そういうことをキリストは否定されるのではありません。ただし、だから予め入信者に特別な決意を求めているのでしょうか。そうであれば多くの人たちは立ち止まってせっかく心に決めたこと、つまり、キリストの弟子となることを断念してしまうでしょう。
キリストは自分の命に固執するならば、つまり十字架を背負うことを拒否するならばどうなるかを教えられます。キリストのために、その福音のため、伝道のために命を失うものは、命を得ることになる。逆説的なことを言っているように聞こえますが、肉体的な命、つまりその命でもって、現実に私たちが今生きているのですが、その死ぬべき命ではない、朽ち果てない命が与えられると語られます。肉体の命は死んでいきます。その肉体的生命ではない永遠の命の与えられる局面をキリストは語られます。
その命はいつ与えられるか。むろんキリストを信じるときに与えられるのですが、特に終わりのとき与えられると語られます。
38節は、み言葉を恥じるものについて語られていると理解できますが、これを反対側から見ることも出来ます。み言葉を聞いて受入れ、信じるものは、その日、栄誉を受けるものとされると言われているととることができます。終わりのとき、キリストの弟子として生きているものは大きな栄誉にあずかる。
9:1も理解しにくい文章ですが、神の国は現われるとき、つまり神の国が完成するときを指しています。終わりのとき、キリストが再び聖なる天使と共に下ってこられます。そのときに、死ぬことのない奇跡にあずかるものがいると語られていると理解します。
キリストはここで言われていることは、キリストの弟子として生きるときに与えられる祝福のことです。それは比べるもののない大きな神の幸い、恩寵です。キリストが与えられる幸いを思うならば、それを失うことの損失は計り知れません。キリストは弟子たちにこの幸いを必ず与えられます。この命の代価は考えることができないほどです。それほど壮大で偉大なものです。キリストに従わないで、自分のことばかり考えているものはこの命を失います。つまり神はこの命を与えられません。
キリストはこうして、終わりのときに神を信じ、キリストに従って生きるものの恩寵を確言しておられます。このことは単にあれとこれの比較の問題ではありません。
キリストに従って生きていくことは至難です。死をも覚悟しなければなりません。誰でも死を覚悟して信じることはたやすいことではありません。だからこそためらい、決心がつかないのです。
ではどうすれば決心できるのでしょうか。死を覚悟しないと弟子になれないといわれるとたいていの人は二の足を踏みます。当然です。私たちは信仰のゆえに殉教をしなさいと命じられたら躊躇することになるでしょう。当然です。
【キリストに従うことで得られる絶大な光】
しかし、私たちはキリストに従うことで得られる栄光を教えられます。それは、終わりのときに明確になるものです。メシヤ・キリストから誉れを受け、もはや死ぬことのない、新しい命に復活させられます。このことをキリストは約束されています。文章そのものには出てこないのですが、言わずもがなで語られています。
この栄光に比べれば、その他は色褪せるだけです。
よほどの覚悟をしろといわれるだけでは誰も覚悟など出来ません。死は未経験であるだけ気味が悪いものです。またそれは不安と恐怖をもたらします。しかし、もしもキリストが約束されている絶大な価値のある永遠の命を考慮すれば、私たちは弟子として苦難を受けることの覚悟をすることができるでしょう。
単純にキリストの弟子となることに伴う危険性を考えれば私たちはなかなか決心がつかないでしょう。私たちが求められるのは神の前で恥を受け、命さえ喪失するという負の側面だけを考慮しないことです。それよりも私たちが与えられるであろう幸いの大きさを心に留めることこそ肝心だと思います。そうあってこそ、私たちは恐怖を乗り越え、不安を制御できるようになります。(おわり)
2015年07月05日 | カテゴリー: マルコによる福音書