2015年6月7日説教「まだ悟らないのか」金田幸男牧師

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説教「悟らないのか」金田幸男牧師

聖書 マルコ78:4-21

 

要旨 

【ファリサイ派と天からのしるし】

ファリサイ派はイエス・キリストに天からのしるし、つまり天変地異と言うべき大きな奇跡を見せろと要求します。むろん下心は、キリストにはそんな奇跡は行えないだろう、そうすれば民衆の信頼は失墜し、キリストがまことの救い主であるとの信仰は潰えます。これがファリサイ派の目論見であって、キリストをためし、試みることに他なりません。奇跡を見たら信じようと主張する人は多くいますが、奇跡があるなどとはじめから思っていません。だから、ただ信じないと言うことを公言しているのです。そのファリサイ派との論争を避けるためもあったと思います。イエス・キリストは船に乗り込み向こう岸、8:22によれば、ガリラヤ湖北岸の町ベトサイダに向かわれます。

 

【パンがひとつしかない】

 この船の中の弟子たちの会話のことが記されます。それはパンがひとつしかないという問題をめぐる議論でした。ここから弟子たちが何を論じ合ったか推測できます。先ず、責任追及であったと思われます。キリストの弟子団には財布係りがありました。それはイスカリオテのユダが担当していました。弟子たちの中には食料調達係もあったのではないでしょうか。弟子たちの集団は人数を増やしていったはずです。毎日のパンを購入する担当者が選ばれていて当然です。ところがキリストの出発が急なものでしたからパンを購入する時間がなかったのでしょう。しかし、これは言い訳にはならないかもしれません。予め心を砕いているべきでした。それから、事態を打開するためにどうしたらいいのかという議論があったと思います。

 

船を岸辺に寄せてそこでパンを買い求めるべきだ。いや、ベトサイダまで辛抱すべきだ。とにかく今は腹がすいてたまらない状況であったので雰囲気はよくなかったはずです。当面の難題を解決するためにどうしたらいいのか。弟子たちは真剣に論じ合っていたのではないかと思います。問題が起こると必ずといってよいほどの論議とはこういうものではないでしょうか。なぜこの問題がおきたのかという原因の解明、そのなかには責任者の追及も含まれます。それから事態解決のための議論。ああでもないこうでもないという堂々巡りに陥ることも珍しくありません。延々と論じ合っているけれども結論は出てこない。

 

【ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ】

 このような弟子たちの議論を傍らで聞いていたイエスは、まるで文脈から外れたようなことを語りだされます。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ。この場合のパン種=イースト菌は何を意味しているでしょうか。あまりいい意味で使われていませんが、聖書の中でのパン種はあまりよく思われていません。例えば、ガラテヤ5:9ではパン種は真理から逸らせるものとされています(1コリント5:6-8も参照のこと)。このことは旧約聖書の出エジプトの際の、過越と関係すると思われます。エジプトで奴隷状態で苦しめられていたイスラエルはモーセに率いられて脱出することになります。そのとき、神はイスラエルの人々の旅の食料としてパンを持参させられますが、その場合、パン種の入っていないパンを作れと命じられます。除酵のパンといいます。なぜ除酵のパンを持って行けと命じられたのか。イ-スト菌を入れたパンは膨らみ、柔らかく香りもよく、味も格別のよくなります。ですからこれだけ見ればイースト菌は有用な細菌といえると思います。しかし。エジプト脱出と言う緊急事態ではのんびりしておれません。イースト菌で発酵させるのには時間がかかりすぎます。また、イースト菌の発酵の管理は容易ではなく、失敗すればパンは酸っぱくなり、食用には相応しくなくなります。このような理由で本来は有益でありますが、聖書ではイースト菌はよくないものとして扱われます。

 

 ところで、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種とは何を意味しているでしょうか。ファリサイ派はイエス・キリストに奇跡を要求しました。ヘロデの場合も奇跡を求めたことが記されています(ルカ23:8)。キリストの裁判のときヘロデは同席します。キリストに興味を持っていたのですが、それはキリストを信じるところから出てきた思いなどではありません。興味半分、好奇心から出たものです。パン種とは明らかにキリストに奇跡を要求すること、そしてその要求を出している心根のことであることは明らかです。ファリサイ派もヘロデもキリストなどくだらない人間だとしか見ていません。奇跡を求めるのは信仰からではなく、むしろキリストへの疑い、不信から出てきたものです。

 

奇跡、しるしを求めるのはキリストをためすため、もっと言えばキリストに力などないということを立証せんがためです。キリストに奇跡を要求するのはキリストを心も誘惑するためでした。キリストはファリサイ派やヘロデの内心をよく見抜いておられました。決してキリストに大きな期待を抱き、信仰をもって対応することなどありえません。

 

 このようなファリサイ派やヘロデのようになってはならない、注意せよと警告されています。弟子たちはパンがひとつしかないことを論じ合っていました。当面パンをどうするか。腹の問題だから深刻です。私たちは何を食べようかと心配し、果たして食べることができるかと心配をしています。その弟子たちにファリサイ派やヘロデのようになるなと警告しておられます。パンがひとつしかないことを論じ合っている状況はファリサイ派やヘロデがキリストに奇跡を要求する状況と同じなのです。

 

 ファリサイ派の過誤はしるしを求める思いの背後にあるキリスト不信でした。これこそパン種でした。このイースト菌がパンを膨らませ、結局限界を超え、食用には不適にしてしまうように、しるしを求めることは神に嫌われてしまう結果を招きます。それは不信と言う点で共通します。

 

 キリストは続いて疑問形で言葉を連発されます。見ていても見ないのか。聞いていても聞かないのか。おぼえていないのか、記憶にないのか。キリストはこのようの言われて弟子たちを叱責しているのだと思います。何を叱責しているのか。それは見なければならないものを見ておらず聞かねばならないことを聞いていない状態を批判されるものです。

 

 私たちは現実に目を奪われます。起こっていることに右往左往します。目の前に起こっている現象に心が奪われ、混乱したり、失望したり、怒ったり、嘆いたりして落ち着きません。時にはもうだめだと諦め、時には事態を招来した原因を追究ばかりしています。世間が悪い、誰それが悪い、時代が悪い。場合によっては自暴自棄になってしまうこともあります。

 

【事柄の本質を見極めよう】

 しかし、それは表面だけ見ているのであって、真実の問題点は見過ごしています。若いころ、わたしの信仰を導いてくださった先輩はいつもこのように言われました。物事の本質がどうなっているかを見なさい。時代の態勢はある方向に向かって進行していくでしょう。圧倒的多数が流れを作り出しますと、バスに乗り遅れるなと言う叫びが湧きあがります。こうして国家自体が間違った方向へ突き進んでいくと言うことは起きるべくして起こります。出来事の表面だけ見ていてはそうなってしまいます。世相とか時流とか、ひとつの方向へ集団が流れていくとき、問題の本質を見極めて大勢に流されることのないようにしなければなりません。だから、私たちは事柄の本質を見極める必要に迫られています。

 

 キリストはここで何を見よと言われているのでしょうか。見ていながら見ていない。聞いていながら何も聞いていない。すっかり起きたことを忘れている。キリストはこのように叱責されて、先だって行われた多くの群衆にパンを食べさせる奇跡を思い起こさせておられます。

 パンはひとつしかない。どうするか。弟子たちは先だって起きた奇跡を思い起こすべきでした。

 

ファリサイ派は奇跡を要求しました。ヘロデも同じです。弟子たちは奇跡を求めていません。むしろパンがひとつしかないことに心が向いています。船の中にはキリストがおられます。キリストならどうされるでしょうか。キリストに求めたときどうなるでしょうか。

 キリストはこのパンひとつでも奇跡を行うことができる方です。そのキリストを全然見ていないのが弟子たちです。ファリサイ派もヘロデもキリストを信じてはいません。パンがひとつしないことで論じている弟子たちの前にキリストがおられます。

 

【5000人、4000人を食べさせたキリスト】

 弟子たちが見なければならないのはひとつのパンではありません。パンをめぐって議論などしても意味がありません。しなければならないことは、5000人、4000人を食べさせたキリストを思い出すことです。

 見なければならないこと、聞かなければならないこと、それはパンがひとつしかないという事実ではありません。むしろ、見なければならないのは、同じ船の中にいるキリストです。目で見るべきはキリストです。茫漠としてみるのではありません。必要ならば奇跡を起すこともできるキリストをその心に思い浮かべることです。目で見るべきは助け主キリストです。私たちは信仰を持って見なければなりません。キリストが何をしようとされているのかを見極めることこそ、私たち

がしなければならない選択です。

 ファリサイ派の要求にはキリストは応えられていません。弟子たちにはどうでしょうか。キリストはパンがひとつしかないことで論争している弟子たちに一挙に解決できる方のいることを示しています。事態をどう解決するかそれだけを見ていると何も解決策は出てきません。ではどうするか。キリストに私たちは信頼を寄せることを求められておられます。キリストならば何事もおできになるという一点に視点を集中するべきです。(おわり) 

2015年06月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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