2015年6月

2015年6月28日説教「死んで復活する救い主」金田幸男牧師

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説教「死んで復活する救い主」金田幸男

聖書 マルコによる福音書31-34

31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 

要旨

【あなたこそメシヤです】

 フィリポ・カイサリア地方で福音を宣教している最中にキリストは、人々は自分のことをなんと言っているかと質問をされます。弟子たちは次々に巷間のうわさを報告します。そのあと、キリストは弟子たちに「それではあなた方はわたしのことを何者だと思うのか」と尋ねられます。

 

それに対してペトロが弟子たちを代表して「あなたこそメシヤです」と答えます。メシヤとは油注がれたものを意味していますが、ユダヤ人の間では終わりのときに神の救済事業を特別な力を持って実行するため神に任じられた救済者と信じられていました。ユダヤ人はメシヤの到来を期待している民族です。今もなお、ユダヤ人はメシヤが来ると信じています。ユダヤ教という宗教はその点変わりがありません。

 

しかし、イエス・キリストは、ペトロが言ったことを誰にも話すなと命じられます。そのあとに、31節のみ言葉が語られます。

 

【人の子】

冒頭「人の子」という表現が出ています。福音書においてキリストはご自分を指して人の子と言われます。しかし、私たちはキリストが一人称「わたし」の代わりに「人の子」という表現をされたと考えるべきではありません。

 

人の子は旧約聖書にも出てきます。詩編8篇15「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」ここでは人の子とは人間のことです。エゼキエル書にも人の子は多く出てきます。多くの場合、人の子よ、とエゼキエル自身が呼ばれます。

 

しかし、ダニエル7章13-14では「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」とあり、人の子は神的な栄光と権威をもち、君臨する絶大な権力者、支配者を意味しています。

 

キリストが「人の子」という言葉を用いるときは、このような絶大な権力を掌握し、世界を支配する救済者を念頭に置かれていることは間違いありません。終末のときに来たり、全世界を変革し、統治する救済者が期待されていました。人の子とはこのような神のわざを行う特別な存在とされます。

 

【メシヤ観の修正:メシアの苦難】

 キリストは人の子という表現を用いるとき、超越的存在的な、メシヤを意図されているのは明らかです。弟子たちはあなたこそメシヤであると告白をしましたが、キリストはこの言葉でそれを明確に肯定されたのです。イエスこそユダヤ人が期待してきたメシヤご自身なのです。と同時にキリストは一般にユダヤ人が持っているメシヤ観を修正されます。そのメシヤは苦しまなければならないのです。メシヤはメシヤでもイエス・キリストが明らかにされるメシヤとは苦難の中に置かれるメシヤに他なりません。

 

苦難のメシヤはイザヤ53章に記される苦難のしもべを髣髴させます。イザヤは、神がしもべを立て、そのしもべに苦難を与えられ、そのしもべの苦難は実は民の代わりに受ける苦しみであったと明らかにします。そして、この苦難を引き受けるしもべこそ救済者とされます。

 

ユダヤ人はこの苦難のしもべは個人ではないと解釈しました。それはユダヤ民族そのものだと思ったのです。キリストはそうではなく、この苦難のしもべこそメシヤだと教えられます。

 

【十字架死への言及はまだない】

 メシヤは苦しまなければなりません。キリストは弟子たちにこのことを明らかにされます。苦難について、私たちはここで二つのことを学びます。ひとつは、キリストはメシヤの死を語られますが、十字架の死とはいわれていません。マルコでは3ヶ所メシヤの苦難を予告されます(マルコ31-32,9:30-32、10:32-34)。この3ヶ所ではキリストは十字架に言及されません。どうしてなのか。

 

十字架刑のことはユダヤ人にもよく知られていました。それはローマ帝国の処刑方法のひとつで、最も残酷でローマの身分の高いものには執行されませんでした。ローマに反抗を企てたような政治犯にこの十字架刑は宣告されましたが、その囚人への苛酷な扱いは十字架刑を知る人を震え上がらせるものでした。キリストはこの残忍な処刑法で殺害されるとはまだ言われません。それは弟子たちがそれを知れば躓き、耐えられなくなるからでした。弟子たちの魂のために十字架の上で殺されることをキリストはまだ語られません。弟子たちへの魂の配慮、牧会のためでした。

 

【長老、祭司長、律法学者たちからの排斥】

第二に、キリストは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されると言われます。どういう形での排斥か。長老は文字通りユダヤ人のなかの年長者ですが、同時に、世知に長けた民衆の指導者でもありました。彼らは選ばれて最高議会(サンフェドリン)に選ばれます。祭司長は、その議会の議長をすることになっていました。律法学者もまた法律の専門家として最高議会に席を占めていました。つまり、この3者は最高議会の構成員であり、結局のところ、最高議会を意味しています。

 

最高議会はいわゆる民法や刑法だけではなく、宗教関係の裁判も行いました。最高議会は死刑も宣告できましたが、ローマはユダヤを征服しますと、最高議会から死刑執行権を奪ってしまいます。 

 

【メシヤは裁かれる】

例外を除いて、死刑は執行できません。ただ、死刑に値するとローマ総督に訴えることができました。人の子、メシヤは裁判にかけられるということを意味しています。メシヤは裁判を受けなければなりません。無実にもかかわらず有罪宣告を受けます。そして結果は死刑なのです。

 メシヤの苦しみとは、裁判を受け、有罪と宣告され、死刑に値するとされ、そして、殺される(十字架にかけられる)ことを意味していました。

 

 メシヤは苦しむ、しかも十字架の苦しみを受ける。これは重大な発言でした。だからこそペトロは受け入れることが出来なかったのです。

 

【なぜメシアは苦しまれねばならないか】

 メシヤの苦しみは、キリスト教信仰の中核部分です。メシヤは苦しまなければなりません、なぜ苦しむのか。私たちの罪を背負い、私たちに代わって十字架の上で死に、私たちはもはや罰せられることのないようにされたのです。キリストは裁判を受け、無実なのに有罪とされ、そして、処刑されました。それは私たちの罪を引き受けてその刑罰を引き受けてくださったのです。こうして私たちの罪は許されます。帳消しにされます。こんなに喜ばしい出来事はありません。

 

【メシアの復活】

 メシヤは3日後よみがえられます。3日後と言っても72時間後ということではありません。キリストが十字架につけられたのは金曜日の日没前でした。一日の境い目は日没となっています。キリストは日曜の朝復活されました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人・・・この人たちは皆死んで、蘇生したと想像されています。

 

蘇生と復活は異なります。蘇生はまた死ぬ可能性があります。つまり息を吹き返しただけで、また死ぬことになります。エリヤは火の車で天に駆け上って行きました(列王記下2:11)。彼の場合は蘇生、あるいは、再来となりますが、これは復活ではありません。復活は死に対する完全勝利を意味しています。このような復活はキリストの勝利でもあります。

 

復活は単にキリスト個人だけが復活するというのではありません。キリストだけ例外的に復活したと言うのではありません。キリストは私たちをもよみがえらせるためにご自身が先ず復活されました。この点で決定的にキリストの復活は大きな神のみわざといえます。

 

【ユダヤ人のメシヤ理解】

 メシヤは死んで復活する。ユダヤ人は到底こういうことを信じることはできませんでした。彼らのメシヤに対する考え方では、キリストと真正面から衝突していました。ユダヤ人のメシヤ理解はあくまでも世界を改変し、ユダヤ民族を救済する(政治的にも)解放者の役割を期待するものでした。メシヤとは死んでよみがえるものなのだと教えられます。このメシヤの考え方は一般のユダヤ人が心に抱いたメシヤ観と異なります。だからこそペトロも聞き入れることを拒みます。ペトロの持っていたメシヤ観は一般のユダヤ人と異なりません。メシヤは栄光に満たされ、権威、権力を掌握しています。メシヤは苦しむはずがない。これがペトロの考えであったでしょう。

 

【サタンよ、引き下がれ】

 ペトロは、イエスをいさめ始めます。ペトロはイエス・キリストに弟子なのに、それを弁えようとしません。キリストは一喝されます。「サタンよ、引き下がれ」。キリストはペトロのほうを向かず、弟子たちを見ます。これは微妙なキリストの御心の発露だと見ていいのではないでしょうか。確かにいさめたのはペトロです。ペトロ自身が苦難のキリストという観念を受け入れることが出来ませんでした。しかし、サタンはそのような人間の考え方を利用し、キリストに対して敵意をむき出しにします。ペトロの言葉はサタンの常套文句でありました。ペトロは苦難のしもべたるキリストを受け入れることは出来ませんでした。メシヤがそんな惨めな仕方で死ぬはずがない。これがペトロの考えでしたが、サタンはそれを用いて、メシヤは苦難を受けるはずがない、犠牲の死を遂げるはずがないといっているのと同然です。しかし、このキリストを否定することこそサタンの考えなのです。

 

キリストはペトロを叱りつける場合、神のことを思わず、人間のことを思っていると言われます。人間のこととは、何か日常生活の中で自分の欲得のことばかり考えているといった意味で用いられることがありますが、本来ここでキリストが言われたのは、キリストが苦難を引き受けるメシヤであるということです。これを否定することこそがサタンの主張であり、苦難を受ける神の子はありえないという意味です。しかし、それこそサタンの考えなのです。

 

私たちのために裁判を受け、代わって有罪宣告を受け、ご自身を犠牲にして罪のあがないをし、その上で信じるものに復活のいのちを与える。これを否定することこそサタンの考えなのです。

2015年06月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月21日説教「あなたはメシア・キリスト」金田幸男牧

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説教「あなたはメシヤ・キリストです」金田幸男 

聖書:マルコ8:27-30

 

要旨

【フィリポ・カイサリヤ】

 イエス・キリストと弟子らの一行はフィリポ・カイサリヤという町とその周辺まで行かれます。フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北約40キロ、ヨルダン川の源流に近いヘルモン山(標高2814メートル)の麓に位置します。ヘルモン山はパレスティナの最高峰です。古くから集落がありましたが、そこでカナンのバール神が礼拝されていました。ギリシヤ人はこの町をペナスと呼びますが、それは牧羊神パンの神殿があったからです。いわゆるヘロデ大王がローマの皇帝アウグストウスから領土を得るとそこに皇帝のために神殿を築きます(紀元前20年)。

 

ヘロデ大王の息子のフィリポが町を拡大し、フィリポ・カイサリアと名づけます。地中海沿岸にあったもうひとつのカイサリアは港湾都市として発展しますが、フィリポ・カイサリアは辺鄙な地方都市のままで、現在はバニアスという小さな町として残っているに過ぎません。キリストの伝道活動の北辺にあたります。ユダヤ人はこのようなパレスティナ北辺にある異教的な都市を好みません。当然そこには多くの異教徒が居住していました。このようなユダヤ人も見向きもしないような地方までキリストは足を伸ばし、福音を宣教されました。

 

【旅の目的】

 なぜ、キリストが弟子たちをこのようなギリシヤ風の町まで連れてこられたのか。むろん、ここにいる異邦人に伝道をするためであったでしょうが、それ以上の目的があったと言えます。それこそ、キリストは何者であるかを弟子たちに明白にするためであったことは間違いないでしょう。

 

 キリストがフィリポ・カイサリアでなさったことは異例な場面と行動を伴っていました。先ず第一は、わざわざフィリポ・カイサリアを選ばれたことです。ここはユダヤ人が少ないところです。キリストはユダヤ人に知られたくない重大な真実を明らかにするためにこの地を選んだということが出来るでしょう。ユダヤ人に知られるとキリストの身が危ないという意味です。

 

【「人々はわたしのことを何と言っているか」】

第2に、キリストと弟子たちの対話は異例なものでした。キリストは弟子たちに「人々はわたしのことを何と言っているか」と質問をしますが、普通の律法学者ならこんな質問はすることがないのです。イエス・キリストは正式の律法学者ではありませんが、律法学者のような存在と認められています。たとえ律法学者ではなくても、他人に律法に関する事柄を教えるからには、律法学者のごときものと見なされていたはずです。そのような人物が、「わたしのことを何と言っているか」など人のうわさを気にして、弟子たちに尋ねることはありません。律法学者なら、弟子たちが「あなたは誰ですか」と問いかけます。このような異例の質問をしているところに、普通ではないキリストの姿勢が見られます。なぜキリストはこんな質問をしたのか。むろん人のうわさなどキリストが気にされているわけがありません。むしろ、キリストは重大な事実を弟子たちに明らかにしようとされています。

 

【偉大な預言者たち】

 キリストとは誰か。これこそ重大な問題でした。これは他のユダヤ人に聞かれてはならない秘密です。しかし、弟子たちにはそれを明らかにしようと決意されたのです。

 

 キリストは弟子たちが次々と出される答を聞いておられます。キリストは先ずその否定から始めます。弟子たちがうわさになっている人の名を挙げていきますが、キリストは明確に否定をされているのではありませんけれども、文脈から見れば、キリストは弟子たちが挙げるうわさをそうではないと否定されていることは明らかです。

 

 弟子たちの返答に注目すべき点が二つあります。それはマルコ福音書には明瞭に書かれていません。先ず第一は、この記事と平行個所がマタイにもあります(マタイ16:143-20)。そこではエレミヤもうわさになっていることが記されています。第二は、ここに挙げられる、エレミヤも含めて、過去に生きていた人物で、キリストの時代にはみんな死んでいましたが、人々のうわさでは、みなよみがえったことになります。死んでよみがえったものが大きな働きをする。イエス・キリストはこのような人々の生き返りではないと明確に語っておられます。

 

つまり、それ以上だということになります。イエス・キリストは人々がうわさをしているような人物ではありません。キリスト自ら否定されます。すると、イエス・キリストとは誰か。死んで復活して大きな働きをするというような人物以上のお方だと言えます。

 

となると、それは人間以上の存在と言わなければなりません。ここに上げられている人たちは偉大です。大きな働きをしました。ある意味で人間以上の力を発揮しています。しかし、キリストはそれ以上の力あるもの、つまり、神ご自身といえるのです。このことをキリストが自らら明らかにされているといえます。

 

【洗礼者ヨハネの再来か】

うわさでは、洗礼者ヨハネの再来と言われていました。洗礼者ヨハネはマルコ6:16-29にありましたように、ヘロデ・アンティパスの暴虐の犠牲となって殺されていました。ヨハネは大きな影響力を残した人物です。悔い改めよと叫び、多くの人々を回心に導きました。彼は来るべき者、救い主の備えをするものでした。しかし、キリストは生き返った洗礼者ヨハネではないと断言されます。キリストはヨハネ以上の存在です。

 

【エリヤか】

第2に、エリヤだといううわさがありました。エリヤは列王記上17章から登場し、列王記下2:1-18でその最後が記されています。エリヤは旧約史上最大の働き人の一人です。彼は激しい説教を語り、ときには国王に面と向かって非難し、攻撃しました。奇跡も行っています。そして、最も注目すべきは、彼は死ぬことなく、火の車に乗って天に昇って行ったと記されています。エリヤは戻ってくる、このことがユダヤ人の中で信じられていました。終わりの日にエリヤは再来して大きな働きを行う。しかし、キリストは自分はエリヤの再来ではないと宣言されます。そして、それ以上のものだと言われるのです。

 

【預言者の一人か】

第三は預言者の一人といううわさがありました。ここで言う預言者は旧約の預言者のことであろうと思われます。エレミヤもその一人でした。エレミヤはユダがバビロンに滅ぼされる前後に預言者活動を行い、その預言の言葉の峻烈さは心を刺し貫くほどの強力なものです。エレミヤの最後は不明です。彼もまた再度終わりのときに現れ、かつても同じように預言者としての働きを実行すると信じられていました。洗礼者ヨハネもエリヤも預言者と見なされています。うわさではイエス・キリストは旧約の預言者のような存在だと言われていたことになります。キリストはご自身がそれ以上の存在であると語っていることになります。

 

【「あなたこそメシヤです」】

 弟子たちが挙げたうわさの人物であることを否定され、ではあなた方はわたしを何者だと思うのかと切り込まれます。ペトロが答えます。「あなたこそメシヤです。」

 

 メシヤとはヘブライ語の油注がれたものを意味します。ギリシヤ語に訳されると「キリスト」になります。イスラエルでは、王、祭司、それに預言者は油を注いで任職されました。油は神の聖霊を表しています。聖霊が与えられて、神の人としてその働きを完遂すると思われていたのです。王も祭司も預言者も神の務めの代行者でした。油注がれてその職務を果したのです。

 

 ところが時代が下るにつれてメシヤはもっと広い意味を持つようになっていました。パレスティナ地方がギリシヤやローマの支配を受けることになりますが、そのような時代、神は終わりのとき、メシヤを送られ、世界の救済を敢行されると信じられていました。そのような信仰、終わりの時の救済者、解放者という観念がユダヤ人の中に芽生え、定着していました。むろん、そのメシヤが意味している概念はひとつのものではなくて、それこそ他にも多様な考え方がありました。対ローマ戦争を指導する軍事的なメシヤ、あるいは終末的な幻想と言うべき姿で現われるメシヤ、道徳的革命をになう世界改造者等々、メシヤとは何か、いろいろ考え方が並存していました。

 

【ユダヤ人を救う解放者】

 しかし、世界を救済するもの、特にユダヤ人を救う解放者という観念は共通しています。間もなく神は救済者を送られる。これがユダヤ人の希望でありました。ペトロはイエスがそのメシヤであると告白したのです。むろんペトロ一人の告白ではなく、彼は弟子たちを代表してこのことを言葉にしたのです。

 

 これは重大な言葉です。ユダヤ人は今もメシヤを待望し続けています。メシヤを神が送られる、この希望こそユダヤ人の最大の希望であり、信仰でした。イエスとはキリストである。救い主である。このことこそキリスト教信仰の最も重大な信仰内容です。他のことは曖昧であろうとも、あるいは知らなくても、イエスこそまことのキリストであるという信仰さえあれば、キリスト教信仰にとっては十分だともいえるのです。

 

【キリストの口止め】

 しかし、キリストは口止めをされます。遠く、フィリポ・カイサリアまで来て明らかにされたことです。それは重大な信仰告白です。だから、キリストは誰にもこのことを語るなと言われます。ユダヤ人が知ればイエスにとっても弟子たちにとっても危険な事態を招きかねません。

 それと共にペトロの信仰ではまだ不十分であったからです。まだ十字架と復活が起きていません。十字架の上でキリストが犠牲となり、その結果、私たちの罪が赦されるようになり、罪がもたらす死の問題が解決されるまで、そして、キリストがよみがえり、死に対する勝利者となり、さらに、永遠の命が約束されるようになってからメシヤとは誰かと言うことが明白になります。それまでキリストは誰にも言うなと命じられます。(おわり)

2015年06月21日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月14日説教「はっきり見えるようになる」金田幸男牧師

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2015614日説教「何が見えるか」金田幸男

聖書:マルコ78:22-26

 

要旨

【ベトサイダ】

イエス・キリストの一行はベトサイダの町に到着したとあります。ベトサイダは、ガリラヤ湖北岸、ヨルダン川が湖に注ぐ地点に位置します。ベトサイダととは「漁師の家」という意味ですが、辞典には、同じ名前のふたつの町があったと記すものもあります。ヨハネ1:44,12:21によると、ペトロ、アンデレ、フィリポの3人はベトサイダの出身であると記されています。

 

そしてまた、ベトサイダはルカ10:13にも出てきます。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。」

 

ベトサイダはキリストの宣教にあずかりながら、その教えを無視し、聞き入れなかったゆえに、厳しい叱責の対象となっています。この町が、もうひとつのベトサイダを意味しており、この町はヘロデ大王の息子の一人であったフィリポがギリシヤ風の町に建て直し、ユリアスと改名されます。

 

住民にはユダヤ人も多かったのですが、ユダヤの正統的な聖書に対する忠実さやその信仰よりもギリシヤ風の生活や文化の影響を強く受けた人たちが多かったと考えられます。ペトロたちの出身地のベトサイダは辺鄙な漁師の村を想像させられますの、領主フィリポが再建した町と別個の町だと考えることもできますが、特に別個の町と考える必要もないかもしれません。このようなギリシヤ文化の影響が濃いところでは、当然キリストの教えも顧みない人たちが多かったでしょう。

 

【村の外に盲人を連れだす】

イエス・キリストがベトサイダを責めるときはその不信仰に対するものであったと容易に考えることができます。このような背景を見ていくと、なぜキリストが村の外にこの人を連れ出した上で奇跡を行われたのかも理解できます。

 

人々がキリストのところへ盲人を連れて来ます。盲人が自発的にキリストのところへやってきたとも、人々にイエスのところへ連れて行って欲しいと言われて連れてきたとも記されません。ベトサイダの人々がこの盲人を連れてきたのは別の動機があったからだと思われます。決してこの盲人への同情や憐憫から行動したのではなく、キリストが盲人の目を癒すという特別なわざを目撃したかったからだと思われます。つまり奇跡を見物したかったのです。

 

その動機は好奇心であり、珍しいものを見たがっただけのことなのです。つまり、イエス・キリストがどんな奇跡を行うのか見たかっただけのことです。奇跡を見物する。これが彼らの動機でした。

 

【密かに行われた奇跡】

キリストは今まで奇跡を公然と行っておられます。密かに一部の人だけしか分からないようなやり方ではありません。ところがマルコ福音書では3回だけ密かにそのわざを実行されています。

 

先ずマルコ5:37です。会堂長ヤイロの娘の蘇生の奇跡が行われたとき、キリストはヤイロと3人の弟子だけしか娘の部屋に入ることを許されませんでした。泣くことを専門とする女たちの騒ぎから離れるためであり、そのような人の目から、そこで行われていることを隠すためであったと考えられます。

 

また、7:33では、耳の聞こえない人の癒しが記されますが、群衆の中から彼を連れ出し上で奇跡を行われています。人々がキリストに癒しを求めてやってきました。その動機は、このベトサイダの人々と同じであったと考えられます。彼らも見物したいというだけであったと思われます。だから、キリストは奇跡を目撃されることを拒否されたのです。

 

奇跡は驚くべき神の行為です。しかし、それは単なる好奇心で見られるべきものではありません。ましてや見世物ではありません。そのような動機の人々には奇跡は一切行われることはないのです。

神の力に圧倒されることもなく、奇跡が行われてもただの見物。こういう人々の心情のあるところで奇跡は行われることはありません。

 

それは今日でも同じではないでしょうか。はじめから受け入れることもなく、驚くべき神の働きなど見物するだけのこと、それ以上ではないという受け止め方があるところでは奇跡が起こりません。

キリストはこの人を「村」の外に連れ出されます。ベトサイダは決して村というような小さな集落ではありません。ローマとかエルサレムのような人口の多いところではありませんが、とても「村」などとは言われないでしょう。寒村であれば、この用語もぴったりします。それはともかく、キリストはベトサイダの町の住民がキリストの大きな働きの目撃者となることを願っておられません。

 

【キリストの「手当て」】

キリストはこの盲人を、村の外に連れ出されます。そして、目に唾をつけ、両手をこの人の上に置きます。手を置くという行為は「手当て」という表現があるように、ひとつの治療方法でありました。キリストはこの意味では、治療を実施されたということになります。しかし、この行為はやはり奇跡に他なりません。単なる普通の治療ではありません。イエス・キリストは明白に奇跡を行われたのでした。

 

キリストは盲人に何が見えるかと尋ねられます。「人が見える」と答えます。木のようだが、歩いているのが分かります。よく考えて見ると奇跡は殆ど効果を表していません。ある注解者は、この目の見えない人がもともと全盲ではなく弱視であったら、殆ど奇跡が起きていないことになると断定をします。人なのか、木なのかが判別できないようではあまりキリストの行為は効果があったとはどうしても言うことはできません。こんなことでは癒されたことにはなりません。そのあと、第2回目のキリストの働きが行われてこの盲人の目は完全に開かれます。

 

【2回の業】

キリストは一挙に問題を解決するように奇跡を行われませんでした。2回もキリストは働きかけられました。最初のキリストの働きは効果を表わしませんでした。この盲人にとって切なる願いは見えることです。それが直ちに行われない。失望したことと思います。期待していたとおりにはなっていません。

 

私たちキリスト者もいろいろな重荷を背負っています。長い病気を背負っている人もいます。障害のある人もいます。事業がうまくいかない。学業がついていかない。突然の災害に見舞われた。人間関係がうまくいかない・・・いろいろな苦悩、悩みを味わっています。キリスト者であろうとなかろうと人生は労苦ばかりです。信者はさらに信仰のゆえの苦しみを味わっています。人生はさまざまな重荷を背負っていくものでしょう。そのとき、私たちは神に願います。労苦から解放してくださいと叫びます。ところが直ちに神は問題を解決してくださらない。

 

この盲人ははじめ何の効果も経験できませんでした。そこで彼はこの場所を去ることは可能でした。キリストは何もしてくれないという不満が生じたかもしれません。だから盲人はその場所を去ることもありえました。つまり、キリストともう何の関係もないようにすることです。そして話はそれで終わりということになります。

 

神は直ちに私たちの問題を解決してくれません。何も起こらないも同然の状態に任せられます。私たちも経験します。祈りは聞かれると信じ、祈り続けます。しかし何も起こりません。相変わらず苦しみは続きます。神は一体何をしているのかと、不満さえ漏らします。そして、神に背を向けてしまうことも珍しくありません。

 

【完全な癒し】

私たちは見ます。キリストは第2回目の行動をとり始め、結果は完全な癒しでした。キリストはこの盲人の目を完全に癒されました。ここから私たちが学ばねばならないこと、それは決して失望しないことです。キリストは最終段階まで助けのみ手を伸ばされる方です。

 

神は全能の神ですから一挙に、直ちに信じるものの苦しい状態から解放することもできます。しかし、そのわざは短期の内に完了するものではありません。キリストは意図的に直ちに助けのわざを完成されません。むろん、即刻解決されることもあります。けれども、多くの場合そういう方法を取られません.神は必ずその民を救われます。間違いありません。でも、私たちが要求すると直ちに言うことを聞いてくれる便利な方ではありません。

 

もし、私たちの願いを何でもかんでも速やかに実行されるだけならば、神は私たちにとって便利な存在だけに過ぎません。神はときに私たちをじりじりさせられます。神に不平をぶっつけたくなるほど神は動かれません。だから、私たちは「もう神は嫌いになった、神のことなど考えず、期待もしない」などと捨て鉢な言葉を発するようになってしまいます。そんなことがあってはなりません。

私たちは今すぐに期待が満たされなくても、ある期間が過ぎ去れば神は思いを超えて大きな祝福を味わわせてくださいます。

 

キリストは盲人の目を開きますが、村に戻らず、直ちに家に帰るように命じられます。これはベトサイダの人々、特に彼をキリストのところへ連れてきた連中に会わないようにするためでした。

 

【過去との決別】

なぜ、このようなことをされたのでしょうか。不信仰な人々と再び会わない、つまり奇跡を見せないためだと考えられますが、この人自身が元に戻らないためです。彼がキリストを信じてキリストのもとに来たのではありません。はじめ彼自身も癒しを信じてはいなかったのではないでしょうか。ところが彼は驚くべき神のわざにあずかりました。そのとき、彼は圧倒的な神の働きに心を動かされ、キリストを信じるようになったに違いありません。もう過去に戻ることはありません。過去との決別なのです。ただ直接家に帰るとは単なる帰宅ではありません。別の人間に変えられているのです。 (おわり)




2015年06月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年6月7日説教「まだ悟らないのか」金田幸男牧師

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説教「悟らないのか」金田幸男牧師

聖書 マルコ78:4-21

 

要旨 

【ファリサイ派と天からのしるし】

ファリサイ派はイエス・キリストに天からのしるし、つまり天変地異と言うべき大きな奇跡を見せろと要求します。むろん下心は、キリストにはそんな奇跡は行えないだろう、そうすれば民衆の信頼は失墜し、キリストがまことの救い主であるとの信仰は潰えます。これがファリサイ派の目論見であって、キリストをためし、試みることに他なりません。奇跡を見たら信じようと主張する人は多くいますが、奇跡があるなどとはじめから思っていません。だから、ただ信じないと言うことを公言しているのです。そのファリサイ派との論争を避けるためもあったと思います。イエス・キリストは船に乗り込み向こう岸、8:22によれば、ガリラヤ湖北岸の町ベトサイダに向かわれます。

 

【パンがひとつしかない】

 この船の中の弟子たちの会話のことが記されます。それはパンがひとつしかないという問題をめぐる議論でした。ここから弟子たちが何を論じ合ったか推測できます。先ず、責任追及であったと思われます。キリストの弟子団には財布係りがありました。それはイスカリオテのユダが担当していました。弟子たちの中には食料調達係もあったのではないでしょうか。弟子たちの集団は人数を増やしていったはずです。毎日のパンを購入する担当者が選ばれていて当然です。ところがキリストの出発が急なものでしたからパンを購入する時間がなかったのでしょう。しかし、これは言い訳にはならないかもしれません。予め心を砕いているべきでした。それから、事態を打開するためにどうしたらいいのかという議論があったと思います。

 

船を岸辺に寄せてそこでパンを買い求めるべきだ。いや、ベトサイダまで辛抱すべきだ。とにかく今は腹がすいてたまらない状況であったので雰囲気はよくなかったはずです。当面の難題を解決するためにどうしたらいいのか。弟子たちは真剣に論じ合っていたのではないかと思います。問題が起こると必ずといってよいほどの論議とはこういうものではないでしょうか。なぜこの問題がおきたのかという原因の解明、そのなかには責任者の追及も含まれます。それから事態解決のための議論。ああでもないこうでもないという堂々巡りに陥ることも珍しくありません。延々と論じ合っているけれども結論は出てこない。

 

【ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ】

 このような弟子たちの議論を傍らで聞いていたイエスは、まるで文脈から外れたようなことを語りだされます。

 ファリサイ派とヘロデのパン種に注意せよ。この場合のパン種=イースト菌は何を意味しているでしょうか。あまりいい意味で使われていませんが、聖書の中でのパン種はあまりよく思われていません。例えば、ガラテヤ5:9ではパン種は真理から逸らせるものとされています(1コリント5:6-8も参照のこと)。このことは旧約聖書の出エジプトの際の、過越と関係すると思われます。エジプトで奴隷状態で苦しめられていたイスラエルはモーセに率いられて脱出することになります。そのとき、神はイスラエルの人々の旅の食料としてパンを持参させられますが、その場合、パン種の入っていないパンを作れと命じられます。除酵のパンといいます。なぜ除酵のパンを持って行けと命じられたのか。イ-スト菌を入れたパンは膨らみ、柔らかく香りもよく、味も格別のよくなります。ですからこれだけ見ればイースト菌は有用な細菌といえると思います。しかし。エジプト脱出と言う緊急事態ではのんびりしておれません。イースト菌で発酵させるのには時間がかかりすぎます。また、イースト菌の発酵の管理は容易ではなく、失敗すればパンは酸っぱくなり、食用には相応しくなくなります。このような理由で本来は有益でありますが、聖書ではイースト菌はよくないものとして扱われます。

 

 ところで、ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種とは何を意味しているでしょうか。ファリサイ派はイエス・キリストに奇跡を要求しました。ヘロデの場合も奇跡を求めたことが記されています(ルカ23:8)。キリストの裁判のときヘロデは同席します。キリストに興味を持っていたのですが、それはキリストを信じるところから出てきた思いなどではありません。興味半分、好奇心から出たものです。パン種とは明らかにキリストに奇跡を要求すること、そしてその要求を出している心根のことであることは明らかです。ファリサイ派もヘロデもキリストなどくだらない人間だとしか見ていません。奇跡を求めるのは信仰からではなく、むしろキリストへの疑い、不信から出てきたものです。

 

奇跡、しるしを求めるのはキリストをためすため、もっと言えばキリストに力などないということを立証せんがためです。キリストに奇跡を要求するのはキリストを心も誘惑するためでした。キリストはファリサイ派やヘロデの内心をよく見抜いておられました。決してキリストに大きな期待を抱き、信仰をもって対応することなどありえません。

 

 このようなファリサイ派やヘロデのようになってはならない、注意せよと警告されています。弟子たちはパンがひとつしかないことを論じ合っていました。当面パンをどうするか。腹の問題だから深刻です。私たちは何を食べようかと心配し、果たして食べることができるかと心配をしています。その弟子たちにファリサイ派やヘロデのようになるなと警告しておられます。パンがひとつしかないことを論じ合っている状況はファリサイ派やヘロデがキリストに奇跡を要求する状況と同じなのです。

 

 ファリサイ派の過誤はしるしを求める思いの背後にあるキリスト不信でした。これこそパン種でした。このイースト菌がパンを膨らませ、結局限界を超え、食用には不適にしてしまうように、しるしを求めることは神に嫌われてしまう結果を招きます。それは不信と言う点で共通します。

 

 キリストは続いて疑問形で言葉を連発されます。見ていても見ないのか。聞いていても聞かないのか。おぼえていないのか、記憶にないのか。キリストはこのようの言われて弟子たちを叱責しているのだと思います。何を叱責しているのか。それは見なければならないものを見ておらず聞かねばならないことを聞いていない状態を批判されるものです。

 

 私たちは現実に目を奪われます。起こっていることに右往左往します。目の前に起こっている現象に心が奪われ、混乱したり、失望したり、怒ったり、嘆いたりして落ち着きません。時にはもうだめだと諦め、時には事態を招来した原因を追究ばかりしています。世間が悪い、誰それが悪い、時代が悪い。場合によっては自暴自棄になってしまうこともあります。

 

【事柄の本質を見極めよう】

 しかし、それは表面だけ見ているのであって、真実の問題点は見過ごしています。若いころ、わたしの信仰を導いてくださった先輩はいつもこのように言われました。物事の本質がどうなっているかを見なさい。時代の態勢はある方向に向かって進行していくでしょう。圧倒的多数が流れを作り出しますと、バスに乗り遅れるなと言う叫びが湧きあがります。こうして国家自体が間違った方向へ突き進んでいくと言うことは起きるべくして起こります。出来事の表面だけ見ていてはそうなってしまいます。世相とか時流とか、ひとつの方向へ集団が流れていくとき、問題の本質を見極めて大勢に流されることのないようにしなければなりません。だから、私たちは事柄の本質を見極める必要に迫られています。

 

 キリストはここで何を見よと言われているのでしょうか。見ていながら見ていない。聞いていながら何も聞いていない。すっかり起きたことを忘れている。キリストはこのように叱責されて、先だって行われた多くの群衆にパンを食べさせる奇跡を思い起こさせておられます。

 パンはひとつしかない。どうするか。弟子たちは先だって起きた奇跡を思い起こすべきでした。

 

ファリサイ派は奇跡を要求しました。ヘロデも同じです。弟子たちは奇跡を求めていません。むしろパンがひとつしかないことに心が向いています。船の中にはキリストがおられます。キリストならどうされるでしょうか。キリストに求めたときどうなるでしょうか。

 キリストはこのパンひとつでも奇跡を行うことができる方です。そのキリストを全然見ていないのが弟子たちです。ファリサイ派もヘロデもキリストを信じてはいません。パンがひとつしないことで論じている弟子たちの前にキリストがおられます。

 

【5000人、4000人を食べさせたキリスト】

 弟子たちが見なければならないのはひとつのパンではありません。パンをめぐって議論などしても意味がありません。しなければならないことは、5000人、4000人を食べさせたキリストを思い出すことです。

 見なければならないこと、聞かなければならないこと、それはパンがひとつしかないという事実ではありません。むしろ、見なければならないのは、同じ船の中にいるキリストです。目で見るべきはキリストです。茫漠としてみるのではありません。必要ならば奇跡を起すこともできるキリストをその心に思い浮かべることです。目で見るべきは助け主キリストです。私たちは信仰を持って見なければなりません。キリストが何をしようとされているのかを見極めることこそ、私たち

がしなければならない選択です。

 ファリサイ派の要求にはキリストは応えられていません。弟子たちにはどうでしょうか。キリストはパンがひとつしかないことで論争している弟子たちに一挙に解決できる方のいることを示しています。事態をどう解決するかそれだけを見ていると何も解決策は出てきません。ではどうするか。キリストに私たちは信頼を寄せることを求められておられます。キリストならば何事もおできになるという一点に視点を集中するべきです。(おわり) 

2015年06月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書