2015年5月17日説教「二重苦からの救い」金田幸男牧師
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聖書 マルコ7章31-37
要旨
【異邦人(外国人)伝道】
今日共に学びたいと願っている、耳が聞こえず、ものも言えないひとの癒しの記事はマルコだけが記しています。なぜマルコがこの記事を記載したのでしょうか。考えられることは、直前の24節以下で、シリヤ・フェニキアの女性の娘の癒しが記されていましたが、彼女は文化、民族、言語の上で異邦人、外国人です。外国人はユダヤ人から見れば救いから離れているものたちと見なされていましたが、キリストはそのような人たちにも神の大いなる御力を示さます。この異邦人への働きは一回限りではなく、繰り返してなされたことをマルコは語ろうとしていると思います。
【ガリラヤ湖】
マルコはイエス・キリストがティルス地方から、シドンを抜けてデカポリス地方を回って行かれたとありますが、これらは異邦人の住む地域です。シドンはティルス地方から北にあるフェニキアの有名な港町、デカポリスはアレキサンデル大王の将軍たちが建設した10のギリシヤ風の町のあったヨルダンの東の地域です。これらの地域をキリストはただ通過しただけとは思われません。これらの地域でも御言葉を語りしるしを行われたと想像できます。そして、ガリラヤ湖にやって来られたとありますが、ガリラヤ湖周辺の異邦人居住地域と想像することは可能です。キリストは異邦人に大きな働きをなさいます。そのひとつがここに記された二重苦の人の癒しであったと考えられるのです。
【耳が聞けず、舌の回らない人】
人々がこの人を連れてきます。耳が悪い人は、自分の声を聞き取りことができないために、特別に訓練をされていなければ正しく発声発音ができません。声帯や舌は正常な機能を持っていてもしゃべれないのです。耳が聞こえない障害と、機能がありながらそれを使えないという障害を抱えています。それは二重苦と言ってもよいものです。機能や能力があってもそれを使うことができない、それは人間として苦しい状況です。このような事態に追い込まれている人がいます。
【手を置いてやって欲しい】
人々は手を置いてやって欲しいと申し出ます。手を置く行為は「手当て」と言う表現がありますように、古代世界では医療者の行為でありました。今でもただ触れるだけで痛みが収まったり、和らいだりすることは珍しくありません。医療行為だけではなく、祝福を求めることも表わします。教会で役員に任職するときは先任の役員が手を置きますが、それは聖霊が降ることを願う象徴的な行為であると共に、実は役員に神の祝福を願い求める行為でもあります。そこで与えられる祝福は特別なものに他なりません。マルコは手を置いてやって欲しいとだけ書きますが、むろんここでは癒して欲しいということであり、また障害を取り除いて欲しいという意味でもあります。
ところで、マルコは「舌の回らない」と言う表現をここで用いています。ここで使われている言葉は、新約聖書ではここだけで、しかもギリシヤ語訳旧約聖書では、イザヤ35章5で用いられています。これは偶然ではなく意図的にこの単語が用いられたと考えてよいのではないでしょうか。
イザヤ35章は有名な、よく知られている預言です。少し長くなりますが、引用をします。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(4-6)
イザヤはこの他、荒れた地、砂漠が回復するとも語り、また野獣の住むところが人間の居住適地となるとも語ります。新しい天、新しい地の出現です。暗黒と悲惨が支配していた世界に代わって神の再創造された世界は新天新地になります。
マルコは余り使われていない言葉を用いることで、ここで起きていることが特別なことであると主張しています。
【救いとは何か】
救いとは何か。私たちはいろいろのほう面から救いを考えることができます。ここでは、新しい世界の再創造を見ることが出来ます。あるいは古い世界の再生ともいえるかもしれません。神の救いは創造されたこの世界の刷新であり、再生であり、再創造なのです。
イエス・キリストがここでなされたしるしは世界の再創造の働きと見ることが出来ます。それは驚くべき神の働きに他なりません。事実37節でキリストのみわざを目撃した人たちは驚き、その働きをとても素晴らしいこととたたえています。それほどまでにキリストのなさった働きは偉大であり、神の救いの完成を現すものでありました。異邦人に対するキリストの働きは、ただユダヤ人の救いの余りものを与えると言う程度の奇跡ではなく、救いの完成という神の働きを指し示す重大なみわざであったのです。
連れて来られた人に対してキリストのなさった行為が比較的詳細に記されます。その意味でここは大切な個所ともいえます。マルコはなぜこんなに詳しく記したのだろうかと思われます。詳細に記すのは、目撃証言であったことを示します。この場面を目撃したのはむろん弟子たちです。
その一人、ペトロの証言が基礎ととなってこの個所が記されたと考えてもよいと思います。ペトロがマルコに資料を提供したと考えられます。もうひとつは、詳細と言っても厳密に微細に記されてはいません。ただ、キリストのなされたわざが克明に書かれることで、二重苦にあえいでいた人に対するキリストの憐れみが明瞭にされます。生き生きとそれが伝わってきます。
キリストは手を置くように求められましたが、それ以上のことをなさいます。先ず、キリストは耳に指を差し込まれます。塞がれていた耳が開きます。舌に唾をつけます。舌が動くためです。キリストはこの人に接触して、奇跡を行われます。
そして、天を仰いで深く息をついたとあります。息をはーと吐く行為です。天を仰ぐとは祈りの姿勢でありますが、単なる祈りの姿勢ではありません。息はしばしばいのちを表すものとされます(創世記2:7)。その息を吐き出すとは精魂を込めて神に祈ったと言うことを示します。キリストは形式的に祈りの姿勢を取られたのではありません。全身全霊を込めて祈られたのです。
相手が異邦人であろうとキリストは軽く扱われることなどありません。必死にキリストは祈られたのです。エッファタという言葉を発せられています。これは当時この地域で使われていた言語であるアラム語です。新約聖書にはいくつかのアラム語やヘブル語が残されています。なぜ、このような言葉が新約聖書に収録されているのか。考えられることは、このようないくつかのアラム語、あるいはヘブル語が教会の中に保存されていたということです。教会では使徒たちがキリストから聞いた言葉、あるいはみわざを口伝えに伝えていたと思われます。「キリストはあの時、このようにおっしゃった」とか、「キリストは私たちの前でこれこれしかじかのことをなさった」と教会で語っていたのだろうと思います。それが文書として残されたものが福音書であると考えられます。伝達される内容には、キリストが使われていたであろうと考えられるアラム語がいくつかそのままに保存されていたと思われます。それは重要な場面であったり、特に聞き手に印象的な場面であったりすると考えられます。
エッファタはそれ自体特別難しい意味はありません。開けよ、と言う意味です。マルコは外国人読者を意識してわざわざ翻訳をしてくれています。二重苦に苛まれている人をキリストは癒されます。この場面に居合わせた人たちは特別な印象を受けたに違いありません。
開け。口が開くと言うだけではありません。そこにはそれ以上の大きな意味が込められていると考えてよいのではないでしょうか。
【障害のある人】
ここでは耳が聞こえず、ものを話すことができないという障害を背負う人の癒しが記されています。神はどうしてこのような障害のある人を創造されたのか。これは大きな疑問です。世界を創造された神はどうしてこんな障害のある人を創造されたのか。神は不公平ではないか。このように思う人がいると考えられます。障害だけではありません。病気もそうです。健康な人が一方ではいますが、病を何重にも背負っている人がいます。経済的困苦、社会的な差別を受ける人、あるいは、精神的な労苦を負う人。この世界にはいろいろな人が苦しんでいて、その苦しみは他の人に比べて何倍も大きく、何重にも苦しみを背負っています。なぜなのでしょうか。
【人の重荷と救い】
なぜ神はこんなに人をひどく扱うのでしょうか。
人は何とか原因を追い求めます。運命のせいにする人がいます。あるいは、偶然の所産と諦める人もいます。あるいは遺伝と言うか、父母からもって生まれた悲運とみたり、責任を両親や祖先に帰する人もいます。そうすることで自分に納得したり、できなければ世間を呪い、世間を誹謗します。この時代にすねてみたり、なるに任せて自暴自棄になります。こういう解決では何にもなりません。そこで現在は自己責任という主張も出てきましたが、それで私たちの心が安んじるわけではありません。
確かに私たちは不幸や災いの原因を人間の罪に帰することができますし、それが答です。しかし、神は人間の罪の結果、二重苦、三重苦にあえいでいる状態を放置されているのではありません。まして、神から離れ背を向けている報いだとして、ざまあ見ろとせせら笑っている残酷な神ではありません。そんなことは決してありません。
神は救いの完成を目指しておられます。キリストがここでなされた奇跡はその日の到来を予測させるものです。その日は分かりません。しかし、神はその日をすでに備えておられます。キリストの働きはこの日を明確に示すものです。私たちはその日の到来を期待します。そのとき、あらゆる苦しみは消滅します。私たちは今は二重苦や三重苦を背負うとしても神は必ずそのとき確実に解放して下さいます。(おわり)
2015年05月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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