2015年5月3日説教「人を本当に汚すもの」金田幸男牧師
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聖書 マルコ福音書7章14-23
要旨
【言伝えにもとずく偽善】
ファリサイ派と律法学者はイエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見て、非難の材料を見つけ出しました。しかし、キリストは彼らの非難の根拠が言い伝えに基づくと喝破し、そのように言い伝えを根拠にユダヤの民の宗教生活、ひいては日常の生活を規制し、それによって敬虔な、あるいは信じ深く見せるのは偽善であると語られます。偽善とは、俳優が演技をすることを意味する言葉から出ているそうです。悪人を演じる俳優が悪人であるわけではありません。偽善は、見せ掛けの善人、義人を振舞う言行であって、キリストは言い伝えで善人を装いながら神の御言葉をないがしろにし、神の律法を軽んじる偽善的な行為を非難されます。
そのもうひとつの偽善の実例を挙げられます。コルバン(神への供え物)と宣言すれば、両親に与えなければならないものでもそうする必要がないという巧妙なやり方が考案されます。これこそ偽善の最たるものと言わなければなりません。
【汚れと聖潔】
キリストは汚れの問題をもう一度取り上げられます。汚れの問題はユダヤ人にとっては重要でした。汚れの問題は汚れない状態、つまり聖潔、聖さの問題でもあります。汚れを避け、聖さを求める。これは今日でも多くの宗教の課題ですが、ユダヤ人にとっては最重要問題でありました。
【汚れた民】
汚れにあずかる人は汚れたものと見なされます。キリスト時代のユダヤ人のなかでは、羊飼いも収税人もこの類と見なされました。そして、「地の民」などと蔑視されました。聖書では「罪人」と称されます。犯罪人でもないのに汚れているものと見なされたものは罪人とされたのです。汚れたものは神に近づくことができないとされます。それはユダヤ人にとっては恐るべき位置づけです。
神に見離されたものだからです。ですから、汚れから離れ、近づけないこと、それは敬虔なユダヤ人には特に注意しなければならない課題なのです。
特定の病気になった人、汚れているとされる身分に属したり、職業に従事している人は汚れているとされます。これこそ今日でもさまざまな領域で現実に生じている深刻な問題の根っこにあるものです。汚れの問題はユダヤの宗教だけではなく、多くの民族の宗教生活において大きな役割を示しています。それは慣習となり、社会的な拘束力を持つようになり、汚れていると見なされた人は排除され、制裁を受けることも珍しくありません。
【見かけの聖さ】
ですから、聖くあることを追求する熱心も大きくなるはずです。聖さを求めて、煩瑣な儀式が生まれ、その儀式に参加することで聖性が保たれると主張されるようになります。その聖性を獲得したものは尊敬されます。ファリサイ派や律法学者が追い求めたのはこの聖性でした。そのために、いろいろな発明が工夫され、それが実践され、いつの間にか言い伝えとなって伝えられていきます。聖くあるためにどうすればいいのか。詳細な体系が生み出されていきます。ユダヤ人の宗教はこのようなさまざまな言い伝えに基礎付けられています。
タブー(禁忌)は私たちの社会でも大きな影響力、あるいは拘束力を振るっています。豚肉を汚れているとする宗教の信者のために特別に調理した食品が必要とされます。豚肉を料理した道具や食器は使用されてはならないとされます。このために、観光客を誘致したい観光業者は四苦八苦しています。豚肉をタブーとする信者にとってはどうでもいい問題ではありません。タブーはそれ自体不合理だといってしまえばそれまでですが、多くの領分で避けることができない問題となっています。決して軽視することができないような深刻な結果を生み出しています。
私たちの国は一見すれば宗教色の少ない国とされていますが、日常生活の根底にはこのタブーは根強くはびこっています。汚れなどまったく不合理であることは誰もが承知しながら、その汚れを避けるためにどんなに多くの精力が注がれているか。聖性を獲得するためにどんなに過大な努力が試みられているか。
【旧約聖書と汚れの問題】
ユダヤにおいては汚れの問題は聖書の重要なテーマです。例えば、レビ記10章―14章は重い皮膚病が汚れとされます。15章は人間の体液の漏出を扱います。死体に触れても汚れるとされます(レビ11:24-28など)。祭司の場合は身内の遺体にも触れることが禁じられます。むろん汚されるからです。汚れの問題は神の掟ですからこれを軽んじることは許されません。ユダヤ人がどうして汚れの問題を重視したのかその根拠はここにあります。汚れを避けることにユダヤ人は最善を尽くそうとしています。それは神の民であることの必須の条件とされたのです。だから汚れを避けることは必死に実現すべき目標でありました。
【キリストと汚れの問題】
キリストは汚れの問題を軽んじられたはずがありません。聖なることを求め、汚れを避けることは聖書の立場です。キリストがこのような重大な問題を無視されるはずがありません。キリストの弟子たちも聖なる者とならなければなりません。しかし、キリストは汚れの問題をまったく別の視点から見ておられます。それは革命的と言ってもよい視点です。
どういう視点でしょうか。食物そのものが人を汚すものではない。口から入って消化され、排泄されるものが人を汚すことはない。つまり、ある特別な、汚れているとされる動物の肉を食べてもそれが人を汚すことはない。このみ言葉はユダヤ人にはまったく驚きでしかなかったはずです。どのような食べ物も人を汚すことはない。口から入り、消化されて排出される食べ物自体は聖いと言われます。当然のことながら、人間の体から出る体液が人を汚すこともありません。衛生上、汚いものは存在します。腐ったもの、悪臭を放つもの、形の上で醜悪なものはあります。そのような人間のからだが作り出すものが人を汚すのではありません。
宗教的には、つまり霊的には食物も、漏出物も人を汚しはしない。これは多くの宗教にとってはその根本をひっくり返すだけの原動力となるような主張になってしまうはずです。汚れから清めるプロセスこそ多くの宗教の存立基盤と言ってもよいと思います。汚れを洗い清めるためにどうすればいいのかを提示するのが宗教だとすれば、キリストの言葉は革命的響きを持っています。
キリストはそれでは何が人を汚すとされるのでしょうか。汚れをいかに避けるべきは聖書の重要な主題です。汚れはどうすれば清められるのか。キリストはもちろん汚れの問題を軽視されてはいません。
それは神の掟です。神の律法は守られなければなりません。しかし、キリストの教えはファリサイ派や律法学者、というよりも、当時のユダヤ人の理解とはまったく異なりました。汚れを避けるべきことは神の掟そのものです。しかしながらここで考えていただきたい。なぜ、それは汚れているのか。考えてみれば神が命じる理由など分かりません。豚という家畜がどうして汚れているのか合理的な解決策は見当たりません。なぜ神がそんなことを命じられるのかすべてが分かるのではありません。
【重要なのは神の命令に服従すること】
人間が創造されたとき善悪を知る木から取って食べてはならないと命じられました(創世記2:17)。善悪を知る木がりんごであったという伝説もありますが、どんな種類の木であったか分かりませんし、余り神の命令には関係のないことです。問題は食べるなという命令にあります。アダムとエバにとって重要なのは神の命令に服従するかどうかでした。そこでは服従、従順を求められていたのです。しかしながら、アダムとエバがしたことは神の言葉を破ることでした。これが罪といわれ、違反とされるものです。汚れの律法の問題も同じです。追求すべきは、タブーの遵守ではありません。神の前に聖くあることを求められたのです。神に従順であることで聖なるものであることができるのです。
人を汚すのは食べ物ではありません。では何が人を汚すのか。それは人の心から出てくる悪い思いだとされます。人から出てくるものが人を汚します。正確に言えば人の心から湧き上がってくるものが人を汚します。悪しき思いです。
その悪しき思いから出てくるものが列挙されています。ひとつひとつ説明することは避けます。実践されない、心の状態も含まれています。むろん実行される悪、罪もあります。性的な邪悪さに関わる罪が3個もあります。人を汚すのはこのような人間の邪悪さなのです。罪こそ人を汚す原因なのです。この問題が解決されなければ人は聖くなることはできません。悪い思いこそが人を汚します。この罪がもたらす汚れは罪そのものが解消されなければなりません。罪そのものはどうすればなくなるのでしょうか。人間はどのようにしても罪を拭い去ることはできません。人は生まれたままにある限り罪を避けることができません。つまり、人間は汚れた存在であり続けます。
どうすればこの罪の結果である汚れから解放されるのか。どんな宗教でもこの汚れの解消法を教えるはずです。多くが儀式によるとされます。しかし、どのような儀式もこの汚れを洗い清めることはできません。この聖性を取り戻すためにいかに宗教は膨大な体系を作り出したか。キリストはこの汚れをどう解決しようとされたのか。ここにキリスト教信仰の真髄があります。
【十字架の血潮は、罪と汚れを完全に洗い流す】
キリストはご自身が十字架につけられました。それは、罪に対する神のさばきを受けるためでした。キリストは十字架の上で死ぬことで、罪の問題を解決されました。つまり、汚れをもたらす根本問題を解決されました。もはや、神の前で私たちには汚れをもたらす原因はなくなったのです。神の前で私たちは聖なる者とされたのです。私たちはこの世に生きている限りは汚れを完璧になくすことはできません。しかし、私たちはもうすでにキリストに導かれて聖なる者なのです。そして、私たちの終わりのとき、完全に聖なるものとされる希望に生きることができます。(おわり)
2015年05月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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