2015年5月10日説教「救いの拡大」金田幸男牧師

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説教「救いの拡大」 金田幸男牧師

聖書:マルコ7:24-30

 

要旨 

【ティルス地方に行かれた目的?】

イエス・キリストはティルス地方に行かれたと記されています。ティルス地方は現在のレバノンの南部一帯を指します。現在も人口が1万人弱の都市として存続していますが、古くからの港湾貿易都市で、紀元前2000年代には町がありました。初めは海岸地帯にありましたが、のちには地中海にあった大きな岩盤の上に都市が築かれます。この構造は難攻不落の都市と評価されましたが、その都市の豊かさのゆえにしばしば外国の侵略を受けています。

 

 イエス・キリストが何のためにティルスに行かれたのか記しされていません。結果として異邦人伝道の機会となったのですが、当初から異邦人伝道を目指してはいなかったと思われます。それは、キリストがティルスの、とある家に入られますが、誰にも知られないようにしていたとありますから(24節)、異邦人にも知られたくないということです。どうしても異邦人伝道が目的であったと思われません。だから、ティルスのユダヤ人を相手に伝道する意図があったかもしれません。しかし、マルコは何も記していません。分からないことは分からないままにしておく。これも聖書の読み方かもしれません。分からないことがあるとそれからまったく先に進めないかのような聖書の読み方をされる方がありますが、それは少なくとも「利口な」読み方とは思えません。

 

 キリストはガリラヤから、徒歩、あるいはせいぜいロバに乗って行かれたと思います。今日なら車で1,2時間でしょうけれども、当時は数日かけて旅行をしたと思います。それまでしてティルスで何をしようとしていたのか分かりません。

 

【シリヤ・フェニキア生まれの異邦人女性】

 キリストのうわさはすでにこのティルスにまで広がっていました。イエス・キリストは力あるわざを行っておられました。そのうわさは伝聞で口伝えに伝わっていました。当時はこの方法が一番一般的でありました。うわさはユダヤ人だけではなく異邦人にも伝わっていました。

 このうわさに反応した人の中にひとりの女性がいました。彼女について知られることは先ずギリシヤ人であったという点です。これはギリシヤ系の民族ではなく、ギリシヤ語を語る文化圏に属していたという意味であったと思います。シリヤ・フェニキアの生まれとありますから、アラム人=シリア人であったと考えられます。ユダヤ人と同じくセム系の民族ではありましたが、ユダヤ人とは歴史的にはライバル関係にありました。またシリアはローマの属領、シリア州であり、ガリラヤとは異なった政治的な立場にありました。つまりこれから知られることはユダヤ人から見ればまったくの異邦人、外国人でありました。宗教上はもちろん、文化的にも政治的にもこの女性はユダヤ人から見れば異邦人であり、ということは神の救いからは縁遠いものに他なりません。

 

【汚れた霊につかれた娘の癒しを願って】

またそれはユダヤの宗教に関しては殆ど無知であったと考えてもよいでしょう。もうひとつの点は娘が汚れた霊につかれていたということです。しかし、これも曖昧です。悪霊につかれていたとありますが、どういう症状であったのか分かりません。ある人はてんかんのような病気であったと想像します。ただ、病気は何でもかんでも悪霊のせいというのではありません。古代エジプトの医学書が残っていますが、病名は現在と多く共通していますし、その病気の治療法も、薬剤(薬草)や簡単な外科手術でした。悪霊に原因が帰せられているのは僅かなのです。難治の病気が悪霊のせいとされています。この女性の娘の病名は分かりませんが、かなり治療困難な病であったと想像できます。それだけに娘のことを思うといても立ってもおれない気持ちになっていたと思います。

 

 この女性はイエス・キリストのうわさを聞いてやってきます。キリストが悪霊を追い出しているといううわさです。しかし、彼女はイエス・キリストのことを詳しく知ったわけではありません。知っていたのは悪霊を追い出す力を持つものだということだけであったでしょう。イエス・キリストがどういうことを教えていたかは知らなかったと思われます。ただ子どもの苦しむ姿を見て何とかしたいと思い、イエス・キリストのうわさを聞いてキリストの居所を探し出してやってきたのでしょう。

 

 彼女はキリストの足元に平伏します。この姿は最大級の敬意を表すものです。この行動に彼女の必死の思いが現れています。そして、この行為は宗教的な意味さえ持っています。それは礼拝行為に類するものでもあったのです。ギリシヤの文化圏ではしばしば人間が神的なものとして礼拝されていました。ローマ人も同様でした。偉大な人物、行為の人物を神として崇めることは珍しいことでありませんでした。彼女は深く考えることなくイエス・キリストに最大級の敬意を示しました。

 

 キリストはこのような態度をもって平伏す女性に対して直ちにその願いを聞き入れられたかというとそうではありませんでした。それほど必死の思いできたのです。すぐに反応されてもしかるべきでした。しかし、キリストの態度は私たちを驚かせるものです。

 

【子どもと犬】

 キリストは婉曲的に彼女の申し出を退けられているかのようです。キリストの言葉で、子どもはキリストの同胞であるユダヤ人を指していることは明らかですし、犬は外国人であることは分かります。このようなイエス・キリストの言葉を前提にやり取りが続けられます。

 

しかし、犬という動物が当時どう見られていたかを知ると話しはそう簡単ではありません。犬は聖書の世界においてはあまり評判がよくありません。お前は犬というとそれは激しく侮辱する意味になります(サムエル上17:43)、死んだ犬は汚らわしいとされています(サムエル上24:14)、犬は聖なるものを理解しない(マタイ7:6)間違った教理の信奉者(フィリピ3:2)、罪の生活をするもの(2ペトロ2:22)は犬に比されます。これはユダヤ人の中で通用する言い方ではあるでしょうけれども、異邦人であるこの女性も自分が犬と言われていると知れば激怒しても不思議ではありません。最大級の侮辱の言葉です。

 

こんなことを言われて腹を立てないはずがありません。異邦陣人世界でも犬の大半は野良犬、野犬でした。自分を犬というようなイエスを嫌い、関係を持たないようにしても当然のことです。ところが彼女は引き下がりませんでした。

 

 キリストがどうしてこんなことを言われたのでしょうか。大変ひどい言葉です。キリストがこんな非道なことを言うはずがないと思う人がいるかもしれません。

 

 キリストは当時のユダヤ人が抱いていた一般的な異邦人への考え方を語っていることは確かです。しかし、それは本心からか、というと決してそうではありません。キリストは結果としてこの女性の娘を癒されます。しかも、娘が近くにいないところで悪霊を追い出すという奇跡を行われます。マルコ福音書では距離が離れているところにいる人を癒されたのはここだけです。それだけここでなされた奇跡は大きなキリストの働きであることを証言します。そこまでなされたのですから、キリストが異邦人を排除していたなどと考えることはできません。むしろ、キリストは相手が異邦人であろうと区別なく憐れみを示されます。

 

【なぜキリストはひどい言葉を】

 ではなぜキリストはこんなひどい言葉を語られたのでしょうか。このような経験は私たちもするところです。神は私たちにいつも暖かく優しく、慈しみに満ちているようにだけ接してくださるのではありません。逆の場合もあります。大きな病気になったり、大きな災害に巻き込まれたり、思わぬ事故をあったりします。私たちの人生には不幸の種はつきません。そんな時私たちは嘆きを神に吐き出さざるを得ません。なぜこんなひどい目にあわせられるのか。どうしてこのような苦しみを味わわせられるのか。神にこのように訴えるしかない経験のしばしばあります。大きな試練を経験します。神は私たちをあたかも見捨てられているとしか思えない。神とは憐れみ深い御顔をいつも向けており、私たちはそのやさしさに心が豊かになる・・・私たちは神をそのように見ています。なぜ神が・・・という思いに耐えられないのです。

 

 神は私たちを見捨てられたかのように思うこともしばしばありますが、だからといって、神は私たちを憎み、ひどい目にあわせ、その上でせせら笑っているような残酷な神を決して想定できません。神はいつも最善を行ってくださる方です。

 

【子犬でも食卓からこぼれるパンくずにあずかる】

 シリア・フェニキアの女性もまた簡単に引き下がりません。彼女は、犬でも食卓からこぼれるパンくずにあずかることができるはずだと反論します。彼女はユダヤ人と異邦人の関係を少しは知っていたと思います。ユダヤ人は当時各地に散在していました。そういう関係にもかかわらず彼女はキリストに期待をしました。キリストから是非とも憐れみを受け、娘の悪霊を追い出して欲しいと期待をしました。キリストが見捨てておられるかのように思わざるをえない中でも、彼女は望みを失いません。これが信仰です。神は必ず期待に応えてくださるという望みを失いません。

 

 家に帰るとこの女性の娘は癒されていました。ベッドの上で元通りになっていました。神の救いは国境や文化圏の違いで阻まれることはありません。異邦人にも救いは及びます。キリストが十字架にかかられ、よみがえられるまで積極的に異邦人に福音を宣べ伝えられませんでした。それは時が満ちるまでの父なる神の意志であったからです。しかし、だから異邦人に一切福音を語らない、大きなわざをおこなわないとされていたのではありません。キリストは機会があれば積極的に異邦人にも福音を語られます。距離が離れていてもキリストは奇跡を行われました。今日天と地上の間ははなはだ大きいのですが、キリストはそんな距離など臆することなく今もなお同じように奇跡をおこなわれる方です。だから同じく期待をしましょう。 (おわり)


2015年05月10日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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