2015年5月

2015年5月31日説教「天からのしるし」金田幸男牧師

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説教「天からのしるし」金田幸男牧師

聖書 マルコ8章1-4

 

要旨

【キリストを「試す」ため】

 キリスト一行はダルマタヤ地方に上陸されます。現在ではそれがどこであったか不明ですが、同じ記事が載せられているマタイ15章39ではマガダン地方とあり、それがマグダラのことであろうと考えられています。マグダラはキリストの女弟子であったマグダラのマリヤの出身地で、カファルナウムとティベリアの間にある町です。キリスト一行はおそらくガリラヤ湖の西岸に着いたのだと思われます。そこにファリサイ派の人たちがやってきます。同じ記事が記されるマタイ16章1-4ではサドカイ派も一緒であったとされています。普段は敵対する関係の両派がキリストのところへやってきたのはキリストを「試す」ためでありました。

 

この「試す」はマルコ1:13の「誘惑」と同じ言葉です。サタンはキリストを荒野で誘惑しますが、その誘惑はそれで終わったのではなく絶えず手を変え品を変えて続いてということを示しています。

 

【天からのしるし】

 ファリサイ派が求めたのは「天からのしるし」でした。しるしとは奇跡であることは間違いありません。天からの奇跡ですから、おそらく壮大で絶大な奇跡、言語を絶するほどの奇跡のことでしょう。神が実行なさる最大級の奇跡。天変地異のようなものが想定されていたのでしょうか。山が二つに割れる。星が落下する。地上のものがなぎ倒される暴風。あるいは大洪水、火山の噴火、大地震。おそらくそのような誰も経験したことのないような大きな奇跡を行なえとイエス・キリストに要求しています。むろん、それはキリストを試みるためです。

 

 ファリサイ派は今までの奇跡を経験しなかったとは思えません。今までキリストは病人を癒し、悪霊を追い出し、何千人もの群衆に少ないパンで腹を満たし、湖の上を歩かれました。そのすべての目撃者ではありませんでしたが、いくらかは見聞していたのではないでしょうか。そのような経験は一向にファリサイ派の考え方を変えることはなかったと思われます。奇跡を目撃した。それは稀有な経験ですが、彼らにはイエス・キリストへの恐れも敬いも生じませんでした。かえって反感なり疑いなりを生み出したようです。

 

 どうして奇跡を見たのに変化がないのでしょうか。当時の医学には呪術的なものも含まれていました。まじないもれっきとした治療法の一つであってみれば、ファリサイ派にはキリストのなさった奇跡はその類のものでしかありません。つまり、少々不思議であってもさほどびっくりするほどのものではない。だから、ファリサイ派が奇跡を見たからといって彼らの心を変えることがなかったと想像できます。あるいは、奇跡を見てもキリストへの反感が圧倒して、キリストへの考え方を変えられず、ひいては疑いを帳消しにできなかったともいえるでしょう。

 

 たとえそこで奇跡が行なわれていても、キリストへの疑い、反感がまさって、奇跡そのものになんら感動もしないということは起こりえます。頭から信じないかたくなな思いが奇跡と言う事実を捻じ曲げてしまうこともありえます。

 

 ファリサイ派にとっては、キリストは議論の対象でしかありません。むろん友好的な議論ではありません。キリストをないがしろにし、引き摺り下ろそうとする議論です。キリストがどんな権威を持っているかどうかを議論し、その権威が疑わしいものであれば宗教当局(サンフェドリン)に告発するつもりであったでしょう。ファリサイ派はイエス・キリストが民衆に人気があることに耐え難い思いを抱いていたに違いありません。権威を失墜させれば民衆は離れていきます。

 

【深く嘆かれ】

 キリストはどのような反応を示されたか。まず、深く嘆かれます。この言葉は7章34で出てきます。息をハーと吐く行為を示しています。息は命を表します(創世記2:6)。吐き出す行為はむろん単なる呼吸に過ぎませんが、癒しにおいてはキリストの生命力がその人の上に吐き出され、ここでは生気を失うほどまでの失望が表現されています。

 

 イエス・キリストは天からのしるしを与えられることはありませんし、一切のしるしを行なわれることがありませんでした。 

 私たちの常識では、神が大いなる奇跡を行なえば世界中の人間が一瞬にして信じるだろうと思います。全世界の人が驚愕するような大奇跡。そういうものを神が実行されたら人々はみな神に額づき、跪いて神を敬うだろうと考えます。私たちはよく言われます。奇跡が起これば信じよう。そうでなければ信じない。そして、奇跡などない。だから何も信じない。

 

 こういう不遜な人たちに奇跡があれば彼らはたちまち神を信じるものに変わるでしょうか。そんなことはまずないでしょうし、神はそのようなことをされません。キリストはファリサイ派の前でどんなことも行なわれませんでした。

 キリストを信じないものに何もなされることはない。これが結論です。キリストはただその権威や力を疑うものには沈黙されるだけです。

 

 不信仰という土台ではキリストは何もしない。このことは今も通用する真実です。不信仰なところでは奇跡はないのです。

 

【奇跡はいまも】

 むろん、奇跡というべきものがないわけではありません。私たちにとってさまざまな経験がありますが、その中には奇跡としか言いようのないことも多々あります。不治の病が癒される。間一髪災害から免れる。こういうことは奇跡と言うべきかも知れません。また、私たちには説明ができないような事象もよく起こります。むろん、そのようなものを一概に奇跡と言うことができない場合もあります。不信仰の目を持ってみれば結局何も起きていません。どんな奇跡があってもファリサイ派と同じく何も心に変化が起こりえないどころか、かえって、キリストを無視し、敵対するだけなのです。

 

【ヨナのしるし】

 奇跡はないのか。しるしはないのか。マタイ16章1-4をもう一度ご覧ください。そこでは、キリストはヨナのしるし以外には与えられないとありますが、ヨナのしるしは与えられるとの意味に取れます。

 

ヨナのしるしとは何でしょうか。旧約聖書のヨナ書を読んでいただかなくてはなりませんが、ヨナは神からニネベ伝道を命じられます。しかし、ニネベはイスラエルの敵です。そんなところへ行くのは真っ平ごめんとヨナは拒否します。そして、神の命を避けるために逃亡を企て、大きな船に乗船します。ところが大嵐に巻き込まれます。その原因がヨナであることが判明します。そこでヨナは自分を海に放り投げてくれと申します。結局その通りにされるのですが、ヨナは大きな魚に飲み込まれてしまいます。その後ヨナは三日三晩魚の腹の中にいるのですが、ついに吐き出され、そして、拒んだはずのニネベで悔い改めを求める宣教活動をします。

 

【キリストの復活】

ヨナのしるしとは大魚の腹の中に三日間もいたことですが、これは、イエス・キリストが三日間墓にいたことに対応します。つまり、三日目に死人の中からよみがえられた復活の事実を予め示す出来事でした。ヨナのしるしとはしたがってキリストの復活を示すことになります。

 

ヨナのしるし以外にしるしは与えられないとはキリストの復活というしるし以外にはしるしは与えられないことでもあります。ファリサイ派には何のしるしも与えられません。ただし、キリストの復活と言う巨大な奇跡が与えられます。むろんファリサイ派は復活ということ自体は信じていました(使徒言行録23章8)が、この奇跡=キリストの復活を受け入れることはありませんでした。しかし、キリストの復活を信じることは天からのしるし以上の類例のない恐るべき、しかし、大きな奇跡を信じることに他なりません。

 

天からのしるしはファリサイ派が要求したようには与えられません。今日でも奇跡を見たら信じようと侮りの気持ちで語る人には何も起こりません。しかし、復活の奇跡は奇跡中の奇跡、いやそれ以上の奇跡です。この奇跡を信じるならば、その他のさまざまな奇跡というべきものは信じることができるようになるでしょう。そればかりではなく、キリストの復活にあずかる希望を与えられることになります。

 

 奇跡は起こりえます。むろん、キリストが行われた様な奇跡が起きるという意味ではありません。しかし、神は今も働いてくださっていますし、そのなかには到底信じがたいことも含まれます。それが起こるのです。わたしは信じるはずもない頑なで強情なものが主イエスを信じるようになることは奇跡だと思います。また、神は私たちをお見捨てにはなりません。これもまた奇跡です。この愚かで罪深いものが神に守られて生きること自体奇跡としか言いようがありません。その意味で奇跡が起こります。

 

【未来を知る】

 マタイ16章1-4では、ときのしるしとされます。朝焼けを見て近く雨になる、夕焼けを見ると明日はよい天気になる。経験ある漁師は空を見て気象を判断します。しかし、私たちは将来のことを見分けることができません。未来は知りたいものです。占いやおみくじの類はどの時代でも盛況です。なぜか。未来を知りたいからです。けれども、私たちには1秒先だって分かりません。ときのしるしとは、終わりのときの予兆のことです。終わりが来て救いは完成します。その時はいつの日なのか。聖書の字句を並べて正確な終わりのときを計算するものもいますが、残念ながら誰一人知ることは許されていません。では、私たちは将来について一切知らされていないのか。ヨナのしるしであるキリストの復活は、そのとき、私たちはキリストの復活にあずかってもはや死ぬことがないものとされ、永遠の命を獲得し、復活のからだを勝ち取ることができます。これは確かな将来です。終わりのときがいつ来ようとも私たちは一切恐れる必要がありません。(おわり)

 


2015年05月31日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月24日 説教「4000人給食の奇跡」金田幸男牧師

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2015524日 説教「4000人給食の奇跡」金田幸男牧師

聖書 マルコ78章1-10

 

要旨

【ふたつの給食記事】

 マルコはすでに6章30-44で5000人に少しのパンと魚で満腹させるという奇跡の記事を載せています。ふたつの記事はよく似ていますので、本来はひとつの出来事を伝える資料がいつの間にか別個の物語にされてしまったという説が唱えられています。

 

しかし、両者を比べると多くの点で異なっています。先ず一方は5000人、他方が4000人の「給食」となっています。6章では群衆の空腹を心配したのは弟子たちですが、ここはイエス。キリストご自身が群衆のことを気にしています。奇跡に用いられたパンと魚の数が違いますし、残ったパンくずを集めた籠の数が違います。実はその籠の種類も異なっています。

 

6章では群衆は50人、100人に分けられていますが、8章ではそんなことは記録されていません。キリストは一方では天を仰いで祈ったとありますが、8章には感謝の祈祷、讃美の祈りがなされたとだけあります。このように見ていきますと、ふたつは別個になされた奇跡だと言えると思います。

 

なぜマルコはわざわざよく似た奇跡を記しているのでしょうか。このふたつの奇跡は決定的に異なっていますが、最も重要な相違点は、これらの奇跡がどこで行われたかにあると考えられます。

 

6章のほうは、キリストは12人の弟子を近隣の村に派遣をします。彼らが帰ってきてキリストに報告をするのですが(6:30)、弟子たちが戻ってきたところはユダヤ人の居住地と想像できます。キリストは6章の時点では異邦人のところまで宣教活動を拡大していません。

 

ところが、7章24以下で知られますように、キリストは異邦人の住む所を通過して行かれました。それはただ通過したと考えるべきではなく、御国の福音を宣教し、力あるわざを行われたと考えてよいと思います。

 

【異邦人の街々】

7章31のガリラヤ湖畔とは、デカポリス地方のそれと考えてよいと思います。デカポリスは10個の町を意味する言葉で、文字通り、アレキサンドル大王の将軍たちが紀元前4世紀ごろに建設したギリシヤ風の都市でした。むろんそこに住むのはユダヤ人から見れば異邦人、つまり外国人です。8章10ではこの奇跡が行われたあと、キリスト一行は「ダルマヌタの地方」に行かれたとありますが、このダルマヌタはどこにあたるのか不明です。マタイ15章32-39にも4000人の給食の奇跡が記されていますが、そこではキリスト一行はマガダン地方に行かれたとあります。

 

マガダンとはマグダラと同一とされ、マグダラのマリヤの出身地です。カファルナウムとティベリヤの中間に位置するガリラヤ湖西岸の町ですが、キリストが湖を渡って対岸に行かれるのが普通ですから、この奇跡はガリラヤ湖の東岸デカポリス地方のどこかで行われたと結論していいのではないでしょうか。

 

【異邦人伝道】

すると、キリストは、6章にあるようにユダヤ人に対してなされたと同じような奇跡を異邦人にも行われたと見てよいのだと思います。マルコがこの記事を個々に記すのはキリストが異邦人にも神の恵みを豊かに示されるという事実を記録するためであったと考えられます。神の憐れみはユダヤ人だけに限られるのではない。これが如実に語られています。異邦人にも救いの恵みは拡大していく。それがマルコの記す目的ではなかったかと思われるのです。

 ユダヤ人から見れば、異邦人は神から遠くはなれた存在でした。彼らは汚れていて、神に決して受け入れられることはない人々とみなされていました。神から遠い、したがって神の救いから漏れているものたち、これが異邦人の特徴であると思われていました。少なくとも異邦人は救われない者たちと思われていました。しかし、キリストはその異邦人に御手を伸ばし、救いの恵みを示し、そのなかに導き入れられます。救いから遠いと思われ、縁がないとされている人々にもキリストは大きな働きをされます。

 

3日間食べていかった?】

 ところで、キリストは群衆をかわいそうに思われます。これはキリストが全面的に憐れみを抱かれたという意味です。なぜ、キリストが同情されたのか。群衆はキリストは3日間食べていかったとありますが、これは異常な事態です。食べ物も持たないで3日間キリストの許にいたというわけです。おかしな話です。まるで、どこかで迫害され、命からがら逃げ出してきたかのようです。食料も持たないで、いったいどうしてキリストのところへ来たのか。マルコは何も記していません。

 

どう見ても単にキリストの話を聞くために遠路はるばる食料も持たないでやってきたとは想像できません。何かがあったのかもしれません。当時のデカポリスが政治的不安定であったかどうか分かりませんが、何か問題があったのかもしれません。キリストに助けを期待したのだろうと思います。政治的ではなく、もっと社会的な不安が充満していたのかもしれません。キリストは彼らが三日間食べていないから同情をされたのではなく、そうせざるを得ない必然性のある人々、つまり、深刻な問題を抱える人々を深く同情されたと想像します。何があったのか分かりません。

 

今日でも私たちは不測の事態に巻き込まれることがあります。天災も人災もそうです。戦乱や飢餓もないとは限りません。キリストに助けを期待してキリストのところに集まって行きます。そのようなものをキリストは深く憐れまれ、助けの御手を伸ばされます。異邦人であろうと艱難の中で呻く者たちを助けられるのがキリストです。

 

 ここでなされたのはパンを与える奇跡でした。パンの問題を解決されました。パンの問題はいつの時代でも切実です。食べることが人間にとって一番の心配事です。私たちはいまや飢えることは余りありません。しかし、本当に将来にわたってパンの問題は解決済みなのでしょうか。そんなことはありません。異常気象で広範な地域で農作物が収穫できないというニュースはしばしば流されています。人口が増大して食糧生産が追いつかないとはありえない問題ではありません。食べられない事態は深刻な問題です。キリストはパンの問題を一切関わりなしとされる方ではありません。

 

【信仰とパン】

いえ、これこそキリストが関心を払っておられる問題でもあります。キリストはパンを提供なさる力ある方です。パンの問題だからこそキリストは力ある働きをされるのです。信仰は腹の問題と関係がない、先ず腹を満たすことのほうが先だと公言する人がたくさんいます。パンの問題の解決が第一であって、信仰など暇な人間のすることだというのです。そうではありません。キリストはパンの問題だからこそ力を振るわれるのです。にもかかわらず人はキリストに期待をしないのです。それは間違っています。私たちはこの奇跡からキリストに期待をするように求められています。信仰とパンの問題は決して無関係ではありません。

 

 弟子たちのことが記されています。弟子たちが群衆の圧倒的な多さに目を回し、またもや不信仰な言葉を吐いていると見ることが出来るかもしれません。しかし、そうではないと見ることもできます。確かに6章で5000人もの人々を食べさせなさいとキリストから言われて、みんなに食べさせるのには200デナリ、今日の価値にして100万円以上のお金が必要だと答えます。

 

【弟子たちの信仰】

ここには弟子たちの不信仰ぶりが述べられます。そして、キリストが湖上を歩く奇跡が行われますが、6章52では、弟子たちはパンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたと酷評されます。キリストから面と向かって批判されたのです。それなのにまだ弟子たちは悟っていなかったと取るべきなのでしょうか。そうかもしれません。しかし、「これだけの人に十分に食べさせることができるでしょうか」という弟子たちの言葉は疑いの言葉ではなく、いわゆる反語的に、キリストに向かって、「あなたにはできないはずがありません」と奇跡を期待する言葉と解釈することはできないでしょうか。

 

弟子たちが信仰的に開眼したのではないことは8章14-21にキリストの叱責の言葉から明らかですが、弟子たちがキリストを何もできないお方とは見ていないことは確かです。彼らはすでに何度も奇跡を目撃しているからです。

 

 キリストはパンを取り、感謝の祈りをしたとあります(6.7節)。魚には讃美の祈りをしたとあります。私たちは感謝と讃美を別物と考える傾向にあります。しかし、キリストの祈りを見ると、両者は別個のものではありません。祈りのなかで感謝と讃美は同一の種類のものと見なければなりません。感謝のないところでは讃美は出てきません。神に感謝することなくただ讃美が単独でなされることはありません。感謝は神を讃美することにつながって行きます。

 

【大きな籠で7籠の残飯】

 残ったパンくずは集められます。6章では12籠、8章では7籠となっています。単純に見れば6章の場合のほうが残りが多いと思われるのですが、ここで用いられている言葉をみると、6章の籠は旅行者が持つ食料=パンを入れる籠なのだそうです。8章の籠は大きな籠のことで、パウロがダマスコを脱出するとき、城壁伝いに釣りおろされたのですが、そのとき使用された籠と同じものなのです。4000人の人たちは3日間食べていませんでした。だから残り物が少なくても不思議ではありませんでした。ところが、大きな籠で7籠。正確にはいうことができませんが、6章の場合と比べて決して少ない量ではありません。むしろ、こちらのほうが多かったと想像することができます。

 

キリストがなされた神の大きな働き、恵みのわざにおいて、キリストは豊かに、人々を満たしておられます。これがキリストのなさった働きです。相手が異邦人であろうとなかろうと関係ありません。キリストはただ憐れもうとするものを憐れむ方なのです。ここに記されている奇跡は科学万能の合理主義からは信じがたいものであるかもしれません。確かに現代人には受け入れがたいかもしれません。信じるしかありません。ただ、信じることによって、私たちはいかに神がキリストによって恵みに満ちている方なのかを改めて教えられ、励まされます。(おわり) 

2015年05月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月17日説教「二重苦からの救い」金田幸男牧師

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説教「二重苦からの救い」金田幸男牧師

聖書 マルコ7章31-37

 

要旨

【異邦人(外国人)伝道】

 今日共に学びたいと願っている、耳が聞こえず、ものも言えないひとの癒しの記事はマルコだけが記しています。なぜマルコがこの記事を記載したのでしょうか。考えられることは、直前の24節以下で、シリヤ・フェニキアの女性の娘の癒しが記されていましたが、彼女は文化、民族、言語の上で異邦人、外国人です。外国人はユダヤ人から見れば救いから離れているものたちと見なされていましたが、キリストはそのような人たちにも神の大いなる御力を示さます。この異邦人への働きは一回限りではなく、繰り返してなされたことをマルコは語ろうとしていると思います。

 

【ガリラヤ湖】

マルコはイエス・キリストがティルス地方から、シドンを抜けてデカポリス地方を回って行かれたとありますが、これらは異邦人の住む地域です。シドンはティルス地方から北にあるフェニキアの有名な港町、デカポリスはアレキサンデル大王の将軍たちが建設した10のギリシヤ風の町のあったヨルダンの東の地域です。これらの地域をキリストはただ通過しただけとは思われません。これらの地域でも御言葉を語りしるしを行われたと想像できます。そして、ガリラヤ湖にやって来られたとありますが、ガリラヤ湖周辺の異邦人居住地域と想像することは可能です。キリストは異邦人に大きな働きをなさいます。そのひとつがここに記された二重苦の人の癒しであったと考えられるのです。

 

【耳が聞けず、舌の回らない人】

 人々がこの人を連れてきます。耳が悪い人は、自分の声を聞き取りことができないために、特別に訓練をされていなければ正しく発声発音ができません。声帯や舌は正常な機能を持っていてもしゃべれないのです。耳が聞こえない障害と、機能がありながらそれを使えないという障害を抱えています。それは二重苦と言ってもよいものです。機能や能力があってもそれを使うことができない、それは人間として苦しい状況です。このような事態に追い込まれている人がいます。

 

【手を置いてやって欲しい】

 人々は手を置いてやって欲しいと申し出ます。手を置く行為は「手当て」と言う表現がありますように、古代世界では医療者の行為でありました。今でもただ触れるだけで痛みが収まったり、和らいだりすることは珍しくありません。医療行為だけではなく、祝福を求めることも表わします。教会で役員に任職するときは先任の役員が手を置きますが、それは聖霊が降ることを願う象徴的な行為であると共に、実は役員に神の祝福を願い求める行為でもあります。そこで与えられる祝福は特別なものに他なりません。マルコは手を置いてやって欲しいとだけ書きますが、むろんここでは癒して欲しいということであり、また障害を取り除いて欲しいという意味でもあります。

 

 ところで、マルコは「舌の回らない」と言う表現をここで用いています。ここで使われている言葉は、新約聖書ではここだけで、しかもギリシヤ語訳旧約聖書では、イザヤ35章5で用いられています。これは偶然ではなく意図的にこの単語が用いられたと考えてよいのではないでしょうか。

 

イザヤ35章は有名な、よく知られている預言です。少し長くなりますが、引用をします。神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(4-6)

 

イザヤはこの他、荒れた地、砂漠が回復するとも語り、また野獣の住むところが人間の居住適地となるとも語ります。新しい天、新しい地の出現です。暗黒と悲惨が支配していた世界に代わって神の再創造された世界は新天新地になります。

 マルコは余り使われていない言葉を用いることで、ここで起きていることが特別なことであると主張しています。

 

【救いとは何か】

救いとは何か。私たちはいろいろのほう面から救いを考えることができます。ここでは、新しい世界の再創造を見ることが出来ます。あるいは古い世界の再生ともいえるかもしれません。神の救いは創造されたこの世界の刷新であり、再生であり、再創造なのです。

 

 イエス・キリストがここでなされたしるしは世界の再創造の働きと見ることが出来ます。それは驚くべき神の働きに他なりません。事実37節でキリストのみわざを目撃した人たちは驚き、その働きをとても素晴らしいこととたたえています。それほどまでにキリストのなさった働きは偉大であり、神の救いの完成を現すものでありました。異邦人に対するキリストの働きは、ただユダヤ人の救いの余りものを与えると言う程度の奇跡ではなく、救いの完成という神の働きを指し示す重大なみわざであったのです。

 

 連れて来られた人に対してキリストのなさった行為が比較的詳細に記されます。その意味でここは大切な個所ともいえます。マルコはなぜこんなに詳しく記したのだろうかと思われます。詳細に記すのは、目撃証言であったことを示します。この場面を目撃したのはむろん弟子たちです。

 

その一人、ペトロの証言が基礎ととなってこの個所が記されたと考えてもよいと思います。ペトロがマルコに資料を提供したと考えられます。もうひとつは、詳細と言っても厳密に微細に記されてはいません。ただ、キリストのなされたわざが克明に書かれることで、二重苦にあえいでいた人に対するキリストの憐れみが明瞭にされます。生き生きとそれが伝わってきます。

 

 キリストは手を置くように求められましたが、それ以上のことをなさいます。先ず、キリストは耳に指を差し込まれます。塞がれていた耳が開きます。舌に唾をつけます。舌が動くためです。キリストはこの人に接触して、奇跡を行われます。

 

 そして、天を仰いで深く息をついたとあります。息をはーと吐く行為です。天を仰ぐとは祈りの姿勢でありますが、単なる祈りの姿勢ではありません。息はしばしばいのちを表すものとされます(創世記2:7)。その息を吐き出すとは精魂を込めて神に祈ったと言うことを示します。キリストは形式的に祈りの姿勢を取られたのではありません。全身全霊を込めて祈られたのです。

 

相手が異邦人であろうとキリストは軽く扱われることなどありません。必死にキリストは祈られたのです。エッファタという言葉を発せられています。これは当時この地域で使われていた言語であるアラム語です。新約聖書にはいくつかのアラム語やヘブル語が残されています。なぜ、このような言葉が新約聖書に収録されているのか。考えられることは、このようないくつかのアラム語、あるいはヘブル語が教会の中に保存されていたということです。教会では使徒たちがキリストから聞いた言葉、あるいはみわざを口伝えに伝えていたと思われます。「キリストはあの時、このようにおっしゃった」とか、「キリストは私たちの前でこれこれしかじかのことをなさった」と教会で語っていたのだろうと思います。それが文書として残されたものが福音書であると考えられます。伝達される内容には、キリストが使われていたであろうと考えられるアラム語がいくつかそのままに保存されていたと思われます。それは重要な場面であったり、特に聞き手に印象的な場面であったりすると考えられます。

 

 エッファタはそれ自体特別難しい意味はありません。開けよ、と言う意味です。マルコは外国人読者を意識してわざわざ翻訳をしてくれています。二重苦に苛まれている人をキリストは癒されます。この場面に居合わせた人たちは特別な印象を受けたに違いありません。

 開け。口が開くと言うだけではありません。そこにはそれ以上の大きな意味が込められていると考えてよいのではないでしょうか。

 

【障害のある人】

 ここでは耳が聞こえず、ものを話すことができないという障害を背負う人の癒しが記されています。神はどうしてこのような障害のある人を創造されたのか。これは大きな疑問です。世界を創造された神はどうしてこんな障害のある人を創造されたのか。神は不公平ではないか。このように思う人がいると考えられます。障害だけではありません。病気もそうです。健康な人が一方ではいますが、病を何重にも背負っている人がいます。経済的困苦、社会的な差別を受ける人、あるいは、精神的な労苦を負う人。この世界にはいろいろな人が苦しんでいて、その苦しみは他の人に比べて何倍も大きく、何重にも苦しみを背負っています。なぜなのでしょうか。

 

【人の重荷と救い】

 なぜ神はこんなに人をひどく扱うのでしょうか。

 人は何とか原因を追い求めます。運命のせいにする人がいます。あるいは、偶然の所産と諦める人もいます。あるいは遺伝と言うか、父母からもって生まれた悲運とみたり、責任を両親や祖先に帰する人もいます。そうすることで自分に納得したり、できなければ世間を呪い、世間を誹謗します。この時代にすねてみたり、なるに任せて自暴自棄になります。こういう解決では何にもなりません。そこで現在は自己責任という主張も出てきましたが、それで私たちの心が安んじるわけではありません。

 

 確かに私たちは不幸や災いの原因を人間の罪に帰することができますし、それが答です。しかし、神は人間の罪の結果、二重苦、三重苦にあえいでいる状態を放置されているのではありません。まして、神から離れ背を向けている報いだとして、ざまあ見ろとせせら笑っている残酷な神ではありません。そんなことは決してありません。

 

 神は救いの完成を目指しておられます。キリストがここでなされた奇跡はその日の到来を予測させるものです。その日は分かりません。しかし、神はその日をすでに備えておられます。キリストの働きはこの日を明確に示すものです。私たちはその日の到来を期待します。そのとき、あらゆる苦しみは消滅します。私たちは今は二重苦や三重苦を背負うとしても神は必ずそのとき確実に解放して下さいます。(おわり)


2015年05月17日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月10日説教「救いの拡大」金田幸男牧師

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説教「救いの拡大」 金田幸男牧師

聖書:マルコ7:24-30

 

要旨 

【ティルス地方に行かれた目的?】

イエス・キリストはティルス地方に行かれたと記されています。ティルス地方は現在のレバノンの南部一帯を指します。現在も人口が1万人弱の都市として存続していますが、古くからの港湾貿易都市で、紀元前2000年代には町がありました。初めは海岸地帯にありましたが、のちには地中海にあった大きな岩盤の上に都市が築かれます。この構造は難攻不落の都市と評価されましたが、その都市の豊かさのゆえにしばしば外国の侵略を受けています。

 

 イエス・キリストが何のためにティルスに行かれたのか記しされていません。結果として異邦人伝道の機会となったのですが、当初から異邦人伝道を目指してはいなかったと思われます。それは、キリストがティルスの、とある家に入られますが、誰にも知られないようにしていたとありますから(24節)、異邦人にも知られたくないということです。どうしても異邦人伝道が目的であったと思われません。だから、ティルスのユダヤ人を相手に伝道する意図があったかもしれません。しかし、マルコは何も記していません。分からないことは分からないままにしておく。これも聖書の読み方かもしれません。分からないことがあるとそれからまったく先に進めないかのような聖書の読み方をされる方がありますが、それは少なくとも「利口な」読み方とは思えません。

 

 キリストはガリラヤから、徒歩、あるいはせいぜいロバに乗って行かれたと思います。今日なら車で1,2時間でしょうけれども、当時は数日かけて旅行をしたと思います。それまでしてティルスで何をしようとしていたのか分かりません。

 

【シリヤ・フェニキア生まれの異邦人女性】

 キリストのうわさはすでにこのティルスにまで広がっていました。イエス・キリストは力あるわざを行っておられました。そのうわさは伝聞で口伝えに伝わっていました。当時はこの方法が一番一般的でありました。うわさはユダヤ人だけではなく異邦人にも伝わっていました。

 このうわさに反応した人の中にひとりの女性がいました。彼女について知られることは先ずギリシヤ人であったという点です。これはギリシヤ系の民族ではなく、ギリシヤ語を語る文化圏に属していたという意味であったと思います。シリヤ・フェニキアの生まれとありますから、アラム人=シリア人であったと考えられます。ユダヤ人と同じくセム系の民族ではありましたが、ユダヤ人とは歴史的にはライバル関係にありました。またシリアはローマの属領、シリア州であり、ガリラヤとは異なった政治的な立場にありました。つまりこれから知られることはユダヤ人から見ればまったくの異邦人、外国人でありました。宗教上はもちろん、文化的にも政治的にもこの女性はユダヤ人から見れば異邦人であり、ということは神の救いからは縁遠いものに他なりません。

 

【汚れた霊につかれた娘の癒しを願って】

またそれはユダヤの宗教に関しては殆ど無知であったと考えてもよいでしょう。もうひとつの点は娘が汚れた霊につかれていたということです。しかし、これも曖昧です。悪霊につかれていたとありますが、どういう症状であったのか分かりません。ある人はてんかんのような病気であったと想像します。ただ、病気は何でもかんでも悪霊のせいというのではありません。古代エジプトの医学書が残っていますが、病名は現在と多く共通していますし、その病気の治療法も、薬剤(薬草)や簡単な外科手術でした。悪霊に原因が帰せられているのは僅かなのです。難治の病気が悪霊のせいとされています。この女性の娘の病名は分かりませんが、かなり治療困難な病であったと想像できます。それだけに娘のことを思うといても立ってもおれない気持ちになっていたと思います。

 

 この女性はイエス・キリストのうわさを聞いてやってきます。キリストが悪霊を追い出しているといううわさです。しかし、彼女はイエス・キリストのことを詳しく知ったわけではありません。知っていたのは悪霊を追い出す力を持つものだということだけであったでしょう。イエス・キリストがどういうことを教えていたかは知らなかったと思われます。ただ子どもの苦しむ姿を見て何とかしたいと思い、イエス・キリストのうわさを聞いてキリストの居所を探し出してやってきたのでしょう。

 

 彼女はキリストの足元に平伏します。この姿は最大級の敬意を表すものです。この行動に彼女の必死の思いが現れています。そして、この行為は宗教的な意味さえ持っています。それは礼拝行為に類するものでもあったのです。ギリシヤの文化圏ではしばしば人間が神的なものとして礼拝されていました。ローマ人も同様でした。偉大な人物、行為の人物を神として崇めることは珍しいことでありませんでした。彼女は深く考えることなくイエス・キリストに最大級の敬意を示しました。

 

 キリストはこのような態度をもって平伏す女性に対して直ちにその願いを聞き入れられたかというとそうではありませんでした。それほど必死の思いできたのです。すぐに反応されてもしかるべきでした。しかし、キリストの態度は私たちを驚かせるものです。

 

【子どもと犬】

 キリストは婉曲的に彼女の申し出を退けられているかのようです。キリストの言葉で、子どもはキリストの同胞であるユダヤ人を指していることは明らかですし、犬は外国人であることは分かります。このようなイエス・キリストの言葉を前提にやり取りが続けられます。

 

しかし、犬という動物が当時どう見られていたかを知ると話しはそう簡単ではありません。犬は聖書の世界においてはあまり評判がよくありません。お前は犬というとそれは激しく侮辱する意味になります(サムエル上17:43)、死んだ犬は汚らわしいとされています(サムエル上24:14)、犬は聖なるものを理解しない(マタイ7:6)間違った教理の信奉者(フィリピ3:2)、罪の生活をするもの(2ペトロ2:22)は犬に比されます。これはユダヤ人の中で通用する言い方ではあるでしょうけれども、異邦人であるこの女性も自分が犬と言われていると知れば激怒しても不思議ではありません。最大級の侮辱の言葉です。

 

こんなことを言われて腹を立てないはずがありません。異邦陣人世界でも犬の大半は野良犬、野犬でした。自分を犬というようなイエスを嫌い、関係を持たないようにしても当然のことです。ところが彼女は引き下がりませんでした。

 

 キリストがどうしてこんなことを言われたのでしょうか。大変ひどい言葉です。キリストがこんな非道なことを言うはずがないと思う人がいるかもしれません。

 

 キリストは当時のユダヤ人が抱いていた一般的な異邦人への考え方を語っていることは確かです。しかし、それは本心からか、というと決してそうではありません。キリストは結果としてこの女性の娘を癒されます。しかも、娘が近くにいないところで悪霊を追い出すという奇跡を行われます。マルコ福音書では距離が離れているところにいる人を癒されたのはここだけです。それだけここでなされた奇跡は大きなキリストの働きであることを証言します。そこまでなされたのですから、キリストが異邦人を排除していたなどと考えることはできません。むしろ、キリストは相手が異邦人であろうと区別なく憐れみを示されます。

 

【なぜキリストはひどい言葉を】

 ではなぜキリストはこんなひどい言葉を語られたのでしょうか。このような経験は私たちもするところです。神は私たちにいつも暖かく優しく、慈しみに満ちているようにだけ接してくださるのではありません。逆の場合もあります。大きな病気になったり、大きな災害に巻き込まれたり、思わぬ事故をあったりします。私たちの人生には不幸の種はつきません。そんな時私たちは嘆きを神に吐き出さざるを得ません。なぜこんなひどい目にあわせられるのか。どうしてこのような苦しみを味わわせられるのか。神にこのように訴えるしかない経験のしばしばあります。大きな試練を経験します。神は私たちをあたかも見捨てられているとしか思えない。神とは憐れみ深い御顔をいつも向けており、私たちはそのやさしさに心が豊かになる・・・私たちは神をそのように見ています。なぜ神が・・・という思いに耐えられないのです。

 

 神は私たちを見捨てられたかのように思うこともしばしばありますが、だからといって、神は私たちを憎み、ひどい目にあわせ、その上でせせら笑っているような残酷な神を決して想定できません。神はいつも最善を行ってくださる方です。

 

【子犬でも食卓からこぼれるパンくずにあずかる】

 シリア・フェニキアの女性もまた簡単に引き下がりません。彼女は、犬でも食卓からこぼれるパンくずにあずかることができるはずだと反論します。彼女はユダヤ人と異邦人の関係を少しは知っていたと思います。ユダヤ人は当時各地に散在していました。そういう関係にもかかわらず彼女はキリストに期待をしました。キリストから是非とも憐れみを受け、娘の悪霊を追い出して欲しいと期待をしました。キリストが見捨てておられるかのように思わざるをえない中でも、彼女は望みを失いません。これが信仰です。神は必ず期待に応えてくださるという望みを失いません。

 

 家に帰るとこの女性の娘は癒されていました。ベッドの上で元通りになっていました。神の救いは国境や文化圏の違いで阻まれることはありません。異邦人にも救いは及びます。キリストが十字架にかかられ、よみがえられるまで積極的に異邦人に福音を宣べ伝えられませんでした。それは時が満ちるまでの父なる神の意志であったからです。しかし、だから異邦人に一切福音を語らない、大きなわざをおこなわないとされていたのではありません。キリストは機会があれば積極的に異邦人にも福音を語られます。距離が離れていてもキリストは奇跡を行われました。今日天と地上の間ははなはだ大きいのですが、キリストはそんな距離など臆することなく今もなお同じように奇跡をおこなわれる方です。だから同じく期待をしましょう。 (おわり)


2015年05月10日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年5月3日説教「人を本当に汚すもの」金田幸男牧師

L150503002.wav クリックで説教が聴けます

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説教「人を本当に汚すもの」金田幸男

聖書 マルコ福音書7章14-23

 

要旨

【言伝えにもとずく偽善】

 ファリサイ派と律法学者はイエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見て、非難の材料を見つけ出しました。しかし、キリストは彼らの非難の根拠が言い伝えに基づくと喝破し、そのように言い伝えを根拠にユダヤの民の宗教生活、ひいては日常の生活を規制し、それによって敬虔な、あるいは信じ深く見せるのは偽善であると語られます。偽善とは、俳優が演技をすることを意味する言葉から出ているそうです。悪人を演じる俳優が悪人であるわけではありません。偽善は、見せ掛けの善人、義人を振舞う言行であって、キリストは言い伝えで善人を装いながら神の御言葉をないがしろにし、神の律法を軽んじる偽善的な行為を非難されます。

 

そのもうひとつの偽善の実例を挙げられます。コルバン(神への供え物)と宣言すれば、両親に与えなければならないものでもそうする必要がないという巧妙なやり方が考案されます。これこそ偽善の最たるものと言わなければなりません。

 

【汚れと聖潔】

 キリストは汚れの問題をもう一度取り上げられます。汚れの問題はユダヤ人にとっては重要でした。汚れの問題は汚れない状態、つまり聖潔、聖さの問題でもあります。汚れを避け、聖さを求める。これは今日でも多くの宗教の課題ですが、ユダヤ人にとっては最重要問題でありました。

 

【汚れた民】

汚れにあずかる人は汚れたものと見なされます。キリスト時代のユダヤ人のなかでは、羊飼いも収税人もこの類と見なされました。そして、「地の民」などと蔑視されました。聖書では「罪人」と称されます。犯罪人でもないのに汚れているものと見なされたものは罪人とされたのです。汚れたものは神に近づくことができないとされます。それはユダヤ人にとっては恐るべき位置づけです。

神に見離されたものだからです。ですから、汚れから離れ、近づけないこと、それは敬虔なユダヤ人には特に注意しなければならない課題なのです。

 

 特定の病気になった人、汚れているとされる身分に属したり、職業に従事している人は汚れているとされます。これこそ今日でもさまざまな領域で現実に生じている深刻な問題の根っこにあるものです。汚れの問題はユダヤの宗教だけではなく、多くの民族の宗教生活において大きな役割を示しています。それは慣習となり、社会的な拘束力を持つようになり、汚れていると見なされた人は排除され、制裁を受けることも珍しくありません。

 

【見かけの聖さ】

ですから、聖くあることを追求する熱心も大きくなるはずです。聖さを求めて、煩瑣な儀式が生まれ、その儀式に参加することで聖性が保たれると主張されるようになります。その聖性を獲得したものは尊敬されます。ファリサイ派や律法学者が追い求めたのはこの聖性でした。そのために、いろいろな発明が工夫され、それが実践され、いつの間にか言い伝えとなって伝えられていきます。聖くあるためにどうすればいいのか。詳細な体系が生み出されていきます。ユダヤ人の宗教はこのようなさまざまな言い伝えに基礎付けられています。

 

タブー(禁忌)は私たちの社会でも大きな影響力、あるいは拘束力を振るっています。豚肉を汚れているとする宗教の信者のために特別に調理した食品が必要とされます。豚肉を料理した道具や食器は使用されてはならないとされます。このために、観光客を誘致したい観光業者は四苦八苦しています。豚肉をタブーとする信者にとってはどうでもいい問題ではありません。タブーはそれ自体不合理だといってしまえばそれまでですが、多くの領分で避けることができない問題となっています。決して軽視することができないような深刻な結果を生み出しています。

私たちの国は一見すれば宗教色の少ない国とされていますが、日常生活の根底にはこのタブーは根強くはびこっています。汚れなどまったく不合理であることは誰もが承知しながら、その汚れを避けるためにどんなに多くの精力が注がれているか。聖性を獲得するためにどんなに過大な努力が試みられているか。

 

【旧約聖書と汚れの問題】

ユダヤにおいては汚れの問題は聖書の重要なテーマです。例えば、レビ記10章―14章は重い皮膚病が汚れとされます。15章は人間の体液の漏出を扱います。死体に触れても汚れるとされます(レビ11:24-28など)。祭司の場合は身内の遺体にも触れることが禁じられます。むろん汚されるからです。汚れの問題は神の掟ですからこれを軽んじることは許されません。ユダヤ人がどうして汚れの問題を重視したのかその根拠はここにあります。汚れを避けることにユダヤ人は最善を尽くそうとしています。それは神の民であることの必須の条件とされたのです。だから汚れを避けることは必死に実現すべき目標でありました。

 

【キリストと汚れの問題】

 キリストは汚れの問題を軽んじられたはずがありません。聖なることを求め、汚れを避けることは聖書の立場です。キリストがこのような重大な問題を無視されるはずがありません。キリストの弟子たちも聖なる者とならなければなりません。しかし、キリストは汚れの問題をまったく別の視点から見ておられます。それは革命的と言ってもよい視点です。

 

 どういう視点でしょうか。食物そのものが人を汚すものではない。口から入って消化され、排泄されるものが人を汚すことはない。つまり、ある特別な、汚れているとされる動物の肉を食べてもそれが人を汚すことはない。このみ言葉はユダヤ人にはまったく驚きでしかなかったはずです。どのような食べ物も人を汚すことはない。口から入り、消化されて排出される食べ物自体は聖いと言われます。当然のことながら、人間の体から出る体液が人を汚すこともありません。衛生上、汚いものは存在します。腐ったもの、悪臭を放つもの、形の上で醜悪なものはあります。そのような人間のからだが作り出すものが人を汚すのではありません。

 

宗教的には、つまり霊的には食物も、漏出物も人を汚しはしない。これは多くの宗教にとってはその根本をひっくり返すだけの原動力となるような主張になってしまうはずです。汚れから清めるプロセスこそ多くの宗教の存立基盤と言ってもよいと思います。汚れを洗い清めるためにどうすればいいのかを提示するのが宗教だとすれば、キリストの言葉は革命的響きを持っています。

 

キリストはそれでは何が人を汚すとされるのでしょうか。汚れをいかに避けるべきは聖書の重要な主題です。汚れはどうすれば清められるのか。キリストはもちろん汚れの問題を軽視されてはいません。

 

それは神の掟です。神の律法は守られなければなりません。しかし、キリストの教えはファリサイ派や律法学者、というよりも、当時のユダヤ人の理解とはまったく異なりました。汚れを避けるべきことは神の掟そのものです。しかしながらここで考えていただきたい。なぜ、それは汚れているのか。考えてみれば神が命じる理由など分かりません。豚という家畜がどうして汚れているのか合理的な解決策は見当たりません。なぜ神がそんなことを命じられるのかすべてが分かるのではありません。

 

【重要なのは神の命令に服従すること】

人間が創造されたとき善悪を知る木から取って食べてはならないと命じられました(創世記2:17)。善悪を知る木がりんごであったという伝説もありますが、どんな種類の木であったか分かりませんし、余り神の命令には関係のないことです。問題は食べるなという命令にあります。アダムとエバにとって重要なのは神の命令に服従するかどうかでした。そこでは服従、従順を求められていたのです。しかしながら、アダムとエバがしたことは神の言葉を破ることでした。これが罪といわれ、違反とされるものです。汚れの律法の問題も同じです。追求すべきは、タブーの遵守ではありません。神の前に聖くあることを求められたのです。神に従順であることで聖なるものであることができるのです。

 

人を汚すのは食べ物ではありません。では何が人を汚すのか。それは人の心から出てくる悪い思いだとされます。人から出てくるものが人を汚します。正確に言えば人の心から湧き上がってくるものが人を汚します。悪しき思いです。

 

その悪しき思いから出てくるものが列挙されています。ひとつひとつ説明することは避けます。実践されない、心の状態も含まれています。むろん実行される悪、罪もあります。性的な邪悪さに関わる罪が3個もあります。人を汚すのはこのような人間の邪悪さなのです。罪こそ人を汚す原因なのです。この問題が解決されなければ人は聖くなることはできません。悪い思いこそが人を汚します。この罪がもたらす汚れは罪そのものが解消されなければなりません。罪そのものはどうすればなくなるのでしょうか。人間はどのようにしても罪を拭い去ることはできません。人は生まれたままにある限り罪を避けることができません。つまり、人間は汚れた存在であり続けます。

 

どうすればこの罪の結果である汚れから解放されるのか。どんな宗教でもこの汚れの解消法を教えるはずです。多くが儀式によるとされます。しかし、どのような儀式もこの汚れを洗い清めることはできません。この聖性を取り戻すためにいかに宗教は膨大な体系を作り出したか。キリストはこの汚れをどう解決しようとされたのか。ここにキリスト教信仰の真髄があります。

 

【十字架の血潮は、罪と汚れを完全に洗い流す】

キリストはご自身が十字架につけられました。それは、罪に対する神のさばきを受けるためでした。キリストは十字架の上で死ぬことで、罪の問題を解決されました。つまり、汚れをもたらす根本問題を解決されました。もはや、神の前で私たちには汚れをもたらす原因はなくなったのです。神の前で私たちは聖なる者とされたのです。私たちはこの世に生きている限りは汚れを完璧になくすことはできません。しかし、私たちはもうすでにキリストに導かれて聖なる者なのです。そして、私たちの終わりのとき、完全に聖なるものとされる希望に生きることができます。(おわり)

2015年05月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書