215年4月12日説教「湖の上を歩かれるキリスト」金田幸男牧師
説教「湖の上を歩くイエス」金田幸男牧師
聖書;マルコ6章30-44
要旨
【5000人配食のあと】
イエス・キリストは空腹である群衆を憐れみ、男子だけで5000人もの人たちに、パン5個、魚2匹をもって満腹する奇跡を行われました。45節に「それからすぐに」と記されます。大きな奇跡が行われたのですから、群衆はもっと大きな奇跡を期待したに違いありません。ところがキリストは群衆を解散し、弟子たちを強いて船に乗り込ませ、ベトサイダに向かわせます。
弟子たちはもともと奇跡が行われたところで休息を取るはずでした。弟子たちにゆっくり休息を取らせなければなりません。弟子たちにとって疲労は極限に達してしています。これ以上疲れさせることはできない。だから追い立てるように船に乗せます。また、群衆の熱気を冷ますために解散させたように思われます。一人でキリストはそうします。人を集めることも困難ですが、解散させることも至難です。キリストは一人で群衆を解散させるという難しい働きをされました。そして、キリストは一人山に登られます。それは祈るためでした。
【祈るキリスト】
マルコ福音書では3回、キリストが祈ると記されます。1:35,6:46、14:32-36です。1:35はキリストがカファルナウムで伝道の働きを始められた直後に祈ったと記されます。14:32-36はゲッセマネの園でキリストは苦しみ悶えながら祈られます。その直後キリストは逮捕され、裁判にかけられ、十字架の上で処刑されます。
公的な働き、伝道のはじめと終わりでキリストは祈ったと記されています。キリストにとって伝道の働きのはじめと終わりは大切です。そのときキリストは一人祈られ、神に助けを求められました。では、6章46の場合はどうでしょうか。ヨハネ6章にも5000人の給食の記事が記されます。そのあと、キリストが湖の上を歩かれた奇跡が記されます。マタイ、マルコ、ルカとヨハネ福音書が共通した内容になっています。これは珍しい個所です。
【民衆の期待/危険な意図】
ヨハネ6章14-15にはイエス・キリストのなさった働きを見た人々はキリストを王にしようとしたと記されます。この場合、王は油を注がれたもの=メシヤ、救い主を意味します。しかし、それは当時の征服者であったローマ帝国に対抗する政治的指導者を意味しました。革命を起し、政治的な秩序を打破する革命家、イスラエルを世界に覇者とする王者、それがキリストに期待するところであったはずです。むろんキリストはそのようなメシヤではありません。群衆がキリストを担ぎ上げようとしていますが、それはキリストの意図ではありません。そのような群衆の動きはキリストを危険にさらします。人が担ぎ上げることはキリストのこの世においでになった意図とは相反するものです。キリストの使命を危険にさらします。キリストはそのような群集の危険な意図を見抜いて群衆を強いて解散させたと見るべきです。
【危険に遭遇するとき/キリストの模範】
この点、私たちもキリストを見習うべきです。私たちもまたいろいろな危険に遭遇します。大きな決断をしなければならないときもあります。重大は判断を下さなければならないときもあります。そのような時おうおうにして私たちはいろいろな可能性を考えあぐねます。こうすればよい、ああすればよい。それは自然なことです。しかし、キリストも危険な事態にめぐり合わせて、神に祈りをささげます。自分の判断よりも、あるいは決心よりもその前に、神の前に静まって祈るということの大切さをキリストは身をもって教えられます。祈りは気休めではなく、最初の私たちの行動であるべきなのです。キリストが模範を示されています。
【湖の逆風の中で】
この個所に記されている時間の記述から興味深いことが分かります。夕方になったと記されます(7節).。弟子たちはすでに出発しています。弟子たちはガリラヤ湖を横断して対岸に行こうとしたのではありません。ベトサイダは湖の北東岸にある町で、5000人給食の奇跡が行われた場所とは近いところにありました。ですから弟子たちは海岸に沿って船を漕いでいたはずです。ところが船はなかなか前進しなかったようです。逆風のためだと記されます(48節)。キリストが湖の上を歩いてこられたのは夜明け前でした(48節)。この間、少なくとも数時間は過ぎています。ひょっとすると5,6時間はかかっていたかもしれません。岸に沿っての航海です。こんな長時間かかるはずがありません。逆風は激しかったと想像できます。51節を見るとかなりの強風に見舞われていたに違いありません。季節は初春であったと思われます。39節から青草の時期、冬の終わりの雨に季節が終わり、乾燥した好天の日が続くころです。嵐とはいえ、岸から弟子たちが遭遇している異常な事態を、キリストから見られえいたはずです。キリストは水の上を歩いて弟子たちのところに近づかれました。
【湖の上を歩くキリスト】
湖の上を歩くなどとは信じがたいことです。そこで合理的は説明がなされました。キリストは弟子たちの乗る船に平行して湖岸を歩かれた。ところが、風が強く、波も立っていた。弟子たちは海岸を歩くイエスを見て、湖の上を歩いていると錯覚したのだというのです。実際にはキリストは土の上を歩いていたのですが、弟子たちからは湖上を歩いているように見えた。こんな合理的は説明を覆す文章が続きます。キリストを見た弟子たちはそれが幽霊だと思ったとあります。幽霊は死者の霊というよりも、水の霊、つまり精霊だという考えもあります。
いずれにしても弟子たちはキリストを目撃しているのにキリストだと分からなかったのです。つまり信じがたいものを見ているということになります。彼らはその目でキリストを見ていますが、まさか湖の上を人が歩くなどということは到底信じがたいと思っているのです。弟子たちは湖の上を歩く人物を目撃しています。実際、キリストは水の上を歩いているとしか思えません。弟子たちの錯覚ではありません。見ていても信じられないのです。
【信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか】
湖の上をキリストが歩いているのを簡単に信じられるものではありません。信じられなくても不思議ではありません。信じないことが自然です。特に私たちは合理的精神にもとづく、科学優先の考えを小さいときから教え込まれてきました。私たちの住む社会が非宗教的なのは教育のせいだと思います。無神論的な合理精神が真理だと教えられて来ています。だから、奇跡など信じられないと言っても当然の結果です。
では、どうすれば信じられるのか。この湖の上を歩くキリストの奇跡はマタイ福音書にも記されています(マタイ:22-33)。そこでは、ペトロの行動が記されます。ペトロはイエス・キリストのところへ歩いて行こうとします。ところが彼は強風に恐怖を感じます。とたんに沈みかけ、大声で助けを求める破目に陥りました。
そのところでキリストは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されます。信仰が求められています。ペトロに欠けていたのは信仰でした。
どうすれば信仰を持つことができるのか。奇跡をどうすえれば信じることができるのか。奇跡はそう簡単に信じられるものではありません。私たちは先ず疑う者です。はじめから疑ってかかるものなのです。
奇跡を見たら信じられるか。奇跡を見ても信じられるものではありません。今まで経験しなかったことを信じろと言われても信じがたいのです。弟子たちの場合がそうです。信仰はそう簡単に持てるものではありません。でも、私たちは信じられます。なぜなのでしょうか。
【安心しなさい。わたしだ。恐れることはない】
キリストは水の上を歩いてこられますが、船に近づくと通り過ぎようとしたとあります(48節)。知らぬ顔をして側を通過していったという意味にとってはならないと思います。これはキリストが弟子たちに接近してこられたという意味です。船の中にいる弟子たちはみなキリストを認めることができるほどまでに接近したのです。キリストは弟子たちの近くにおいでになりました。そして、言葉をかけられます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
大切なことは言葉が与えられたと言うことです。言葉は音声です。ただの音声としてだけ聞くならば、ここでは何も起きません。音だけでは人は動きません。その音が言葉となって心に通じるときに言葉が人を動かします。
信じることは誰でも大変難しいことです。それを否定することはできません。その不信の状態、つまり疑う心を打ち砕くのは神の言葉です。聖書の言葉はそれ自体ただの語彙の連続に過ぎません。
【心に響くキリストのみ声】
しかし、聖書の言葉が心に響きます。キリスト者となった人たちはこれを経験します。何でもない言葉の連なりに過ぎない聖書の一句が突然私たちの心を打ちます。そのとき、私たちは心開かれます。奇跡であることは信じがたいのですが、それを信じることができるようになります。マタイ14:33では弟子たちはキリストを神の子として拝んだと記されますが、心開かれて私たちはキリストこそ神の子と告白せざるを得なくなります。聖書の言葉が決定的なのです。キリストはその姿を見ることはできませんが、側にいてくださいます。そして、私たちの心に直接み言葉をかけられます。私たちは心動かされます。
み言葉が肝心なのです。弟子たちはみ言葉を聞きました。私たちもみ言葉を聞かされます。そこで私たちは信仰に導かれます。そのなかには信じがたい奇跡を信じることも含まれます。キリストが神の言葉を語る神の子であると信じるならば、そのときこそ私たちは奇跡をも信じることができるようになります。(おわり)
2015年04月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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