2015年4月5日イースター説教 「死よ、お前の勝利はどこにあるか」金田幸男牧師
説教「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」金田幸男
聖書 1コリント15章50-58
要旨
【イースター/復活祭】
イースターはキリストの復活を記念する日です。キリストの復活が意味するところをご一緒に学びたいと思います。
【宗教は、霊魂や死を扱う】
宗教一般について申しますと。宗教は、魂(霊魂)と死後の世界について語ります。むろん、宗教の中には、そのような問題よりも現世利益といいますが、健康や良運、あるいは、お金や賭け事に利益を約束するような信心を売り物にする宗教もあります。しかし、多くの宗教は、人間の魂のこと、特に霊魂不滅、あるいは、死の問題と死後のことについて語るものです。
現代は科学的知識が優先される時代です。つまり、実験で証明したり、数値化できるもの、映像化できるものが真実であって、そうでないものは虚構、作り話、あるいは迷信と片づけられます。
霊魂などその存在を証明する術はありません。となると霊魂など存在しないという人もいます。
しかし、現実はどうでしょうか。人が死んだその場所に、その人の霊魂が残っていて、そこに花や線香を供える人が絶えません。霊魂など存在しないと言いながら、その存在を前提にした習慣はいつも継続されます。霊魂の存在を証明などできないから、存在しないと言う言い方は矛盾しています。
【宗教心は誰もが持っている】
存在しないなら、しないことも証明しなければなりませんが、それは誰にもできません。死後の世界についても同様です。むしろ、現代人といえども、魂のことや死後のことについて、死者とのつながりを求め、死後の世界に関心を払わざるを得ない何か、つまり、それこそ宗教心ですが、それを誰もが持っていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
科学的な考え方では納得できない何かがこころにいつも存在するのではないでしょうか。合理的な発想や考え方を否定するのではありません。しかし、合理的な解説では説明できない現象もあり、事象もあるのだというか、一歩へりくだった考え方も大切なのではないかと思うのです。
【死の意味するところ】
宗教は、死について語ります。科学的な考えでは、死は終わりです。すべて死でピリオドがつけられてしまいます。死は一切の終わりです。しかし、宗教は死について何を語るのでしょうか。これまたいろいろな考え方があります。
ひとつは諦めを語る場合です。死は避けることができません。だから仕方がないものというのです。それで死の恐怖を回避できるかどうか別問題です。
それなら死に直面して、こころ安んじて死を向かえる迎え方があるか。死の恐怖を忘れるために、死を忘れるようにする。死など一瞬の通過点にすぎない。こうして、死の向こうの素晴らしさを心に念じて、死を乗り越えるべきだと言う教えもあります。逆に死の恐ろしさを強調する宗教もあります。恐ろしい刑罰である、断末魔の苦しみを避けることはできない。いっそう死の恐ろしさを強調します。その死の恐ろしさを回避する方法が信心だとされます。
信仰には確かに死の苦痛を麻痺させるような機能もあるかもしれません。しかし、誰でも死の恐怖を免れるのではありません。
【死の圧倒的な力】
わたしは、教会員やその家族、また自分の身内の葬儀を何度も経験し、また、臨終の場にも居合わせる経験もしています。そのたびに思うことは死の力の巨大さです。腹が立つこともあります。死は横暴です。有無を言わせず死は襲ってきます。老いたものだけではありません。年齢など関係なく死はやってきます。
この死の圧倒的な力に直面して、昔から死神と言うものを設定してきました。これは古今東西を問わないようです。それはいずれの地域でも死は普遍的です。死のないところはありません。人は絶えず死の影に付きまとわれます。恐るべき死の力は止むことはありません。死神は人間に対してあたかも全能であるかのように振舞います。確かにそのとおりです。死神は人間に恐怖を撒き散らし続けてきました。
人は死に対しては無力なのでしょうか。どんなに科学技術が進歩しても死の問題は果して解決するかどうか。科学は死を克服できません。
キリスト教と言う宗教は死の問題をどう扱うのでしょうか。今まで語ってきた宗教と同じなのでしょうか。そうではないと断言できます。
【聖書はキリストについて記す書物】
聖書は、イエス・キリストについて書かれた書物です。このように言いますとおそらく反対が出るかもしれません。実際聖書をイスラエルの歴史が書かれてある書物と見る人もいます。あるいはそのイスラエルの宗教や道徳に関する書物だと考える人もいます。座右の銘が多く記されているいわば格言集のようなものとする人もいます。そこにはいい言葉がたくさん載っています。ある人は心が静められ、心が安まる慰めの書と見ます。聖書の読み方は多様です。
私たちにとっては、聖書ははじめから終わりまでイエス・キリストについて書かれてあると思います。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。そのことを、聖書は予め語った書物であり、またその言行記録でもあります。
聖書はキリストについて記す書物です。でも、そのキリストについて語ると言っても中心があります。それはキリストの十字架と復活、その意味するところを記す書物であると言う観点は省くことはできません。
【使徒や弟子たちの復活証言】
新約聖書を書いたのは、キリストの弟子たちとそのまた弟子たちです。12人の弟子、それにパウロといった初期の弟子たちは使徒と呼ばれますが、その使徒の見聞きしたことをさらに弟子たちがまとめています。弟子たちはキリストの言葉を書き残しています。それ以上に彼らの役割は、キリストの復活の証言です。私たちはキリストの復活を見た、それを弟子たちは語り続けました。それを世界中に語ろうとしました。そのために嘲笑され、あるいは秩序を乱すものと非難され、迫害もされました。殉教者も続出します。それでも彼らは、キリストは復活したと語り続けました。
このように語っても簡単にキリストが復活したことを信じられるのかというと、むろんそんなに簡単に信じられるものではありません。しかし、次の言葉を何度も繰り返して読んでいただきたいと思います。
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」1コリント15:3-8)。
この個所を読み、驚きました。パウロがこの手紙を書いているときにまだキリストの復活を目撃した人が生存していたのです。
【イエス・キリストは死/人類の敵に勝利】
聖書が嘘を書いていないのであれば、この文章は簡単に読み流すことはできません。イエスはよみがえったということを宣教するために弟子たちは出かけていきました。命がけでした。何故そこまでしたのか。弟子たちが本当に復活のキリストに出会ったからではないでしょうか。
もしキリストがよみがえったのであれば、死という無敵で強力な独裁者は風穴を空けられたようなものです。大きな建物も基礎が崩れれば全体が崩壊します。キリストの復活は死が、そして、死神が全能ではないことを示すのです。キリストはよみがえって死という巨大な私たちの敵を打ち倒してくださったのです。死は敗北しました。イエス・キリストは死に勝利されました。
これは単なる霊魂の不滅ではなく、それ以上です。からだはそのままでは死ななければなりません。確かに死は私たちを襲います。しかしながら、死はすでに征服されています。最後のあがきのように私たちを苦しめはしますが、キリストが私たちと結びついてくださっている限り、私たちもキリストのようによみがえる希望を持てます。事実、キリストは信じるものと一つとなってくださって、終わりの日には私たちをもよみがえらされます。
キリストは私たちを死に対する勝利者の群れに加えてくださいます。これが驚くべき知らせです。
イースターはこの喜ばしい使信を聞く機会となのです。私たちは死の影におびえて生きる必要はありません。死を仕方のないものとして諦める必要もありません。死は巨大な力を持っているかのように今も振舞いますが、実はすでに敗北者でしかないのです。死は驕り高ぶっているかのようではありますが、もう究極的な勝利など覚束ないのです。
死のトゲは抜かれてしまっています。からだのよみがえりをキリスト者は信じています(使徒信条)。キリストにあってやすらうのは、キリストがすでに死人の中から三日目に復活して、今は天におられるからなのです。(おわり)
2015年04月05日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一
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