2015年4月19日説教「病を癒すイエス・キリスト」金田幸男牧師

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説教「病を癒すイエス」金田幸男牧師

聖書 マルコ6章53-56

要旨

【ゲネサレト:肥沃な土地】

 この個所は場面が移動する連結部分に過ぎないこと、1:32-34、3:7-12と内容が似ている(悪霊の追い出しを除く)ので余り重視されていません。イエス・キリストがみ業をなされたあと、人々が集まってきて、そこで病人を癒すという内容です。病の癒しはキリストの重要な働きであって簡単に見過ごしはできません。

 

 イエス・キリストとその一行はガリラヤ湖の北岸沿いに西に航行されます。ゲネサレトという平原地方に着いたと記されます。ここは現在の情景を写した写真でも分かりますが、肥沃な土地で、豊かな穀倉地帯でした。ガリラヤ湖の近くには荒野もあり、必ずしも全域が豊穣の地とはいえません。ゲネサレトにはたくさんの農産物が生産されていました。当時農業が最大の産業であり、経済的に恵まれた地域で人口も比較的多いところでした。安定した生活ができるという自然の恩恵を享受していました。

 

【病気】

 しかし、どんなに恵まれた生活ができても解決できない問題があります。そのひとつが病気です。

イエス・キリストがゲネサレト地方に到着したと聞いて、たくさんの人々が病人を床に乗せて運んできました。この病人たちは歩くことができなかった人々であったことが分かります。この豊かな地域にでもたくさんの寝たきりの病人がいたのです。当時、病気になるということはたいていは死に直結していました。当時の医療技術のレベルは低いものでした。治せない病気のほうが圧倒的に多かったに違いありません。薬草の類はあったでしょうけれども購入できる人が限られています。多くの人にとっては病気にかかればただ床に寝かせられているだけでした。苦しみながら死を迎える、それが病人の運命のように思われていました。

 

 だからこそ、人々は何とかしたいと思ったのです。何もできなければできないほど何とかならないものかと焦燥感に襲われるものでしょう。患者を抱える家族は病人に何も出来ないという悲しみ、苦悩、焦りに見舞われたはずです。

 

 今日、多くの病気はなおせるようになりました。医療技術の進歩は目覚しいものがあります。ほんの10年前まで手の施しようがなかった病気も直るようになりました。病気の死亡率が低くなって来ています。かつては不治の病とか、手の施しようのない病気とされていた種類の病気の特効薬が発見されたという例はいくつもあります。

 

 病気そのものは苦しみを伴います。先ず、典型的なものは痛みではないでしょうか。息苦しい、だるい、食欲がない、歩けない、力が出ない、しんどい・・・その上気力も衰え、精神的な負担も大きくなります。自覚症状のない病気もありますが、気がつけばもう手遅れということも珍しくありません。現在でもあらゆる病気が治るのでもありません。むしろ、かつて聞かなかったような病名の病気が増えてきていると思われます。多くの病気は治りますが、それでも直らない病気があります。不治の病に襲われた者の不安や苦悩は想像を絶するものでしょう。突然にそのような病名を宣告されて戸惑い慌てふためく場合も珍しくありません。今日でも病が人を苦しめている事実は変わりありません。

 

【病の痛みは今日・・】

 病気になることに伴う痛みはかつては厄介なものでした。痛みはその人自身が体験するもので、他人にはその痛みは分かりません。主観的なものといってよいかもしれません。ある人に痛みは絶えられるが、他の人には耐え難いと感じる場合もありでしょう。それが激痛であれば耐え難い苦しみの淵に追いやられます。今日幸いにして、痛みは解消されつつあります。大きな手術を受けても痛みは余り感じなかったという人も多くなって来ています。末期症状といわれた悶絶しそうな痛みも今では克服されそうです。こうして、医学や医療技術の進歩で私たちは余り病気を恐れなくなったことは確かです。しかし、私たちは病気そのものから解放されていませんし、おそらく人類の最後のときまで病気は存続するのではないでしょうか。そして、病気が与える恐怖心は解消されず、ひいては死に対する恐れを結びついたままです。

 

【癒し主イエス・キリスト】

 イエス・キリストの時代、病気になることの苦痛は今日は比較できないほど深刻であったはずです。私たちは今日の視点でイエス・キリストの時代の人々の生活を見てはならないのに注意しなければなりません。病気が与える恐怖、不安は今日と単純に比べることはできません。病気になるということは大変な破目に陥ることを意味しました。だから人々はイエスのうわさを耳にすると大挙してやってきたのです。イエス・キリストは人々が運ばれた町や村、そして小さな集落である里にも足を延ばして行かれます。ゲネサレト地方は人口が多い地域です。小さな集落も各地にたくさん散在しています。そういうところまでイエス・キリストは厭わないで入って行かれます。そして、広場に集められた病人を次々に癒して行かれます。だから、キリストはたいへん多忙であったと思われます。

 

 キリストは病人を憐れみ癒されました。その経過については詳しく記されていません。ここではキリストの着ている服のすそに触れたいと願ったとあります。癒しの方法はこれだけしか記されていません。キリストの病人の癒しの経過を詳しく記す個所はありません。唾を泥に混ぜて患部にあてたとか、手を伸ばして触れたとか、簡単に記すだけです。福音書は魔法の本でもなく、病気を治す奇跡の解説書でもありません。知りたがる人もいるでしょうけれども、どのような手順で癒されたかは知る必要のないことなのです。

 

【衣のふさ】

 キリストのすそについては民数記15:37-39に記されています。「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。 それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」キリストの服のすそは敬虔な律法を遵守する義の人であることのしるしでした。病人を連れてきた人も含め、癒してもらいたいと願った人がイエス・キリストをどう見ていたのかここから推量できます。キリストに特別なもの、神からの力を認めたからに他なりません。これを信仰だと解釈する人もいますが、明確な信仰があって癒しが行われたのではありませんでした。信仰が明瞭に見られないところでもキリストは病人を癒されたと考えるべきでしょう。キリストは病人とその家族を憐れんで癒しを実行されました。

 

【今日癒しの奇跡は】

 ここで大きな問題に触れなければなりません。

 キリストを信じるものは病気の癒しというキリストの特別な力を受けることができるのか。今日の多くの人は、こんな奇跡は信じないと決めつけます。科学的にありえないというのです。また、キリスト教はいわゆるご利益宗教ではないから病気の癒しなどを求めるのは邪道だという人もいます。信仰と病気の癒しは関係がないのでしょうか。

 

【主の憐れみ】

 信仰は神との取引材料ではありません。その人に信仰があれば神が病気を治さなければならない義務を負うなどとは考えられません。ただ憐れみによってキリストは行動されます。だから、信仰など無駄なのでしょうか。役に立たないのでしょうか。

 

 キリストはその服のすそに触ったものをすべて癒されましたが、これは病気に苦しむものへの憐れみに他なりません。キリストは今も病気に苦しむものを憐れまれていることは確かです。キリストは今も生きて働いておられます。今日医療技術は格段に進歩しました。さらに医療制度も整いました。このような環境の中で私たちは病を癒されて生きますが、これはキリストの憐れみによるものだといってもいいと思います。キリストはこのようにして今も働いて病人を病気から解放されます。キリストは全能の神の御子です。今日でも奇跡としか説明がつかない病気に癒しもあるでしょう。それをまったく否定するつもりはありません。けれども、病気はかつてと同じ方法ではありませんが、癒しの御手は伸ばされ続けています。だから、病気が癒されるようにとの祈りは続けられるべきです。イエス・キリストに私たちは期待をし続けなければなりません。絶望せずに祈ることが肝心です。キリストは病に倒れているものを憐れみ癒し助けようとしておられます。このことは確かです。私たちはキリストの憐れみにより頼むべきです。ここに信仰があります。

 

【不治の病と死】

 それでも癒されないままの病気はどうなるのでしょうか。これからも癒されなかい病気はいつまでも残るでしょう。病気はなぜ発生したのかといえば、人間が死ぬべきものとなったからであり、アダムの罪の結果であるといえます。罪がある限り病は消え去りません。このことも厳かな事実です。そして、キリストは人類の罪の許しのために十字架にかかられました。キリストは今も断固として罪の結果を除去しようと憐れみの中で働かれますこのことは決して変わることがありません。

 

 信仰は病が治る対価でも交渉の材料でもありません。しかし、病が癒されることで信仰が生まれてきます。癒されない場合はどうなのか。私たちは病を得て自分の弱さを徹底的に知らされます。病んだために、人間は神に依存する存在だと痛感させられます。そして、神に頼ることこそもっとも大切な人間の営みであると知ります。その果てに、私たちにとっては、神の永遠の祝福を仰ぐことに導かれていきます。(おわり)



2015年04月20日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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