2015年3月15日説教「何も持たないでいく」金田幸男牧師
2015年3月15日説教「何一つ持たないで」金田幸男牧師
聖書:マルコによる福音書6章6(後半)それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
要旨
【それから・・】
冒頭の6節後半が、6:1-6にかかるのか、7-13にかかるのかという問題があります。前にかかるとすれば、1-6に記されていたのは、イエスの育った町ナザレの人々がイエス・キリストを受け入れなかったということで、その場合、6節の後半の意味は、ナザレでキリストが拒否された結果、そこを去ってナザレ近辺の村々で福音を宣教したということになります。
7-13節にかかるとすれば、6節後半は、キリストが伝道範囲を拡大し、そのために人手が不足するようになった原因を記します。こうして、今まで訓練してきた弟子たちを、各地に派遣することになったという意味で取ることができます。
どちらが相応しいか。新共同訳は明らかに6節後半は7-13と関係すると解釈していますし、これが穏当だと思います。キリストはガリラヤ地方での伝道の範囲を拡大して行かれます。キリストの教えを受け入れる人が多くなってきます。キリストの伝道は同心円的に拡大していき、ついに地の果てまで拡大していきます。
【弟子訓練】
キリストは12人の弟子を選ばれました(マルコ1:13-19)。弟子たちはすぐには各地に派遣されません。その前に訓練する必要がありました。その訓練方法は、実地訓練というべきやり方です。キリストは単にどこかの教室で学ばせるというやり方ではなく、実際に会堂やその他の場所で民衆に教えられますが、弟子たちはそれを聞かされます。譬えで語り、その意味を弟子たちには明らかにされました。
また、嵐を静め、悪霊を追い出し、病人を癒されました。弟子たちはそれを目撃しました。キリストは弟子たちをこのようにして訓練されたのです。訓練期間がどれくらいであったか分かりません。そんなに長期ではなかったことだけは確かです。キリストの弟子訓練は何十年もかけて行われず、むしろ短期間であったと思われます。しかし、きわめて効果的な訓練であったことは確かです。
弟子訓練は時間の長さではなく、実際にキリストが何を語り、実際に何をしたかにかかっています。キリストがなさったことを体験すること、それが弟子訓練の最も重要な部分でありました。私たちも頭でなく、実際にキリストが語られ、弟子たちはキリストの働きを証言しているところに立たなければなりません。
【二人一組で派遣】
キリストは弟子たちを派遣するに当たって、二人を組にして派遣されます。一人ではなく、二人を宣教に遣わされます。
ひとりでは孤立します。孤立はキリスト者にとっては大きな試練となります。一人で知らない土地に派遣され、そこで伝道しろといわれても怖気づくものです。何も知らない町で伝道するとなると、もうひとり同志がいることは大きな励ましになります。励ましあい、支えあうことは伝道に必要です。もっとも、相互監視としても機能することを否定できません。そのように弟子として振舞わなければならないとしたら悲劇です。
【二人以上の証言】
しかし、二人組にしての派遣は別の目的があったと考えるべきです。申命記19:15-19では、裁判のとき、二人以上の証言は確固とした証拠能力があると見なされていました。今日では物証のほうが優先されます。現場に残された遺留品は証拠能力があるとされます。
今日では、目撃証言は物証以上に評価されません。しかし、古代世界では、二人以上の証言があれば、その裁判を左右する有力な証拠とされます。これは今日の時代の流れにそぐわないと受けとめられています。キリストが二人を組にして派遣されたのはその語ることが真実であると思わせるためでした。弟子たちはキリストの説教を聞き、奇跡を目撃しました。その目的の真実さを受け入れるようになるために二人組にして派遣されたのです。
キリストの弟子たちの語ることは真実です。私たちはここからキリスト教宣教の真実を知らされます。誰かの発明ではなく、何か教えを改変してしまったのではなく、キリストの弟子たちはキリストこそ多いなるみ業を行う神ご自身であることを証言しています。弟子たちは単にキリスト教団を拡大するために派遣されるのではありません。我々は見た、ということを宣言するために派遣されたのです。
【権能を移譲】
キリストは弟子たちを派遣するために権能を委ねられます。権能とは力を伴います。人を派遣するとき、権能を与えなければその働きは効果を発揮できません。タイトルだけ与えて実際の権能を与えなければその人は何もできません。権能が委ねられることもないような派遣はありえません。
【悪霊を追い出す権能】
この権能は悪霊を追い出す権能でした。権能はこの世界の権能ではなく、霊的勝利をもたらすための権能でした。弟子たちはこの権能を委ねられ、実際、13節にあるように、その権能の行使を実行しています。
キリストは権能を授けますが、それは派遣するものがキリストの代理者であることを示します。弟子たちがしたことは12-13節に記されますが、彼らは悔い改めを宣教し、悪霊を追放し、病人を癒します。これはキリストがなさったことです。弟子たちのすべきことは、キリストがなさったことと同じです。弟子たちはこの範囲からはみ出すことを許されません。
【派遣のための訓示】
キリストは弟子を派遣するために訓示を与えます。先ず、杖を1本持て。マタイ10:10では杖を持たないようにと命じられています。どちらが正しいのか。どちらと決めることは困難です。歩行のために杖があると楽です。急な坂を登ったりくだったりするとき杖を持っていると助かります。弟子たちは険しい道も行かなければなりません。杖は必需品とされます。しかし、杖は武器ともなります。マタイが記すように、キリストは弟子たちに杖の持参も禁じられたとすると、無防備であることを奨励しているということにもなります。古代のユダヤの社会ではそれはとても危険なこととされます。強盗や山賊が跋扈する社会では旅行者は杖を必要としますが、キリストはあえて無防備で伝道しろといわれているかのように受け止める人もいます。そのために勇気が求められます。キリストは単純な無抵抗を奨励しているのではありません。キリストは杖だけを持参することを認められたと理解していいのだと思います。
パンは腐りにくく乾燥させます。そのように処理された食料は旅行を実行するために必要です。長い距離を行くとき、途中で宿泊施設を見い出すのは困難でした。そのパンを持つな。その日の食事のことでアクセク考えるなという意味です。パンはどころか何一つ食べる機会を失してしまうことにもなります。
お金は小額の貨幣を指しています。僅かのお金もなく、無一物で旅行をしなさいとは無茶な話です。大金ならいざ知らず、僅かのお金も持たないで伝道する。無茶な話です。
履物はサンダルです。当時の人々は、大半は素足で歩きました。しかし、裸足では徒歩で長時間歩くことは不可能です。サンダルだけ認められるのは長距離のせいです。弟子たちはこれから遠くまで派遣されていきます。サンダルを履かないでは長い伝道旅行をすることはできません。伝道旅行は思う以上に過酷なものです。
最後に下着を二枚持つなと命じられます。当時の下着は長く体を覆うことが出来るようになっています。夜中野宿をするような場合、夜露を避けることができます。夜中宿を取ることができなければ夜露を避けることができないまま寝るようになってしまいます。
以上のようなキリストの訓示は大変過酷な伝道旅行を暗示されているように思われます。実際伝道は困難です。そこには厳しい日常生活があります。一部の信者ならばできるかもしれません。しかし、大半の信徒にはできないような要求となっています。
このようなキリストの訓示をどう理解したらいいのでしょうか。キリストの弟子たちは無一物となって、厳しい日々の生活を過ごさなければならないのでしょうか。キリスト教の歴史から知ることは何もかも捨てて献身的に働いた人々のことです。私たちは宣教するときは無一物、つまり一切を投げ捨てなければならないのでしょうか。キリストは伝道に従事するものは禁欲的に生きて行けとはいわれていません。
【キリスト者を迎え入れる親切な家】
キリストは10節において、キリスト者を迎え入れる親切な人のことが記されます。神は、無一物の伝道者を路傍に捨てるようなことをされません。必ず、働き人を喜んで迎えて世話をする人が出てくるようにされます。
キリスト教会では最初から旅人への親切が奨励されていました。ホスピタリティといわれるものです。神は各地を巡り歩くもののために彼らを援助する信徒を用意されていますから、何も持たないでいいのです。伝道者は飢えなければならないとか、無一物で働けという声を聞きます。それは間違っています。むしろ神は伝道者が飢え乾かないように整えられます。何も持つな、あとはどうなろうと関わらない神ではありません。キリストは伝道者のために配慮をされます。
これは伝道者だけの問題ではありません。キリスト者は苦難の道を歩まなければならないことを知っていますが、また、同信の人々の助けも用意されています。孤独で伝道することはできません。多くの陰で支える働き人があってこそ、伝道者はその務めをまっとうできます。
しかし、安楽だからといって長居できません。目的が達したらさっさとそこは立ち去らなければなりません。また、必ず受け入れられるとは限りません。そういうところは足のちり、ほこりを払って出て行きなさいといわれます。足のほこりを払うのはユダヤ人のやり方で、ここは異教徒の住居でそういうところとは縁を切るという宣言でもあります。私たちは福音を受け入れず、伝道者をなおざりに扱うものとは関わりないと宣言されます。弟子たちはこのような福音との無関係さをも人々に宣告する役割も果します。(おわり)
2015年03月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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