2015年2月1日説教「何故怖がるのか」金田幸男牧師
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聖書:マルコによる福音書4章
35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。
37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。
38 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。
39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。
40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。
41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。
要旨
【反キリスト】
マルコ4章35-5:4には、敵対する力に対するキリストの勝利の物語が三つ連続して記されています。今日はそのうちに第一、イエス・キリストが嵐を静めた物語を共に学びましょう。
【ガリラヤ湖と嵐】
まず、ここに記されていることは誰も到底信じがたいと思われるでしょう。現代人は自然現象が全て科学的に証明されるものと考えています。したがって、超自然的現象とは考えません。ガリラヤ湖はすり鉢型の地形になっていて、夜や朝方、主として西風が急斜面を下り降るとき加速してこ面を吹き抜けるという現象がしばしば起こります。
この風をイエス・キリストが鎮静化したと到底信じがたいと人は思うのです。イエス・キリストはこの風が一時的なもので、すぐに静まると知っていて「静まれ」といわれたのだと合理的解釈をする人もあります。しかし、果たしてそうなのでしょうか。ここに記されていることから気づかせられることがあります。
先ず、イエスは船に乗ったままであったと記されます。いったん岸辺にも行かず沖合いに船を進ませています。また、この文脈と関係なく、他の船のことが記されます。この船の消息は書かれてありません。この物語には不要の記事です。さらに、イエスは船の艫のほうに寝込んでいたと記されます。ガリラヤ湖は交通の要衝で湖もよく利用されていました。旅客船には十数人が乗船でき、その船尾には上等の乗客のためにクッションが敷かれていたそうです。キリストの乗った船は小さな漁船ではなかったことが分かります。このような詳細な部分から、書き手は嵐を静めるイエスの業を直接目撃したということになります。しかし、これでこの物語の信憑性を誰もが信じるようになるわけではありません。
【嵐を静めるイエス】
イエス・キリストがここに記されているように嵐を静めたかどうか真実性を確かめる術は実際にはありませんし、たいていの人間は信じられないというだけでしょう。
コロサイ1:16-17をご覧ください。
「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王権も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてものものより先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。
あらゆるものは御子イエス・キリストによって創造され、支持され、支配されています。この信仰からすれば、イエス・キリストが嵐を静めることができたとしても不思議ではありません。ここに記されているようなキリストであれば、嵐を静める大いなる力を保持、保有されています。そして、このキリストを信じる信仰がまぎれもなくキリスト教信仰の核心です。
【超自然的力を顕すキリスト】
キリスト教を冠しても、多くのキリスト教では、もはやこのようにキリストが信じられていません。熱心なキリスト者でも嵐を静める、つまり自然現象を変えてしまうような力を持つキリストは信じられなくなっています。
そうでなくて、キリストは心の平安を与える程度の力しかもっていないとしか信じられていせん。むろん、心の平安を与える方としてキリストが信じられているとしてもそれを非難したりできません。キリストを信じて得られる平安は大きな価値を持っています。そのようなキリスト信仰を否定などできません。それはそれですばらしい信仰といえると思います。
しかし、コロサイ1:16-17が記すキリストを信じることのほうがもっとすばらしい。キリストは単なるよきことの教師に留まるのではなく、また、精神的な領域だけで活躍する救済者と考えることだけではキリストを正しく把握しているのではありません。キリストは天地の創造主として、また支配者、維持者、指導者であられます。このようなキリストを告白し、信じるところで私たちは大きな励まし、慰めを受けるはずです。
【疲れて寝込まれるキリスト】
さて、奇跡を見ていきましょう。イエス・キリストは朝から夕暮れまでずっと教えを続けられていました。キリストは岸辺から少し離れたところから群衆に説教をされていました。おそらくキリストは疲労困憊となってしまったのでしょうか。群衆から離れるために、岸辺に戻らず、そのまま対岸まで行かれようとしたのは間違いないでしょう。キリストは疲れきっていたのです。キリストは疲れきって船の中で寝込んでしまわれたのです。キリストが疲労困憊になって寝込んでしまったという記事は他で見当たりません。キリストが弱さを見せられたのですが、マルコはためらうことなくキリストの弱さを記録します。人間と全く同じくキリストは疲れをおぼえる方でした。同時にキリストは創造主として嵐を静める大きな力を発揮されます。この対照をマルコは意識していたに違いありません。
激しい風が吹いてきて船は水をかぶり、沈没しそうになって来ました。同じく湖の上に出た他の船のことは何も記されていませんが、ある注解書では他の僚船は破船したに違いないと記されます。あるいは西風に吹き飛ばされて岸辺に到着したのかもしれません。
ガリラヤ湖の上の破船は珍しくありませんでした。この船は旅客用の船であれば比較的大型となります。漁船以上の大きさはありました。だから、少々の大風も大丈夫といってよかったと思います。イエスの弟子たちの中で、ペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネはこの湖で長く漁師をしていました。彼らは湖のことを知りつくしていました。その彼らが恐れを抱いたのです。
【恐怖に襲われる弟子たち】
よほどの大型船と違い、旅客用の船でも危険をおぼえさせられるものですが、その船上で、この湖のことをよく承知したいたものですら恐怖に襲われています。そして、漁師たちも手の施しようのない危機に直面していると認識しました。それほど嵐は巨大であったと想像できます。現在では、異常気象で、今まで経験したことのない災害に見舞われています。ここでも、今まで経験できなかったような、史上最大級の風、大雨が襲ってきています。このたびの嵐も想像を絶する大きな嵐であったと考えていいのではないでしょうか。今までも弟子たちの中の漁師ですらも想像もできそうにもない危険な大風であったと思われます。
弟子たちは眠っているキリストをたたき起こします。イエス・キリストに大きな力があると信じていたので、助けを求めたのだという解釈も成り立つかもしれませんが、ここは熟練の漁師たちもどうしていいのか分からなくなるほどパニック状態に陥って、ぐっすり寝込んでいるイエスを起したのだと考えてもよいのではないでしょうか。それほどまでこの嵐はとてつもなく大きな現象であったと言えるのです。
【嵐の背後にある悪の存在】
普通ではない現象が起きています。その背後には巨大な力が厳然と存在しています。イエス・キリストを湖底まで静めてしまおうとする恐るべき敵対者が働いています。
イエス・キリストが単なる嵐を静めただけの存在ではありません。ここに記されている嵐は表面上は単なる大きな嵐です。しかし、その嵐を扇動する大きな力がうごめいています。
自然現象を利用する勢力が存在します。大きな力を利用して、キリストを圧倒しようとする力が働いています。自然そのものは中立です。それを用いてキリストを圧倒しようとする計略を組み、キリストの働きを阻む敵対する勢力が力を振るって、キリストを圧倒しようとしています。
だから、あたかも人格があるかのように、キリストは嵐に向かって語り、湖にも語られます。キリストは嵐そのものだけに語っているのではなく人格を持ち、しかもキリストに反抗するだけの役割を果たす霊的な諸勢力と対峙されています。
【勝利者キリスト】
キリストはこの霊的敵対勢力に向かって行動をされています。キリストは恐るべき敵に勝利を獲得されました。キリストは天地の創造者ですが、また、見えないところで働かれる救済者でもあります。嵐を利用としてキリストを滅ぼそうとする霊的な勢力をキリストは圧倒されます。
私たちはさまざまな敵対勢力に直面しています。キリストは恐ろしい敵対者をうち平らげる方なのです。この物語がそれを証言しています。
自然を利用して私たちを誘惑し、試練を与え、苦悩と恐怖のどん底に陥れようとする勢力があります。そのとき、私たちはキリストがどういう力を持っているか痛感させられるのがこの奇跡です。
イエス・キリストは嵐を静められます。キリストは弟子たちに、何故怖がるのか、信じないのかと責められます。嵐の前、生命が失われそうになっているときに、恐れているのか、怖がっているのかといわれると筋がはっきりしますが、ここでは嵐を静めてしまってから、キリストは弟子たちにこのように言われました。時間的にずれがあるように思われます。そう思うのは訳語のためかと思います。何故怖がるのかは、「何故、かくもあなた方は小心者なのか」と訳すこともできます。
【小心者であってはならない】
恐れているのは小心者だからです。肝っ玉の小さな人間はちょっとしたことに恐れを抱き、怖がりすくんでしまいます。小心者とは不信仰者です。いわゆる言うところの小心者ではありません。御子が何者か知らないゆえに御子を信じないものを指しています。小心のゆえにパニックに陥ります。むろん、ただ元気だけ、勇気があるだけでは何にもなりません。ここでは恐怖心に縛られ、右往左往しているだけで、神に向かわない小心さが不信仰とされています。だから、私たちは小心者であっても、神を信頼することだけでいいのです。小心者だからこそ、神の御子を信じるのです。御子は嵐を静め、その本質を明らかにされます。キリストは神なのです。嵐を静めるキリストはただ奇跡を行う力をたまたま持ちえたというのではありません。キリストは神の子、全てのものの創造者なのです。(おわり)
2015年02月03日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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