2015年2月8日説 教 「神があなたにしてくださったこと」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書5章
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

説教「神があなたにしてくださったこと」

 マルコ5:1―20

 

 要旨

【悪霊に勝利されるキリスト】

 イエス・キリストの敵対する勢力に勝利される記事の2番目をともに学びましょう。5章1-20には汚れた霊につかれた人からその悪霊を追い出されるという物語が記されます。

 

【ゲラサ/ガダラ:異邦人の地】

イエス・キリストとその弟子たち一行はガリラヤ湖の東岸に着きます。突風は西風で、船は東の岸辺まで吹き寄せられました。ガリラヤ湖の東岸はデカポリス地方と呼ばれます。デカポリスとは10の町という意味で、紀元前330年代以降、アレキサンドル大王とその家臣たちが建設したギリシヤ風の都市で、新約の時代にはローマの支配下に置かれていました。これら10の町はひとつ(ベテシャン)を除き、ヨルダン川の東に位置します。そこは、異邦人が圧倒的に多く住む地域でした。ゲラサはデカポリスのひとつで、ガリラヤ湖の南端から南東約56キロにありました。これでは少しガリラヤから離れすぎています。マタイ8:28以下には同じ記事が記されますが、そこにはガダラとありますが、その場合はガリラヤ湖の南端から東南に約10キロです。マタイとマルコに違いがあると言うことになりますが、ゲラサは都市を指しているのではなく、ガダラの町を含む広い地域、ゲラサ地方を指していると考えることができます。そこは異邦人の住む地域でした。

 

【汚れた霊につかれた人】

イエス・キリスト一行は本格的にまだ異邦人伝道をしていません。だから、ここは風で吹き寄せられ、いわば漂着したところでしたから、ここで伝道をしようとされなかったと考えていいのではないかと思います。ところが、向こうからイエス・キリストのところへやってきた人がいます。彼は汚れた霊につかれた人でした。彼についてマルコは悲惨な状態を述べています。先ず、汚れた霊につかれていたとあります。さらに墓に住んでいました。それだけではなく、凶暴な性格であったのでしょう、たぶん発作が起こりますと、手の負えないほど凶暴になります。人々は彼に手枷をはめ、鎖につなげていました。しかし、それは全く役に立たず、暴れると手枷も鎖も壊してしまうのでした。

 

ユダヤ人は遺体に触れることをたいへん嫌いました。家族の遺体さえも触れることを嫌います。多くの場合、家族の遺体を清める仕事は女性や特別に雇われた人がすることになっていました。遺体に触れることは汚れると考えられていたからです(民数記19:14,16,18)。また、墓ですら触れると穢れるとされていました。ユダヤ人は頻繁に墓参りなどしません。彼らは墓に漆喰を塗って間違ってでも墓に触れないようにしていました。ですから、これだけでも墓を住まいとすることは常人ならば絶対にすることはありません。墓は自然の洞窟を使用したり、岩を穿って作りました。夜露をしのぐためには適切であってもそこは人の住むところではありません。これだけでもその悲惨さが分かります。彼は、また足枷や鎖につながれていました。ときどき突然に暴れ出すとはいえ、このようなもので縛り付けられルということも悲惨なことです。自分では制御できない衝動に駆られて乱暴をするのでしょうけれども、自分では制御できないということもいっそう悲惨なことです。このようになるのは汚れた霊に憑かれていたからです。汚れた霊、悪霊につかれるとは支配を受けることなのですが、人格を破壊され、意志を貫くことができず、狂気に支配されるような状況は全く悲惨な状態です。人間性を失い、別の何かの力に支配されてしまっています。

 

汚れた霊につかれるとはどういうことでしょうか。多くの場合、精神の病気とされています。精神の病気がもたらす症状は多くの人に驚愕と恐怖心を与えました。それを悪霊につかれると表現したのだとされています。そして、現在では精神の病気は大脳の神経伝達物質の異常で起こるとされています。難病ではありますし、長期の治療が必要ですが、完治(寛解)する病気とされています。     

 

汚れた霊につかれることが今日の精神の病気で説明できる面もあります。しかし、精神の病で全て説明されるということは、悪霊につかれる状態、事実を否定することになります。精神の病気は大脳のメカニズム異常であるに過ぎす、悪しき霊の作用などではないということになります。悪霊につかれるとは所詮古代人の考え方であって、科学が発達した現在では悪霊など迷信、あるいは想像の産物に過ぎないと考えられるのです。しかし、悪霊を簡単に否定することはできません。むしろ、精神の病、さらに、多くの病は悪しき霊が背後にあってうごめいていると考えるべきであると思います。

 

悪しき霊は今も活躍していて、人間の不幸や災いを来たらしめ、その悲惨な中で神を呪ったりさせ、不信を抱かせようとしています。病は一方では身体的、生理的な異状から来るものであることは間違いありません。だから、医療技術で治ります。かつてよりも病気は克服されるようになったことは事実です。しかし、病気の背後には人間を苦しめ、悩ませ、神に対する信仰を妨げようとする汚れた霊の活動を見なければならないと思います。そして、現代医学はこの悪しき霊を打倒することはできません。

 

【悪霊の存在は否定できない】

医学が進歩して悪霊はその姿を巧みに消し去ることに成功しました。悪霊の存在など神話あるいは、創作とされてしまいました。かえって気味悪い存在とされて、それとともに、実在性は曖昧にされ、できるだけ考えないようなものにされてしまいました。変わって、単なる運命だとか、必然だとかと片づけられ、悪しき霊を圧倒するキリストの力は軽んじられてしまっています。キリストの圧倒的な勝利の力ヘの信頼は失われて久しいのです。病気だけではなく、自然災害、さまざまな事故、混乱の背後には汚れた霊が暗躍しています。私たちはキリストのゆえに、汚れた霊に翻弄される必要はありませんが、またその存在を無視することも危険です。

 

【悪霊はイエス・キリストが神の子であると知っている】

 汚れた霊につかれた人はイエスを遠くから認めてやってきて、跪きます。彼は叫びます。「いと高き神の子、イエスよ」これは驚くべき言葉です。キリストの弟子すらもまだイエス・キリストをこのように見ていません。イエス・キリストが神の子であるという知識はキリスト教信仰の核心部分です。こんな重要なことを汚れた霊は公然と叫んでいます。

 

 キリストに敵対するものも真理を知っています。キリストについてさまざまな論評が述べられます。イエスが神の子であるとキリスト者が信じているとは知られています。しかし、知っていることと信じることは別問題です。汚れた霊がイエスを神のこと認識していたからと言ってそれで悪しき霊がキリストに服したわけではありません。

 

【本当の名前を知ること】

その上、汚れた霊には下心があったのです。本当の名前を知ることは相手の力を阻害できるというものです。このような考え方は世界中に見られます。名前は単なる記号ではありません。その名を損なうと言うことはその相手を損なうことです。イエスが何者か知っていると強弁することでイエス・キリストの力を抑制しようとします。むろん、それは成功しません。

 

【レギオン】

キリストは、汚れた霊に尋ねています。お前の名は何か。相手の名前を言わせることで、キリストは圧倒的な優位にあることを示しています。そして、悪しき霊はイエスの問いに答えなければなりません。「レギオン」これが汚れた霊の名前でした。レギオンとは、ローマの軍団のことです。ローマの一軍団は6000人の兵士からなっていました。この汚れた霊の名がレギオンと言ったのはなぜか記されていませんが、たくさんの霊につかれているゆえであったのかもしれません。あるいはこの人の病の発症にはローマの軍団が関係していたのかもしれません。

 

【豚に入らせてくれ】

レギオンはキリストと取引をしようとします。汚れた霊は素直に出て行こうとしなかったのです。そこで豚に入らせて欲しいと願います。ここは異邦人の住む地帯でしたから多くの豚が飼われていました。ローマ人は豚の肉を愛好しています。しかし、ユダヤ人は豚が汚れた動物として食べることはむろん、触れることもしませんでした。汚れた霊は汚れた動物に入ることを求めましたが、それは相応しいことでした。

 

汚れた霊が入ると、豚は湖に突進してしまいます。その数は2000とあります。大量の豚が湖で溺死してしまいます。悪霊がどうなったか記されていません。しかし、湖になだれ込んで滅んでしまったと見てよいでしょう。このように人を支配し、悲惨な状態に追いやり、苦しめ、悩ませ、人格を破壊し、人間性を損なわせるような悪しき霊は滅ぼされます。キリストは悪しき霊に対して圧倒的な力を発揮されます。私たちは汚れた霊の力を無視したり、軽視できません。しかし、キリストに信頼することはそれ以上です。キリストは悪しき霊を滅ぼし、倒し、勝利される方なのです。この方により頼むならば汚れた霊を恐れる必要はありません。

 

【ゲラサの人々の反応】

 このイエスの奇跡にゲラサ地方の人々はどういう反応を示したでしょうか。彼らはイエス・キリストのなさったわざを見ています。しかし、彼らはキリストが厄介なことをする人としか見ていません。実際たくさんの豚が溺れ死んでしまいます。大損害です。キリストの力は迷惑、厄介としか見ていません。他方、癒された人はキリストに従いたいと願い出ます。それは許されませんでしたが、家族、近隣の人々には起きたことを告げよと言われます。3;12では、手の萎えた人が癒されますが、彼には誰にもそのことを話すなと命じられます。

 

【異邦人伝道の端緒】

この違いはどこから出てくるのでしょうか。ゲラサが異邦人の住む地域だったからに違いありません。ユダヤ人はキリストの行為を安息日規定違反と告発します。キリストの癒しはユダヤ人に対する敵対、反対と取られます。この奇跡は異邦人の地でなされます。キリストは異邦人伝道には積極的に行われませんでした。先ずユダヤ人を。これがキリストの方針でした。しかし、このゲラサでの働きは異邦人伝道にほかなりません。まさしくその端緒を画します。(おわり)

 


2015年02月08日

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