2015年2月22日説教「恐るな、ただ信じなさい」金田幸男牧師

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説教「恐れるな、ただ信じなさい」金田幸男牧師

聖書 マルコによる福音書5章35―43

 

要旨

【2人の女性の癒し】

 マルコ4:35からイエス・キリストに敵対する勢力への勝利の物語が三つ並んで記されています。最後の5:21-43には、病気という大きな、キリストの働きを阻止しようとする勢力への勝利が記されます。病んでいるのは2人の女性です。この2人へのキリストの働きは共通点があり、関連していますが、今回は別個に取り上げます。その2人の女性とは、12年間出血と患う人と会堂長ヤイロの12歳の娘です。

 

【会堂長】

 会堂長について若干説明します。ユダヤ人の宗教生活に神殿での行事、そのところでの礼拝は重要ではありましたが、キリストの時代には、それ以上に安息日に会堂【シナゴーグ】に集まって礼拝を守ることが重視されるようになっていました。ユダヤ人はその集落を営むところでは会堂を建て、そこに集まりました。この会堂を管理するものが会堂長です。多くはその地のユダヤ人の間で尊敬されている人物が選ばれました。彼らは律法学者や祭司のような専門家ではなく、一般のユダヤ人の信徒でした。カファルナウムのようなユダヤ人が多く住むところでは会堂の規模もそれなりに大きく、したがって会堂長は複数の人が選ばれていたようです。

 

【ヤイロの懇願と癒しの中断】

ヤイロ(ヘブライ語ヤイル=彼は照らすの意=のギリシヤ語読み)の娘が重病に陥ります。どんな病気であったか記されていませんが、ヤイロはキリストのことを知っており、取りも取りあえず、キリストのところで駆け込みます。彼はキリストの前に平伏して懇願します。その気持ちは分かります。彼にとって、この娘は可愛い盛りでありました。目に入れても痛くないほど激愛していたのに違いありません。切羽づまってキリストに助けを求めたのでした。キリストはいつものように多くの民衆に教えを語っておられる最中でしたから、ヤイロの行動はキリストの働きを中断させるものでした。キリストは、そのようなヤイロの行動を責めることなく、その家まで同行しようとされます。ヤイロはその時点ではひと安心という思いになったかもしれません、ところが、またもや中断が起きます。12年間出血を患っている女が群衆に隠れてキリストの服に触ろうとしました。実際彼女は癒されます。キリストはその女性に名乗り出るように求められます。ヤイロの言動や態度は記されていませんが、気が気でなかったことは容易に想像できます。一刻を争う緊急事態なのにキリストは悠長に女性が名乗り出るのを待っています。

 

 私たちは、心急くことがあり、緊急に何とかして欲しいと思うような経験をしばしば味わいます。ところが、思い通りには行かないのです。これが人生だというべきかもしれません。私たちはいつもかくあって欲しいと思うような願いを心に抱きます。それは緊急の場合も多くあります。しかし、実際には実現しないのです。それは、私たちの信仰生活の中でも起きてきます。神に、願う。懇願する。実現を切に願う。ところが神は一向に答えてくださいません。焦燥感に駆られ、失望をします。こころの苦しみを体験します。

 

【娘の死の知らせ】

 そして、そこに悲報が伝えられます。12年間出血を患っていた女性とやりとりをしている間にヤイロの娘が亡くなったという知らせです。もうキリストに来ていただく必要がない。キリストに来ていただいても何の役にも立たない。もう手遅れである。

 死が私たちにもたらす感情は万事休すです。死が来た時人間はもう何もすることがないし、できない。死によって一切は終了した。生きているときには手の打ちようもあるかもしれないが、死んでしまえば何もできない。人は死の前で全く無力である。死は諦めを促します。死の知らせが伝えられるとき、私たちの心に去来するものは大きな失望です。万事休す。死は一切の終わりである。誰もがそのように考えても不思議ではありません。死に直面して、このような感情が私たちの心を支配します。恐るべき力を持って臨んできます。そして、キリストの関与を拒絶します。死は、キリストをいわばお払い箱にしようと企てるのです。死の領域では、支配者は断じてキリストではないと宣告したがります。死は、死の力の強大さを誇示しようとします。病気もまたこの死を確実にもたらしてくる強大なキリストの敵であると言っても過言ではないでしょう。

 

【「恐れることはない。ただ信じなさい。」】

 ところがキリストはそのような死の厳粛さをぶち壊してしまうような雰囲気を醸しだされます。キリストは言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」ヤイロに言われていますが、この言葉をそこに居あわせた人が聞いています。

 敵対する勢力、ここでは病気と死ですが、人間に圧倒的な力を振るっています。この力の前で人間は全く手の施しようがないかのようです。ところが、キリストはこの敵対する力に抗して、求められるのは信仰です。12年間出血を患っていた女性には、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。信仰がその奇跡を起こしたと言われているかのようです。むろん、病を癒されたのはキリストの力です。キリストこそ病を打ち倒す実力を持っておられる方です。

 

【死に対するキリストの凄まじい闘い】

ただ、病気も死も恐ろしい力を発揮しています。この力を打ち破るために、キリストは私たちにただ信じなさいと命じられるのです。病と死に対するキリストの闘い、それは凄まじい闘いと言ってもよいでしょうけれども、私たちは単なる観客ではないのです。キリストを信じきることが求められます。信仰のないところでは、病と死という圧倒的な力を前にして、抵抗する術は全くありません。医療技術の進歩で信仰など入る余地がないように思われています。治療に信仰などかえって邪魔だと公言する人もいます。そうでしょうか。病気と死が持っている強烈な力は今もなお健在ではないでしょうか。それを目の前にするのは自分が病んだり、死を目の前にしたときです。そのとき死がおごり高ぶっていることをいやおうなく知らされます。むろん、信仰さえあれば医者は要らないとか、病院に行くことを拒否してもよいなどと言うのではありません。神はそれらを用いて癒しのわざを行われます。神の働きを信じて治療を受けるべきなのです。 

 

【癒しの証人】

 さて、キリストは群衆から離れ、三人の弟子だけをヤイロの家に連れて行きます。奇跡は見世物ではないからです。しかし、密かに行われるべきものではなく、3人プラス、ヤイロとその妻は証人として選ばれます。

 

キリスト一行がヤイロの家に到着したときすでに葬儀は始まっていました。当時のユダヤ人の葬儀はかなり騒然としていたと考えられます。葬儀には必ず泣き女と言って大声を出して泣き叫ぶ職業的専門家が招かれました。大きな声を出して泣き、その場の雰囲気を盛り上げるといってもよいでしょう。ヤイロのような町の有力者の場合はそれ相応の人数の泣き女が招かれたことでしょう。死は悲しい、そういう雰囲気を作り上げることが葬儀の目的でした。葬儀は、今日では、エンターテインメントになっています。専門の業者が入り、葬儀の雰囲気を作り上げます。とても悲しい声で、葬儀が進行されていきます。厳粛な雰囲気を作り上げるためにさまざまな工夫がなされます。しかし、多くの場合、葬儀は、死そのものを直視させようとしません。葬儀の雰囲気は厳粛であり、それ自体責められるべきものではないとしても、死そのものは隠されています。例えば、花や香料で死(者)のにおいはかき消されます。死は葬儀の場では後退させられます。泣き女の存在はその場の悲しみを盛り立てはしますが、それは専門的にその場を悲しい場にしようとするもので、死の問題、死者の存在は後ろのどこかに忘れさせようとしています。しかし、葬儀こそ、私たちはそこで死を直視し、死に対決させられる場なのです。

 

【子どもは死んだのではない。眠っているだけだ】

 キリストが到着します。「子どもは死んだのではない。眠っているだけだ。」この眠りは昏睡を意味しますので、キリストの言葉の通りこの少女は死んでいたのではないという説明をする人もいますが、この文章の流れから言うと確かに死んでいるのであり。キリストはただよみがえらせられることを前提にしてこの言葉を語られただけです。泣き女をはじめそこにいた人は嘲笑します。確かにヤイロの娘は死んでいたのです。誰が聞いてもキリストの言葉は奇異に感じるはずの発言でありました。

 

【タリタ・クム】

 キリストは、少女の手を取って「タリタ・クム」と言われます。ここには呪術の気配は一切ありません。タリタ・クムとはアラム語で、少女よ、わたしは言う、起きなさい、と言う意味です。わざわざアラム語(当時、使われていた共通言語)を記していることは、5人の存在、あるいはあとで食事をさせなさいと言われたキリストの言葉からして、大変リアル(現実的)と感じさせられます。少女に食事をさせるのは特に大きな意味があるとは思われません。詳細な記述です。それがここにあるのは、目撃証言と見てよいのではないかとおもわれます。つまり、ここは実際それを見た目撃者の文体なのです。キリストは間違いなくこの奇跡を公然と行われたのでした。少女は本当に死んでいました。眠ったかのように見えただけです。その死んだ少女を死から確実によみがえらされました。

 

【死に対する勝利】

 キリストは死を打ち破る力を発揮しておられます。そして、これは驚くべき場面です、死そのものがキリストに敗北しています。死に対しても圧倒的な力を発揮されたキリストを私たちは目の前に差し出されています。聖書に書かれてあることでこれほど信じがたい記事はありません。信じがたいのですが、私たちはこの記事のリアルさを思い、また、キリストが大きな力を示されたのを目撃したものの証言であることを支えに、信じることが要求されています。ただ信じるしかありません。信仰とは、信じがたいのですが、それでもなお信じるほかはないと認めていく私たち心の動きであると思います。(おわり)

2015年02月22日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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