2015年2月15日「安心して行きなさい」金田幸男牧師
説教「あなたの信仰があなたを救った」
聖書:マルコ福音者5:21―34
要旨
【重病のヤイロの娘と12年間出血を患った女性】
イエス・キリストが敵対する諸勢力に勝利された三つの箇所の最後を共に学びたいと願います。ここには12年間出血を患った女性と、ヤイロの娘の癒しという二人の女性の癒しの物語が記されていて、両者は密接な関係にあると見るべきですが、それぞれ大切なことを示していますので、別個に取り上げたいと思います。
21節には、イエス・キリストは船に乗って再び対岸、ガリラヤ湖の西岸に渡ったと記されます。1-20節に記録されている汚れた霊につかれた男の癒しはゲラサ地方で起きたことですが、そこは異邦人の多い地域、デカポリス地方でした。キリストは異邦人の間での働きよりもユダヤ人に伝道することを急がれました。ゲラサでは残って働きをし続けることをせず、西の岸、ガリラヤ地方での宣教に戻られます。岸につくとまた多くに人々が集まって来ました。キリストは群衆を相手に教えを説かれます。そこに、会堂長のひとりであったヤイロがやってきて、キリストの前に跪き懇願します。娘が危篤状態で何とかして欲しい。
キリストは群衆に語っている最中です。ヤイロの行動はキリストの働きを中断させます。つまり、妨害でもあったのです。一般的に言えば、ヤイロの行為は不届きで、迷惑な話です。キリストの働きを中断し、自分の都合を優先する行動で、失礼な話です。自分のことばかり考えている利己的な行為と決め付けることもできるかもしれません。しかし、ヤイロにとっては可愛い娘が死にかけているのであって何とかして欲しいと必死です。キリストはヤイロに対して何を語ったのかここには記されていませんが、キリストは直ちに行動されます。
【12年間出血を患った女性】
ところが、そのキリストの行動を再び妨害する女性の行為が記されます。こっそりとキリストに近づき、その服に触ろうとしたというのです。その女性のことは短く記されます。12年間出血を患っていた。多くの注解書は彼女の病気は婦人病であったとしています。
病気は多くの苦しみをもたらします。まず、肉体の苦痛です。おそらく12年間、貧血に悩まされていたと想像できます。そのために、床に伏している状態が続いていたでしょう。青白い顔をして、起き上がれず、からだはだるく、不快感に悩まされていた。病の多くは痛みを伴います。激痛もありますし、何となく痛むという痛みもあります。痛みは感覚です。長く続けば耐え難い思いになるに違いありません。不眠、食欲不振も辛いものです。味気がない食事を何年も続けなければならないとすると、人生は耐え難くなるに違いありません。
病気は経済的な苦痛ももたらします。この女性の場合、医療費のために全財産を使い果たしたとあります。現在は社会保険制度が完備して、高額の医療費の支払いを免れることもできますが、それでも、治療費やそれに伴う費用は馬鹿になりません。病むことは家族にとっても大きな負担を与えることになります。
【「汚れ」の問題】
この女性の場合、まだ深刻な問題が伴いました。レビ記15:25-27には、女性特有の出血もそうではない特殊な出血も、「汚れ」とされていました。汚れは宗教的な意味があります。それは神殿の礼拝に参加できないというだけではありません。汚れているという状態は、霊的な欠陥とされます。神の前でまともではない。そういうレッテルが貼られます。汚れたものには救いはないと思われてもいました。汚れは神から遠く引き離されることを意味します。汚れたものは神に近づくことができないのです。神から捨てられても当然とされます。
このような汚れたものは、他の人をもけがしますので、人が集まっているところに近づくことができません。社会的な苦痛をいやおうなく味わうことになります。
以上挙げただけでも、病気は、ただ症状だけの苦しみではなく、心の苦痛を伴い、精神的な痛みとなります。心の痛みは、不安、恐れ、孤独、絶望といった苦痛となります。
病を得るということは誰もが味わう可能性があります。突然病気は襲ってきます。健康で病知らずを誇っていた人が突然の病に伏してしまうことは決して珍しくありません。病気は誰にもやってくる厄介な状態です。病気は人を選びません。時間も空間も関係なく、病苦は襲ってくるものです。
この女性も病苦から逃れたいと必死の思いになっていました。そこで、キリストのうわさを聞いてキリストに接近しようと計ります。彼女の計画は成功します。キリストの服に触れたのです。すると彼女は病気が直ったと感じます。出血は完全に止まります。
キリストは、自分の服に触ったのは誰かと言われました。弟子たちは、イエスの言葉を無視します。こんなにたくさんの人が押し迫ってきている混乱状態、しかも、ヤイロの家に向かう忙しい途中です。誰がキリストの衣服に触ったか分かるはずもない。こういう気分であったと思います。ところがキリストは止められません。なおも、誰がわたしに触れたのかと繰り返されます。女性は恐れつつ、自分の身に起こったことを、ありのまま、群衆の前で語ります。そこで、イエスがいわれた言葉「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」が語られます。
【「娘よ」】
このキリストの御言葉こそこの奇跡物語を理飼するための鍵句です。「娘よ」、という呼びかけは福音書ではここだけだけです。娘はむろん息子に対応する言葉です。神の子という意味と同じでしょうけれども、もっと神に属するもの、神から特別に愛されているものという印象を受けます。12年間も病気であり、社会から疎外され、孤独な人生を過ごしてきたこの女性も神の娘に違いないのです。また、この言葉には、差別され、区別されてきた女性に対する憐れみの感情が明らかにされているように思われます。
信仰が救った、彼女は何よりも長い病から解放されます。それが救いであることは間違いありませんが、病がもたらす悲惨からの解放、苦悩からの救出であったことはいうまでもありません。それが信仰のもたらしたものです。では、信仰とは何か。
【迷信的な信仰】
彼女の示した信仰は最初は、特別な能力のある人に接触すれば病は治るという迷信的なものでありました。注解書や説教集を読んだりすると、この女性の行為は迷信的なものであったと説明されます。確かにそうかもしれません。古代世界では、偉人、英雄に触れることでその特別な力を伝授されるという迷信的な信仰があったことは事実です。しかし、単純に彼女の信仰は迷信だと片づけるわけにはいかないと思います。彼女はキリストのうわさを聞き、彼に期待をしました。信仰は期待から始まります。キリストに何の期待もしない。そこからは何も起きません。祈りは期待です。期待なしの祈りなどありえません。祈りは信仰に基づきます。迷信的であってもそこにこの女性の信仰が表現されています。
【信仰の体験】
しかし、キリストはこれで彼女の信仰をよしとされていないのも事実です。彼女にも求められていることは、その身に起きたことを明らかにすることでした。衆目に晒されているところで、キリストが何をしてくださったかを語ることは信仰の告白です。勇気が必要です。信仰はその中に神が何をしてくださったかを含みます。信仰は神のなさったことの体験を語ることでもあります。それは信仰の告白です。キリストが何をしてくださったのか、それをわきまえることも信仰の一部です。キリストは十字架の上で私たちの罪をあがなってくださいました。わたしの罪が許されたということはわたしの実感に属します。わたしのためにキリストが身代わりになってくださった結果、神の前に義とされているのは神のわざです。それを告白することも信仰に属します。
【信仰告白】
キリストは彼女の内に何が起こり、彼女がそれをどう経験したかを語らせることで、信仰を告白させようとしておられます。信仰は、神が何をしてくださったかを認識することを含みます。
この信仰が彼女を病気から救い出したのです。病気と病気に伴う、彼女を苦しめていた足枷から彼女を解放したのです。信仰は、自分が神から何を受けているのかを認識することを伴います。神がわたしに何をしてくださっているのか。それを認めてこそ信仰は確固とした基礎を獲得します。イエス・キリストはこの信仰に至るように誰がわたしの服に触れたのかと尋ねられたのです。
彼女にとってこれはおおきな試みでありました。だまってこの場を去ることも可能でした。しかし、彼女は大胆にみんなの前でキリストがしてくださったことを明らかに語ったのです。神の大きな恵みを語ったのでした。
彼女を閉じ込めていた病苦は巨大な力でした。人間を縛り付け、苦悩のどん底に突き落とす要因でした。キリストはこの圧倒的な力から私たちを解放されます。キリストは敵対する諸勢力をこのようにして打解されるのです。
【完全な癒し】
彼女の病は癒されました。レビ記15:28以下では出血の汚れを清められたものは祭司の手で犠牲をささげなければなりませんでした。重い皮膚病を癒された人は祭司に見せ、全快を証明してもらわなければなりませんでした。ところが彼女の場合、キリストはそんなことを命じられていません。何故そうなのでしょうか。キリストの癒しは、祭司の証明も不要なほど明白であり、完璧でありました。キリストは完全に病気を癒し、汚れの根源を除去されました。だから、祭司に見せることを求められなかったのです。(おわり)
2015年02月15日 | カテゴリー: マルコによる福音書
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