2015年1月25日説教「神の国は何にたとえられるか」金田幸男牧師

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「神の国の譬え」


マルコによる福音書4章

26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。

29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

30 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、32 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。4 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

 

説教要旨 

【神の国とは】

 マルコが記している一連の譬え話の最後のふたつを連続して学びます。どちらも神の国はどのように譬えることができるか(26,30)というキリストのみ言葉が示すように、神の国についての教えが語られます。

 

神の国という場合、聖書では、この語は広い意味で使われています。さしあたって3種類考えられます。「国」はギリシヤ語では「支配」を意味する言葉が用いられていますので、神の国といっても具体的に領土や領域、政府や行政機関、時には法律は規則を持っている国家とは異なった概念としてこの語が使われています。神が支配する領域が神の国ですから時間空間を越えて存在します。それは私たちの心にも関わります。私たちの魂が神の支配下にあるならばそこには神の国があることになります。福音が宣教され、その宣教された言葉に服従する地域が拡大していくときに、神の国が広がると表現されます。

 

【終末的な国】

第二の意味では、神の国は終わりの時に完成する、終末的な国を意味します。そのときには敵はことごとく打ち滅ぼされ、神の権威と主権だけが残ります。完成されたこの神が直接統治される国を神の国と呼ぶ場合もあります。さらに、私たちは、死んだものが直ちに行くところを「天国」つまり「神の国」という場合もあります。

 

このように、神の国という概念は多様で、一括りでは収めきれません。イエス・キリストが神の国について教えられますが、その神の国は狭義の神の国と理解するべきではありません。イエス・キリストが「神の国は何に譬えられようか」と言われたとき、「国」という言葉で連想される以上の意味を持っていると考えてよいと思います。

 

【蒔かれた種の譬え】

 最初の譬えから見て行きましょう(26-29)。ここでは、蒔かれた種がどのようにして成長していくのか、一般の人には分からないけれども確実に植物は成長すると言われています。土地は耕作に適した土地であることが前提になっています。蒔かれた種は芽を出し、茎が出て、花が咲き、そのうち実を結び、刈り取れば多くの収穫となります。種を蒔いた農民は喜びを抱いて鎌を入れ収穫します。専門家ならば日々どのように植物が成長していくかを見分けることができるでしょうけれども、私たちの目にはそれは判別できません。毎日同じような状態と思われます。ところが、生長する植物は着実に成長しています。むろん農民は水をやり雑草を抜き、手入に余念がありませんが、しかし、成長を早めるために土から引き抜こうとすればその植物は枯れてしまいます。

 

【成長する植物/人生】

 成長は植物の特質です。成長しない植物はただ枯れるだけです。神の国は植物の成長に譬えられるとイエスは言われました。成長は、神の国の特徴です。すると、成長は生命の特質でもあります。ここで、神の国が譬えられていますが、それは私たちの生命を譬えているようなものです。ただし、私たちの肉体の生命ではありません。確かにこれは成長します。人間は生まれて成長をし続けますが、しかし、いつか死にます。若いころ、子どものころは成長しますが、次第に成長は止まり、ついに死を迎え、肉体は滅びます。死が成長のきわみとは言えません。それは滅びであり、消滅です。

 

神の国がこのような、死をもって終了するいのちの比ゆに使われているはずがありません。では、どんないのちでしょうか。神が支配する生命、神が与えられるいのちを指していると考えてよいと思います。そして、生命は人生そのものです。肉体のいのちは死をもって閉じられるいのちですが、私たちの人生が神の国に属するとき、その人生は、朽ちない、祝福に満ちた神が与えられるいのちに基づく人生であるはずです。

 

 このいのちは成長し続け、ついに収穫のときを迎えます。成長は私たちには見えません。それで、私たちはこの成長を信じられず、疑問をいだきます。私たちの人生は挫折したり、敗北したりします。そのとき、私たちは成長していないものと思ってしまうのです。神のいのちが与えられているのに、いのちは失われたと思ったりします。このいのちの気配は見えなくなってしまいます。

 

【信仰に基づく人生】

 神のいのちに基づく人生は言い換えれば信仰に基づく人生です。その信仰は揺らぐことがあります。信仰がなくなったと思うのです。するとその魂から神のいのちも消滅したと錯覚します。それは間違いです。神は私たちに信仰を与え、罪を赦し、神の子としての特権にあずからせて下さいました。私たちは神からいのちをいただいて、神の国に属し、神の国の一員として国籍を獲得しています。そうであれば、私たちの主観的な思い、私たちが心に抱く妄想によって神のいのちが失われるようなことは決してありません。ひとたび私たちの心にみ言葉が蒔かれるならば、必ずそれは成長し、私たちのうちでいのちとして結晶していきます。私たちはその限りにおいて神の国に属し、そこから外れることはありません。神の国は、私たちの内に確実に定着します。私たちの内にある神のいのち、すなわち神の国は成長の極点に確実に達します。イエス・キリストはこのいのちを与える主です。

 

 神の国は、福音宣教が拡大するところで拡大し続けます。全く進展しないように見えても必ず進展します。見た目だけで、私たちは神の国の拡大が終焉したなどと考えてはなりません。数字の上で成長が止まっているように思われても必ず神は成長を見せてくださいます。一時の衰えはあっても成長は止まりません。それが神の国の本質だからです。

 

【からし種の譬え】

 第二の譬えを学びます(30-32)。神の国はからし種に譬えられるとイエスは言われます。からし種以上に小さい種はむろんありますが、一般人の知識ではからし種が一番小さい種だと思われていました。からし種が成長すると3-5メートルもある、樹木のような植物となります。どんな野菜よりも大きくなり、その枝には小鳥も巣を作る。ここでもからし種は成長するものと受け止められていますが、それよりも強調されているのは、成長したときの巨大さです。

 

 神の国がからし種に譬えられるという場合には、その成長した終局の巨大さを物語っていると思われます。神の国は成長するものです。それは生命的です。生命の特徴は成長にあります。神が与えられるいのちも同様に必ず成長があります。それは、26-29節の成長する譬えが語るとおりです。しかし、このいのちは、ただ成長するだけではありません。マルコが種に関する譬えを並べているのは、ふたつの間の関連性に着目しているからだと考えられます。からし種は成長するだけではなく、成長したあかつきには大きな木のようなものとなる。

 

イエス・キリストが住まわれた地域は、樹木が生い茂っていません。そういうところでからし種の成長した姿はよく目立ったはずです。その成長振りは驚くべきものであります。そのように、神の国に属するいのちも終わりのとき、巨大なものとなる。神に属し、神が与える生命は永遠の生命です。

 

【永遠/無限の世界】 

私たちは有限の世界に生きています。有限の世界にある限り、無限を把握できません。どんなに想像を逞しくしても有限の世界では無限を想像することはできません。永遠は時間的な無限を意味しています。私たちは時間の中に生きています。しかも、長い歴史から見てほんのわずかの時間しか生きていません。この地球は何十億年前にできたとよくいわれます。私たちにとって1億年など想像もできない年月です。わずか10年先のことも正確に想像できないものです。そんな私たちが永遠を想像することはできません。

 

 イエス・キリストを信じて、キリストの復活のいのちにあずかるならば、そのいのちは永遠であり、私たちはこのいのちをキリストから与えられています。すでにキリストにあるならば私たちはとこしえのいのちを受けています。それこそがキリストの約束です。キリストを信じ、キリストの御名によって洗礼を受け、教会の枝となり、日々祈り、神の言葉を信じて従順である者は永遠の命を刻印されています。このことは確かです。

 

【永遠のいのちを信ず】

 そのようなものの一人である私たちは到底信じがたい神のわざにあずかっています。永遠の命を約束されたものとして今を生きています。私たちはそれぞれ、ついにその人生にピリオドが打たれます。誰しもこれを避けることはできません。そのとき、私たちの肉体は土に帰るときを迎えますが、それで一切が終わりではありません。それどころか、からし種が巨大な樹木のように成長するように、私たちもまた、永遠の命という想像を超える、想像もできないようないのちに生きるものに変えられます。

 

私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えています。われはとこしえのいのちを信ずと告白しています。考えてみればすごいことを毎週告白しているのです。有限なるものは永遠を理解することなどできません。それなのに私たちは口を極めて永遠の生命への信仰を言い表しているのです。このように言い得るのは本当にすばらしいことなのです。私たちは想像を絶するようなすばらしい祝福に導かれつつあります。

 

キリストはこのように譬えで語られました。人々の聞く力に応じて譬えを語られました。譬えそのものは面白い話です。しかし、それで奥義を理解できたかどうかは別問題です。キリストは弟子たちには密かに説明をし、解き明かされました。それは救いの道を明らかにすることです。私たちは、永遠のいのちに至る道を教えられる幸いな者です。(おわり)


2015年01月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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