2015年1月4日説教「まことの家族とは」金田幸男牧師

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マルコによる福音書3章:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

説教「まことの家族」 

聖書:マルコ3章31―35

 

要旨

【身内の人々がイエスを、取り押さえに】

 3章21節に、イエスの身内の人々がイエスを、取り押さえに来たと記されています。イエスは気がふれたと思って取り押さえに来たとも、イエスが病人の癒しに食事も取れず過労となって健康を害するのではないかと心配をし、故郷に連れ戻そうとしたとも受け止められます。彼らはおそらくナザレからカファルナウムにやってきたのでしょうが、ふたつの地点は直線でも40キロ近くあります。徒歩なら二日の道のりです。

 

【母マリヤと兄弟たちが来た】

そして、31節には、母マリヤと兄弟たちが来たと記されます。マルコ福音書ではマリヤが登場しますのはここだけです。イエス・キリストの兄弟たちの名はマルコ6章3に出てきます(ヤコブ、ヨセ(フ)、ユダ、シモン)。

 

マリヤたちもナザレから来たとすれば、先の身内がイエスを連れ戻せなかったので、直接母親がきたと考えられます。二日間もかけてカファルナウムに来る。それは彼らの心配ぶり、そして、イエスに対する深い愛情を感じさせられます。

 

 イエスの母がやってきて、イエスに会って直接説得しようとしたに違いありません。ところがイエスの周囲にはたくさんの人が集まっていました。イエス・キリストはこのときにも多くの人を癒されていたのでしょう。そのために近づくことができず、人をやってイエスに意志を伝えようとします。周りにいた人たちがあなたの家族があなたを探しています、とわざわざ伝えています。

 

【キリストはなぜ母や兄弟に合わなかったか】

ところがイエスは、働きを中断せず、母親に会おうとしていません。これは何と冷ややかな態度と見えることでしょうか。母親や兄弟たちは遠路はるばるカファルナウムまでやってきました。それなのに、イエスは会おうともしません。何とも親不孝と思われる行為です。あのイエス・キリストとは思えない行動です。

 

 イエス・キリストは、仕事の邪魔をされると思ったのでしょうか。病人の癒しは重要です。人助けのわざです。母親にそれを中断されるのを不快としたのでしょうか。仕事の邪魔だと思ってこんな冷淡な態度を取ったのでしょうか。そうではなかったと考えるべきです。キリストは家族のつながりを否定しているわけではありません。親孝行を否定しているのでもありません。マルコ10章17-31節では、イエスに永遠の命を獲得するためにどうしたらいいのかと問う若者に、「父母を敬え」という戒めを示されます。永遠の命を得るために十戒のうちの主要な戒めを提示されます。

 

キリストは決して父母を敬うことを退けられたのではありません。同じくマルコ7章7-13節では父母に対する孝行をないがしろにするファリサイ的な律法理解を拒絶されています。イエス・キリストは決して親孝行などしなくてもよいなどと教えられたのではありません。さらにいうならば、家族のつながりを否定しているのではありません。その逆だと思います。

 

【新しい家族の形成】

 それではなぜキリストは家族に対して冷淡とも思われるような言動をしているのでしょうか。それは、仕事の邪魔をしているからだというような理由ではなく、大きな真理、すなわち新しい家族の形成を語ろうとしているからだと思います。

 

家族の絆は、現代社会では大きな波に洗われています。家族の崩壊はいたるところに見られ、それを防ぐ方策はないように思われています。社会の構造が家族を崩壊させ、価値観が大きく変化して、従来の家族観が通用しなくなって来ています。しかし、家族が社会を成り立たせる要素であり、最初の単位であることに変わりはありません。そのために、道徳教育を国家が主導し、国家が描く家族制度や家族観念の構築をめざす事態となっています。孝行、年長者に対する敬意、そして、それを国家への忠誠と直結しようとしています。新しい家族像を再形成することこそ現代社会の混乱を解決する鍵だと見られています。キリストは、そのような意味で新しい家族像を創生されようとしているのではありません。まことの家族とは何か。キリストはどんな家族を形成しようとされておられるのでしょうか。

 

【まことの家族とは何か】

 家族とは血縁で結び合っている人間のつながりを示しています。縁(えにし)とは辞書によると、ある関係を成り立たせるのに間接的に働く原因とありました。家族は血のつながりで、その結びつきを形作ります。むろん正確には家族は血のつながりだけで成り立つものではありません。夫婦を基礎とし、あるいは、法律上のつながり(養子制度)でも家族は成り立ちます。しかし、その結合は極めて固いものとされます。

 

 イエス・キリストはそのような固い人間の結びつきに注目されていると見ることが出来ます。人間は孤独で生きることができません。孤立は苦痛です。ひとりであることは短時間は耐えられるでしょうけれども長時間、ときには人生の大半を孤独なまま生きることになるとすればその人生は暗黒の中にあるといってもよいでしょう。人は本来孤独であることはできません。しかし、それでは固い人間関係を作り出すことは容易なのかというとそうではありません。固い絆で結ばれた人間関係を形成することは決して容易ではありません。

 

【新しい家族/神の家族】

 どうすればそのような固い絆で結び合わされた人間関係を形作ることができるのでしょうか。それが新しい家族です。キリストは、神の御心を行うものが神の家族だと言われます。

 キリストの周囲に座っている人たちがいました。これはイスラエルでは教師がみ言葉を教えるスタイルです。律法の教師が聖書の巻物を開き、それを聞く生徒らは座して聞きました。ですから、キリストが周囲にいる人を見回してまことの家族とは神の意志を行うものたちだと規定されたとき、それはキリストの弟子たちを指していました。それが新しいキリストの家族です。

 

新しい家族とはキリストの弟子団であるのですが、キリストの御心を行う人たちとはキリスト信者のことです。そして、そのキリスト者の共同体であるキリストの教会です。新しい神の家族とは、結論的に言えば教会ということになります。教会こそ新しい神の家族です。

 

【教会こそ新しい神の家族】

 教会では昔から互いに兄弟姉妹と呼び交わしました。教会こそ新しい神の家族だとの認識は古くから成立していました。教会は、神の家族です。しかし、このことは自明の真理ではありません。神の御心とは何か。律法に示されている掟です。その要約は神を愛し、隣人を愛することです。教会は神への愛と隣人への愛という定めを行うべく形成されたキリスト者からなります。けれども、教会の中では、敵対、憎悪、中傷、裏切りが起こりえます。罵り、嘲笑、悪口、罵詈雑言すら飛び交います。このような人間のよこしまが現れているところはとても神の家族などとは言えません。

 

ですから失望が生じます。教会は神の家族であるはずなのにやっていることはひどい人間関係だというのです。何が神の家族か、掃き捨てるように言われるかもしれません。

 神の御心を行うもの同士が神の家族です。それでこそ兄弟姉妹と呼び交わす関係が生じます。でも現実はかけ離れているではないか。このような現実と理念の乖離はつきものです。ですから、仕方がない。教会が神の家族などと言うのは単なる空想に過ぎないのだと思われるかもしれません。現実に圧倒されて諦めが支配します。教会の中に、人間関係を成り立たせないほどの、神の意志を無視する現実があるのを私たちは軽々しく見てはならないというのは当然のことです。

 

現実の家族ですら、親は子どもを慈しみ、大事にします。イエスの母マリヤはこの点で家族愛に溢れた女性だと言えるでしょう。イエス・キリストの家庭はすばらしいものであったに違いありません。そのような家族のつながりが神の家族である教会にないなどということがあってはならないのは当然です。教会はこの点で現実の家族以上でなければなりません。ただ、だからどうすればいいのか。現実の教会は理想とはあまりにも異なります。私たちはこのような現実をただ黙然と見つめるだけなのでしょうか。そんなことは決してないはずです。

 

【終末論的思考】

 わたしは、ここで終末論的思考と言うべき発想が必要だと思います。終末から現在を見る見方です。現在から将来を眺めると不安になります。この世界はどうなるのだろうという不安です。教会の現実から将来を見ると教会は果してこのまま存続するのだろうかと思いもします。現在の混乱を視点にすれば将来はよくなっていくとは思われず、将来を悲観せざるを得ません。それは先のことは何も分からない人間の宿命のようなものです。私たちの希望は転落していきます。しかし、聖書においてこの世の終わりがあると宣告されています。また、わたし個人も終わりがあります。実際そのときの到来は近いのかもしれません。キリストにある者にとって、終わりのときは栄光のときです。将来、教会は、キリストの花嫁として、完成します。そのとき、悪は滅ぼされ、罪の結果は除去され、神の支配が確立します。

 

教会は完成するとき神の家族は文字とおり家族になり、その絆はまったき絆となります。教会は勝利します。

 私たちは今は矛盾し、破れが目立つ教会に生きています。失望は拭い去ることができません。悲しみと怒りに満ちています。けれどもこの教会は完全な神の家族となるとの希望を抱きます。私たちに必要なことは諦めではなく、現状肯定ではなく、失望ではなく、むしろ、神は必ず教会をまことの神の家族とされるのだという希望を抱き、楽観的になることだと思います。

 

そして、だからこそ、神の家族を大切にする思いを心に抱こうと努めます。神は必ずまことの神の家族を形成されると信じて、その信仰に相応しいあり方を追い求めていきます。それが私たちに求められています。

 現実に神の御心を行うことは困難ですがその積み重ねがあってこそ教会がまことの神の家族となっていく道筋となります。(おわり)



2015年01月05日 | カテゴリー: カテゴリを追加 , マルコによる福音書

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