2015年1月

2015年1月25日説教「神の国は何にたとえられるか」金田幸男牧師

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「神の国の譬え」


マルコによる福音書4章

26 また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。27 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。

29 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

30 また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。31 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、32 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。4 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

 

説教要旨 

【神の国とは】

 マルコが記している一連の譬え話の最後のふたつを連続して学びます。どちらも神の国はどのように譬えることができるか(26,30)というキリストのみ言葉が示すように、神の国についての教えが語られます。

 

神の国という場合、聖書では、この語は広い意味で使われています。さしあたって3種類考えられます。「国」はギリシヤ語では「支配」を意味する言葉が用いられていますので、神の国といっても具体的に領土や領域、政府や行政機関、時には法律は規則を持っている国家とは異なった概念としてこの語が使われています。神が支配する領域が神の国ですから時間空間を越えて存在します。それは私たちの心にも関わります。私たちの魂が神の支配下にあるならばそこには神の国があることになります。福音が宣教され、その宣教された言葉に服従する地域が拡大していくときに、神の国が広がると表現されます。

 

【終末的な国】

第二の意味では、神の国は終わりの時に完成する、終末的な国を意味します。そのときには敵はことごとく打ち滅ぼされ、神の権威と主権だけが残ります。完成されたこの神が直接統治される国を神の国と呼ぶ場合もあります。さらに、私たちは、死んだものが直ちに行くところを「天国」つまり「神の国」という場合もあります。

 

このように、神の国という概念は多様で、一括りでは収めきれません。イエス・キリストが神の国について教えられますが、その神の国は狭義の神の国と理解するべきではありません。イエス・キリストが「神の国は何に譬えられようか」と言われたとき、「国」という言葉で連想される以上の意味を持っていると考えてよいと思います。

 

【蒔かれた種の譬え】

 最初の譬えから見て行きましょう(26-29)。ここでは、蒔かれた種がどのようにして成長していくのか、一般の人には分からないけれども確実に植物は成長すると言われています。土地は耕作に適した土地であることが前提になっています。蒔かれた種は芽を出し、茎が出て、花が咲き、そのうち実を結び、刈り取れば多くの収穫となります。種を蒔いた農民は喜びを抱いて鎌を入れ収穫します。専門家ならば日々どのように植物が成長していくかを見分けることができるでしょうけれども、私たちの目にはそれは判別できません。毎日同じような状態と思われます。ところが、生長する植物は着実に成長しています。むろん農民は水をやり雑草を抜き、手入に余念がありませんが、しかし、成長を早めるために土から引き抜こうとすればその植物は枯れてしまいます。

 

【成長する植物/人生】

 成長は植物の特質です。成長しない植物はただ枯れるだけです。神の国は植物の成長に譬えられるとイエスは言われました。成長は、神の国の特徴です。すると、成長は生命の特質でもあります。ここで、神の国が譬えられていますが、それは私たちの生命を譬えているようなものです。ただし、私たちの肉体の生命ではありません。確かにこれは成長します。人間は生まれて成長をし続けますが、しかし、いつか死にます。若いころ、子どものころは成長しますが、次第に成長は止まり、ついに死を迎え、肉体は滅びます。死が成長のきわみとは言えません。それは滅びであり、消滅です。

 

神の国がこのような、死をもって終了するいのちの比ゆに使われているはずがありません。では、どんないのちでしょうか。神が支配する生命、神が与えられるいのちを指していると考えてよいと思います。そして、生命は人生そのものです。肉体のいのちは死をもって閉じられるいのちですが、私たちの人生が神の国に属するとき、その人生は、朽ちない、祝福に満ちた神が与えられるいのちに基づく人生であるはずです。

 

 このいのちは成長し続け、ついに収穫のときを迎えます。成長は私たちには見えません。それで、私たちはこの成長を信じられず、疑問をいだきます。私たちの人生は挫折したり、敗北したりします。そのとき、私たちは成長していないものと思ってしまうのです。神のいのちが与えられているのに、いのちは失われたと思ったりします。このいのちの気配は見えなくなってしまいます。

 

【信仰に基づく人生】

 神のいのちに基づく人生は言い換えれば信仰に基づく人生です。その信仰は揺らぐことがあります。信仰がなくなったと思うのです。するとその魂から神のいのちも消滅したと錯覚します。それは間違いです。神は私たちに信仰を与え、罪を赦し、神の子としての特権にあずからせて下さいました。私たちは神からいのちをいただいて、神の国に属し、神の国の一員として国籍を獲得しています。そうであれば、私たちの主観的な思い、私たちが心に抱く妄想によって神のいのちが失われるようなことは決してありません。ひとたび私たちの心にみ言葉が蒔かれるならば、必ずそれは成長し、私たちのうちでいのちとして結晶していきます。私たちはその限りにおいて神の国に属し、そこから外れることはありません。神の国は、私たちの内に確実に定着します。私たちの内にある神のいのち、すなわち神の国は成長の極点に確実に達します。イエス・キリストはこのいのちを与える主です。

 

 神の国は、福音宣教が拡大するところで拡大し続けます。全く進展しないように見えても必ず進展します。見た目だけで、私たちは神の国の拡大が終焉したなどと考えてはなりません。数字の上で成長が止まっているように思われても必ず神は成長を見せてくださいます。一時の衰えはあっても成長は止まりません。それが神の国の本質だからです。

 

【からし種の譬え】

 第二の譬えを学びます(30-32)。神の国はからし種に譬えられるとイエスは言われます。からし種以上に小さい種はむろんありますが、一般人の知識ではからし種が一番小さい種だと思われていました。からし種が成長すると3-5メートルもある、樹木のような植物となります。どんな野菜よりも大きくなり、その枝には小鳥も巣を作る。ここでもからし種は成長するものと受け止められていますが、それよりも強調されているのは、成長したときの巨大さです。

 

 神の国がからし種に譬えられるという場合には、その成長した終局の巨大さを物語っていると思われます。神の国は成長するものです。それは生命的です。生命の特徴は成長にあります。神が与えられるいのちも同様に必ず成長があります。それは、26-29節の成長する譬えが語るとおりです。しかし、このいのちは、ただ成長するだけではありません。マルコが種に関する譬えを並べているのは、ふたつの間の関連性に着目しているからだと考えられます。からし種は成長するだけではなく、成長したあかつきには大きな木のようなものとなる。

 

イエス・キリストが住まわれた地域は、樹木が生い茂っていません。そういうところでからし種の成長した姿はよく目立ったはずです。その成長振りは驚くべきものであります。そのように、神の国に属するいのちも終わりのとき、巨大なものとなる。神に属し、神が与える生命は永遠の生命です。

 

【永遠/無限の世界】 

私たちは有限の世界に生きています。有限の世界にある限り、無限を把握できません。どんなに想像を逞しくしても有限の世界では無限を想像することはできません。永遠は時間的な無限を意味しています。私たちは時間の中に生きています。しかも、長い歴史から見てほんのわずかの時間しか生きていません。この地球は何十億年前にできたとよくいわれます。私たちにとって1億年など想像もできない年月です。わずか10年先のことも正確に想像できないものです。そんな私たちが永遠を想像することはできません。

 

 イエス・キリストを信じて、キリストの復活のいのちにあずかるならば、そのいのちは永遠であり、私たちはこのいのちをキリストから与えられています。すでにキリストにあるならば私たちはとこしえのいのちを受けています。それこそがキリストの約束です。キリストを信じ、キリストの御名によって洗礼を受け、教会の枝となり、日々祈り、神の言葉を信じて従順である者は永遠の命を刻印されています。このことは確かです。

 

【永遠のいのちを信ず】

 そのようなものの一人である私たちは到底信じがたい神のわざにあずかっています。永遠の命を約束されたものとして今を生きています。私たちはそれぞれ、ついにその人生にピリオドが打たれます。誰しもこれを避けることはできません。そのとき、私たちの肉体は土に帰るときを迎えますが、それで一切が終わりではありません。それどころか、からし種が巨大な樹木のように成長するように、私たちもまた、永遠の命という想像を超える、想像もできないようないのちに生きるものに変えられます。

 

私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えています。われはとこしえのいのちを信ずと告白しています。考えてみればすごいことを毎週告白しているのです。有限なるものは永遠を理解することなどできません。それなのに私たちは口を極めて永遠の生命への信仰を言い表しているのです。このように言い得るのは本当にすばらしいことなのです。私たちは想像を絶するようなすばらしい祝福に導かれつつあります。

 

キリストはこのように譬えで語られました。人々の聞く力に応じて譬えを語られました。譬えそのものは面白い話です。しかし、それで奥義を理解できたかどうかは別問題です。キリストは弟子たちには密かに説明をし、解き明かされました。それは救いの道を明らかにすることです。私たちは、永遠のいのちに至る道を教えられる幸いな者です。(おわり)


2015年01月25日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月18日説教「聞く耳あるものは聞きなさい」金田幸男牧師

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説教「聞く耳のある人は聞きなさい」

聖書:マルコによる福音書4章21また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。

23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。

25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」


 

要旨

【四つの譬え】

 4章1-34には、四つの譬えが記されています。そのうち、最初の種まきの譬えはキリストご自身の解き明かし、謎解きが記されていますので、譬えの意味を知ることができますが、残りのはそれが記されていません。

4章34には、キリストは譬えで語られたが、その全てを解き明かされたとあります。しかし、マルコはそのキリストの謎解きを記録してくれていません。譬えをどう解釈するかは、読者に委ねられています。説教者はその解釈を試みるのですが、誰が読んでも同じではなく、それどころか、譬えの解明を試みる人の数だけ見解が分かれます。このたびも譬えの解明を試みますが、唯一の解釈だとは思いません。ただ、キリストの教えからは外れることのない解説が求められていることだけは言い得ます。

 

 先に四つの譬えと申しましたが、4章21-25にはともし火の譬えと秤の譬えが記されていますので、計五個の譬えが記されていることになります。ではなぜ四つなのか。21-23節と24-25節はそれぞれ3行からなる文章になっています。ですから形式は同じです。さらに、譬えの内容も同じとはいえなくとも深く結びついていると考えられるからです。

 

【ともし火の譬え】

 4章21-23ではともし火の譬えが記されています。イエス・キリストの時代、多くの庶民の家は一部屋しかありませんでした。夜、部屋を明るくするともし火には、オリーブ油が用いられることもありましたが、高価なので、一般には獣油が用いられました。部屋にひとつだけ、オリーブ油はよい香りを出しますが、高価なので、悪臭を放っても、獣油がともし火として燃やされます。広い部屋ではともし火ひとつではほの暗いのですが、それでも、貴重な光でした。

 

そんな大切なともし火の上に枡を置いたり、寝台の下に置くようなことは誰もしなかったはずです。キリストはそのような庶民の家のことをよくご存知でこの譬えを語られたと思います。このように、ここまでで情景を描くことができます。しかし、このともし火の譬えの意味は何か。

 

 22節との関連で、この譬えを、私たちの心中にあるよこしまな思い、あるいは知られることがなかった私たちの罪はいつか露見するという意味だと説明されることもあります。どんな悪事もいつか明らかになるから、悪いことをしてはならないという教訓を引き出すこともあります。そういう解釈を否定することはできないのですが、別の理解もあるのではないかと思うのです。

 

 ともし火は持って来られると記されています。暗い部屋にともし火が運び込まれます。当時は夜の室内は真っ暗でした。真の闇というべきかもしれません。そこに、弱い光であっても、ともし火が燭台の上に掲げられますと、部屋の中にあるものを明らかにします。イエス・キリストはご自身光でした。闇を照らし出す命の光でした(ヨハネ1:5)。

 

 キリストは、闇の夜を照らす光としてこの世に来られました。全てを照らす光でした。そして、常に、時代は闇の世です。死の陰の谷です。罪がもたらす悲惨に満ちています。今日の世界も同様です。罪と欲望が支配し、暴虐と悲惨が我が物に振舞う時代です。恐るべき闇が私たちの心を押さえつけ、闇の力が自由に行動しています。この闇はますます拡大しています。

 

【キリストは世の光】

 キリストはこの闇の世に光として来られました。キリストがこの世に来られるまでは、福音は明確ではありませんでした。福音は隠されていたのです。また、それは秘められていた奥義でした。

しかし、今、キリストはこの世に来て、託されていた使命を全て果たされました。キリストは福音の光をもって真理を示されました。救いに必要な全ては明らかにされました。一部の人しか分からないような謎でもありませんし、特別な訓練を受けないと分からないような真実ではありません。キリストの教えられた教説は誰にも明らかなのです。

 

 キリストは光です。その光を今やすべて顕(あらわ)にし、公にされています。少しも不明なところはありません。キリストによる救いは誰にも明らかです。

 

【聞く耳のある者は聞きなさい】

しかし、3行目では、聞く耳のある者は聞きなさい、と言われます。光は示されました。その光に照らされなければ見ることが出来ません。聞かなければ、どんなにすばらしい教えであっても何の効果もありません。だが、私たちは自分の欲得を第一にしたり、快適さを求めたり、安楽を好んで、結局耳を塞ぎ、目を閉じてしまっています。これでは光が高く掲げられていても、その光によって心が照らされることはありません。

 

 福音の真理は聞かれなければ何の結果も生み出すことはありません。光は高く掲げられています。その光に照らされています。その光を覆い隠そうとするものは愚かです。キリストはご自身を隠そうとされませんでしたし、今も同じです。福音に耳を傾けるものは、上からの光に照らされて、まことの光の源である神にいたることが出来、光に満ちている神の国まで導かれていくのです。

 

【秤の譬え】

 もうひとつの譬えは秤の譬えです。秤は、当時天秤が使われました。棒の両端に器を垂らし、一方に計るべき物を置き、他方に分銅を置きます。分銅を少しずつ増やし釣り合ったところで分銅の重さの合計を計るとその重量が計測されます。ところで、今日では重量を測る器具には公の機関が正確さを保証しています。公的検査を通過しないような計測器具を用いることは犯罪とされます。

 

【不正な秤】

イエス・キリストの時代、そんな公的な機関はありません。商人は重量を測る分銅を都合のよいように変えてしまい、そのことによって不正な利益を獲得していました。金銀のような少量のものであれば、少しの操作でも、収益は異なります。こうして不正な商人が莫大な利益を得たのでした。当時、貨幣は金属の重量で決められていましたし、地域ごとにその貨幣が異なりますので、両替商がたくさんいました。その中には不正なものもいたようです。イエス・キリストがそのような商人たちの行動を知っていたかどうか分かりませんが、庶民の生活にキリストはよく通じていましたので、このようなことをご存知であった可能性は大きいと思います。

 

 そうすると、この譬えで言われていることは何か。マタイ7章2で同じ譬えが記されていますが、そこではさばきの不可避性、必然性という、さばきの文脈で記されます。ここでも、文脈からそのように読めないわけではありませんが、前後の文章(3行句の前と後)との関連で見ますと別の読み方も可能ではないかと思います。

 

【自らを測る秤で測る】

「何を聞いているかに注意しなさい(24節)」。この場合、「み言葉を聞いている」と取ることができます。福音の真理を聞いているという意味です。すると、何を分銅にして測るのかというと、み言葉で測ることになります。自分の測る秤は他人の秤ではありません。それはごまかしようのない測り、規準です。他の規準で測れば間違った結果となりますが、自分で測ればそんな不正はできません。しかし、私たちはいろいろな規準を用いて自分を測ります。他人の規準、世間の規準、常識という規範、利得の価値基準を持って自分を測ろうとします。

 

 自分の測りで測ることこそ正確です。正確な取引は賞賛されます。その賞賛は思いのほかの結果をもたらします。予測以上の真実を発見するというような・・・。

自分の秤で測るならばごまかしようがありません。曇りのない眼をもって自分を見る、それはいやでも真実の姿です。否定のしようのない自分の姿です。無視していた自己も発見します。

 

 わたしは過去の時間と未来の時間を比べると圧倒的に過去のほうが多くなりました。過去を思い出します。ところが、いい思い出もありますが、いやな思い出も次々と思い浮かんできます。中には恥ずかしくなるような思い出もあります。過去を思い出して、苦しくなります。

 

 神の前で、過去を振り返れば、わたしにはひどい罪人であるとしか認識できません。こういう思い出し方は不快ですから、忘れてしまうとか、他のことを考えて居直ってしまうとか、何とかして消し去ろうとしますが、過去は簡単に忘れることはできません。

 

 曇りのない眼で自分を見ると言いましたが、実は耐え難い行為です。考えていた以上の醜悪な自己発見になります。だから、私たちは違った秤で自分を測ります。自分を測るのではない秤で、何事も測って安心したり、自分を慰めたりしています。

 

 しかし、そういう自己認識では結局なにものも生じないのです。自らを測る秤で測るとき、それは真実な計測を実践していることになります。そういう計測では思う以上の結果をもたらします。神の言葉で自分を測るとき、私たちは想像以上の罪深さを測ることになります。そういう自己認識に耐えられるものはありません。結果はひどいものです。

 

【十字架の福音】

 もし、私たちが、この自分を測った結果を見れば絶望状態になります。神にさばかれ、滅ぶだけです。だからこそ、私たちは罪の赦しの福音に耳を傾けざるを得ません。キリストの十字架にしか私たちに希望はありません。もし、赦しを確信できなければ私たちは恐るべき神の裁きだけを覚悟しなければなりません。十字架の福音こそ唯一の望みです。

 

 25節の、持っているものとは神の言葉と理解することができないでしょうか。罪の赦しの福音です。これを持っているものは、神の赦しに安らうことができます。そして、これ以上の平安の根拠はありません。しかし、神の言葉を拒否すれば当然このような罪の赦しの約束は心に何の影響も残しません。罪の赦しのないところでは、安らぎもなければ心の平安もありません。(おわり)

2015年01月18日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月11日説教「種まきの譬え」金田幸男牧師

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2015.1.11説教「種まきのたとえ」

 

聖書 マルコによる福音書マルコ4章1―20

1 イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。2 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、3 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。

5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。

8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。

9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

10 イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。

11 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

12 それは/『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

13 また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。

14 種まきは御言をまくのである。

15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。

16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。

20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

 

要旨 

【譬えで語られる】

 4章1-34には四つの譬え話が記されています。今日はその最初の譬えを学びたいと思います。この部分では、あとの三つの比べると違う点があります。それは13-20節なのですが、謎解きというべき解説が記されています。福音書では例外的なので、ここは後世の教会の付記だという説もありますが、33-34節でキリストは弟子たちにはその意味を説明したと記されていますので、マルコ福音書の著者が他の譬えの謎解きを記さなかったというだけだろうと思われます。

 

【なぜ譬えで語られたのか】

 ところで、1-20節の中に、なぜキリストが譬えで語られたのかを語るところがあります(10-12節)。そこではイエス・キリストはその人々には譬えで語られてもそれを理解することがないといわれます。つまり、外部の人、キリストの弟子ではない人たちが分からないようにするために譬えで語ると言われます。これは妙な表現です。実際、譬えは話を分かりやすくするために用いられます。難しい話を、「譬えてみればかくかくしかじかだ」とよくいわれます。教会の説教でも話を分かりやすくするために、世間で起きている事件を譬えとして用いる手法が用いられます。

 

改革派教会ではあまり推奨されませんが、新聞記事やテレビ報道を材料にして、つまり、ひとつの譬えとして語ることがあります。これを一概に拙いとはいえません。教会学校の教師のために例え話集なども出版されています。子どもたちに教理を説明するために比ゆや例話を用いるのは昔からのやり方です。

 

【彼らが、「聞くには聞くが、理解できない」ため】

 イエス・キリストは弟子ではない人たちに譬えで語るのですが、それは、彼らが、見ても認めず、「聞くには聞くが、理解できない」ためだといわれます。こうして立ち返って(悔い改めて)罪が赦されることがない。これはそのままではありませんが、イザヤ6章9-10の引用です。譬えで語られるのは、分からなくするためというのは理屈にあわない話です。キリストはどのような意味でこのように語られたのでしょうか。

 

【理解するとは】

 理解する、あるいは分かるというのは二重の意味があります。種まきの譬え話のように、全て共通しているのは一応聞くということです。分かりやすい日本語で聞けば大体分かります。聖書はどんな無学な人にも分かるように書かれてあります(ウエストミンスター信仰告白1:7、誰でも「通常の手段を用いれば、十分な理解に達する」)。聖書を紐解けば書かれてあることは理解できます。だから、それでほんとうに理解したのかというとそうではありません。もうひとつの理解があるのです。その理解は単に書かれたあることを理解するという以上の理解です。腹に収まるという言葉がありますが、それ以上の理解です。人生を変えるような、価値観や世界観をひっくり返されるような理解があります。心が満たされ、じっとしておれないような感激を伴う知識もあります。

 

 譬えで語られてもその情景は思い浮かべることができるかもしれません。キリストがここで語られた譬えは当時のパレスティナの農業形態を反映しています。粗放というか、粗い農法が用いられていましたから、その情景を見慣れている人たちにはイエスの譬えはすぐ分かったはずです。しかし、それで譬えの意味が分かったわけではありません。謎解きをしてもらう。そして、それで終わりではありません。そこに記されていることに感動するか、衝撃を受けるか。

 

【二重の理解】

 言葉そのものは誰でも分かるけれども、それで終わりではありません。例えば、祈りは聞かれる、という約束は言葉としては分かっても、祈り、しかも約束を信じて祈り祝福を受けるということとは異なります。この言葉に震え、感動することとは違います。聖書に書かれてあるのは単なる言葉ですが、その言葉を信じて受け入れるとき、聖書の言葉は衝撃的に作用します。このような二重の理解があり、理解の究極までイエス・キリストは導こうとされていますが、所詮外部の人、つまり、神の言葉を受け入れない人には、どのような分かりやすい譬えもそれ以上には聞かれないのです。

 

キリストが求められているのは、外の人ではなく、キリストの弟子となって聖書の言葉を生きた神の言葉として聞き、理解することなのです。

 

【播かれた種】

 譬えそのものを学びましょう。この譬えは分かりやすい譬えである上に、説き明かし、すなわち、イエスの解説までついています。種まきは神の言葉を語ります。語り手がイエス・キリストか、父なる神ご自身か、それとも、御言葉の宣教者かは判断できません。種はみ言葉です。そして、蒔かれた土地は受け入れる人のこころのあり方を示しています。

 

【道ばたに落ちた種】

種まく人は麦の種を空中に投げます。種は風に乗って広範に地面に落ちます。日本の農法のようにひとつひとつを丁寧に土に埋め込むというようなことをしません。すると、当然、種は畑地にだけ落ちません。中には道路に落ちてしまうものもあります。道路は人や家畜が歩くところですから、固くしまっています。そんなところの落ちた種は根を出すことなどできません。そのうちに鳥がやってきて食べてしまいます。

【石地に蒔かれた種は】

パレスティナは耕作に不向きな土地が多いところといわれています。それは石灰岩のような石がいその石地の上に重ねなければなりません。当然薄いものとなります。上から見ても分かりませんが、蒔かれた種は根をおろそうとしてもしっかり根を張ることができません。太陽が照って来ると枯れるしかありません。

 

【茨の土地に蒔かれた種は】

茨の土地の場合はどうでしょうか。日本の冬にはたいていの草は枯れるとしても若干青い草はどこかに生えています。かの地では乾燥期には雑草も全く枯れてしまいます。種が蒔かれたときは耕作地に見えます。ところが雑草は急速に成長しますので、せっかく目を出した麦も陰になり、成長することができません。よい土地に蒔かれると豊かに実を結びます。

 

【譬えの解説】

 この譬えをイエス・キリストは解説されます。道端に蒔かれる種が鳥に食われてしまうとは、サタンがやってきてみ言葉を奪い取ってしまうことだ。具体的には分かりません。御言葉を受け入れようとするものに邪魔をするのがサタンです。サタンの方法は多様です。み言葉を聞いてもくだらないと思う、あるいは経験が邪魔をする。一応は聞くが、宗教に対する偏見がみ言葉を拒否するという場合もそうかもしれません。石地に蒔かれるが、結局枯れてしまうとは、み言葉を聞くが、艱難や迫害、辛いことが起こると躓いて、み言葉から離れてしまう。茨の中に蒔かれて成長しないとはこのようも思い煩い、富の誘惑に負けて、いろいろな欲望に妨げられて、み言葉をいったん受け入れても途中で捨て去ってしまう。

 

 このような意味であることもすぐに分かります。よい土地に蒔かれるとたくさんの麦に実る。これも分かります。よい土地で多くの実を結ぶ点について考えたいことがあります。実はその土地の農業形態を知っている人はキリストの譬えに首を傾げるはずなのです。キリストはよい土地に蒔かれた麦が30倍、60倍、100倍になるといわれました。これは常識ではありません。麦の生産量は、せいぜい数倍といわれています。今日小麦を生産するところでは、肥料を多くやり、手入もきちんとして、十数倍は収穫することができるのですが、100倍は大変多い数字だそうです。ちなみに米は多く実ります。それでも農法が発達していない昔はさほど多い収量は望めなかったそうです。ということは、30倍、60倍、100倍という数字は極端というか、ありえない、あるいは奇跡的と言ってもよいのです。

 

【み言葉を受け入れ信じるとは驚くべき奇跡】

 好条件の土地に落ちた種が引き起こす現象はそれ自体奇跡と言ってもよいものなのです。み言葉を受け入れて信じると、そこから大きな祝福を受けるという謎解きに違いありません。み言葉を受け入れて信じるならばその結果その人の中に大きな神の祝福が生じます。それは驚くべき祝福です。

 奇跡と言ってもいい現象が起きます。それは神がなさるわざです。み言葉を受け入れるということは奇跡を伴うのだというのです。

 実際、御言葉に心を開いて受け入れること自体が奇跡といわなければなりません。その上、信じるところには信じがたい神に働きがなされます。

 

【最大の奇跡は、キリストの復活にあずかること】

最大の奇跡は、キリストの約束のとおり復活にあずかることと思います。キリストは死を打ち倒して三日目に墓から復活されました。これは最大の奇跡です。そして、私たちはキリストを信じて受け入れるならばキリストとひとつにされて、神の子とされ、復活のいのちにあずかることができます。死ぬべき私たちが、死を征服したキリストに結合されることほど大きな奇跡はありません。この大きな奇跡と同様、私たちは信仰によってさまざまな幸いを約束されていますし、事実その約束の実現を我が物とすることができます。

 

【罪の赦しも奇跡】

罪の赦しの恵みもまた偉大な奇跡です。イエス・キリストを信じるならば、私たちはその十字架の贖いによって罪が赦され、神に受け入れられます。私たちは神の民として、み国に集合できます。神のまことの家族の一員として受け入れられます。それだけではありません。私たちはイエス・キリストに守られ、導かれ、成長することができます。

 

 これらは信じて受け入れるしかありません。そのとき、キリストは約束されています。種まきの譬えそのものは分かりやすい、興味あるお話であって、理解しがたいところは何もありません。しかし、そこで留まっていては、この譬えからまだ何も学んだことになりません。み言葉を学んで、信じ、受け入れ、それによって私たちが大きく変えられる、そのことが期待されます。み言葉を受け入れるところでは言語の絶する大きな神の働きがあるのです。



2015年01月11日 | カテゴリー: マルコによる福音書

2015年1月4日説教「まことの家族とは」金田幸男牧師

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マルコによる福音書3章:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

説教「まことの家族」 

聖書:マルコ3章31―35

 

要旨

【身内の人々がイエスを、取り押さえに】

 3章21節に、イエスの身内の人々がイエスを、取り押さえに来たと記されています。イエスは気がふれたと思って取り押さえに来たとも、イエスが病人の癒しに食事も取れず過労となって健康を害するのではないかと心配をし、故郷に連れ戻そうとしたとも受け止められます。彼らはおそらくナザレからカファルナウムにやってきたのでしょうが、ふたつの地点は直線でも40キロ近くあります。徒歩なら二日の道のりです。

 

【母マリヤと兄弟たちが来た】

そして、31節には、母マリヤと兄弟たちが来たと記されます。マルコ福音書ではマリヤが登場しますのはここだけです。イエス・キリストの兄弟たちの名はマルコ6章3に出てきます(ヤコブ、ヨセ(フ)、ユダ、シモン)。

 

マリヤたちもナザレから来たとすれば、先の身内がイエスを連れ戻せなかったので、直接母親がきたと考えられます。二日間もかけてカファルナウムに来る。それは彼らの心配ぶり、そして、イエスに対する深い愛情を感じさせられます。

 

 イエスの母がやってきて、イエスに会って直接説得しようとしたに違いありません。ところがイエスの周囲にはたくさんの人が集まっていました。イエス・キリストはこのときにも多くの人を癒されていたのでしょう。そのために近づくことができず、人をやってイエスに意志を伝えようとします。周りにいた人たちがあなたの家族があなたを探しています、とわざわざ伝えています。

 

【キリストはなぜ母や兄弟に合わなかったか】

ところがイエスは、働きを中断せず、母親に会おうとしていません。これは何と冷ややかな態度と見えることでしょうか。母親や兄弟たちは遠路はるばるカファルナウムまでやってきました。それなのに、イエスは会おうともしません。何とも親不孝と思われる行為です。あのイエス・キリストとは思えない行動です。

 

 イエス・キリストは、仕事の邪魔をされると思ったのでしょうか。病人の癒しは重要です。人助けのわざです。母親にそれを中断されるのを不快としたのでしょうか。仕事の邪魔だと思ってこんな冷淡な態度を取ったのでしょうか。そうではなかったと考えるべきです。キリストは家族のつながりを否定しているわけではありません。親孝行を否定しているのでもありません。マルコ10章17-31節では、イエスに永遠の命を獲得するためにどうしたらいいのかと問う若者に、「父母を敬え」という戒めを示されます。永遠の命を得るために十戒のうちの主要な戒めを提示されます。

 

キリストは決して父母を敬うことを退けられたのではありません。同じくマルコ7章7-13節では父母に対する孝行をないがしろにするファリサイ的な律法理解を拒絶されています。イエス・キリストは決して親孝行などしなくてもよいなどと教えられたのではありません。さらにいうならば、家族のつながりを否定しているのではありません。その逆だと思います。

 

【新しい家族の形成】

 それではなぜキリストは家族に対して冷淡とも思われるような言動をしているのでしょうか。それは、仕事の邪魔をしているからだというような理由ではなく、大きな真理、すなわち新しい家族の形成を語ろうとしているからだと思います。

 

家族の絆は、現代社会では大きな波に洗われています。家族の崩壊はいたるところに見られ、それを防ぐ方策はないように思われています。社会の構造が家族を崩壊させ、価値観が大きく変化して、従来の家族観が通用しなくなって来ています。しかし、家族が社会を成り立たせる要素であり、最初の単位であることに変わりはありません。そのために、道徳教育を国家が主導し、国家が描く家族制度や家族観念の構築をめざす事態となっています。孝行、年長者に対する敬意、そして、それを国家への忠誠と直結しようとしています。新しい家族像を再形成することこそ現代社会の混乱を解決する鍵だと見られています。キリストは、そのような意味で新しい家族像を創生されようとしているのではありません。まことの家族とは何か。キリストはどんな家族を形成しようとされておられるのでしょうか。

 

【まことの家族とは何か】

 家族とは血縁で結び合っている人間のつながりを示しています。縁(えにし)とは辞書によると、ある関係を成り立たせるのに間接的に働く原因とありました。家族は血のつながりで、その結びつきを形作ります。むろん正確には家族は血のつながりだけで成り立つものではありません。夫婦を基礎とし、あるいは、法律上のつながり(養子制度)でも家族は成り立ちます。しかし、その結合は極めて固いものとされます。

 

 イエス・キリストはそのような固い人間の結びつきに注目されていると見ることが出来ます。人間は孤独で生きることができません。孤立は苦痛です。ひとりであることは短時間は耐えられるでしょうけれども長時間、ときには人生の大半を孤独なまま生きることになるとすればその人生は暗黒の中にあるといってもよいでしょう。人は本来孤独であることはできません。しかし、それでは固い人間関係を作り出すことは容易なのかというとそうではありません。固い絆で結ばれた人間関係を形成することは決して容易ではありません。

 

【新しい家族/神の家族】

 どうすればそのような固い絆で結び合わされた人間関係を形作ることができるのでしょうか。それが新しい家族です。キリストは、神の御心を行うものが神の家族だと言われます。

 キリストの周囲に座っている人たちがいました。これはイスラエルでは教師がみ言葉を教えるスタイルです。律法の教師が聖書の巻物を開き、それを聞く生徒らは座して聞きました。ですから、キリストが周囲にいる人を見回してまことの家族とは神の意志を行うものたちだと規定されたとき、それはキリストの弟子たちを指していました。それが新しいキリストの家族です。

 

新しい家族とはキリストの弟子団であるのですが、キリストの御心を行う人たちとはキリスト信者のことです。そして、そのキリスト者の共同体であるキリストの教会です。新しい神の家族とは、結論的に言えば教会ということになります。教会こそ新しい神の家族です。

 

【教会こそ新しい神の家族】

 教会では昔から互いに兄弟姉妹と呼び交わしました。教会こそ新しい神の家族だとの認識は古くから成立していました。教会は、神の家族です。しかし、このことは自明の真理ではありません。神の御心とは何か。律法に示されている掟です。その要約は神を愛し、隣人を愛することです。教会は神への愛と隣人への愛という定めを行うべく形成されたキリスト者からなります。けれども、教会の中では、敵対、憎悪、中傷、裏切りが起こりえます。罵り、嘲笑、悪口、罵詈雑言すら飛び交います。このような人間のよこしまが現れているところはとても神の家族などとは言えません。

 

ですから失望が生じます。教会は神の家族であるはずなのにやっていることはひどい人間関係だというのです。何が神の家族か、掃き捨てるように言われるかもしれません。

 神の御心を行うもの同士が神の家族です。それでこそ兄弟姉妹と呼び交わす関係が生じます。でも現実はかけ離れているではないか。このような現実と理念の乖離はつきものです。ですから、仕方がない。教会が神の家族などと言うのは単なる空想に過ぎないのだと思われるかもしれません。現実に圧倒されて諦めが支配します。教会の中に、人間関係を成り立たせないほどの、神の意志を無視する現実があるのを私たちは軽々しく見てはならないというのは当然のことです。

 

現実の家族ですら、親は子どもを慈しみ、大事にします。イエスの母マリヤはこの点で家族愛に溢れた女性だと言えるでしょう。イエス・キリストの家庭はすばらしいものであったに違いありません。そのような家族のつながりが神の家族である教会にないなどということがあってはならないのは当然です。教会はこの点で現実の家族以上でなければなりません。ただ、だからどうすればいいのか。現実の教会は理想とはあまりにも異なります。私たちはこのような現実をただ黙然と見つめるだけなのでしょうか。そんなことは決してないはずです。

 

【終末論的思考】

 わたしは、ここで終末論的思考と言うべき発想が必要だと思います。終末から現在を見る見方です。現在から将来を眺めると不安になります。この世界はどうなるのだろうという不安です。教会の現実から将来を見ると教会は果してこのまま存続するのだろうかと思いもします。現在の混乱を視点にすれば将来はよくなっていくとは思われず、将来を悲観せざるを得ません。それは先のことは何も分からない人間の宿命のようなものです。私たちの希望は転落していきます。しかし、聖書においてこの世の終わりがあると宣告されています。また、わたし個人も終わりがあります。実際そのときの到来は近いのかもしれません。キリストにある者にとって、終わりのときは栄光のときです。将来、教会は、キリストの花嫁として、完成します。そのとき、悪は滅ぼされ、罪の結果は除去され、神の支配が確立します。

 

教会は完成するとき神の家族は文字とおり家族になり、その絆はまったき絆となります。教会は勝利します。

 私たちは今は矛盾し、破れが目立つ教会に生きています。失望は拭い去ることができません。悲しみと怒りに満ちています。けれどもこの教会は完全な神の家族となるとの希望を抱きます。私たちに必要なことは諦めではなく、現状肯定ではなく、失望ではなく、むしろ、神は必ず教会をまことの神の家族とされるのだという希望を抱き、楽観的になることだと思います。

 

そして、だからこそ、神の家族を大切にする思いを心に抱こうと努めます。神は必ずまことの神の家族を形成されると信じて、その信仰に相応しいあり方を追い求めていきます。それが私たちに求められています。

 現実に神の御心を行うことは困難ですがその積み重ねがあってこそ教会がまことの神の家族となっていく道筋となります。(おわり)



2015年01月05日 | カテゴリー: カテゴリを追加 , マルコによる福音書