2014年12月28日説教「すべての罪は許される」金田幸男牧師
説教要旨 マルコ3:20―30
「どんな罪も赦される」
【身内の者たちは、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである】
イエス・キリストはご自身の働きをいっそう前進させるために12人の弟子を選び出されました。その弟子らとカファルナウムにある、ペトロの家に戻って来られたと推測できます。そこへ群衆が押し寄せてきます。病気を癒してほしいという人々であったと思われます。そのためにキリストは食事を取ることもできないほど多忙を強いられました。そこへ、キリストの身内がやってきます。彼らはナザレから来たと思われますが、カファルナウムまで直線距離でも40キロ近くあります。徒歩では2日間かかる距離です。なぜやってきたのか。イエスを連れ戻すためであったと思われます。イエスは気が変になった、と思ったからだと思われますが、イエスが食事もしないで働いていて、過労がひどく、放っておけないので連れ帰ろうとしたと考えることもできます。
【エルサレムからの律法学者】
イエスはその人々とナザレに帰ったと推測できますが、それは31節以下に記されます。その前にもうひとつのエピソードが記されます。エルサレムから律法学者がやってきたとあります(22)。彼らは偶然居合わせたのではなく、イエスの言動を調査しにやってきたことは間違いありません。それだけイエスのうわさは広がっていたのです。律法学者は、おそらくイエスの教えが彼ら律法学者と異なるものではないかと疑っていたのです。
【悪霊のかしらベルゼブル/ベルゼブブ/サタン】
律法学者はイエスの言動を見てすぐに結論を出します。イエスはベルゼブルに取りつかれている、というものでした。あるいは、悪霊のかしら、親玉によって、悪霊を追い出している、とも言いました。ベルゼブルはベルゼブブから来ていて、ベルゼブブとはペリシテの神で、蝿の神、したがって汚物の神でありました。害虫の神ですから、人間に災いを下します。あるいは、ベルゼブルはヘブル語で「(悪霊の住む)住まいの主」を意味するとされます。悪霊はその家に住んでいます。その宿の主人公はベルゼブルです。律法学者は悪霊がやすやすと追い出されるのは、その親分のベルゼブル、あるいはサタンの命令であると結論を出します。イエスは悪霊のかしらの所属として、あるいはサタンの力を借りて、悪霊を追い出しているのだというのでした。
【内輪もめをする国は成り立たない】
イエス・キリストはこの律法学者の結論に反駁されます。それを比ゆで語られます。まず、悪霊のかしらが子分である悪霊を追い出しているというのであればそれは内輪もめである。内輪もめをしているような国家は成り立たない。また家族もそうです。現在でも、内戦が長く続くところがありますが、もう国家の態をなしていません。国民は疲弊し、難民となり、飢餓や病弊に苦しめられています。内乱によって国は国の形を失います。それは不幸なことです。家族もそうで、互いに争っている家族はもう家族と言うことができず、その家族の成員は悲惨です。サタンは悪しき霊の集団を体現したものとされますが、サタンがその悪霊集団を追い出すことなどできません。親分が子分を追い出してしまっては、何もできなくなってしまいます。ベルゼブル・悪霊の家の主が、そこに集まっていた悪霊をことごとく追い出したとしたら、ベルゼブル自体が何もできなくなってしまいます。そんな愚かなことを悪霊のかしらがするはずがありません。イエス・キリストは決して悪霊のかしらの力を用いて味方であるはずの悪霊を追い出したりすることは決してない。このことは誰が考えても分かる話です。
【キリスト/聖霊は悪霊のかしらに勝る】
さらにキリストは反論されます。悪霊を追い出している。そうだとすれば、その親分を追い出し打倒するのが先です。そうでないと、親玉が攻撃してきたら、反抗することができません。キリストは悪霊を追い出しているのであるとすれば、すでに悪霊のかしらに勝る力を持っていることを示しています。キリストは、悪霊のかしらに凌駕する大きな力を保持し、それを行使する方なのです。キリストはベルゼブル以上なのです。
【サタンは鎖につながれて今も働く】
今日は科学万能の時代です。悪霊とかサタンとかいいますと、直ちに作り話、神話、創作という反応が生じます。21世紀の今頃、悪霊の存在など信じているものはないとされます。ばかばかしいと一蹴されてしまいます。しかし、それにもかかわらず、霊に憑かれている、悪霊に呪われている、崇りがある、などといわれると不安に襲われます。そして、あっさりと高価な除霊効果があるとされる品物を買わされたりします。それは霊的なものの存在を否定しながらどこかでその存在を否定できない心の思いがあるに違いありません。
だから、サタンは何か君臨するものとも考えられています。力ある者と見なされます。そして恐れられています。ある注解者が言っていることですが、サタンは鎖につながれている。キリストはまずサタンを縛り付けられました。ところがそのつながれている鎖は長いのです。ですから鎖につながれている範囲でサタンは行動しています。サタンはまだ徹底的に滅ぼされていません。そのためになお暗躍しています。私たちの心に恐怖心を与え、自分は力があるように振る舞います。サタンは自分の力に人が屈するように試みます。そして、しばしばそれは成功しているかのようです。
しかし、私たちはイエス・キリストが言われたように、サタンはまず縛り付けられていることを覚えなければなりません。サタンは全能者のように振舞っていますが、所詮鎖につながれています。鎖を引きずって最後のあがきをしています。しかし、その力は強力でもあります。だからその誘惑に敗北する人が何と多いことでしょうか。
キリストはサタンを打倒し、打ちのめし、追い出す方です。サタンはせいぜい反抗できる程度です。サタンは強大と思われてもイエスの前には無力です。キリストは悪霊を追い出されましたが、悪霊のかしらはキリストに抗することはできません。私たちは霊的な事柄ではだまされやすいのです。しかし、キリストはあらゆる霊的な力に対しても主であることができる方です。薄気味悪い感じを与えて私たちに恐怖心を起すのですが、サタンはキリストに全然勝つことができません。
【赦されない罪とは】
さらにキリストは、イエスがサタンに取り付かれていると中傷する律法学者に反論されます。あらゆる罪は赦される。突然、キリストは罪の赦しを語られます。しかし、赦されない罪がある。その赦されない罪とは何か。聖霊を汚す罪です。聖霊を汚す罪とは何か。
【あらゆる罪は赦される】
人の子ら(罪人)が犯すあらゆる罪は赦される。その罪に中には冒涜の言葉も含まれます。私たちの世界は罪に満ちています。いたるところに罪があります。お互いに人は罪を犯しています。傷つけあい、罵りあい、誹謗のきわみにあります。到底赦しがたいと思われるような罪もあります。ところがキリストは赦されると言われます。
キリスト御自身もときに嘲られ、侮辱されました。ついに命を奪われます。このようなキリストに対する犯罪は赦しがたいものとも思われますが、キリストは,赦されない罪はないといわれます。キリストはそのために十字架につけられました。キリストは私たちの世界に来られて、私たちの罪を全て負い、十字架でその罪に対する神のさばきを身代わりに引き受けられました。
人間は過去の罪を引きずっています。過去の罪に苦しんでいます。そのことを思い出すと立っておれなくなるような気持ちになります。くよくよしている場合もあります。良心の呵責に悩まされていることもあります。どうすることもできない恨みに満たされ、そのために自己嫌悪に陥っている人もいます。罪は私たちの人生を暗くしています。個人だけではありません。人類は多くの罪を積み重ねています。人類の悲劇の根源に人間の罪がある。このように言うことができます。
イエス・キリストはあらゆる罪を赦してくださいます。神の赦しを約束されます。だから、神のさばきを恐れることがありません。キリストの十字架の効果は全体に及びます。過去、現在、未来の全ての罪は赦されました。教会はこのことを全世界に語るように命じられています。
【聖霊を汚す罪】
しかし、赦されない罪があるとキリストは語られます。ひとつの例外がある。それは聖霊を汚す罪です。聖霊は、悪霊にまさる力を持っている方です。聖霊こそ、まず相手のかしらを縛り付けることができる方です。その聖霊は、イエスは主であると告白させる霊です(1コリント12:3)。神の深みを究める方です(1コリント2:10)。聖霊は欺くことができない方です。この方を汚すような罪とは、結局、キリストを悪霊につかれていると主張する場合です。
律法学者はイエスの言動をベルゼブルに取り付かれてやっていることだと結論するのですが、それは最も危険なことを言っているのです。赦されないような罪を犯していると言えます。
イエス・キリストを批判しているのですが、そのイエスの働きがどこから来ているのか、律法学者はサタンに根源を求めました。キリストは、中傷され、批判され、非難されました。しかし、イエス・キリストはそのような攻撃を甘受されます。
【キリストを信じない不信仰こそ赦されない罪】
キリスト教に対する批判、教会批判は、批判であるというだけでは、赦されざる大罪などとはいえません。キリストの十字架は効力が大きいのです。ところがその十字架を否定したり、キリストの救いの効果を否定すればどうでしょうか。それによって私たちの罪が赦されるその根源を無視したり、拒否したりすれば罪赦される余地はなくなってしまいます。
聖霊を汚す罪とは結局救いの根源を否定する罪だということになります。つまり、キリストを信じない不信仰こそ赦されない罪だということができます。(おわり)
2014年12月28日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2014年12月21日説教「神がまことの人になるとき」金田幸男牧師
L141221001.wav ←クリックして説教をお聴きください説教 「神がまことの人となる」
聖書:ヨハネ1:1―5
要旨
【「めでたい」と言うこと】
クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日と、このように一般に捉えられています。誕生日はめでたい。「愛でる」とは美しさを褒めるという意味があります、誕生日は何が美しいでしょうか。生まれてきた、可愛い赤ん坊が美しいとも言えるかも知れませんが、むしろ新しいのちが存在するようになったことがうるわしいと言えるのではないでしょうか。今まで存在していなかった生命が存在するようになった、そこに、めでたさがあります。
【クリスマスを祝うとは】
イエス・キリストの誕生もまた、それまでありえなかったような存在が地の上に与えられた、だから、クリスマスは祝うべきだというのです。
しかし、クリスマスの喜ばしさはそれだけではありません。ヨハネ福音書1章4に「言は肉となって私たちの間に宿られた」という文章が記されています。その言は1章1では「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言は神であった」と記されていいます。つまり、「神が肉をとって人間となられた」ということになります。
【はじめに】
「はじめに」は、いつか分からないけれども単なる時間のはじめというような「はじめ」を意味していません。むしろ「永遠のはじめ」を意味しています。永遠のはじめなど、言葉の使い方が間違っていると思われるかもしれません。永遠にははじめもなく終わりもないというべきでしょう。しかし、すべてが始まる以前、時間すら開始される前、その永遠から存在していた言葉が、とき至って肉体を取り、人間となられたのです。時間というようなものがまだなかったときから存在しておられた方が来られたという意味です。
【「宿られた」】
「宿られた」とは「住まわれた」と言うことであり、私たち人間の間で生活し、行動されるようになったというのです。
神である方が人間と成り、人間の中に住まわれて、生きるようになった。これがクリスマスの大きな意味なのです。神が人となられた。
【人間が神になる世界】
私たちは人間が神になるという世界にいます。歴史に残るような大きな活躍をした英雄、傑出した業績を残した人が死後神として祭られる世界、これが私たちの住む世界です。人が死ねば、その人は人間を越えるものとして、例えば子孫を守護する存在として崇められます。人間の神化はごく自然な現象として認められています。でも、神となった人間は、生きていたときの特質をあまり失いません。人間としての特質に神の特質が加わると言うことでしょう。
【神が人間となる】
しかし、クリスマスはこれとは異なったことを教えられます。神が人間となった、つまり、逆方向の出来事が起きたとされます。神が人となった。
これはどういうことでしょうか。神がどこか遠くに存在するだけで、人間世界で起きていることを眺めているだけだというのではありません。人間の住む只中に降って来られたと言うのです。神が神であることをやめず、しかし、人間となってくださった。
神が人となるということとは、人が神を見ることが出来るということを意味しています。イエス・キリストこそその人間となった神です。イエス・キリストの周囲には、残念ながら、画家はいなかったようです。もしいたら、彼はイエス・キリストを描くことができました。むろん写真で撮影することができました。キリストはそのような点でまぎれもなく人間となられました。
キリスト教では神は見えないことになっています。私たち日本人もその神観念では、神は見えないことになっています。ご神体の多くは鏡です。鏡は像を移すことができますが、神は見ることができない存在です。神は目には見えません。
【見えざる神】
わたしは牧師としていろいろな質問を受けますが、そういう中で一番多い難問は「神がいるなら見せてくれ、見たら信じる」というものです。神を見せることができれば、手っ取り早く神存在を証明することができるかもしれません。でも、神は見ることが出来ないのです。見ることが出来るようにされた神は神ならざるものでしかありません。
【人となられた神イエスは見ることができた】
イエス・キリストは神であるにもかかわらず、人間となられたのですから、キリストそのものは見ることが出来ます。キリストは幻の中で姿を表したのではありません。
キリストを見れば、確かにそこでは「人間イエス」を見ていることになりますが、そのイエスが神です。神を肉眼で見ることが出来ませんが、イエスの働き、行動行為、説教を聞いておれば、私たちは神の何かを見ていることになります。
言は肉となったと記されていました。肉体を取った神、それは言が肉の姿をとっただけではなく、言葉はイエスの口から発せられます。それは単なる音声に留まるのではなく、神の意志を伝えます。神が何を願い、何を求め、何を欲し、どんな驚くべきことをしようとしておられるのか明白にされます。
言葉は神の御心を明らかにします。その言葉を聞いておれば神とはどういう存在か、神は私たちにとってどういう価値があるのか。神は一帯どんな恵みを提供しようとしておられるのか。神は決して人間を滅ぼしつくそうとしておられるのではありません。そうすればきっとよきことをしようとされています。神は憐れみの神です。救いの神です。
【聖書に記録された神の言葉】
キリストを通じて、私たちは神の意志を知ることができるのです。単なる宗教的天才の発明した思想を受け取るのではありません。
キリストの言葉、すなわち神の言葉は聖書に記録されています。聖書を読めば、神の意志が分かります。キリストが降誕されたのは、イエス・キリストによって神の御心が明白に、隠れるところなく示されるようになるため、また、すばらしい神の働きがなされたことを示されるためです。キリストを信仰の目で見れば神が見えてくるということができます。肉眼で見えなくても、心で神を見ることが出来るようになります。
【処女マリアから生まれたキリスト】
神の子、イエス・キリストが降誕した、その意味は多くありますが、中でも最も大切な意味が何か。キリストの降誕で、キリストは私たちと同じ人間になられました。正確に言うと、罪を除いて、全く私たちと等しい人間となられたということです。罪を除いて、について詳しい説明が必要ですが、処女マリアから生まれた理由です。この点、キリストは私たちとは同じ出生ではありませんでした。だから、キリストは罪なくして生まれてこられました。
【身代わり】
同じ人間であると言うのは私たちの身代わりになれるということです。
子どもが何か悪いことをして誰かに損害を与えたとします。その場合、親が子どもに代わり、謝ります。ときには賠償責任も負います。こうして身代わりになるものが負い目を引き受けて、その邪な行為の張本人は免罪されます。責任を取らされず、処罰されないのです。
【イエス・キリストの贖罪】
イエス・キリストが人間となられたのは身代わりになれる、いや、身代わりになるためでした。人間は身代わりを必要とする闇を背負っています。それは死の陰という闇です。私たちは死の気配の中で生きています。そして、世界もまた、破滅の予兆を示しています。人類はその罪のゆえに戦争、戦乱、飢饉、疫病など数え切れない不幸と災いに見舞われます。その原因は、どこにあるのでしょうか。直接の原因は解明できるでしょうけれども、その打開策を人間は持っていません。例えば戦争ですが、戦争の原因はいろいろと探り知ることができるでしょうけれども、根本的な原因は見い出せません。むろん人間の貪欲、あくなき欲望と言えるかもしれませんが、それを解決する方策は今もって見い出せていません。
人間の悪き存在は自覚されていてもその解決はありません。
イエス・キリストは、人間の悪とその結果を引き受けるためにこの世に来られました。ご自身が十字架につけられることで身代わりになられました。
キリストは、自らを犠牲にすることで、神の裁きを引き受けてくださいました。そうすることで、根本的な人間の中にある闇を取り払われました。
【キリストによる平和の完成】
現在はなおも罪の支配があります。それはまだ力を発揮しているかのようですが、根本は解決しています。キリストのこのみわざを信じるところでは闇は払われています。信じる心があるところで平和が来ています。完成されるまではまだ時間がかかるかもしれませんが、それでも、神は徐々に完全な平和の到来を実現しておられます。
クリスマスはこの神の働きを覚え、また救いの完成を待ち望むときでもあります。主を待ち望みつつこの季節を過ごしたいものです。 (おわり)
2014年12月14日説教「これと思う人々を呼び寄せ」金田幸男牧師
マルコによる福音書3章13~19
13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
説教「これと思う人を呼び寄せる」マルコ3:13―19
要旨
イエス・キリストは山に登って行かれます。山といってもおそらくガリラヤ湖の周辺の丘で、湖からの傾斜地、その部分は草原ですが、それを越えると荒地になります。キリストの周りに集まっていた群衆はついて来なかったと思われます。
【主の召し集め:12使徒】
キリストは、目的を持って人を召し集められますが、それに応じる人が出てきます。キリスト教信者とは、このように召しに応じて集まった人たちを表わします。キリスト教の集団、教会の基礎は召し、選びと応答からなっています。教えっぱなし、呼びかけっぱなしではなく、その声に応じて集まった人たちこそキリストの弟子です。
その中からキリストは12人の使徒を選ばれました。使徒とは「派遣されるもの」を意味します。これは聖霊が降った教会においてその指導者たちを指して言われるのであって、それまでは「弟子」というほうが正しいのです。
キリストは12人の直弟子を集められます。聖書もそうですが、数字に意味を与えるというのはどこにでも見られます。私たちも、4とか9という数字は「死」「苦」を連想するので、部屋番号などに使わないという場合もあります。13は西洋ではキリストの処刑された日に結びつけ、これも嫌われます。
【イスラエル12氏族】
半面、3,5,7は完全数といって、そこに整合され、調和された意味を見い出します。12もそうなのです。12は12進法では完全数です。さらに、12は旧約聖書では大きな意味を与えられます。イスラエル民族の始祖、ヤコブは別名イスラエルですが、彼には12人の息子がいました。この12人から12の氏族が生まれてきます。カナンに入国してからは、12氏族が定着し、イスラエル国家を形成していきます。12はイスラエル民族を表わす数字でした。
【新しいイスラエル:反ユダヤ教】
神はこのイスラエルを選びの民をし、神の国を形成されます。12人の弟子は新しいイスラエルを意味していました。
キリストは3章6以前のところでは、主としてユダヤ人の宗教施設である会堂を拠点にして働きを続けられていましたが、ファリサイ派はヘロデの支持者と組んでイエスを殺害しようと企てます。マルコ福音書ではこれ以降、6章2以外、キリストが会堂で働かれたとは記しません。有力な推測は、キリストは会堂と絶縁して、会堂の外で教えを語られたということです。ユダヤの宗教体制は会堂の活動を中心にして営まれましたが、キリストは今後、新しい行き方をされます。同時に、古いイスラエルと異なる、新しいイスラエルを生み出されます。これが12人の弟子たちの働きを通じて実現することになります。
イスラエルは神の選びの民でした。そして、そこに大いなる神の栄光のわざが実行されます。神はイスラエルに大きな祝福を提供されます。神の国とその国籍、神の家族の一員とされます。復活の主の命に預かり、永遠の命を授けられます。新しいイスラエルは、新約の教会に他なりません。
12人の弟子たちの福音の説教を通じて、新しいイスラエルが召し集められます。
【使徒の目的1:そばに置く】
キリストが12人の弟子を選ばれた理由は明らかです。14節に「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」とあります。
そばに置くというのは、王侯君主が側近に人を集め、権威を誇るというのと同じではありません。また、ただそばにおいて置くというためではありません。そばに置くとは、どういうことかを明瞭に示すのがマルコ14章32以下に記されている、ゲッセマネの出来事です。キリストは十字架につけられようとしています。キリストは苦しみ、悶えられます。それは神から見捨てられるという経験をしなければならないからでした。その苦しみは耐えがたいものでありました。
そこでキリストは「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と命じられます。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」このようにキリストがいわれたのは傍らに弟子がいて、キリストを励ますように期待されたためです。弟子たちはキリストのために執り成しを求められました。私たちは奇異に感じるはずです。神の子がどうして人間に助力を求めるのか。確かに、おかしな感じもします。しかし、キリストは私たちと変らない人間になってくださいました。喜怒哀楽を感じ取ることができるお方として、私たちにご自身を知らされました。このようなキリストは、弟子たちの祈りの加勢を求めました。キリストは、私たちの祈りを求めておられます。そして、父なる神が助けを与えてくださるように祈るとき、私たちと共に、祈るように招かれます。
キリストと共にあるというと、単にそこにいるだけではありません。キリストと共に祈るように導かれます。私たちは祈りにおいて光栄な役割を期待されています。キリストをかしらとする教会のために執り成しをすること、それこそがキリストの求められたところです。
ゲッセマネでは弟子たちはキリストの願いを充分に汲み取ることができませんでした。弟子たちは眠りこけてしまいました。そして、キリストの裁判のときは蜘蛛の子を散らすかのようにどこかに姿を消してしまいました。キリストが弟子を招かれた目的は期待はずれに終わりました。
しかし、その後の教会は、いつもキリストがそばにいてくださる(おらせられる)という信仰によって力を取り戻します。
【使徒の目的2:福音宣教と悪霊追放】
弟子たちを選ばれたもうひとつの目的は、福音宣教と悪霊追放です。この両者は密接です。福音を宣教することは弟子たちの専ら委ねられた任務でした。ところが弟子たちは悪霊の追放も命じられます。今日では「悪霊」は神話的なもので、その実在は信じられていません。人間の創作だというのです。古代人の想像の産物だとも言われます。悪霊は存在します。
そして、悪霊は私たちに神を呪えと命じ、私たちを神から引き剥がすように努力しています。そのための常套句は、神はいない、神の救いはつまらない、価値がないなどというものです。しかも、悪霊は、私たちが福音を信じようとすると、巧妙に妨害をします。悪霊は私たちに神を呪わせようとします。キリストに不信感をあらわにさせようとします。
福音が宣教されるとき、悪霊の居る場所は失われます。キリストを信じるものを悪霊は一番嫌います。福音が宣教され、福音を信じるものが起されると悪霊は無力になります。悪霊の存在は薄気味悪いものです。悪霊を描いた絵があります。そういう絵が私たちの頭に記憶されてしまっています。だから悪霊など実在するといわれると直ちに迷信的であるとか、神話的だと切り捨てられます。悪霊は目で見ることはできませんが、存在します。私たちは気持ち悪く思う必要はありません。福音が純粋に宣べ伝えられるところで悪霊は消えていきます。福音の勝利こそ悪霊を圧倒する方法です。
このように、人里はなれたところで、12人の弟子たちは、地の果てまで派遣されるために訓練され、教育されます。実際に派遣されるのは6章6節以下に記されているとおりです。この間はどれほどか判然としませんが、キリストは弟子たちを派遣する備えをされました。
【弟子たちの多様性】
キリストの弟子たちのリストが挙げられています。ひとりひとり見ていくことは興味あることですが、ここでは全体を眺めまず。この弟子たちは多様です。職業から見ていくと、ペトロたち4人は漁師です。マタイはレビともいわれ、収税人でした。収税人は読み書き計算ができるのでなければ職につけません。しかし、収税人はその職業から同族ユダヤ人に嫌悪されていました。蔑視されていたというべきでしょう。
同じ漁師でも、ヤコブとヨハネの父親は舟を所有し、人を雇う立場で裕福な階層であったと思われます。ペトロはそうではない、とすれば船を持たないで沿岸で漁をし、ときどき網元に雇われるような人たちであったと推測されます。ペトロは既婚者でした。熱心党のシモンはキリストの弟子となったときすでに党派を離れていたかもしれませんが、それでも政治的にはローマの支配を、力を用いてでも覆そうとする過激派でした。
イスカリオテのユダは他の弟子と違い、ユダヤのヘブロンのケリオテ(ヨシュア記15:25)出身であったと思われます。他の弟子は大半がガリラヤ出身でした。このユダがイエスを裏切ります。十字架のときは全員が姿を消します。信仰が強烈で不動といった人たちではありませんでした。
12人の弟子たちのうち、ペトロやヨハネは多く登場しますが、約半分の弟子たちは弟子団のリストに名が挙がるだけで、新約聖書に登場しません。したがって何を語り、何をしたか分かりません。ユダヤ人の宗教的なエキスパートである律法の学者は一人もいません。種々雑多、しかもいわゆるエリートではありません。キリストはこういう人たちを集められたのでした。
【教会の船出】
この12人から教会は出発します。教会はこのように単一の性格を持った人からなる純粋な宗教団体ではありません。いろいろな人が加わってこそ教会たりうるのです。むろん、烏合の衆ではありません。いろいろな人がいるだけではばらばら、何のために組織立てられたか分からない曖昧模糊とした集団になってしまいます。教会はいろいろな人からなりますが、その人たちが教育され、訓練され、そして、福音を宣教するために遣わされます。このようにして教会は形を取ります。
今日のキリスト教会もまたいろいろな人が加わっています。それぞれ個性があります。老若男女が集まっています。このような人たちの力が福音宣教のために結集されるときこそまことの教会になります。教会とはこのような特質をその当初から与えられていたのでした。(おわり)
2014年12月14日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2014年12月7日説教「あなたは神の子だ」金田幸男牧師
L141207003.wav ←クリックで説教が聴けます説教 「あなたは神の子」金田幸男牧師
聖書:マルコ福音書3章7―12
要旨
7-12節は、1章40から始まる一連の癒し物語、特に2章1からのファリサイ派の人たちとの対立を引き起こした安息日のわざの五つの物語と、3章13以下を結び付ける「つなぎの文章」となっています。それは以前のキリストの働きを要約し、新しい展開を示します。
【立ち去られた】
7節に、イエスがガリラヤ湖のほうへ「立ち去られた」とありますが、実際には退去されたという意味です。キリストはカファルナウムを中心に活動をされていましたが、ファリサイ派は、ふだんは敵対していたヘロデ王家の支持者と手を組み、キリストを亡き者にしようとの陰謀を企てます。
【反キリスト】
そのため、キリストはファリサイ派と全面衝突しないように、町から離れて湖の近くに退かれたのです。これはキリストの宣教活動のはじめでした。キリストはその福音宣教の初期から、敵意に直面したのです。キリストの働きはそのはじめから万事順調に成果を挙げていたというのではありませんでした。ファリサイ派の人々、集まってきた大群衆、そして、汚れた霊、これらはキリストと出会います。彼らは直ちにキリストの権威に服したのかといいますと皆がそうではありません。
そこに示されたのは敵意、あるいは一方的な期待です。どう見てもキリストの働きは大成功などとは言えないのです。キリストの福音宣教のみわざは当初より困難を極めていたのです。それだけキリストに敵対するものが多く、その力も強大であったといえるのです。
まず、書かれてあったことですが、ファリサイ派の敵意を引き起こします(3:6)。一般民衆にはどうであったでしょうか。大勢の群衆が集まってきます。おびただしい数の群衆でした。彼らは各地からやって来ています。早くもキリストの評判は各地に拡大して行ったので、イエスの力を知ったのでした。ガリラヤから始まり、南部に位置するユダヤ、エルサレム、その南にあったイドマヤ、東に位置するヨルダンの向こう側=トランスヨルダン、西南のティルス、シドン(地中海沿岸の町、フェニキア人が住む、現在のレバノン)にまでキリストの名声は伝わって行きました。
このうち、イドマヤを除き、福音書ではのちにイエス・キリストがその地方に足を踏み入れたとあります。イドマヤは旧約に出てくるエドム人の子孫が居住した地域で、紀元180年ほど前、ユダを独立に導いたマカビー王家によって征服され、ユダヤ教を強制されます。イエス・キリストが生まれたときユダヤの王であったヘロデはイドマヤ人でした。
福音書の視点からすれば、のちに、イエス・キリストは活動範囲とした地域から続々と人がやってきます。大量の人々がキリストのところに来ます。そのあまりの多さのために、キリストは身の危険を感じ、ガリラヤ湖に舟を用意してもらい、難を逃れるという始末でした。そのエネルギーの凄まじさに舌を巻くのですが、それは病気を癒してもらいたいとの思いから出たものです。病気は病苦ともいいます。病気は病人に過酷な苦しみを与えます。苦しみから解放されたいと願う人々が大挙して来ました。これはイエス・キリストからいわゆるご利益を得たいとの思いから出た行動です。そこには、ただキリストに今負っている苦しみを逃れたいと思っているだけです。
【求道の動機】
動機が不純であると誰しもが思います。キリスト教は魂の救済を語っている。あるいは人生の最大の価値を説いている、その意味では最高の哲学である。それは偉大な思想である。このように宗教を捉えているものには、群衆の動きはけしからぬと思っても不思議ではありません。現世的なご利益を求めるような信仰は邪道である。こう思っている人は多数ではないでしょうか。
イエス・キリストは神の福音を語られます。悔い改めて福音を信じるように、キリストは訴えられます。だから、この各地からやってきた群衆を避けて身を隠してしまうことも可能でした。群衆はイエス・キリストに迫って湖まで押し立てるところまで押し迫ります。イエス・キリストは身の危険を感じて舟に逃れたのです。異常といえば異常です。キリストがこれ以上の働きを断固拒絶してしまうこともありえました。
【癒しを求めて】
でも、キリストはどうされたのか。キリストは多くの病人を癒されました。動機が不純だといって直ちに群衆を追放されたのではありません。キリストは癒しを求めてやってきた人たちの願いを聞き届けます。その動機の中に真実な求道など見い出せないところで、人々の思いを聞かれます。それはキリストの憐れみのゆえです。キリストはただ病を癒してもらいたい、今負わせられている重荷を軽くしてもらいたい、キリストの助けを求める思いに満たされている人の期待を潰すことをなさいません。
キリストのところに来る人々の期待はさまざまです。いわゆる高尚な宗教理念に反するような願いを携えてやってくるというような人もいました。キリストはそのような人たちがはじめから福音のメッセージなど聞く耳も持たないとして、退けられることはありませんでした。動機はさまざまであってもよいのです。キリストは人々の期待を無にするようなことをなさいません。これがキリストなのです。
単純にキリストを求めてやってくる。時には興味半分、あるいは、懐疑的に、キリストを求める人もいるでしょう。しかし、キリストはそのような人たちの思いを大事にして、その願いを実現されます。キリストが地上におられたときその範囲は現在のパレスティナ一帯に限られていましたが、今キリストの昇天後は、そのような地理的限界が取り除かれています。キリストは今も期待をもって近づくものをないがしろにしたり失望に終わらせたりすることはないのです。
【汚れた霊に憑かれた者】
キリストのところにやってきたもう一種類の存在があります。汚れた霊、悪霊といわれる霊的存在です。彼らがキリストのところになぜやってきたのか記されていませんが、清らかな思いからでなかったことは確実です。悪霊は決して回心してキリストのために働くなどということはありません。悪霊はキリストに敵対するだけです。悪霊は、その存在そのものが神に敵対する存在です。人間は回心する可能性があります。誰もが回心することができます。しかし、悪霊はそのようなことにはなりません。
悪霊につかれた人たちがいました。彼らはキリストのところへ来たのはキリストに敵対するためでした。悪霊が近づく、つまりは悪霊につかれた人間たちが叫びながら、キリストに反対するべく集まってきたのに違いありません。
【「あなたは神の子」と叫ぶ悪霊】
悪霊どもは、キリストに向かって「あなたは神の子」と叫んでいます。イエスが神の子であるという信仰こそキリスト教の存続に大きく関わるものです。悪霊が神の真理を語る? 恐ろしいことです。この叫びはキリスト教信仰で最も重要な教義を本当に告白する叫びなのでしょうか。神は悪霊に神の真理の宣教をさせようとしておられるのでしょうか。そんなことは決してありえません。確かにキリストが神の子であるという言葉は真理です。キリスト教最大の真理です。これによってキリスト教は成り立ちます。それほどまで大切な信仰の内容です。悪霊がこんなことを叫ぶとは驚きです。
なぜ、悪霊はこんなことを言ったのか。敵対する相手の素性を明らかにするというのは戦いの常套手段であったといわれます。相手の本名を明らかにする、そのとき相手は無力化されるというのです。ですからめったに本名を明らかにしません。悪霊はイエス・キリストが神の子であると語ることで、キリストを無力化しようと計ります。これが、悪霊どもの、「あなたこそ神の子です」という言葉の背後にある動機です。悪霊どもはキリストを無力なものとし、キリストを圧倒しようと企てています。動機は敵意、敵対意識からです。悪霊はイエス・キリストをただ単純に神の子といっているのではありません。
【クリスマスは光の祭典?】
悪霊に、キリストは沈黙を求められます。これは悪霊に、真理の伝達などさせないと言うものです。神に敵対するもの、神とかかわりを持たないものが、キリスト教の真理を声高に叫んでいる。こういうことは至るところで見られます。クリスマスなどその典型です。イルミネーションを飾り立て、光の祭典などと称しています。しかし、それは人工的な光に過ぎません。暗い闇の中できれいに見えます。しかし、それ以上ではありません。私たちの世界に巣食っている闇の力に対して光を提供することなどできるのではありません。むしろ、人間世界の暗闇はますます大きくなるばかりです。悪、不正、不公平が蔓延しつつあります。光の祭典と言っても人間の魂の闇をとても明るくできるわけがありません。
キリストはご自身に敵対するものに真理の告知の任務を与えられるのではありません。キリストは神の言葉を不真実な勢力に任せられることはありません。
キリストは敵対するものは真実を語っているとしても、彼らには沈黙を命じられます。悪霊が、イエスは神の子だと大声で叫んだとしても、沈黙を命じられます。つまり、彼らによって神の真理は少しでも語られることなど望まれないのです。
【福音宣教はキリスト者の召し】
とすれば、キリストはこの最大の教義をどのようにして世界に発信させられるのでしょうか。キリストの弟子たち以外には考えられません。教会が、そして、キリスト者が神の言葉を宣べ伝えるように召されています。教会以外、キリストを信じるもの以外が何かすばらしい真理を語っているかのように思われても、福音の真理は彼らの口から語られることはありません。キリストを心から愛し、信じるものにこそ「イエスは神の子である」という福音が委ねられているのです。これを世界中に告げ知らせるように、私たちは召されています。(おわり)
2014年12月07日 | カテゴリー: マルコによる福音書