2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師
2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師
聖書:マルコによる福音書2章
1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。
4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
要旨
【4人の男と中風の男】
2:1に「数日後」とありますが、マルコ福音書はいつも正確な時間の経過を記していませんので、これがかなりの時間が経ってからなのか、それとも文字通り、4、5日の間なのか分かりません。イエス・キリストは再びカファルナウムの町に戻って来られました。その間ガリラヤ地方で宣教を続けておられました。
カファルナウムでは今度は会堂に入らず、一軒の、おそらく農家に入って行かれます。当時の農家は四方が土壁に囲まれ、多くの場合一部屋があるだけで、台所と寝室が同じ部屋であることも珍しくなかったそうです。大きめの家ならば2、30人は容易に入ることができたと思われます。
キリストはここで専ら御言葉を語っておられました。ところが事情が急変します。そこへ4人の男が床=戸板に中風になった人を運んできたからです。脳梗塞か脳出血のために体が麻痺してしまっている人だったと思います。いつごろ中風になったのか分かりません。
4人の男はイエスのうわさを聞いてこの人を連れてきたのでしょう。イエス・キリストが話をされている家の入り口はすでに人が一杯でした。家の中も立錐の余地もなくなっていたのではないでしょうか。そこで彼らは思いつきます。当時の農家の屋根は木の梁をわたし、その間に草を葺くというもので、屋根に瓦のようなものをかぶせる場合もありました。屋根は地面から登ることができるほど、低くなっていたようで、4人の男は、屋根に上り、一部を剥いで穴をあけ、そこから病人を床ごとおろします。他人の家の屋根を壊すこと自体非常識で乱暴な行動です。
【かれらの信仰を見て】
その上、イエス・キリストの頭のま上ですから、土ぼこりがばらばら落ちてきてとてもキリストは話を続けることができなかったはずです。こんなひどい行動を見てキリストは怒り、しかりつけられたのではあれば話が分かります。ところがキリストはこの人たちに信仰を見たと記されます(5)。
これを読んだ人は以外に思うに違いありません。どこに信仰があるのだろうか。しかも、信仰は中風の人の信仰とは記されず、病人を運んできた人も含めて、「その人たちの信仰」と記されます。病人が自分の病気を直してくれるかもしれないイエスキリストに期待するというのであれば信仰と言えるかも知れません。ここでは、とてもむちゃくちゃな行動をしている人たち、キリストの宣教の働きを中断させてしまった人たちに信仰を見ているのです。
私たちは、なぜこれが信仰だと思うかもしれません。しかし、キリストはこれを信仰と見られます。私たちは自分で信仰とはこういうものだろうと推測します。そして、その規準で信仰であるとかないとかを決めようとします。そうであれば、私たちから見て、とても信仰と思えないこともあります。他人を見て、あの人は本当に信仰を持っているのか、と言います。自分に対しても、こんなことで信じていると言えるかと疑問を抱きます。
しかし、信仰はいろいろなタイプがあっていいのではないでしょうか。いたって知的な信仰の人もいます。かと思うとわけが分かっていると思えないような幼稚な信仰の人もいます。強烈な信仰を自覚している人もおれば疑ってばかりする人もいます。でも、信仰があるとか、ないとかは簡単に言うことはできません。イエス・キリストがここで信仰があると見なした人たちの場合、私たちの評価基準からすればどうして信仰かと思えますが、イエス・キリストはこの人たち、その行動を信仰と見なしておられます。
【子よ、あなたの罪は赦される】
さらに意外と思われることが記されます。イエス・キリストは病人を癒す奇跡を行われません。乱暴に屋根を剥いでキリストの前に病人を連れてきた人、そして何よりも中風の人は病気の癒しの奇跡を期待していたはずです。ところがそれを行なわれずに、ただ。「あなたの罪は赦されている」と言われただけです。そして、これで物語は終わっていたかもしれません。
律法学者が登場します。彼らがなぜこの場に居合わせたのか不明です。あるいはイエスのことを調査にやってきていたのかもしれません。キリストのうわさが広まり始めていました。その教えが異端的ではないかどうか調べるのは律法学者の務めであったはずです。それとも、彼らは単純にキリストの説教を聞きたいと思っていただけかもしれません。どちらとも判然としませんでしたが、キリストの言葉を聞いて、内心、「イエス・キリストは神を冒涜している」と思ったのです。なぜか。罪を赦すことができるのは神だけだ。ところが、イエスは罪の赦しを宣言している、というわけです。
律法学者たちは内心で思ったとあります。口で言い出すことができなかったという意味でもありました。言うことは憚れるという感情が支配していたと思います。それほど重大問題です。人間が自分は神だという。これは当時のローマ社会では通用していたかもしれません。日本のような多神教世界では、人間の神化は珍しくありませんが、ユダヤ人の間では決してそうではありません。恐ろしい言葉です。そんなことは決して許されません。イエスはその恐ろしいことを口にしているのです。
罪を赦すことができるのは神だけだ、というのは当時のユダヤ人の常識でもありますが、また旧約聖書に記される真理です。罪は律法の規定に反することです。その罪を赦されるために犠牲をささげなければなりませんでした。こうして罪が赦されます。それは神だけが赦すということを示しています。ユダヤの裁判で、裁判官が無罪を宣告するとすれば、それは神の代理人が罪を赦すのであって、何か中立の立場の人間が単に法律に沿って罪を赦すのではなかったのです。
日本人である私たちは、人間が罪を赦せると思っています。例えば事件の被害者が、加害者のことを「私たちは絶対犯人を赦すことができません」と強い調子で語るニュースを見たことがあります。これは逆から見れば、加害者を赦すことができるのは我々だけであって、ありえないだろうが、その気になれば、罪を赦せると思っていることを示しています。人間は罪を赦す権利を持っている。
【神だけが罪を赦せる】
ところがユダヤ人はそう考えません。神だけが罪を赦せるのだ。これは強い信念でした。
私たちはここで重大なイエス・キリストの証言に直面しています。キリストは「罪は赦されている」と言われました。罪を赦すという意味です。それができるのは神だけだということをイエス・キリストも良くご存知である。とすれば、キリストはここで、ご自身が神であって、神として罪の赦しを宣言しておられるということになります。これは重大な発言です。キリストの言葉をそのまま受け止めるとしたら、キリストは自らを神としておられるのです。
イエスは律法学者の心にあることを「霊の力によって」見抜いたとも記されますが、「御霊において」分かったと記されます。これもキリストが単なる人間の直観力とか推量で分かったのだというのではなく、神的な能力を持って悟ったということになります。つまり、ここもキリストが神であったと証言しています。イエス・キリストの宣教のはじめのときからキリストはご自身が神であることを明瞭にしておられます。これは驚くべきことです。キリストは神の自覚を持って働いておられるのであって、単なる新しい教えの主唱者に過ぎないというので決してありません。
【どちらがやさしいか】
話はここで終わりません。キリストは、「罪は赦されている」というのと、中風の人に「床を取り上げて歩け」というのとどちらがやさしいのかと質問をされています。質問の仕方からすれば二者択一の答えが求められているように思われます。しかし、どちらが難しいと見るべきでしょうか。罪を赦すことは神だけができます。人間には不可能です。そして、病人を癒す奇跡も人間にはできません。かつては奇跡が行われ、科学文明が発達してからの現代では奇跡は起こらないというようなことはありません。キリストの時代も今日も奇跡は殆ど起こり得ないのです。それができるのは人間を超えた力を有する方だけです。ということはどちらも困難どころか人間には不可能だということになります。
どちらも難しい、困難というよりも不可能と答えるべきです。イエス・キリストはここで奇跡を行なわれます。病人に「起きて、床を取り上げて家に戻れ」と命じられるとその通りになりました。これができるのは神だけです。人間にはできません。こうして、この一連の物語で明らかになったのは、キリストが神であるという真実です。
【キリストは神】
キリストが神であるならどういうことになるのでしょうか。神であるがゆえに罪を赦すことができます。キリストがご自身を犠牲としてささげ、十字架の上で死なれました。それは罪の赦しのためでしたが、キリストは神でありますから、ご自身の十字架によって私たちを確実に赦してくださいます。
キリストが神であるならば、神としての全能性を持っておられます。私たちは確実に祝福を受けます。そして、救われます。罪の結果である死も、呪いも、虚無も打ち砕かれます。キリストが神であるゆえに、私たちに永遠の命は保証され、神の御国に安んじて入れると確信できます。
私たちの信仰は弱いものです。疑うときもあり、不信感を持つときもあります。しかし、そういう私たちをもキリストは愛して、赦しを確実にしてくださいます。イエス・キリストが神であるとの信仰はキリスト教のもっとも重大な信仰です。ここに私たちの信仰の中心部があるというべきなのです。(おわり)
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