2014年11月16日説 教 「新しいものと古いもの」金田幸男牧師

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新約聖書
マルコによる福音書2章18―22
18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」


 

要旨

【断食と贖罪日】

 ユダヤ人の宗教生活の中で「断食」は大切にされていました。レビ記16章には贖罪の日の規定が記されています。16:29,31に「苦行」と訳されている言葉は「身を慎む、戒める」の意味がありますが、ユダヤ人はこれを断食と解しました。ユダヤ人はこの規定に従って、贖罪日(チスリの月の10日、太陽暦では9-10月)に年に1度の断食をしました。贖罪日はレビ16:31では最も厳かな安息日であると記されています。1年の50回あまりの安息日(土曜日)の中でこの日が最重要な安息日だとされます。

 

安息というと「休息」を考えますが、仕事を休むこと(レビ16:29)だけではなく、苦行を伴う点で、私たちはイメージする安息とは異なります。体を休めてごろごろとしているのではなく、安息とは、神のわざ、特に贖罪を瞑想し、罪があがなわれている幸いを心に留めることなのでした。

 

贖罪の動物として雄牛がささげられますが、同時に雄山羊もこの日の行事に用いられます。1匹は屠られますが、もう1匹は荒れ野に放たれます(レビ16:6-10)。これを見ながら、イスラエルの人々は罪の赦しを深くおぼえることができました。罪のための身代わりと、罪赦されたものの自由をおぼえたのです。これが安息でした。

 

 時代が進むにつれて断食の回数は増えていきます。ゼカリヤ7:5.8:19によるとバビロン捕囚後にはユダヤ人は4月、5月、7月、10月の年4回に断食を実行していました。そして、断食は嘆きの意味で行なわれていました。バビロンに滅ぼされ、エルサレムが破壊された悲しむべき過去を思い出し、その惨劇を招いたユダヤの不信仰を嘆くのでした。断食は嘆きと結びつきます。

 

イエス・キリストの時代には週2回も断食が行なわれました(ルカ18:12)。月曜日と木曜日の2回であったそうです。この場合、ファリサイ派は彼らの律法への忠実さを示すものとして断食をしていたのです。敬虔や信心の深さと断食を結びつけたのです。今日でもイスラムの人たちはラマダンという断食を厳守しています。断食はその信心と結びついています。

 

 場面は2:13以下のレビ(マタイ)の別れの宴の場所であるかどうかわかりませんが、そうだと考えてもよいと思います。イエス・キリストは徴税人や罪人と一緒に食事をされていました。その食事の席には多くの人が集まっていたようです。その人たちがキリストに好意的であったのか、それとも敵対心を持っていたのか判断できませんが、彼らはヨハネの弟子やファリサイ派の弟子のことをよく知っていたようです。ファリサイ派は特に弟子を作る集団ではありませんので、これはファリサイ派の律法学者の弟子たちであったかも知れません。律法学者は弟子を取って教育しました。

 

【なぜ断食しないのか】

彼らの質問の内容は、ヨハネの弟子もファリサイ派も断食をしているのに、キリストの弟子たちはそうしていない、なぜか、というものでした。洗礼者ヨハネは当時ヘロデ・アンティパスに逮捕され、投獄されていた可能性が大きいので、弟子たちがその不幸を嘆き悲しんで断食していたとも考えられますが、ヨハネ自身が禁欲主義的な生き方をしていましたから、その信仰を表わすものとして、彼自身も頻繁に断食をし、弟子たちもそのように訓練していたかもしれません。

 

ファリサイ派の場合は言うまでもなく、誰よりも信心深いことを示すために律法遵守を目に見える形で実行するものとして断食を考えていました。厳格な宗教生活を示す手段が断食でした。ところが、イエス・キリストの弟子たちは断食をしていません。むしろ、機会があれば宴会に出たり、楽しい食事をしたりしていました。これは、当時の一般のユダヤ人にも奇異に思われたのでしょう。当時のユダヤの宗教グループの多くは禁欲的でした。断食はその一環です。ところが、同じような新しい信仰のグループであるキリストの弟子たち、少なくともそのように見られていたグループは、ことあるたびに楽しい交わり、時には飲めや歌えやの大騒ぎ、賑やかな集団でした。いやしくも宗教の一派であるならば断食くらいしてその敬虔さを示すべきではないか。このように思われたに違いありません。なぜ、キリストの弟子たちはあのように賑やかで楽しくやっているのか。最初のキリストの弟子たちは堅苦しく、しかめっ面しながら修行をしている人々ではありませんでした。歌ったり、踊ったり、楽しい集団であった。それだけでも風変わりなグループと見なされていたに違いありません。

 

今日でもキリスト教というとまじめくさった世の中とは相容れない風変わりな特異な人間集団と見られているかもしれません。教会は堅苦しいところ、息が切れると思われているのかもしれません。キリストの弟子たちはそうではなかったのです。

 

キリストの弟子たちはなぜ断食をしないのか、イエス・キリストに尋ねます。その答えは比ゆで与えられています。花婿と宴会のたとえです。当時、婚礼の宴は最も華やかで時間をかける祝いの席でした。ある場合は1週間近くも宴会が続いたそうです。その間、客はご馳走を食べ、また美味しい酒を飲み交わし、歌と踊りに明け暮れました。そういうとき、一日だけ断食するなど不可能です。その日が月曜日の断食日と重なったとしても、毎日宴会の席にいる人が急に断食をしても断食にはなりません。

 

【花婿が取り去られるときが来る】

言うまでもなく、花婿はイエス・キリスト自身を表しています。そして、その宴会に参加しているものはキリストの弟子たちです。婚礼の祝いの宴席に参加している者たちは断食などしません。それと同じように、キリストがそこにいますのに、断食などしない。キリストが共にいることこそ祝いの席に値します。それはすばらしい機会です。だから、キリストと共にいる間は断食など求められない。キリストの弟子たちは単なる修行集団ではありません。あるいは何かを教育されえているだけの集団でもありません。キリストが中心にいて、そのキリストから、神の恵みを伝えられ、導かれる集団でありました。言い換えれば神の子と共にある時間を過ごしているグループでありました。

 

しかし、キリストは付け加えられます。花婿が取り去られるときが来る。その時、弟子たちは断食することになる。花婿が取り去られるとは何を意味しているのか。キリストが逮捕され、裁判にかけられ、処刑されることだと解釈することは可能です。この解釈では、キリストの宣教活動の初期のそんなに早くからキリストがご自分の死を予告されているはずがないというものもいます。しかし、キリストはその意識を最初から持っておられたと考えることは全く正しいと思います。

 その時は、キリストの弟子たちは起きていることに嘆かざるを得ません。断食をしたという記録はありませんが、それに値するような心理状態になったことは間違いありません。

 

【新しいぶどう酒は新しい皮袋に】

 ところで、21-22節ですが、18-20節の物語と切り離す理解もあります。これは格言で、イエス・キリストの断食の教えと直接繋がらないと言うものです。しかし、確かに一種の格言のように見えますが、内容を考えると密接な関係があると見てよいのではないでしょうか。

 語られているのはふたつの話です。新しい布で古い衣類のつぎはぎなどしない。新しい衣類は水分を吸い、乾くと縮んでしまいます。そうすると、つぎはぎ部分をさらに裂いてしまいます。そうなると折角修繕した衣類はだめになってしまいます。今日ではちょっと服が破れますと、買い換えますが、当時は衣類は高価でした。新しいぶどう酒は発酵がやんでいません。今日では完全に発酵を止めてしまいますが、当時はその技術がなく、泡、炭酸ガスが発生します。もしも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると弾力性がないために張り裂けてしまいます。新しい酒は新しい皮袋に入れるべきです。ここから、新しいものは何でも新しいもので対応すべきであるという教訓が生まれてきます。ここでは、そのことだけが語られているのでしょうか。

 

【イエス・キリストの贖罪】

 もう一度私たちは断食が贖罪日に行なわれるべきだとするレビ記の規定に戻らなければなりません。断食は、贖罪の日になされました。それは、毎年、罪の赦しの約束が明確に宣言される日でした。断食は、贖罪の大いなる神のわざを思う日になされます。

 しかし、レビ記の規定は古い、完全な贖罪の予表に過ぎません。新しい贖罪が起きます。それは、イエス・キリストの贖罪でした。キリストは十字架の上でまことの、完璧な贖罪を実行されました。

 

私たちは、それによって完全な罪のあがないを確信できるようにされました。もはや赦されない罪はありません。古い断食の習慣はもう不要です。確かにキリストの逮捕、裁判、処刑に直面した弟子たちは嘆きの断食に相応しいときに見舞われました。でも実際弟子たちは断食していません。とにかく、キリストが十字架で贖いをされました。そのことによって、新しい贖罪が示されます。古いレビ記が語る贖罪は過ぎ去るのです。それが指し示していたものはキリストにおいて成就します。

 新しい贖罪の主が私たちと共におられます。もはや古い断食は不要です。なおも古い断食を敬虔や信心の表現だとすることはありません。もしも断食が信仰に不可欠だと言うのであれば丁度それは新しい布で古い衣類を繕うのに似ています。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるのに似ています。そんなことをしたら古いものも新しい物も使用不可能となってしまいます。

 レビ記の贖罪が示していたまことの安息は、こうして、イエス・キリストを瞑想するときに与えられます。私たちは安息日を守っていますが、それはキリストが共にいてくださるときに成就しています。キリストが共にいてくださるなら、毎日が安息となります。(おわり) 

2014年11月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書

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