2014年11月30日説教「手を伸ばしなさい」金田幸男牧師
説教「手を伸ばしなさい」 マルコ3:1―6
要旨
【安息日に片手の萎えた人】
イエス・キリストと反対者の論争物語の最後を共に学びたいと思います。場所は会堂、時は安息日とあるだけで具体的なことは分かりません。そこに片手の萎えた人がいました。彼がなぜ会堂にいたのか記されていません。イエス・キリストが会堂に来るとのことで、癒しの奇跡を期待してやってきたのかもしれません。あるいは、安息日にイエスが人を癒すのかどうか見たいと思う人たちが連れてきたのかもしれません。たまたまそこにいたことも考えられます。
彼がどうして手が萎えてしまったのかも記されていません。脳梗塞や脳出血で体が麻痺することは珍しくありませんでした。あるいは怪我の後遺症で手に障害が残ったのかもしれません。手に障害がある、特にその手が利き手である場合、仕事に支障が出ます。多くの場合、仕事ができなくなり、失職の恐れがあります。失職すればたちまち生活に困る場合もありました。
安息日に人が癒されるかどうか、居合わせた人たちは興味を示し、イエス・キリストを非難する理由を見つけようとしていました。彼らはもちろん安息日の礼拝を守るために来ていたのでしょうけれども、それ以上に、この日にイエスが病人を癒すかどうか見ようとしていました。
【ファリサイ派の安息日規定】
ファリサイ派は安息日に医者が病人を癒すことを安息日の規定違反だと解釈していました。ただし、死にかけているような人の癒しは許されるとしていました。このような安息日規定はよく考えるとファリサイ派に都合のよい理解です。彼らは安息日厳守を主張しています。安息日を守れないような人は罪人だと決め付けていました。
安息日は仕事を休む義務があるとされます。でも、仕事を休むことだけなら案外簡単でしょう。しかし、この日、体のどこかが不具合があるにもかかわらず,無理をして安息日の礼拝に出る。そうすると周囲の人は絶賛します。痛みがあるにも拘らず安息日を守っている、何とすばらしい信心の持ち主か、というわけです。この規定があるために、ファリサイ人は人から誉めそやされます。よほどの重病でもなければ、礼拝に出席して評価されます。
その上、この規定では重病ならば安息日の礼拝遵守の義務から解放されます。都合よく用いると、つまり、重病だと言いさえすれば安息日は守らなくてもよいということになります。ファリサイ派のしたことはまことに勝手な解釈です。人間が決める規則とは往々にしてこのようなものと言うことができるでしょう。抜け穴だらけの規則を作り、規則を守ってよい評判を獲得できるようになっています。
【イエス・キリストと手の萎えた人】
イエス・キリストは、そこにいた人たちの思いを見抜いておられました。そこで、キリストはまず手の萎えた人を真ん中に立たせます。見世物にするためではありません。誰もが見える所に彼を立たせて神のなさる働きを公にするためです。
【安息日は何をする日か】
奇跡を行う前にイエス・キリストは人々に問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」安息日に何が禁止されているかが問題なのではない。この日に何をするかが問題であるとキリストは問われます。安息日とは本来どういう目的で守られるのか。キリストはこれを問題にされています。ところで、安息日に人を殺すといわれますが、殺すことなど果たしてあるのでしょうか。関係のない、極端な話をキリストが持ち出されていると受け止めることはできるかもしれません。しかし、人を殺すとは具体的な殺人ではなくて、広い意味で語られていると解釈する立場もあります。
イエス・キリストはこの日に、この会堂に入ってこられました。次の主の日は別のところに移動されています。そうすると、もしこの機会を失えばこの人は癒される機会を失います。そうすれば二度と癒されることはないかもしれません。手に支障があるということは生活が破綻するのに直結しています。職人や、あるいは、普通の労働者にとっても、雇ってもらえず、仕事ができなくなるのは飢えに追い込まれるかも知れず、生きていけないこと意味していました。それが当時の一般的な社会のありようでもありました。そのようなところに追いやられるかもしれないのです。ここで癒されなければ手の萎えた人にはある意味で死が待ちうけていました。
だから、キリストはこの安息日に人を生かすことと死に追いやることとどちらが相応しいのかと問われたと見ることが出来るのではないでしょうか。安息日に、手が萎えているゆえに不幸に見舞われ、人生の労苦を背負っている人をその軛から解放することはよいことなのかどうか。安息日の目的にかなっているのはどちらか。キリストはここでは安息日に何をしていいのか、してはならないのかという問題からは離れて、安息日の目的は何かに、主題を転じておられます。安息日は何のためにあるのか。
キリストの質問に答えることは難しくありません。ファリサイ派の人々にとっても答は明白です。安息日に善をすることは正しいことです。ファリサイ派ですら、安息日に医者が重病人を癒すことを認めました。安息日に死にかけている人を癒すことまで拒否して安息日厳守を訴えていたのではありません。ファリサイ派も人道的な行為をすることは認めていました。
【ファリサイ派の沈黙】
ところが、ここで彼らは沈黙します。答は明白であったにもかかわらず、彼らは何も答えようとはしませんでした。この沈黙が意味しているところは明白です。彼らはそれが正しいかどうかは別問題で、今まで安息日にしてきたことを固守しようとしています。安息日には医者が治療行為をすることを拒んできました。それだけではなく、安息日にさまざまな禁止事項を定めていました。そうする生き方を若いころから続けてきました。正しい行為で神に義と認められたい。イエスに答えるということは彼らの人生観、いえいえ、そんな大袈裟なことではなく、今までやってきた生活の仕方、スタイル、習慣を放棄することをいました。それができないということを暗黙の内に認めています。彼らの生き様、考え方をここで放棄できないというのです。いまさら修正できない。人は長く生きてきた道の行き方を急に変更できないものです。
しかし、キリストのみ言葉は私たちに変更を求めます。長く続けてきた、そのような生き方や習慣の変更をキリストは要求されます。それがキリストのみ言葉が持つ特性なのです。そのとき、多くの人は沈黙で応じます。キリストのいうことは分かっている。実際、安息日に善を行うことは正しいことなのです。そういうことは分かりきったことです。だからといって人生の道筋を急に変えることはできない。誰もがそう思うのです。
【キリストの怒りと悲しみ】
キリストは、怒りをおぼえ、またその心の頑なさを悲しまれます。福音書において、キリストの感情表現が記されているのは珍しいのです。マルコ福音書は怒りと悲しみと二重にキリストの抱かれた感情を記します。それは強調でもあり、読者に印象付けようとしていると見るべきです。決心を求められているのに、今まで生きてきたあり方に縛られて、心を変えることができない。それは多くの人たちが示す反応です。そのような反応をキリストは心を痛められています。それはキリストにとってはとても残念なことなのです。このことは今でも変わらず起きています。
【「手を伸ばしなさい」】
手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と命じられると、その通りになります。真ん中に立たせられたのは、心を頑なにしている人たちの只中で、神の大きな力が現われることを明示するためです。安息日に神は大きなわざを行われます。それを多くの人が目撃します。こうして、キリストは安息日に、手が萎えていることで人生に労苦を負う人を救われました安息日にこそ、このことが起きたのです。ファリサイ派にとってはこの日はいろいろ規則に縛られた日に過ぎません。ところがキリストはそのような人々の目の前で神の恵みを示されたのでした。
【イエス・キリストを殺す企て】
安息日、会堂に集まって、神の言葉を聞き、讃美し、祈るという祝福された状況の中で、生ける神の子のなさるみわざをただ眺めただけではなく、キリストと敵対する道が選択されました。ファリサイ派はふだんは敵対しているヘロデ派(こういう政治党派はありません。ただヘロデ王家と結託しているグループというべきでしょう)と手を握ります。イエスという相手を前にして、ライバルと手を結ぶ、それだけではありません。イエス・キリストを殺そうと企てるのです。
行いによって神に義と認めていただく。そのような生き方を否定するものを亡き者にしてしまおうとする。恐ろしい不信仰の連鎖です。キリストのみ言葉に抵抗する考えの行きつくところはキリスト抹殺なのです。キリストを否定するだけではすみません。敵意を持つだけで終わりません。キリストを殺し、抹殺してしまうという大罪を犯すことになってしまいます。これは例外事項ではありません。
【サタンの存在と病】
キリストはこうして病につかれた人を癒されました。病気は、現在ではその原因を科学的に説明します。細菌の感染のせい、遺伝子の異常による細胞の増殖、血管の閉塞・・・しかし、聖書では病の背後に霊的で人格的なものの働きを見ています。悪しき霊の活躍。その筆頭がサタンです。私たちは病気になるのは偶然と見なされていますが、病気は、神の創造のみわざから見れば逸脱です。これをもたらしたのは人間の罪です。ですから、病気もまた悪霊の追放と同様霊的な敵の行為を見て行かねばなりません。そして警戒しなければなりません。
【病の真の癒し】
私たちは病の癒しを祈ります。単なる科学的因果関係で病が発生するのであれば祈りは制約されます。病気の背後にある霊的な事柄、罪の結果という面を考慮するなら、霊的存在を支配する神の力に頼りつつ、祈れます。また、それは祈りでしか解決しません。病の癒しのために祈るのは、神が霊的領域で自由に働かれることを期待して祈るのです。神は安息日にこそその力を示されます。神は安息日の礼拝において、人間を縛り付けている霊的拘束も打ち砕かれるのだと宣言されます。安息日にキリストはここでもよきことを行われます。(おわり)
2014年11月30日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2014年11月23日説 教 「本当の安息」金田幸男牧師
要旨
【ある安息日】
「ある安息日」とありますが、その日がどんな安息日であるか、マルコによる福音書は何も記していません。たぶん「ありふれた」安息日であったに違いありません。
安息日はユダヤ人にとっては特別な意味があったとされています。安息日を遵守することはユダヤ人にとってその民族意識を駆り立てる重要な行為でした。しかし、多くのユダヤ人にとっては、ただその日が労働を休む日以上に特別な意味を見出せなくなると、いわゆるマンネリに陥ってしまう傾向もあったでしょう。
習慣的に安息日は仕事をしないだけ。この実情を何とかしたい。この安息日の意義をもっと意識させる方策はないものかと、ユダヤ人の指導者たちが熟考したとしても不思議ではありません。
【ファリサイ派の安息日の禁止事項】
ファリサイ派といわれる宗教的な指導層が考えついたことは、この日を厳格に守ること、そのためにさまざまな禁止事項を設けることでした。こうして安息日を厳守することで安息日の重要性を強く認識させ、これによって民族意識を明確に同胞に持たせようとします。そのために彼ら自身がその規定の遵守に励みます。
ファリサイ派は安息日には労働をしないばかりか、家畜に軛をかけることもせず、医者が医療行為をすることも禁じ、安息日に調理することもだめだとします。食事をしないわけには行きませんから、安息日の食事は前日に準備するようにしたそうです。このような細かな規定を定めて、その遵守が敬虔、信心の熱さを示すものと受け止められたのです。
【麦穂を食べる弟子たち】
ある安息日に、キリストの弟子たちが麦畑を通って行きます。ここには記されていませんが、キリストは安息日にはユダヤ人の会堂に入り、礼拝を守りました。詩編歌を歌い、聖書朗読を聞き、定式化された祈祷をささげることがその礼拝の形式でした。弟子たちがその途中、麦の穂を摘んで口に入れます。この行為は律法では許されていました。申命記23:26に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。鎌で刈り取るのは盗みになりますが、手で摘むのは許されていました。弟子たちの行為は犯罪にはなりません。弟子たちはおそらく空腹であったのでしょう。
彼らはイエス・キリストと共に宣教活動に従事していました。何かの事情で前日に食事を整えることができなかったのでしょう。キリストの弟子たちは空腹に襲われたために、麦の穂を摘み、籾殻を手で揉み、口に入れたのです。米は生で噛んで食べることをしませんが、麦(大麦)は石臼で粉にしないでも、口に入れているとでんぷんが変化して食用となるのだそうです。空腹を充分に満たすことはできなくとも、当座の飢えを満たすことができます。
それを見ていたファリサイ派が非難をします。彼らがわざわざ町からキリストの一団を監視するためにやってきたとは思えません。ファリサイ派は安息日に何キロメートルを歩いてはならないと規定していました。キリストを監視するためとはいえ、安息日に何キロも歩くはずがありません。おそらく歩いている最中に、たまたま弟子たちと合流し、弟子たちの行為を見てしまったと考えられます。
【ファリサイ派の批判】
ファリサイ派は問います。どうして、キリストの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか。ファリサイ派にとってこれは調理することであり、安息日の禁止事項にふれるというものでした。他人の麦畑で穂を摘んで食べたことを彼らは批判しているのではありません。ファリサイ派が非難したことは、安息日の規定に反するというものです。ここでは、ファリサイ派が定めている安息日規定に反しているとされています。
ファリサイ派は、信心深いとされている一派でした。当時、禁欲的な集団が多くあったと考えられています。明らかに洗礼者ヨハネもそのような集団と見なされていました。イエス・キリストも弟子たちを選び、彼らと共同生活をしていました。そのようなキリストの弟子たちも敬虔で信心深くなければなりません。キリストも民衆に教えていますが、ファリサイ派から見ればキリストの弟子集団も禁欲グループであることが期待されていました。
そのキリストの弟子たちは安息日にしてはならないとされている行動をしています。これは批判に値するとファリサイ派は考えました。
【アビヤタルが大祭司?のとき】
キリストはこの批判にどう答えられたでしょうか。キリストは旧約聖書の故事を用いられます。ダビデの例です。サムエル記上21:2-7にそれが記されています。ダビデはサウルに命を狙われて、ノブという土地で祭司であったアヒメレクのところへ単身出向きます。(マルコ2:26では「アビヤタルが大祭司のとき」とあり、明らかにサムエル記上の記事と異なります。これはイエスが誤ったのか、それともマルコの謝りか。どちらにしても錯誤だと重大視する人もいます。聖書に対する信頼性を失わせないために、ここを「のちに大祭司となるアビヤタルのとき」と訳すこともできますので、アヒメレクとその息子アビヤタルがダビデを迎えたとして、記述には誤りではないとします。)
大祭司はレビ記24:5-9によれば安息日ごとパンを焼き、それを祭壇に供えなければなりませんでした。普通は12個焼くことになっています。そして、安息日に新しいパンを備え、古いのは下げます。パンと一緒にささげられた香料は燃やして主のものとされますが、取り下げられたパンは祭司たちが食べたのです。ただし、このパンは祭司とその子どもしか食べてはならないと規定されています(レビ24:9)。
【ダビデ、アヒメレクに備えのパンを所望】
ダビデはやってきてアヒメレクに5個のパンを所望します。アヒメレクはダビデたちが律法では清いとされている状態か問い、ダビデがそうだと答えると、その後パンを与えます。これは明らかに律法に違反しています。このパンは祭司たちしか食べることができません。それなのに、ダビデはこのパンを口にしています。しかしながら、ダビデは律法違反をしたからといって罰せられたことはありません。
イエス・キリストはこの例を引いて、弟子たちの行為を正当化しようとしているように思われます。ここで明らかになるのは、ダビデだけではなく、アヒメレクも緊急状態の中で律法に反することをしています。
【例外的緊急避難的措置か?】
同様にキリストの弟子たちも空腹でありました。こういう事情があるときは律法の規定は停止される。世間では法律が国民の生活を律しています。しかし、大きな事件が起きるとその法律を停止させることがあります。それは合法的な事態だとされます。それと同じように、緊急事態のもとでは少々の律法違反は認められる、キリストもここでは律法を無視しても仕方がないとされているのだと主張する人もいます。緊急避難的措置として、律法を曲げることも許されるのだというわけです。果たしてキリストが律法違反を承認しているとか是認しているとか主張できるのでしょうか。緊急避難的に律法は曲げられてもよいとすべきなのでしょうか。
律法は神の言葉です。緊急状態ならば律法は守られなくてもよいというようなことをキリストが発言されるはずがありません。では、どう考えるべきなのでしょうか。
【安息日は人のため】
「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。人の子は安息日の主でもある」とキリストは言われました。
アヒメレクの家で起きたことはこれを示しています。祭司が安息日に備えのパンを食べることができます。
安息日に祭司は12個のパンを手に入れることができます。ダビデは5個を求めました。祭司はなお残りのパンを取得しています。安息日は彼らにとってパンを獲得する日でした。安息日は祭司たちのためにあります。祭司は特別聖なる務めにつけられますが、また、彼らは人でした。空腹を経験せざるを得ない人間ですが、そのために神は備えのパンを祭司たちが食べるように取り計らってくださったのです。ダビデがそのパンを食べることになります。これは律法の違反ではなくて、本来、安息日が人のためにあったことを如実に示す実例なのです。
神が燃やされる香料をご自分のものとされますが、パンは人間が命をつなぐために用意されるのです。
【本末転倒のファリサイ派】
安息日にこれが起きました。まして、キリストの弟子たちが麦の穂を摘んで食べますが、これを許す律法の規定も人間のために定められたものです。ファリサイ派は安息日を禁止事項で人をがんじがらめにする日にしてしまいました。これは本来の律法の規定にとって本末転倒です。安息日は、何もしない日ではありません。この日は人間にとって最高の神の恩恵を覚える日です。それは祭司たちにとって、そして、ダビデにとって命を救われた日でした。パンはそのしるしです。神がダビデを守られる、安息日にそれが起きたのです。
【安息日は救いの日】
安息日はただパンが配給される日だというのではありません。この日、神の安息を味わう日です。世俗化するとこの日は休暇になります。あらゆる仕事から解放されて、リクレーションなどの楽しみに打ち興じるときになってしまいます。現実の安息日は単なる休養の日です。本来、そうではありませんでした。まして、何もしないでボーとしている費ではありません。安息は魂の安息を意味しています。安息日は、神の救いを味わう日です。ダビデは安息日に聖なるパンを食べ、サウルの追っ手を避けることができました。それは現実の救出を指していますが、霊的な領域で、神はその民に救いを示されます。安息日に主イエスは私たちと親しくあられること、いつも共におられることを約束し、真の心の平安と慰めを確信させられます。安息日こそ、キリストが私たちの救いを完成し、それを現実の与えてくださることを強く覚える日です。
律法はこうして成就します。ファリサイ派のように安息日を規定だらけにして、恩恵を感じられなくするのはイエスの本意などでは決してありません。(おわり)
2014年11月23日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2014年11月16日説 教 「新しいものと古いもの」金田幸男牧師
要旨
【断食と贖罪日】
ユダヤ人の宗教生活の中で「断食」は大切にされていました。レビ記16章には贖罪の日の規定が記されています。16:29,31に「苦行」と訳されている言葉は「身を慎む、戒める」の意味がありますが、ユダヤ人はこれを断食と解しました。ユダヤ人はこの規定に従って、贖罪日(チスリの月の10日、太陽暦では9-10月)に年に1度の断食をしました。贖罪日はレビ16:31では最も厳かな安息日であると記されています。1年の50回あまりの安息日(土曜日)の中でこの日が最重要な安息日だとされます。
安息というと「休息」を考えますが、仕事を休むこと(レビ16:29)だけではなく、苦行を伴う点で、私たちはイメージする安息とは異なります。体を休めてごろごろとしているのではなく、安息とは、神のわざ、特に贖罪を瞑想し、罪があがなわれている幸いを心に留めることなのでした。
贖罪の動物として雄牛がささげられますが、同時に雄山羊もこの日の行事に用いられます。1匹は屠られますが、もう1匹は荒れ野に放たれます(レビ16:6-10)。これを見ながら、イスラエルの人々は罪の赦しを深くおぼえることができました。罪のための身代わりと、罪赦されたものの自由をおぼえたのです。これが安息でした。
時代が進むにつれて断食の回数は増えていきます。ゼカリヤ7:5.8:19によるとバビロン捕囚後にはユダヤ人は4月、5月、7月、10月の年4回に断食を実行していました。そして、断食は嘆きの意味で行なわれていました。バビロンに滅ぼされ、エルサレムが破壊された悲しむべき過去を思い出し、その惨劇を招いたユダヤの不信仰を嘆くのでした。断食は嘆きと結びつきます。
イエス・キリストの時代には週2回も断食が行なわれました(ルカ18:12)。月曜日と木曜日の2回であったそうです。この場合、ファリサイ派は彼らの律法への忠実さを示すものとして断食をしていたのです。敬虔や信心の深さと断食を結びつけたのです。今日でもイスラムの人たちはラマダンという断食を厳守しています。断食はその信心と結びついています。
場面は2:13以下のレビ(マタイ)の別れの宴の場所であるかどうかわかりませんが、そうだと考えてもよいと思います。イエス・キリストは徴税人や罪人と一緒に食事をされていました。その食事の席には多くの人が集まっていたようです。その人たちがキリストに好意的であったのか、それとも敵対心を持っていたのか判断できませんが、彼らはヨハネの弟子やファリサイ派の弟子のことをよく知っていたようです。ファリサイ派は特に弟子を作る集団ではありませんので、これはファリサイ派の律法学者の弟子たちであったかも知れません。律法学者は弟子を取って教育しました。
【なぜ断食しないのか】
彼らの質問の内容は、ヨハネの弟子もファリサイ派も断食をしているのに、キリストの弟子たちはそうしていない、なぜか、というものでした。洗礼者ヨハネは当時ヘロデ・アンティパスに逮捕され、投獄されていた可能性が大きいので、弟子たちがその不幸を嘆き悲しんで断食していたとも考えられますが、ヨハネ自身が禁欲主義的な生き方をしていましたから、その信仰を表わすものとして、彼自身も頻繁に断食をし、弟子たちもそのように訓練していたかもしれません。
ファリサイ派の場合は言うまでもなく、誰よりも信心深いことを示すために律法遵守を目に見える形で実行するものとして断食を考えていました。厳格な宗教生活を示す手段が断食でした。ところが、イエス・キリストの弟子たちは断食をしていません。むしろ、機会があれば宴会に出たり、楽しい食事をしたりしていました。これは、当時の一般のユダヤ人にも奇異に思われたのでしょう。当時のユダヤの宗教グループの多くは禁欲的でした。断食はその一環です。ところが、同じような新しい信仰のグループであるキリストの弟子たち、少なくともそのように見られていたグループは、ことあるたびに楽しい交わり、時には飲めや歌えやの大騒ぎ、賑やかな集団でした。いやしくも宗教の一派であるならば断食くらいしてその敬虔さを示すべきではないか。このように思われたに違いありません。なぜ、キリストの弟子たちはあのように賑やかで楽しくやっているのか。最初のキリストの弟子たちは堅苦しく、しかめっ面しながら修行をしている人々ではありませんでした。歌ったり、踊ったり、楽しい集団であった。それだけでも風変わりなグループと見なされていたに違いありません。
今日でもキリスト教というとまじめくさった世の中とは相容れない風変わりな特異な人間集団と見られているかもしれません。教会は堅苦しいところ、息が切れると思われているのかもしれません。キリストの弟子たちはそうではなかったのです。
キリストの弟子たちはなぜ断食をしないのか、イエス・キリストに尋ねます。その答えは比ゆで与えられています。花婿と宴会のたとえです。当時、婚礼の宴は最も華やかで時間をかける祝いの席でした。ある場合は1週間近くも宴会が続いたそうです。その間、客はご馳走を食べ、また美味しい酒を飲み交わし、歌と踊りに明け暮れました。そういうとき、一日だけ断食するなど不可能です。その日が月曜日の断食日と重なったとしても、毎日宴会の席にいる人が急に断食をしても断食にはなりません。
【花婿が取り去られるときが来る】
言うまでもなく、花婿はイエス・キリスト自身を表しています。そして、その宴会に参加しているものはキリストの弟子たちです。婚礼の祝いの宴席に参加している者たちは断食などしません。それと同じように、キリストがそこにいますのに、断食などしない。キリストが共にいることこそ祝いの席に値します。それはすばらしい機会です。だから、キリストと共にいる間は断食など求められない。キリストの弟子たちは単なる修行集団ではありません。あるいは何かを教育されえているだけの集団でもありません。キリストが中心にいて、そのキリストから、神の恵みを伝えられ、導かれる集団でありました。言い換えれば神の子と共にある時間を過ごしているグループでありました。
しかし、キリストは付け加えられます。花婿が取り去られるときが来る。その時、弟子たちは断食することになる。花婿が取り去られるとは何を意味しているのか。キリストが逮捕され、裁判にかけられ、処刑されることだと解釈することは可能です。この解釈では、キリストの宣教活動の初期のそんなに早くからキリストがご自分の死を予告されているはずがないというものもいます。しかし、キリストはその意識を最初から持っておられたと考えることは全く正しいと思います。
その時は、キリストの弟子たちは起きていることに嘆かざるを得ません。断食をしたという記録はありませんが、それに値するような心理状態になったことは間違いありません。
【新しいぶどう酒は新しい皮袋に】
ところで、21-22節ですが、18-20節の物語と切り離す理解もあります。これは格言で、イエス・キリストの断食の教えと直接繋がらないと言うものです。しかし、確かに一種の格言のように見えますが、内容を考えると密接な関係があると見てよいのではないでしょうか。
語られているのはふたつの話です。新しい布で古い衣類のつぎはぎなどしない。新しい衣類は水分を吸い、乾くと縮んでしまいます。そうすると、つぎはぎ部分をさらに裂いてしまいます。そうなると折角修繕した衣類はだめになってしまいます。今日ではちょっと服が破れますと、買い換えますが、当時は衣類は高価でした。新しいぶどう酒は発酵がやんでいません。今日では完全に発酵を止めてしまいますが、当時はその技術がなく、泡、炭酸ガスが発生します。もしも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると弾力性がないために張り裂けてしまいます。新しい酒は新しい皮袋に入れるべきです。ここから、新しいものは何でも新しいもので対応すべきであるという教訓が生まれてきます。ここでは、そのことだけが語られているのでしょうか。
【イエス・キリストの贖罪】
もう一度私たちは断食が贖罪日に行なわれるべきだとするレビ記の規定に戻らなければなりません。断食は、贖罪の日になされました。それは、毎年、罪の赦しの約束が明確に宣言される日でした。断食は、贖罪の大いなる神のわざを思う日になされます。
しかし、レビ記の規定は古い、完全な贖罪の予表に過ぎません。新しい贖罪が起きます。それは、イエス・キリストの贖罪でした。キリストは十字架の上でまことの、完璧な贖罪を実行されました。
私たちは、それによって完全な罪のあがないを確信できるようにされました。もはや赦されない罪はありません。古い断食の習慣はもう不要です。確かにキリストの逮捕、裁判、処刑に直面した弟子たちは嘆きの断食に相応しいときに見舞われました。でも実際弟子たちは断食していません。とにかく、キリストが十字架で贖いをされました。そのことによって、新しい贖罪が示されます。古いレビ記が語る贖罪は過ぎ去るのです。それが指し示していたものはキリストにおいて成就します。
新しい贖罪の主が私たちと共におられます。もはや古い断食は不要です。なおも古い断食を敬虔や信心の表現だとすることはありません。もしも断食が信仰に不可欠だと言うのであれば丁度それは新しい布で古い衣類を繕うのに似ています。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるのに似ています。そんなことをしたら古いものも新しい物も使用不可能となってしまいます。
レビ記の贖罪が示していたまことの安息は、こうして、イエス・キリストを瞑想するときに与えられます。私たちは安息日を守っていますが、それはキリストが共にいてくださるときに成就しています。キリストが共にいてくださるなら、毎日が安息となります。(おわり)
2014年11月16日 | カテゴリー: マルコによる福音書
2014年11月9日説教「罪人を招くイエス・キリスト」金田幸男牧師1
L141109001.wav ←クリックで説教が聴けます
要旨
【ガリラヤ湖畔の説教】
2章1から、ファリサイ派や律法学者との論争を記す五つの物語が記されています。イエス・キリストはガリラヤ湖の岸辺を行かれます。そこでキリストは教えられます。ガリラヤ湖はすり鉢状の地形で、かなりの急な斜面の底に湖面があります。イエス・キリストは岸辺の下あるいは湖上の船から斜面に立ったり座ったりしている群衆に説教をしたものと思われます。音響効果はよく、多くの人がイエス・キリストの教えを聞くことができました。
【アルファイの子レビを弟子に招く】
話を終えて岸辺を歩いて行かれたと思われますが、その近くで、アルファイの子レビが収税所に座っていたと記されています。その場所からでもイエス・キリストの説教を聞くことができたと考えてよいだろうと思います。
アルファイの子レビとありますが、マタイ9章9-13とルカ5章27-32に同様の記事が記されていますが、そこではレビではなくマタイ(神の賜物の意)とあります。レビが本来の名(親がつけた名前)でマタイは、イエスの弟子となったときに、イエスから、あるいは自分でつけた名であったと思われます。昔から、新しい特別な立場や人間関係に入ったことを示すために名が変えられました。
【徴税人】
徴税人というのは当時、税金の徴収に従事した役人のことです。支配者、この場合、4分の1領主と呼ばれた(父ヘロデの領有地が4分割されたためにこのように言われます)ヘロデ・アンティパスの任じた役人です。
徴税人は税金を集めるのですが、給料が支払われるのでなく、税金を取り立て、その一部を収入とするような制度になっていました。ですから強引に税金を取り立てたり、税率を勝手に高めに設定すればそれだけ収入は増える仕組みになっていました。当時、金持ちになる手取りはやい職業選択でありました。しかし、徴税人は二重の意味でユダヤ人から嫌悪されていました。
ひとつの理由はあくどいやり方で狡猾に税金を取り立てるものが多かったせいです。なかには公正な人もいたでしょうけれども、金持ちになる早道であってみれば、職権を利用して一般庶民から多くの税を取り立てたことへの恨みが逆巻いていました。
第二は、外国人と結託して税金を取り立てる仕事であったからです。そして、収税された多くは、ローマ政府の国庫に入れられました。征服者であるローマの手先として徴税人は嫌われたのです。その上、ユダヤ人から見れば汚れている外国人と付き合わざるを得ない徴税人は宗教的にも厭うべき存在であったのです。ところが徴税人の大半は読み書き計算のできる類の人たちです。当然知的な理解もできる知識人も多かったのです。頭がよく、知識もある、しかし、人からは嫌われているということで、徴税人は、憎しみや敵意から不正に税金を取り立てます。それがかえってまた反目するという結果を生み出しました。
レビは収税所に座っていたとありますが、カファルナウムはシリアのダマスクスから地中海に抜ける街道の途中にあり、多くの商人が行き交うところで、その商人から通行税や関税を取り立てる適地でありました。
レビはイエス・キリストから「わたしに従いなさい」と命じられます。ただこれだけのやり取りしか記されていませんが、レビはおそらくイエス・キリストの教えを聞いていたと思います。レビは単純に従ったように思えます。しかし、レビの決心は相当なものであったといわなければなりません。他の弟子たちは漁師でした(ペトロ。アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)。彼らは元の仕事に戻ることが可能でした。事実、キリストが十字架につけられた後、彼らは漁をしています(ヨハネ21章)レビの場合はそうではありません。徴税人の仕事はユダヤ人から嫌われていましたが、金持ちになる近道であってみれば希望者は多かったのです。多額の金を出しでこの役目を買い取るものさえありましたが、すぐに元を取り戻せたといいます。レビが徴税人の仕事を辞めれば二度とこの職を得ることはできなかったでしょう。レビは主に従います。これは割に合わない選択です。イエス・キリストの教えを聞いたでしょうけれども、まだ時間はそんなにかかっていたわけではありません。キリストのことをそんなに深く知ったのでもなかったでしょう。それでもレビは仕事を捨ててキリストに従います。
【キリストに従う信仰は賭けか】
実際、私たちは将来のことなど知りません。一秒後にさえ何が起きるのか分からないのです。キリストに従うといってもこの先どうなるか分かりません。ましてやレビの場合は二度と元の仕事には戻れないのです。信仰は賭けだという人がいます。考えてみればそうかもしれません。しかし、賭けはどうなるか分からないけれども飛び込む。そういう冒険を伴います。しかし、信仰はそうではありません。神の子であるキリストが「従いなさい」と命じられます。すべてのことを知り、私たちにいつも最善のことをしてくださる方が私たちを導かれます。これは決して賭けではありません。キリストは安んじて従いなさいと命じられます。
【イエス・キリストが、罪人、徴税人と一緒に食事を】
レビは従いました。物語はこれで終わりません。本論が控えています。
イエス・キリストはレビの家に入られます。そして、食事の席に着かれます。おそらくレビは仲間と共に送別の宴を催したのだと思います。これまでの付き合いを感謝し、お互いの将来の幸いを祈りあう場であったと思われます。ところが、マルコの福音書を見ていきますと、様子が違う書き方をしています。16節で、イエス・キリストが、罪人、徴税人と一緒に食事をしている、とあります。これはファリサイ派の律法学者の見方ではありますが、まるでイエス・キリストが主賓のような書き方です。主人公はイエスというわけです。むろん、レビがそのような形にしたのかも知れまぜん。レビ自身ではなく、キリストが主宰する食事の席、この食事の席の主人公はキリストであるかのような設定になっています。イエス・キリストもそのように振舞われたのかもしれません。
ですから、キリストは食事に招かれているようにも思われます。ファリサイ派の律法学者にはそう見えました。彼らはそのことを弟子に告げています。なぜこんな遠まわしなことをしているのか分かりません。ただ単純にキリストの近くにいなかっただけかもしれませんが、やはり、直接言うのを避けたかったのだろうと思います。まだファリサイ派にはキリストが敵であると明確に意識できていなかったのかもしれません。
【共にする会食の意味】
食事を共にするということはユダヤ人には特別な意味がありました。今日でも食事を共にするのは友愛と親密さのしるしでもあります。仲間であることを食事を共にして表します。古代のユダヤ人にはそれ以上の意味がありました。それが外国人とは食事をしないというところから示されるように、ユダヤ人の信仰的結束のしるしでした。さらに、それは神の民の一致を示します。神から特別の恩顧を蒙るべきものの集団であること、それが食事の共食に示されたのです。さらに言うと、キリストはさらに特別の意味を含められています。
【ファリサイ派の律法による罪人】
ここに罪人という言葉が出てきますが、これは犯罪人を意味していません。ファリサイ派の律法学者が解釈したような律法遵守ができない人、あるいはその遵守を拒否した人を指しています。ユダヤ人の中にはファリサイ派の律法理解による、律法の行いを不可能とする人々がいました。例えば羊飼いです。彼らは生き物である羊を飼う仕事をしていますが、そのためにファリサイ派の言う安息日は遵守できません。徴税人も、外国人と付き合って、汚れに染まってしまう仕事をしています。こういう人々をファリサイ派は罪人と言ったのです。そして、罪人は宗教的には汚れていて神から見離されていると見なされていたし、彼ら自身神から遠い、とても神から顧みられることもない存在と思っていました。
律法学者からすればあってはならないことが行なわれています。イエスは教師でした。人にものを教える人でした。いつの時代も教師は尊敬されなければなりません。ところがイエス・キリストは罪人と食事をしている。これはとんでもないことだと思われます。
キリストはこのやり取りを知られます。律法学者は弟子たちに言ったとありますが当然聞こえるように言ったに違いありません。
【天の宴会に招かれる者とは】
そこで言われた言葉が17節です。とても有名なみ言葉のひとつです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。」何も注釈の必要のない言葉ですが、ただひとつ言うと、病気が重ければ重いほど医者が必要です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ここでは罪人、徴税人が主賓であるイエス・キリストの招かれる食事の席についています。食事は、完成された御国での祝宴の、前味、予行演習のようなものです。キリストはこのことを意識されておられます。天における大きな主の民の宴会を予め示すのです。キリストはそのとき、全ての救われたものと共に宴会の席に着かれます。招くのはこの地上での食事だけではなく、完成された御国の食事にです。
天国での食事の席に招かれているのは罪人、徴税人と言われます。この人々は救いに入ることができないと見なされ、みずからそう思っている人々でした。キリストは言われます。彼らこそ導かれるのだと。とても救いに入れないと思っている人、天国にふさわしい信仰などない、信仰生活のしていない、むしろ疑い深く、神から離れていると思っているものをキリストはいつも招いておられます。信じるものを必ず救われますが、その信仰たるや情けないほど弱い私たちをもキリストは救いの道に招かれています。(おわり)
2014年11月09日
2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師
2014年11月2日説教「あなたの罪は赦される」金田幸男牧師
聖書:マルコによる福音書2章
1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。
4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
要旨
【4人の男と中風の男】
2:1に「数日後」とありますが、マルコ福音書はいつも正確な時間の経過を記していませんので、これがかなりの時間が経ってからなのか、それとも文字通り、4、5日の間なのか分かりません。イエス・キリストは再びカファルナウムの町に戻って来られました。その間ガリラヤ地方で宣教を続けておられました。
カファルナウムでは今度は会堂に入らず、一軒の、おそらく農家に入って行かれます。当時の農家は四方が土壁に囲まれ、多くの場合一部屋があるだけで、台所と寝室が同じ部屋であることも珍しくなかったそうです。大きめの家ならば2、30人は容易に入ることができたと思われます。
キリストはここで専ら御言葉を語っておられました。ところが事情が急変します。そこへ4人の男が床=戸板に中風になった人を運んできたからです。脳梗塞か脳出血のために体が麻痺してしまっている人だったと思います。いつごろ中風になったのか分かりません。
4人の男はイエスのうわさを聞いてこの人を連れてきたのでしょう。イエス・キリストが話をされている家の入り口はすでに人が一杯でした。家の中も立錐の余地もなくなっていたのではないでしょうか。そこで彼らは思いつきます。当時の農家の屋根は木の梁をわたし、その間に草を葺くというもので、屋根に瓦のようなものをかぶせる場合もありました。屋根は地面から登ることができるほど、低くなっていたようで、4人の男は、屋根に上り、一部を剥いで穴をあけ、そこから病人を床ごとおろします。他人の家の屋根を壊すこと自体非常識で乱暴な行動です。
【かれらの信仰を見て】
その上、イエス・キリストの頭のま上ですから、土ぼこりがばらばら落ちてきてとてもキリストは話を続けることができなかったはずです。こんなひどい行動を見てキリストは怒り、しかりつけられたのではあれば話が分かります。ところがキリストはこの人たちに信仰を見たと記されます(5)。
これを読んだ人は以外に思うに違いありません。どこに信仰があるのだろうか。しかも、信仰は中風の人の信仰とは記されず、病人を運んできた人も含めて、「その人たちの信仰」と記されます。病人が自分の病気を直してくれるかもしれないイエスキリストに期待するというのであれば信仰と言えるかも知れません。ここでは、とてもむちゃくちゃな行動をしている人たち、キリストの宣教の働きを中断させてしまった人たちに信仰を見ているのです。
私たちは、なぜこれが信仰だと思うかもしれません。しかし、キリストはこれを信仰と見られます。私たちは自分で信仰とはこういうものだろうと推測します。そして、その規準で信仰であるとかないとかを決めようとします。そうであれば、私たちから見て、とても信仰と思えないこともあります。他人を見て、あの人は本当に信仰を持っているのか、と言います。自分に対しても、こんなことで信じていると言えるかと疑問を抱きます。
しかし、信仰はいろいろなタイプがあっていいのではないでしょうか。いたって知的な信仰の人もいます。かと思うとわけが分かっていると思えないような幼稚な信仰の人もいます。強烈な信仰を自覚している人もおれば疑ってばかりする人もいます。でも、信仰があるとか、ないとかは簡単に言うことはできません。イエス・キリストがここで信仰があると見なした人たちの場合、私たちの評価基準からすればどうして信仰かと思えますが、イエス・キリストはこの人たち、その行動を信仰と見なしておられます。
【子よ、あなたの罪は赦される】
さらに意外と思われることが記されます。イエス・キリストは病人を癒す奇跡を行われません。乱暴に屋根を剥いでキリストの前に病人を連れてきた人、そして何よりも中風の人は病気の癒しの奇跡を期待していたはずです。ところがそれを行なわれずに、ただ。「あなたの罪は赦されている」と言われただけです。そして、これで物語は終わっていたかもしれません。
律法学者が登場します。彼らがなぜこの場に居合わせたのか不明です。あるいはイエスのことを調査にやってきていたのかもしれません。キリストのうわさが広まり始めていました。その教えが異端的ではないかどうか調べるのは律法学者の務めであったはずです。それとも、彼らは単純にキリストの説教を聞きたいと思っていただけかもしれません。どちらとも判然としませんでしたが、キリストの言葉を聞いて、内心、「イエス・キリストは神を冒涜している」と思ったのです。なぜか。罪を赦すことができるのは神だけだ。ところが、イエスは罪の赦しを宣言している、というわけです。
律法学者たちは内心で思ったとあります。口で言い出すことができなかったという意味でもありました。言うことは憚れるという感情が支配していたと思います。それほど重大問題です。人間が自分は神だという。これは当時のローマ社会では通用していたかもしれません。日本のような多神教世界では、人間の神化は珍しくありませんが、ユダヤ人の間では決してそうではありません。恐ろしい言葉です。そんなことは決して許されません。イエスはその恐ろしいことを口にしているのです。
罪を赦すことができるのは神だけだ、というのは当時のユダヤ人の常識でもありますが、また旧約聖書に記される真理です。罪は律法の規定に反することです。その罪を赦されるために犠牲をささげなければなりませんでした。こうして罪が赦されます。それは神だけが赦すということを示しています。ユダヤの裁判で、裁判官が無罪を宣告するとすれば、それは神の代理人が罪を赦すのであって、何か中立の立場の人間が単に法律に沿って罪を赦すのではなかったのです。
日本人である私たちは、人間が罪を赦せると思っています。例えば事件の被害者が、加害者のことを「私たちは絶対犯人を赦すことができません」と強い調子で語るニュースを見たことがあります。これは逆から見れば、加害者を赦すことができるのは我々だけであって、ありえないだろうが、その気になれば、罪を赦せると思っていることを示しています。人間は罪を赦す権利を持っている。
【神だけが罪を赦せる】
ところがユダヤ人はそう考えません。神だけが罪を赦せるのだ。これは強い信念でした。
私たちはここで重大なイエス・キリストの証言に直面しています。キリストは「罪は赦されている」と言われました。罪を赦すという意味です。それができるのは神だけだということをイエス・キリストも良くご存知である。とすれば、キリストはここで、ご自身が神であって、神として罪の赦しを宣言しておられるということになります。これは重大な発言です。キリストの言葉をそのまま受け止めるとしたら、キリストは自らを神としておられるのです。
イエスは律法学者の心にあることを「霊の力によって」見抜いたとも記されますが、「御霊において」分かったと記されます。これもキリストが単なる人間の直観力とか推量で分かったのだというのではなく、神的な能力を持って悟ったということになります。つまり、ここもキリストが神であったと証言しています。イエス・キリストの宣教のはじめのときからキリストはご自身が神であることを明瞭にしておられます。これは驚くべきことです。キリストは神の自覚を持って働いておられるのであって、単なる新しい教えの主唱者に過ぎないというので決してありません。
【どちらがやさしいか】
話はここで終わりません。キリストは、「罪は赦されている」というのと、中風の人に「床を取り上げて歩け」というのとどちらがやさしいのかと質問をされています。質問の仕方からすれば二者択一の答えが求められているように思われます。しかし、どちらが難しいと見るべきでしょうか。罪を赦すことは神だけができます。人間には不可能です。そして、病人を癒す奇跡も人間にはできません。かつては奇跡が行われ、科学文明が発達してからの現代では奇跡は起こらないというようなことはありません。キリストの時代も今日も奇跡は殆ど起こり得ないのです。それができるのは人間を超えた力を有する方だけです。ということはどちらも困難どころか人間には不可能だということになります。
どちらも難しい、困難というよりも不可能と答えるべきです。イエス・キリストはここで奇跡を行なわれます。病人に「起きて、床を取り上げて家に戻れ」と命じられるとその通りになりました。これができるのは神だけです。人間にはできません。こうして、この一連の物語で明らかになったのは、キリストが神であるという真実です。
【キリストは神】
キリストが神であるならどういうことになるのでしょうか。神であるがゆえに罪を赦すことができます。キリストがご自身を犠牲としてささげ、十字架の上で死なれました。それは罪の赦しのためでしたが、キリストは神でありますから、ご自身の十字架によって私たちを確実に赦してくださいます。
キリストが神であるならば、神としての全能性を持っておられます。私たちは確実に祝福を受けます。そして、救われます。罪の結果である死も、呪いも、虚無も打ち砕かれます。キリストが神であるゆえに、私たちに永遠の命は保証され、神の御国に安んじて入れると確信できます。
私たちの信仰は弱いものです。疑うときもあり、不信感を持つときもあります。しかし、そういう私たちをもキリストは愛して、赦しを確実にしてくださいます。イエス・キリストが神であるとの信仰はキリスト教のもっとも重大な信仰です。ここに私たちの信仰の中心部があるというべきなのです。(おわり)