2014年9月7日説 教 「十字架の誇り」金田幸男牧師
2014年9月7日説教「キリストの十字架にあずかる」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙6章
11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。
要旨
【こんなに大きな字で】
11節に、パウロは自分の手で大きな文字を書くと記します。今までは誰か筆記者の手で口述筆記されてきたことが分かります。パウロの時代、このような専門的な筆記者(速記者)が文章を書くのが一般的でした。手紙の最後の部分はパウロ自身が書きました。大きな文字を使ったのは目立つようにするためであったはずで、なぜそうしたのかといえば、強調のためと推測されます。この点は最後に強調しておきたいという気持ちの現われです。
【ユダヤ主義者の動機】
パウロが強調したかったことは12節以下に記されますが、まず、ガラテヤのキリスト者に律法の遵守、割礼を受けることを強いたユダヤ主義者の動機を弾劾します。彼らはキリストの十字架のゆえに迫害されたくないために異邦人キリスト者に割礼を強制したというのです。
キリスト信仰だけではなく、律法の行いも救いに必要であるというこの教えは一見すればまじめな救いの問題と思われます。しかし、パウロはこのような主張をする教師たちの本心はどこにあるか白日のもとに曝します。
【十字架を語らないキリスト教徒】
十字架はユダヤ人の憎しみの対象でした。ユダヤ人は長くメシヤ=救世主の到来を待ち望んでいました。ところが、キリスト教徒たちは、イエスがキリスト=メシヤだと主張し始めました。そのイエスはユダヤ人が十字架につけたのです。イエスはユダヤ人の民族的な希望を覆すものです。そのイエスを宣教するとは、とユダヤ人はキリスト者を迫害しました。パウロもそのために何度も命を奪われかけました。ユダヤ主義者たちはキリスト教徒でもありました。十字架を語ることを避けることはできません。だから、彼らは迫害の危険に直面しました。実際に迫害を受けたかもしれません。だから、十字架をうしろに後退させ、それに代わって律法の遵守を強調しました。これならユダヤ人から迫害を受けなくなるかもしれません。当然十字架の教説は強調されなくなったり、歪められたりしたことでしょう。
【体制に迎合する過ち】
迫害されたくないばかりに、迎合するという傾向はいつの時代もあります。私たちの教会の歴史を遡れば、国家の圧迫、迫害を避けるために、基本的な信仰は維持されているという理由で、国策に迎合するような教会政治(経営)が行われました。そのような過ちは繰り返されるかもしれません。私たちの周囲の社会はキリスト教に好意的でありません。敵対的、そうでなくても冷淡です。
そのような環境に生きる教会もキリスト者も、迫害、反対を避けるために、信仰の大切な部分を曲げてしまうという誘惑はいつもあります。警戒をしていなければ私たちもユダヤ主義者が陥った罠に嵌ってしまいます。
さらにパウロはユダヤ主義者自身律法を守っていないと指摘します。ガラテヤの異邦人キリスト者には割礼を求め、律法の厳守を要求しました。彼らはユダヤ人であったことは間違いありませんが、おそらく厳格派のユダヤ人ではなかったかもしれません。
だから、キリスト教信仰に安易に入れたかもしれません。もともとルーズなユダヤ人であり、ユダヤ人の周辺で信仰を持っていただけであるならば、厳格なユダヤ人に対し、見栄を張りたくて、ガラテヤの異邦人が割礼を受けたということを宣伝して、手柄にしたかった、という動機も見えてきます。律法はあまり厳格に守らないくせに、ガラテヤの異邦人キリスト者にはユダヤ人が受けなければならない割礼を厳格に要求したのです。
【イエス・キリストの十字架を誇る者】
パウロはこのようなユダヤ主義者に自分を対比します。パウロは厳格なファリサイ派に属していました。彼なら律法、割礼を誇ることができました。パウロは言います。誇りは、イエス・キリストの十字架であってそれ以外ではない。
キリストの十字架とは何か。何よりもそれは私たちのために起きたことであり、キリストはそこで私たちのために犠牲となられました。私たちの罪を背負い、十字架で死んでくださいました。こうして、キリストは私たちが本来支払わなければならない罪の代価を償ってくださいました。
十字架の死によって私たちは神と和解することができました。この十字架を信じることが福音を信じることです。十字架はキリスト教信仰の中心です。パウロはこれを誇りとすると断言します。きわめて強い調子で語ります。絶対にそうだというほどです。
私たちはどうでしょうか。キリストの十字架以外に誇りとするところはない。口では簡単に言えます。しかし、多くの人がいる前で、キリストの十字架こそ唯一のわたしの誇りなどと恥ずかしくていえない。何か、のどの奥に声が引っかかってしまう。そういう感覚と葛藤しているのが現実です。信仰はもっています。しかし、それを公然と、唯一のわたしのほこりだと言い切れないで、引き下がってしまう。それが私たちの偽らざる真実ではないかと思います。確かに、キリストの十字架以外に誇りはないという確信を抱き、その確信を憚ることなく語ることができる人はたくさんいます。でも誰も彼もがそうではありません。
なぜ、私たちはパウロのようではないのか。やはり、キリストの十字架の意味、十字架がもたらす救いの偉大さを私たちがもっともっと真剣に追い求め、自分の確信にしていかなければならないのだと思います。ただ言葉の上だけではなく、私たちの知性を動員し、確固たる認識に到達し、信心として動かないまで信仰を堅くすること、それが肝心なことではないだろうかと思います。
【わたしたちの誇り】
この十字架に比べれば割礼などどうでもよい。パウロはこのように言います。割礼はユダヤ人の誇りです。誇りはさまざまあります。しかし、そんな誇りなどどうでもよいことだと言います。私たちにも誇りというものは種々あります。そして、誇りに生きている人が多くいます。
【新しく創造されること】
パウロは十字架こそ誇りとするだけの価値があると言いました。さらに、大切なのは、新しく創造されることだと言います。古い創造とは神が無からすべてを造られたことを指しますが、そこから全てが出発しました。創造は神の偉大なみわざです。
ところがそれに比べられる新しい創造があるとパウロは語るのです。新しい創造とは何か。神の創造のみ業の冠は人類の創造と言ってもよいでしょう。私たち人間は神の創造により存在するようになりました。その創造に比べて新しい創造とは何か。創造の冠は人類の創造です。そうだとすれば新しい創造の冠も人類の、しかも、新しい人類の創造ということになります。
【キリストと共によみがえって、新しい創造にあずかる】
新しい命に生きるものたち。それは聖霊によって新しく生まれ変わらされたものです。再生の恵みを受けたものです。新しい神の民です。
イエス・キリストを信じることは、十字架で自分を極刑に処することを意味しています。私たちはこの世界に対して十字架において死んだ、あるいはこの世も、私たちに対して十字架につけられています。つまり死んだということです。死んだままに放置されてはいません。私たちはこのキリストと共に十字架上で死んで、キリストとともに復活させられました。大切なことはこのことだとパウロはいいます。キリストと共によみがえって、新しい創造にあずかって、生まれ変わらされていること、これが肝心だとされます。これこそ御霊に導かれ、御霊に生かされているキリスト者の人生ということになります。
大切なことは何か。私たちがキリストと共に十字架につけられていることであり、キリストと共に生かされていることです。これは私たちがそうしているというよりも、神のわざです。第一の創造が神に全て依存して生起しました。無からの創造です。それと同様新しい創造も全て神の働きの結果です。
【新約の教会こそまことのイスラエル】
私たちはすでにこの恵みに生かされています。だから、大切なことはこの原理に生きているかどうかです。そして、この原理に生きるものは新しいイスラエルだと宣言します。肉によるアブラハムの子孫ではなく、霊によって生まれ変わったキリスト者こそ新しいイスラエルの民なのだ、パウロはこのように彼自身ユダヤ人でありましたが、古い枠の中ではもう捉えようとしていません。まことのイスラエルが出現しています。それが新約の教会であることは言うまでもありません。
キリストと共に生き、キリストと共に歩む生き方こそ、この原理こそもっとも大事なことなのです。
ただし、パウロはこれを祈りとして語っています。新しいイスラエルはまだ完成していません。まだ「原理」理念の段階に留まります。だから空しいのではありません。これから形を取って行きます。だから祈るのです。
【最後に】
最後にパウロはイエスの焼印を押されていると言います。当時の奴隷は所有者を示す焼印を押されたと言われています。パウロはキリストの奴隷だと自覚しています。だから、焼印を押されたもののごとく、という意味もあるかもしれませんが、ここではやはり、今まで彼が受けてきた迫害による肉体の傷ではないかと思われます。
ガラテヤのキリスト者たちが再度パウロを危険な目にあわせるようなことをして欲しくない。あるいは、もう一度ガラテヤを訪問しなければならないようにして欲しくない、なぜなら、ガラテヤには頑固なキリスト教の反対者がいて、パウロと見れば襲いかかって来るかもしれないという意味かもしれません。(おわり)
2014年09月07日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙
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