2014年8月31日説教 「行なった実を刈り取る」金田幸男牧師

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2014831日説教「行なった実を刈り取る」金田幸男牧師

 

ガラテヤの信徒への手紙6

5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。

6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。

7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。

8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。

9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々

 

 

 要旨

【6節、御言葉を教えてもらう人と教える人】

キリスト者は御霊に導かれて前進しています。パウロはそのキリスト者に勧めを書いています。順序だって語っていませんが、彼がガラテヤ教会の実情をある程度知っていて、それを思い起こしながら書いているためだと思われます。

 

6節、御言葉を教えてもらう人は、教える人と持ち物をすべて分かち合いなさい。ガラテヤ教会では御言葉、聖書を教える専門家がいたということが分かります。それは長老と呼ばれていました。1テモテ5:17では「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしいと考えるべきです」と記されます。御言葉を教えるために全時間を割いて働いている長老は、宣教する長老と呼ばれ、信徒を指導していました。教会は始めから御言葉を語って信徒を導く人を必要としたのです。

 

 ガラテヤ教会の実情はよく分かりませんが、ユダヤ主義者の影響を受けていました。彼らの教えに傾いて行く人もいました。むろんパウロの教えに忠実な人もいたでしょうけれども、教会内部は混乱していたと思われます。このような事態になったのは、教会の指導者たちの力不足のせいだと考えてもよいと思われます。教会の指導者の実力の欠如のせいでガラテヤ教会にユダヤ主義者の侵入が起きたのかもしれませんが、また、ガラテヤの教会の御言葉の働き人が生活を支えるために、全時間を割くことができないという事態が生じ、そのために信徒への指導がなおざりになっていたとも考えられます。

 

パウロはそのような実情を思い起こしてこのような勧めをしたのではないかと思われます。パウロ自身は御言葉に専念する働き人(使徒)でしたが、教会から報酬を受け取っていませんでした。1コリント9:1-18で長い文章でその理由を述べます。権利はあるけれども行使しないというのです。しかし、彼自身受け取らなくても他の働き人が報酬を受けることを是認しています。1テモテ5:18以下に記されます。

 

【聖職者の贅沢また貧困】

また、旧約聖書も、祭司やレビ人が民のささげたものの一部で生活することを認めています(民数記18:8、申命記18:1など)。

 御言葉に仕えるものたちが贅沢三昧にふけり、非難されるべき堕落は教会の歴史の中で繰り返されます。教会の腐敗は聖職者の贅沢から始まります。しかし、御言葉に仕えるものたちへの粗略な扱いが、御言葉の軽視につながります。教会の扱いが御言葉に対する敬いの欠如の現われとなってしまうのです。こうして、教職者の貧困が教会を霊的に貧困にしてしまうこともありえます。どちらも本末転倒の事態です。

 

【キリスト者の思い違い】

 7節.思い違いをしてはいけません。自ら欺いてはならない、と訳す聖書もあります。この文が前の文章から続いているのか、あるいはこの文章のあとにかかるのか、決定できません。前の文に繋がるなら、御言葉を教えるものへの軽視は信徒の思い違いであり、そして、これは神を侮ることにも繋がっていくということになります。それは由々しい事態です。しかし、後の文章に続いていくと考えることも可能です。

 

【8節:肉に蒔く者は滅びを刈り取る】

キリスト者が肉の欲望に従って生きている、自分をひとかどのものと思って独り善がりに生きているならば、それは思い違いをしていることであって、そんなことをしておれば神に対して反抗していることになると言います。

 5章21では、肉の思いに従って生きていくならば、神の国を継ぐことはできないと言われていました。8節では、肉に蒔く者は滅びを刈り取るとあります。これらは深刻な叙述です。あってはならないような状況です。

 

 私たちはこのガラテヤの信徒への手紙で、「信仰によって救われる」という真理を学んできました。私たちは信仰によって神に義と認められるのであって、律法の行いは必要でありません。信仰さえあれば充分です。私たちの現状がどんなにひどくても神は信じるものを受け入れてくださいます。これはパウロの語る真実です。誤りのない福音の教理です。これを疑う必要は全くありません。

 

それなのに、イエスは主であると告白するものが、肉の思いにふけっているならば、そのようなものは滅びると言われます。これは矛盾しているように思われますが、そうではありません。私たちの救いは信仰によるのですが、それでは生活が好き勝手放題でいいのかというとそうではありません。私たちは一方では必ず救われるという約束によって生きて行きます。他方では、私たちは肉の欲情に支配されて滅びないように気を配らなければなりません。私たちキリスト者はこの緊張のもとでキリスト者として生きていかなければならないのです。

 

【種まきのたとえ】

 7節の後半から、種まきのたとえが用いられます。イエス・キリストも種まきのたとえを語っておられます。例えばマタイ13:1-23で、道端、石だらけの土地、茨の中、そして、よい土地に蒔かれた種の話が記されます。よい土地に蒔かれた種だけが豊かに実を結ぶようになります。その他は実を結ぶことはありません。他にもマタイ13章には、麦と毒麦のたとえ、からし種のたとえが記されます。キリストの身の回りには農村風景が広がっていたようです。ちなみにパウロも、2コリント9章6-12で、種まきのたとえを用いています。そこでは献金の勧めのためにこのたとえが記されました。ガラテヤ6章7-9では、種よりも蒔かれた土地が問題になります。どのような土地に蒔かれるかで、種は異なった成長をし、異なった結果を生みます。肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取ります。霊に蒔く者は、例から永遠の命を刈り取ります。種は同じでも蒔かれた土地の違いで種は異なった状態になります。

 

【霊に蒔く】

肉に蒔かれる、霊に蒔かれる、それぞれ意味しているところは容易に理解できます。肉の欲情のままに生きるようなことをしていると滅ぼされる。キリスト信者でも、肉の欲するままに、肉的な思いに従って生きているならば、滅びにいたる。私たちは滅ぼされてはなんにもなりません。そして、神のさばきは恐るべきです。霊に蒔くとは霊に導きに生きることを意味しています。御霊は、私たちを導かれます。私たちの霊を感動させ、霊の奥底で私たちを動かされます。その果実は5章22-23に記されているとおりです。このように生きていくものは、永遠の命を刈り取ります。

 

この比喩で言われていることは、私たちキリスト者のあり方を反省させます。日々の歩みがこれでいいのかという自問を発します。

 

【9節、たゆまず善を行なう】

 9節では、たゆまず善を行なうように勧められます。御霊に導かれて生きていくとは、善を行なうところで具体化します。善を行なうことは、易しいことではありません。ひとつの例として、私たちが人に善を行なっているつもりで結果として他の人を傷つけてしまっていることがあります。また、親切の押し付けもよく起こります。誤解を招いて不愉快な思いを残すということもあります。善を行なうということは単純ではありません。ですから、私たちには往々にして善を行なうのにためらいがあります。世間では善を行なうのはときにお節介とも受け止められます。ですから,もういやだと思うこともあります。

 

 パウロは、たゆまず善を行ないましょうと勧めています。飽きずに、善を行なう。私たちは善を行なうことにしばしばためらいを感じます。そして、抑止しようとする思いが出てきます。パウロはそういうためらいを起こす暇なく間髪をいれずに、善を行ないなさいと語っています。とにかく頻繁に、絶えず、繰り返して、善を行ないなさい。善を行なうとはこういうことなのだと教えています。善については数多いということはないとされているように思います。

 

【神の家族には特別に善を】

 誰に対して善を行なうか。10節では、まず全ての人に対して善を行ないなさいと言われます。例外なく、敵も味方も、よく知る人も、知らない人も、善を行なう対象です。どんな人でも善を行ないなさい。よく知られているように、「あなたの隣人を自分のように愛する」という律法をユダヤ人はその「隣人」を同胞に限定するという解釈を与えました。隣人以外は愛の対象にはならないのです。パウロはそのような限定を否定しています。

 

 ところが、そのあとで、信仰によって神の家族となった人々には特別に善を行ないなさいと言います。これは矛盾しているように思えます。

 パウロは同じ教会員を神の家族にたとえます。それは単なる比ゆではなく、むしろ擬似的といってもよいもので、お互いキリスト者は兄弟姉妹と呼びかけます。神を父なる神と呼び、信者は全てその子らであり、お互い兄弟姉妹であるのです。このような同信のものたちとの絆は極めて堅いものです。そのような結びつきにふさわしくお互いに善を行ないなさい。これは全ての人に善を行ないなさいという命令とは矛盾しません。どんな人にも善を行なう。そのことは決して退けられるべきではありません。

 

同時に私たちはお互い神の家族です。親が子どもをいつくしみ、兄弟が互いに結び合い、夫婦が愛し合うように、家族の絆は深く強いものです。そのような結びつきは良質の人間関係と言えます。そのように、お互いに愛し合わなければならないというだけではなく、その証しとして善を行なうことが求められています。教会でこそ善は行なわれるべきです。神の家族に対して、善を行いましょう。(おわり) 




2014年08月31日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

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