2014年8月24日説教「キリストの律法の実現」金田幸男牧師
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聖書 ガラテヤの信徒への手紙6章1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、"霊"に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。
5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。
要旨
【御霊の導き】
私たちは御霊に導かれています。「イエスは主である」と告白し洗礼を受けるという事実が御霊の導きのもとにあるという証拠です。御霊に導かれているものは肉の欲望を十字架につけています。つまり極刑に処しています。そうはいうものの、私たちは完全に肉の欲望の罠から脱出できていません。私たちの内なる魂に罪の残りかすがこびりついています。
だから、私たちは意志を固め、自分の足で前進しなければなりません。キリスト者になればエスカレーターでそのまま救いの完成に至るのではありません。キリスト者はただ信仰によって救われるのであって、律法の行いは不要です。信仰プラス律法の行いでもありません。
しかし、救われたものは律法(の成就)を必要とします。御霊に導かれたものにはキリストの律法を全うする目標があります。またそれはどうでもよい勧めではなく、キリスト者の義務でもあります。
パウロは5:26で、「うぬぼれて、互いに挑戦しあい、嫉みあってはならない」と命じます。パウロは論理的、順序だてて勧めを書いているように思われません。これが第一に挙げられているのは理由があると思います。ガラテヤ教会は設立されて10数年しか経っていませんでした。最初は教会員の間では区別などなかったと思いますが、次第に教会員が増え、組織が整ってきますと、指導力を持つものが出てきます。
【ガラテヤ教会の実情】
そういう人の中に権力を振るい、他の会員を支配する傾向が出てきたのではないかと思います。そうすると必ず反抗する人が出てきます。教会員に亀裂が生じ始めます。パウロはそのようなガラテヤ教会の実情を念頭に置きながら、この言葉を語っていると見てよいのではないでしょうか。
自己主張、自己過信が教会員の間を裂く。こういうことは教会が形を取り始めたときに起きやすいのです。嫉妬や競争心が分裂を招きます。そして、教会が割かれるとき、教会は存立の危機に直面せざるを得ません。だからこそこの命令を最初に置いたのだと想像することができます。せっかく教会が形を取り、整い始めた矢先、大きな問題を抱えることになります。パウロはそのようなことがあってはならないと考えています。
【6章1節「万が一」】
パウロは万が一、と仮定を立てて文章を書き始めます。誰かが罪を犯すようなことがあれば。万が一ということは仮初にもそんなことがあるはずがないけれども、という気持ちが表されているように思えます。教会にはそんなことがあってはならない。教会の中に平然と罪が見逃されているようなことがあってはならない、そんなはずがない。パウロはこのように教会は本来罪はあるべきではないと言いたいのでしょう。しかし、現実がそうではありません。教会に罪が認められます。いえ、世間でも起きないような、忌むべき、罪が犯されています。だから、霊に導かれているものは、そのような罪を犯している人を正しい道に戻さなければなりません。正しい道へ方向転換させるとは悔い改めさせるということでもあります。
【教会の「訓練」と役員】
霊に導かれているものはキリスト者のことです。同じ教会員であるものが罪を犯していたら、教会はその罪を矯正する必要があります。このような働きを「訓練」といいます。けれども、訓練はいわゆるトレーニングではありません。この言葉はいろいろな意味を含みます。鍛錬、教練、しつけ、懲戒・折檻というような意味が含まれています。教会はこのような訓練を行なうために教会役員を立てました。教会役員の最も重要な務めは訓練を実施することです。
罪を犯している信徒がおればその人を戒め、正す必要があります。厳格に信徒の訓練ができるかどうか、教会は問われています。キリスト者とその共同体である教会が御霊に導かれているならば、その教会は、罪を犯している人を悔い改めに導かねばならないのです。ところがたいていの場合は、うまく行きません。特に今日、信徒訓練は有名無実化しています。教会役員は教会員の単なる世話役、相談役になっています。
教会の中で罪が犯されていても見過ごされたり、黙認されたりしています。罪を犯している人は反省することもありません。なぜなのだろうかと思います。訓練というと厳しく叱責し、ときには暴力的な仕打ちをしてまで罪を犯した人を懲らしめるという誤解があります。教会は訓練を伝家の宝刀として用いて、教会員を責めたり、批判したりするだけではその効果はありません。
【柔和な心で】
パウロはここで「柔和な心で」はといいます。これは「謙遜な気持ちをもって」と訳される場合もありますが、強権的に信徒を訓練するのではなく、その反対のやり方で信徒を訓練すべきであると言われます。そんな甘いことを言っていても罪を犯した人は悔い改めることはないと、断固たる手段を選ぼうという誘惑に駆られますけれども、そのようにして成功したためしはありません。教会の訓練は別の原則、方法でなされます。
確かに教会の訓練は困難を極めています。訓練のことを「戒規」ともいいますが、これが効果あるように執行された例をあまり知りません。それほど訓練は有名無実化しているわけですが、だからこそ、霊に導かれたものは罪を犯した人を反省させ、悔い改めさせるために真剣さと祈りが求められています。
罪を犯している人を非難し、叱責するとき、あるいは告発し、弾劾するときに陥りやすい過ちは自分のことを棚に挙げて他人の罪を責め、攻撃することだけに集中してしまい、自分も同じような過ちを犯しているということを看過してしまうことです。同じ罪を犯している、あるいは、その誘惑に曝されている場合もあります。
【互いに重荷を負いなさい】
2節で、パウロは互いに重荷を負いなさいと命じます。これこそキリストの律法を成就することとされます。キリストの律法はキリストが命じられる律法という意味ですが、キリストは律法を要約されています。
【律法の要約】
マタイ22章34-37で、キリストは律法を、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されています。また、これは当時の律法研究者の共通の認識でもありました。マタイ19:16で、キリストに永遠の命を獲得するために教えを請うた若者が自ら律法の大切な項目として隣人を愛することを挙げますし、よきサマリヤ人のたとえ(ルカ10:25-38)でキリストの問い、律法には何が書かれているのか、に律法学者が隣人への愛と答えているところから分かります。
パウロもガラテヤ5:14で律法はこの隣人への愛という一句にまとめられると語っています。ところがここではパウロは互いに重荷を負うことが律法の成就だと語ります。隣人を愛することは結局互いの重荷を負うことということになります。重荷とは何か、ここでは明確に語られていません。
【5節:自分の重荷を負え】
しかし、私たちの人生は数え切れない重荷を負っています。他人の重荷を負うことがキリストの律法の実現に他なりません。どんな重荷でもそうすることが求められます。ところで、5節では、各自、自分の重荷を負えと命じられます。こうして、私たちは他人の重荷と自分の重荷を負うことになります。これには納得できない人も多いでしょう。
結局、キリスト者は自分だけではなく他人の重荷を背負わなければならないのか。パウロはそう言います。だから、結論的には、わたしの罪を他人には負わせられないということにもなります。私たちは何とかして重荷を軽くしたいものです。しかし、他人には重荷を負わせてはならず、自分自身の重荷も背負う。何ともキリスト者の人生はしんどいということになるかもしれません。
できるだけ荷物は軽くしたい。他人に荷物を背負ってもらえれば大助かりです。ところが、パウロは、自分の重荷を他人に負わせるなと命じているのです。だから、私たちは背負えない重荷に打ちひしがれてしまいかねません。私たちはとどのつまり、神に重荷を背負っていただくしかありません。キリストは私たちの重荷の全てを背負って下さる方です。
私たちは自分の重荷を背負い、誘惑に負けないように気をつけよと命じられています。まさに個人責任です。誰も個人としては弱いものです。神に助けを求めていく以外に道はありません。
【自分を過大評価するな】
3-4節は5章26との関連で見れば同じようなことが語られます。自分をえらいものと思う。過大評価です。自分には力がある。うぬぼれです。だから、他人と比較して自分のほうが立派だと採点します。こうして、他人を見下します。けれども、このようなことがあってはならないとされます。
私たちは実際には何ものでもない。教会という少数者の中では権力があるかのように思い、そのように振舞います。他者を支配しようとします。パウロはこれを戒めています。そうであってはいけないのです。自分がひとかどのもの、実力者と思いあがって、権力を振るおうとします。だからこそ自分自身をしっかり見極めなければなりません。自分を過度に評価するものは自分を欺いています。それは虚構です。何の根拠もありません。絵空事です。
【自分の行いを吟味せよ】
しかし、私たちはしばしば真実ではない自分の姿を勝手に描き出して、それをあたかも真実であるかのように錯覚してしまいます。特に自分の行いを吟味せよと求められます。行いは外に現れていますから、自分で評価できます。外に現われたものを直視すれば本当の姿と評価されます。
パウロは自分に対しては誇れるが、と申しますが、自分が善であると思ってしたこと、誠実に行なったことまで否定する必要はないと語ります。そのようにして行為したことは、自分がよく知っています。自分で自分の行動を見極めることができます。けれども、私たちの行動は、どんなことであっても、他人に対して誇ることができません。だから、実力があるなどと思ってはならないのです。行いを冷静に見つめれば自己評価できます。大したことはないと分かります。
自分の良心にかけて正しいことをしておればそれだけでいいのであって誰かに誉めてもらう必要はありません。(おわり)
2014年08月24日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
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