2014年7月13日説 教 「愛の実践を伴う信仰」金田幸男牧師

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ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節
2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、"霊"により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。


2014年7月13日 説教「愛の実践を伴う信仰」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤ5章2―6

 

 要旨

【敵対しているガラテヤの信徒たちに】

パウロの語気はますます強くなります。「ここで、わたし、パウロが・・・断言する」は大変強い言い方です。

 

パウロから離れて行き、今は敵対しているガラテヤの信徒たちに、4章28では「あなたがたはアブラハムの子イサクと同様、約束の子らだ」と言い、同じ神の祝福にあずかるものだと断言し、ガラテヤの信徒たちが必ず元の信仰に戻ってくることを期待しています。

 

しかし、それは妥協とは違います。割礼を受けようとしているものがその割礼によって救われると思うのであれば、決してそうではない、そのような教説に決して譲歩しないと言い切っています。

 

【テモテへの割礼】

パウロは割礼そのものを否定したり、間違っているとは考えていませんでした。彼の伝道者として、その同僚となるテモテには割礼を受けさせています(使徒16:3)。テモテの父親はギリシヤ人、母はユダヤ人でした。この場合、割礼を受けるものは少なかったのです。

ところがパウロはユダヤ人の手前、つまり、ユダヤ人にキリスト教を伝道するにあたって、テモテにユダヤ人のように割礼を受けさせたのは便宜的でもありました。パウロ自身も当然割礼を受けています。

 

ただ、その割礼が救いの条件、つまり義とされるためには割礼が求められるというような、いわゆるユダヤ主義者には断固反対するのです。彼らは割礼、カレンダー、そして、食物のタブーなどを守ることで、ユダヤ人のようになり、そして、ユダヤ人がそうであるように、特別な選びの民に加えられると教えたのでした。パウロはこの考えに反対をしています。

 

 割礼を受けて救われたいと思うものは割礼だけではなく、律法の全体を守る義務がある。ユダヤ主義者たちは信仰だけでは不十分で、律法の行ないも必要と主張していました。つまり、信仰プラス律法を唱えたのでした。ところがパウロは律法遵守が救いのために必要だというのであれば、それに徹底しなければならないというのです。律法による救いを求めるのであれば、神の前で完全に律法を守ってはじめて神の前で義とされます。

 

【信仰か律法の行いか】

パウロはあれか、これかと二者択一を求めます。信仰か律法の行いか。どちらかだというのです。律法の行いが救いの条件であれば、そのために完璧でなければなりません。私たち人間は勝手に考えて、律法の行いはそこそこでいいなどと考えるのですが、それは神の対する冒涜です。適当に律法を守り、それでもよいなどというと、神はその律法違反を厳しく責められます。律法に反していることを神は容認されることはありません。

 

そして、律法によって救いを得ようとするならキリストは無縁、関わりがないとされます。キリストの祝福はそこには入ってきません。他方、信仰による救いは、そこに律法の行いの入る余地はありません。それは信仰により、御霊の働きによります。

 

5節の「義とされたものの希望」とは神の国に入れられる特権、永遠の命、完全な罪の赦し、贖いの恩寵、完璧な救いを意味します。それはただ御霊による。つまり、私たちの内に働く、驚くべき聖霊の力なのです。聖霊の力は一方的に恩寵として作用します。そこには私たちの善行や禁欲なども入る余地はありません。

 

律法を行なって義とされ、救いを獲得するという可能性は全くありません。全てが聖霊の恵みなのです。そして、私たちにできることはただ神に期待し、希望を持ち、委ねて信じることだけです。律法の行いはここでは場所がないのです。

 

【全力を尽くして天命を待つ?】

あれかこれかです。そのどちらかを選ばなければなりません。私たちはよく「全力を尽くして天命を待つ」という宗教的観念を持っています。人間は自分の救いのためにも最大限努力し、その足りない分は神に期待する。そういう考えです。何も努力をしないで救われるなどという教えは人間の努力を軽んじた考えだというので、軽蔑視され、あるいは間違った教えだとされます。

 

むしろ、人間は最大限努力をしなければならないとされます。ただし、勤行、修行、禁欲、善行、熱心などなどいろいろな人間的な努力も完全ではないとはじめから計算済みで、欠陥があるのは折り込み済み、足りないところは神頼みというのです。しかし、聖書はこのような考えを受け入れません。もし、人間的な努力や熱心で始めるならば最後まで徹底しなくてなりません。

 

繰り返して申します。あれかこれかなのです。信仰か、律法の行いか。律法の行いによって救いを引き寄せようとするならば、律法を完全に守らなければならない。神はそういう方です。

 

人間自身が自分の力で救いを獲得しようとすれば、自分の力で最後までやり通さなければなりません。途中で神が介入し、中途半端でもよいなどと神は言われません。自分の力で救いを得る可能性があると思うものはその決心を最後まで持たなければなりません。律法の行いを救いの条件とするものは、キリストの力を不要とするのですから、キリストはもう関わりがありません。

 

ガラテヤの信徒たちがしようとしていることはそんな恐ろしいことなのです。キリストと縁もゆかりもなくなってしまう。そんな事態を考えれば、ガラテヤの信徒たちがしようとしていることは全く馬鹿げているのです。ガラテヤの信徒はまことの神も救いも知らないところから神への信仰に至ったのでした。それなのに、律法の行ないによる義の獲得が真実可能だと思っています。キリストから離れることは愚劣です。律法の行いで義と認められようとするものは最悪の選択なのです。

 

【変わることのない真理】

ただ信仰によって救われる。これは変更できない真理です。そして、このことは私たちの信仰生活と関わりがあります。信仰が長くなってきますと、マンネリに陥ります。そのときささやきが聞こえてきます。信仰だけでは生ぬるい。義とされるためには、もっと別のわざを求めなければならない。多くの場合、熱心な行動が求められます。パウロの時代は禁欲であったといわれます。禁欲的な生き方がなければ救われない、修行や特殊な儀式に参加することも、あるいはその宗団のために献身的に勤めることなどもそうです。

 

【信仰義認】

しかし、信仰による義には人間的努力の入る余地はありません。救いは神の恵みによります。そうだとすれば、信仰者の人生の出発に、神の一方的恵みがあり、救いに関しては神に全てを委ねるしかありません。救いははじめから終わりまで神のなさるわざです。とすれば、私たちの信仰はいつも神に委ねるということになります。信仰による義の教えが私たちに教えるところはいつも神を信じ、神に信頼して生きて行け、ということになります。

 

信仰義認の教えは、人間な思いを決して無用、不要にするものではありません。それはいつも神に信頼し、神に委ねていく姿勢を生じるものなのです。信仰によって救われるという確信を持っていれば、救いの完成もまた神の大きな恵みによります。このことを、私たちが学んでいくとき信仰は空虚なものとはならず、かえって信仰は豊かな内容を持つものとなります。

 

【愛の実践を伴う信仰とは】

パウロはここで信仰がどういうものであるかをさらに続けて教えています。割礼の有無は問題ではない。大切なのは愛の実践を伴う信仰だと語られます(6節)。

 

愛の実践とは何を意味しているのか。1コリント7:19にも同じような文章が出てきます。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることだとパウロは語っています。すると愛の実践とは掟、つまり律法の遵守ということになります。イエス・キリストも教えています。律法の要約についてです。キリストによれば律法は結局、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛すること、また自分を愛するように隣意図を愛すること、とされます(マタイ22:34-40、ルカ10:25―27、マルコ12:28-34)。

 

パウロは今まで律法に関して否定的なことを語ってきました。律法はまるで害悪のようにも響くようなことを語っていました。律法の行いは有害なのでしょうか。確かに、律法によって救われようとするのであればそれは有害です。救いの手段、あるいは方法として、律法の行いを認めるならば、結局のところ、キリストを無縁とし、キリストがもたらしてくださる恵みは失うことになってしまいます。そのような律法の用い方は間違っています。ユダヤ主義者が言っているような意味で、律法の遵守は危険です。律法プラス信仰という立場こそパウロが激しく反対をしています。しかし、では律法は不要で有害で排斥すべきものか。そうではありません。

 

【信仰は愛の実践を含む】

信仰は愛の実践を含むのです。律法の遵守を含みます。そうであってこそ信仰は空虚さを免れます。愛の実践を伴わない信仰はやせ細った中身のない虚ろな心情になってしまいます。

愛の実践は神への愛です。その愛は、神に仕えること、神に従うことに表現されます。神を愛していると言いながら神に背を向けて生きることは矛盾しています。神を愛することは神を賛美し、神に感謝をし、神に献身の思いをささげることです。それは神を礼拝することに結びつきます。愛の実践はこのような神への愛によって具体化されます。これは信仰の中に含まれているものとなります。そういう信仰は決して空しい信仰にはなりません。

 

そして、隣人を愛するとはどういうことか。単に近くの人を愛するというだけに留まりません。隣人は神の似姿に創造されました。隣人の中に神を見出す。どういうことか。神は、御心を人間に示されます。人間の思い、行動を通して神の支配、神の力、権威を明らかにしようとされます。人間は単なる生物ではなく、神の意志を実行するものです。隣人と共に神の国建設の事業に参画することこそ、隣人を愛することなのです。愛を実践する信仰は神の計画を実現する営みでもあります。(おわり)


2014年07月13日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

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