2014年7月27日説教 「愛によって互いに仕える」金田幸男牧師
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聖書:新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5章
13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
要旨
【真の自由と奴隷状態】
パウロはガラテヤの人々がキリストによって自由にされていると語ります。キリストは彼らを自由にするために召されました。ガラテヤの人々は自由ではない状態、つまり奴隷状態から解放されました。
何からの自由なのか。まず第一に、律法の下からの自由です。彼らは律法の束縛下にありました。彼らは異邦人でしたが、心に律法が刻み込まれており、その律法が遵守を要求しました。律法によって自らが神の前に義とされなければならない、そのために律法を守らなければならない、さもなければ神から裁かれて滅びるるという、ユダヤ人同様の拘束下にありました。それは人間の力で救いを勝ち取る方法です。
そして、重大な問題は、神に対して傲慢な態度からその願望が出てくるということです。だから第二に、この肉的な思いの拘束からの自由のこともパウロが念頭に置いていました。肉の思いはガラテヤ5章19-21に列挙されています。私たちをがんじがらめにしている肉的な思い、願望からキリストはご自身にほうに呼び出して自由にしてくださいました。
【自覚されない罪】
このような肉の思いは罪から生じます。しかし、この思いはあまり自覚されていません。罪は自覚されているとは限りません。気がつかないなら、そこからの解放もまた意識されていません。
例えば、肉の思いの中に妬みがあります。妬みは、至るところに見られます。小さな子どもにも妬みは見られます。兄弟間でも親の愛をめぐって嫉妬が生じます。集団同士でもこの嫉妬は作用します。富める階級と貧しい階級の間で嫉妬が支配して対立が生じます。国同士が妬みから戦争を引き起こすことは珍しくありません。嫉妬などという心の動きが大きな災いを引き起こします。いろいろな大義名分を掲げてもその根本には妬みがある。妬みに世界中が支配され、束縛されています。この所の妬みは潜在化していて自覚・認識されていません。
妬みだけではなく、自尊心、うぬぼれ、過大な自己評価、過剰な自信に縛られている人が何と多いことか。逆に劣等感、自己憐憫、うつ状態に縛られて身動きできない人生を営んでいる人も多いのです。人間の心を支配する感情は複雑です。それがどういうものであれ、人の魂を束縛し、奴隷のように扱います。キリストはこのような心を縛る奴隷的な束縛から私たちを解放されます。
【十字架による解放】
キリストの十字架の意味はこの肉の支配からの解放なのです。自由はそこから生じます。霊的な束縛からの自由に他なりません。
今日、世界で支配的な思想は「ありのままでよい」というスローガンであると思います。
あなたはそのままでよろしい。そう言うのです。この思想が有力なのは当然です。
今日は他者を否定する時代です。才能や能力の欠如、営業成績不振などを理由にして、人間の価値を低く見積もる社会です。ときには金銭の多寡で人間の価値を計ります。このような社会では、ありのままの自分を認めて欲しいと誰もが思っています。ありのままの自己を肯定する思想も今日では殊の外、必要かもしれません。
しかし、結局この『思想』は自分で自分を認め、許す思想でもあります。それは究極的な魂の解放にはならないと思います。自分で自分を許してみても束縛そのものは消滅していません。結局のところ、気持ちの持ち方で終わってしまいかねません。許しは他者から来ます。
【キリストによる神の赦し・解放】
キリストは、私たちを赦されます。肉の思いに縛られていてがんじがらめになっている私たちを、ご自身の犠牲によって赦されます。神の御子が赦しを約束し、宣言し、保証されます。この赦しこそが究極的な自由の源であるといえます。
キリストはこの自由に私たちを召されます。つまり、呼び出されます。み言葉によって私たちを自由に導かれます。まず、わたしたちが肉の思いに縛られている事実を自覚させます。それから、私たちが霊的に奴隷状態であることをみ言葉によって知らせ、そこからの脱出を勧められます。まことの自由はキリストにあります。
私たちは長くこの束縛状態に置かれていました。あまりに長く奴隷状態であったために、キリストから解放されていることに気がつきません。足かせ、首かせは壊されています。ところが、束縛が日常となって、相変わらず束縛されているように錯覚しています。ガラテヤの信徒が味わっている状態はこれです。すでにキリストから自由にされていますが、また、肉の奴隷に戻って行こうとします。
自由人と奴隷状態の共存は、当時は社会の制度でした。その格差は大きいものです。奴隷身分であることは自由がないというだけのことではありません。人間ではなく、売買の対象であり、生殺与奪の権を一方が持っているということを意味していました。キリストに自由にされるということは、律法からの自由であり、肉の支配からの自由を意味していました。ガラテヤの信徒が奴隷の状態から自由を勝ち取ることができました。それなのに奴隷状態への逆行は信じがたい行動というべきなのです。
【キリスト者の自由】
こうして、キリスト者は自由にされています。全く自由なのです。もはや律法を義と認められる方法は破棄されました。ところで、この自由を強く主張することは、律法の破棄に繋がることはありません。現実には、自由の主張が、放任、放縦につながって生きました。キリストを信じるものは律法の行いから自由です。それによって救いを勝ち取ることはありません。すると、律法を軽んじる傾向が生じます。自由を、肉が罪を犯す機会とするという弊害が生じます。
【自由と奔放の違い】
なんでも自由だ、何でも赦される、何を仕様が、何を言おうが勝手だという主張がまかり通ります。あるいはそういう口実が平気で語られます。キリスト者は自由である。もはや何によっても束縛されることはない。こういう主張が出てきます。
戒律が厳しい宗派が存在します。そのような宗派に比較してプロテスタントは自由を強調しました。キリスト者は律法の行いや戒律などに縛られない。救いには関係ない。そこから律法の軽視が生じます。道徳的にたがが外れた状態が起きました。
残念ながらプロテスタントの有力なところで、このような誤った自由の観念が罷り通るという事態が生じました。厳格な戒律で救いを得られない、それはその通りなのですが、律法軽視、あるいは無視の傾向が生じます。
【偶像に捧げられた物を食すこと】
パウロは、自由を乱用したり誤用したりしてはならないと警告をします。実際にガラテヤの信徒とは違った極端が生じています。コリント教会で起きていたことです(コリント1 8:9)。当時ギリシヤでは神殿で犠牲がささげられますが、屠られた動物の肉は市場に払い下げられました。大量の食材が市場に出回っていて、それを買って食べることは一般的な市民の日常生活でした。偶像はただに石や木切れに過ぎない。神は唯一であるから、異なる神などありえない。そういう神に奉献された犠牲の肉を食べることは何ら差し支えないという人もいました。
しかし、そのような行動に躓きを覚える人もいました。一方では自由を主張します。他方では躓いている人もいました。パウロは自由な言動が弱い信徒を躓かせることになると警告をしています。自由は乱用されやすいのです。自由を主張する人は自由を行使しているだけだと思っています。やましさを感じているわけではありません。ところが、自由を乱用して、ある人たちを躓かせ、信仰から離れさせる結果となります。
【指針としての律法】
律法は廃止されるのではなく、救いの手段としての律法は不要となったけれども、律法そのものが不要になったのではありません。キリスト者の人生は律法から離れてあるのではありません。あくまで律法はキリスト者がそれを守って生きていく指針なのです。道しるべといった模様と思います。
パウロは律法の要約をここで引用します。マタイ22:39で、律法の要約がレビ19:18を用いて語られます。パウロはローマ13:9でも同じ点を語っています。
新約聖書マタイによる福音書22:39
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
旧約聖書レビ記19:18
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
ローマの信徒への手紙13:9
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
自分を愛するように隣人を愛しなさい。これこそ律法の要約で、律法の条文が不要になったり、無効になったりしているのではありません。愛して互いに仕えあうと言われます。
【律法の効用】
律法の要約は、律法全体を指し示します。律法は不要になったのではなく、律法はキリスト者には重要であるとされています。律法は廃棄されたのではありません。救いの手段としてユダヤ人が確信していたような仕方で律法が重視されるのではありませんが、律法はキリスト者の行動規範であり続けます。神を信じるものは律法を重んじるべきです。
十戒、使徒信条、主の祈りと共に3要文と呼ばれます。キリスト教において、この三つは肝心要の位置を占め、キリスト教信仰を簡潔に表明するものです。
パウロは警告します。だから、教会員が互いに挑みあい、噛みあい、共食いまでしているならば、そのときキリスト者も、教会も滅びてしまう。教会の外面的なものは存続するでしょう。しかし、教会の内部にあるものは失われます。教会がするべきことは互いに仕えあうことであるはずです。
ガラテヤの教会もまた律法を正しく用いないならばその破局は近くなります。教会は律法を正しく学ばなければならないのです。キリスト者にとって律法は生きていくために指針です。その律法を用いないで、あるいは無視してしまうとき、滅びに至るとは重大な警告です。
律法を守っていないという現実は残ります。だから、律法などどうでもよいものとし、律法を学ばず、律法を生きていく術にしないならば、そのとき、律法は救いの手段ではないとしても、滅びの手立てとなるという皮肉な事態となってしまいます。そのようなことがあってはならないのは当然というべきです。(おわり)
2014年07月27日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
20014年7月20日 説 教 「十字架のつまづき」金田幸男牧師
2014年7月20日説教「十字架の躓き」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章
要旨
【競走のコースを曲げること】
7節で、パウロは陸上競技を比ゆに用います。古代世界でも競争は盛んで、その勝者は民衆の尊敬を受けました。競走は全速力で走ったり、持久力で長距離を走ったりしますが、コースから外れることは許されません。ガラテヤの信徒は今まで全力で走ってきました。ところが誰かが邪魔をします。競走のコースを曲げるようなこと、ゴールを偽ものにすることなど、いろいろな工夫をしてガラテヤのキリスト者の信仰を途中で挫折させようとするものがありました。
パウロはここで邪魔をするもの、10節では「惑わす者」、12節では「かき乱す者」といいます。彼らは、福音だけではなく、律法の行いも必要だと教えました。そのために割礼を要求します。その他の律法の行いを実践しなければ救われない、異邦人もユダヤ人のようにならなければ神の国を継承できないと主張をしたのです。
パウロはここでガラテヤの信者を厳しく断罪していません。信仰は個人の問題です。だから、ガラテヤの信徒たちが福音のみを信じる信仰から、律法の実践も救いに必要だという誤った教えに傾いていきましたが、その場合責任は決断した彼らにあるはずです。今日は自己責任の時代ですから、信仰を動揺させたガラテヤの信徒たちがその責任を問われなければならないはずなのです。
【偽教師、ユダヤ主義者】
パウロはこの手紙の中でガラテヤの人々厳しく責め、責任を問い、告発して当然です。パウロがそれをすることは正当であると思われます。ところがパウロが弾劾しているのは、彼らを惑わす偽教師たち、ユダヤ主義者です。福音信仰に律法の実践を加えてそれが救いの条件だとする異端をパウロは激しく非難します。それどころか呪い、呪詛さえします。誰であろうとも、ガラテヤの信徒を惑わし、最初の告白した信仰を歪めるものはさばきを受けなければなりません。パウロはこの偽教師には全く譲歩などしません。このパウロの姿勢には抵抗を感じる人もいるかもしれません。
本来厳しく責められても仕方がないガラテヤの信徒にはパウロは柔軟に対応しています。信頼さえ表明します。しかし、ユダヤ主義の偽教師にはもっとも過酷な裁きを願います。この落差は、人間的な感情と異なります。少々の違いなどには目をつぶる。これが私たちのすることです。福音理解に関してもそうです。ちょっとした違いなら何でも構わないと思います。
ところがパウロは福音の真理に関しては妥協しません。少しの妥協などしません。福音を捻じ曲げ、水増しし、曖昧にするようなものたちを許しておくことができないとするのです。一歩も退きません。彼らはれっきとしたキリスト者であると主張していたに違いありません。福音を奉じている。キリストを信じている。聖書を受け入れている。こういう点で同じだといい、そしてすぐあとで、ただし、行いも必要だと言い出すのです。パウロはこのような考え方を容赦しません。なぜなら、福音の真理、神の大きな恩寵をないがしろにするからです。福音を歪曲したり、曖昧にすることは決して許されないのです。
【勧誘する宗教】
偽教師からの「誘い」がガラテヤの信徒に向けられていました。この語はパウロに向けられた言葉ではないかと言われています。ガラテヤの信徒たちを誤った方向に勧誘していると。しかし、パウロは偽教師たちこそガラテヤの信徒を勧誘するものだというのです。よく戸別のチラシ配付をしましたが、郵便受けに「セールス、宗教の勧誘、お断り」というステッカーが張ってありました。伝道などセールスと同じようなものと見なされています。パウロはそうではないといいます。ガラテヤの信徒の信仰を危うくするような偽教師たちこそ勧誘をしているのです。自分たちの陣営にガラテヤの信徒をお招きし、お誘いして、人数を増やすことが目的です。宗教団体の活動は多くの場合その団体の人数を増やすことを目的としています。まさしく勧誘することが伝道なのです。
【宣教】
私たちキリスト者も所詮同じだと言われてはなりませんし、自分にそんな言い訳をしてもいけません。勧誘に対置される言葉は「宣教」です。すなわち、キリストを救い主として宣言し、キリストの約束を恵みとして宣言するキリスト教会の伝道は単に自己の宗派の人数増やしに留まるものではありません。福音のみが救いに至る道であると確言し、明瞭に指し示すことです。
福音に欠けがあり、人間が補いをする必要があるなどという教説は破棄されなければなりません。そんなことは決してありません。そんな教えを主キリストが認めるわけがありません。
【腐ったパン種の喩え】
9節でまたパウロは比ゆを用います。パン種、イースト菌の喩えです。古代のイースト菌は雑菌も多かったといわれます。ですから、暖かく湿気の多いところにパンの生地を放置しますと、急速に膨らむのはいいのですが、食べるには適さなくなってしまいます。パン種が作用して練り粉全体が膨らみすぎると味も落ち、酸っぱくなったりして食用にならなくなってしまいます。
【別な考え】
パン種はいうまでもなく偽教師の教えを意味しています。10節で、それは「別な考え」とされています。異なる教えです。その間に何らかの共通点などない教えです。みかけは似たように思えます。実際、共通点がたくさんあるように思えます。福音そのものを否定しているのではありません。福音も必要、しかし、律法も上乗せされると教えるのです。このような偽教師たちの教えはパウロから見れば異なった教え、まったく別の教えとなります。見たところ共通点があっても、肝心の、イエス・キリストを信じる信仰だけが救いに必要だという教えとは水と油の関係なのです。
【パウロの信頼】
これほどパウロは福音のみをいう教えに固執します。それはゆるぎない確信でした。救われるのはただ神の恩寵、恵みによるだけなのです。ここには妥協も譲歩もありません。それがパウロの姿勢でした。
ガラテヤの信徒に対しては、パウロは驚くべき言葉を使います。「信頼する」という言葉です。ガラテヤの信徒が異なれる福音に行ってしまうことはありえない。パウロはそのように断定します。でも現状はどうであったでしょうか。ガラテヤの信徒とパウロの距離はすでにかなり離れていました。ガラテヤの人々はパウロに背を向けていました。しかし、ガラテヤの教会員が別の教えに傾いていくはずがないとパウロは語っています。それどころかあなた方を信頼している。現実は違っていました。ガラテヤの信徒たちは敵対さえしていました。パウロはその事実をよく認識していたはずです。ガラテヤの信徒たちはもうすでに律法の行いに拠って立っていたかもしれません。
私たちの人間関係は少し溝ができると埋めがたいものとなります。そこにあるのは不信感です。教会でもこのことは起こりえます。そして事態は深刻になっていくものです。
教会から離れて行ってしまった人々に、私たちはついそのような人が神から捨てられたのだと断言します。教会の外に救いはない。だから教会に背を向けたような輩は救いから漏れているに違いない。彼らは選ばれてはいない。こういう早合点をしているのです。
パウロはそう言いません。彼らガラテヤの信徒を信頼している。なぜなら、主を拠り所とするからです。教会の人間関係の基礎はキリストです。この基礎の上に立っていたら信頼できる。ガラテヤの信徒たちは必ず戻ってくる。パウロは信じています。彼らが復帰する可能性は低いかもしれません。いったんパウロから離れてしまったのです。もう二度と戻ってくるはずもないと思いがちです。パウロはそう考えませんでした。
ガラテヤの信徒はユダヤ主義者の教えを捨ててもう一度戻ってくると信じています。あのユダヤ主義者の語る教えに満足できなくなるとパウロは思っていたに違いありません。なぜならキリストこそ宝だからです。そこに最大級の価値があるのです。福音の恵みを知ったものが、ユダヤ主義者の惑わしに惑わされ続けるはずがない。福音は素晴らしい。パウロはそのように確信をしていましたから、ガラテヤのキリスト者も同じようになるのだと信じていたのです。
キリストを拠り所にしてこそ、真の信頼が生じます。私たちの人間関係は相互不信と敵対や憎悪、嫉妬や疑念に満ちています。そのためにたがいの関係がばらばらです。教会だけではなく、キリスト者の家庭にもこの影響は及んでいます。パウロの言葉に耳を傾けるべきです。
【ユダヤ人には十字架は躓き】
11節で、パウロが割礼を宣教しているという批判のあったことを推測させます。ユダヤ人には割礼を教え、異邦人には違ったことを言っているというのです。パウロははっきり否定します。相手がユダヤ人であろうとも割礼を宣伝したことはありません。割礼を宣教していたら迫害を受けることはない。ユダヤ人には十字架は躓きでした。十字架を語ったからユダヤ人からの迫害を受けるのです。ユダヤ人は、律法の行い、特にいけにえ奉献で贖われると思っていました。罪が許され、神の民として受け入れられると信じていました。だからキリストの十字架が贖いの犠牲だというようなパウロの教えは受け入れられず、伝統的なユダヤの宗教を破壊すると思われたのです。
1コリント1章23に記されているとおり、十字架はユダヤ人には躓きで受け入れがたかったのです。ユダヤの宗教がキリスト教の存在を認めがたいのはここにあります。律法を語っておれば、割礼を教えておればユダヤ人との摩擦は起きません。
割礼は男性器の一部を切断する儀式ですが、男性器全部を取ってしまえと12節でパウロは語ります。激昂したような言い方です。しかし、福音のみを言う教えを否定して何かを付加する教えはパウロには決して認めることができない誤った教えなのです。(おわり)
2014年07月20日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年7月13日説 教 「愛の実践を伴う信仰」金田幸男牧師
2014年7月13日 説教「愛の実践を伴う信仰」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤ5章2―6
要旨
【敵対しているガラテヤの信徒たちに】
パウロの語気はますます強くなります。「ここで、わたし、パウロが・・・断言する」は大変強い言い方です。
パウロから離れて行き、今は敵対しているガラテヤの信徒たちに、4章28では「あなたがたはアブラハムの子イサクと同様、約束の子らだ」と言い、同じ神の祝福にあずかるものだと断言し、ガラテヤの信徒たちが必ず元の信仰に戻ってくることを期待しています。
しかし、それは妥協とは違います。割礼を受けようとしているものがその割礼によって救われると思うのであれば、決してそうではない、そのような教説に決して譲歩しないと言い切っています。
【テモテへの割礼】
パウロは割礼そのものを否定したり、間違っているとは考えていませんでした。彼の伝道者として、その同僚となるテモテには割礼を受けさせています(使徒16:3)。テモテの父親はギリシヤ人、母はユダヤ人でした。この場合、割礼を受けるものは少なかったのです。
ところがパウロはユダヤ人の手前、つまり、ユダヤ人にキリスト教を伝道するにあたって、テモテにユダヤ人のように割礼を受けさせたのは便宜的でもありました。パウロ自身も当然割礼を受けています。
ただ、その割礼が救いの条件、つまり義とされるためには割礼が求められるというような、いわゆるユダヤ主義者には断固反対するのです。彼らは割礼、カレンダー、そして、食物のタブーなどを守ることで、ユダヤ人のようになり、そして、ユダヤ人がそうであるように、特別な選びの民に加えられると教えたのでした。パウロはこの考えに反対をしています。
割礼を受けて救われたいと思うものは割礼だけではなく、律法の全体を守る義務がある。ユダヤ主義者たちは信仰だけでは不十分で、律法の行ないも必要と主張していました。つまり、信仰プラス律法を唱えたのでした。ところがパウロは律法遵守が救いのために必要だというのであれば、それに徹底しなければならないというのです。律法による救いを求めるのであれば、神の前で完全に律法を守ってはじめて神の前で義とされます。
【信仰か律法の行いか】
パウロはあれか、これかと二者択一を求めます。信仰か律法の行いか。どちらかだというのです。律法の行いが救いの条件であれば、そのために完璧でなければなりません。私たち人間は勝手に考えて、律法の行いはそこそこでいいなどと考えるのですが、それは神の対する冒涜です。適当に律法を守り、それでもよいなどというと、神はその律法違反を厳しく責められます。律法に反していることを神は容認されることはありません。
そして、律法によって救いを得ようとするならキリストは無縁、関わりがないとされます。キリストの祝福はそこには入ってきません。他方、信仰による救いは、そこに律法の行いの入る余地はありません。それは信仰により、御霊の働きによります。
5節の「義とされたものの希望」とは神の国に入れられる特権、永遠の命、完全な罪の赦し、贖いの恩寵、完璧な救いを意味します。それはただ御霊による。つまり、私たちの内に働く、驚くべき聖霊の力なのです。聖霊の力は一方的に恩寵として作用します。そこには私たちの善行や禁欲なども入る余地はありません。
律法を行なって義とされ、救いを獲得するという可能性は全くありません。全てが聖霊の恵みなのです。そして、私たちにできることはただ神に期待し、希望を持ち、委ねて信じることだけです。律法の行いはここでは場所がないのです。
【全力を尽くして天命を待つ?】
あれかこれかです。そのどちらかを選ばなければなりません。私たちはよく「全力を尽くして天命を待つ」という宗教的観念を持っています。人間は自分の救いのためにも最大限努力し、その足りない分は神に期待する。そういう考えです。何も努力をしないで救われるなどという教えは人間の努力を軽んじた考えだというので、軽蔑視され、あるいは間違った教えだとされます。
むしろ、人間は最大限努力をしなければならないとされます。ただし、勤行、修行、禁欲、善行、熱心などなどいろいろな人間的な努力も完全ではないとはじめから計算済みで、欠陥があるのは折り込み済み、足りないところは神頼みというのです。しかし、聖書はこのような考えを受け入れません。もし、人間的な努力や熱心で始めるならば最後まで徹底しなくてなりません。
繰り返して申します。あれかこれかなのです。信仰か、律法の行いか。律法の行いによって救いを引き寄せようとするならば、律法を完全に守らなければならない。神はそういう方です。
人間自身が自分の力で救いを獲得しようとすれば、自分の力で最後までやり通さなければなりません。途中で神が介入し、中途半端でもよいなどと神は言われません。自分の力で救いを得る可能性があると思うものはその決心を最後まで持たなければなりません。律法の行いを救いの条件とするものは、キリストの力を不要とするのですから、キリストはもう関わりがありません。
ガラテヤの信徒たちがしようとしていることはそんな恐ろしいことなのです。キリストと縁もゆかりもなくなってしまう。そんな事態を考えれば、ガラテヤの信徒たちがしようとしていることは全く馬鹿げているのです。ガラテヤの信徒はまことの神も救いも知らないところから神への信仰に至ったのでした。それなのに、律法の行ないによる義の獲得が真実可能だと思っています。キリストから離れることは愚劣です。律法の行いで義と認められようとするものは最悪の選択なのです。
【変わることのない真理】
ただ信仰によって救われる。これは変更できない真理です。そして、このことは私たちの信仰生活と関わりがあります。信仰が長くなってきますと、マンネリに陥ります。そのときささやきが聞こえてきます。信仰だけでは生ぬるい。義とされるためには、もっと別のわざを求めなければならない。多くの場合、熱心な行動が求められます。パウロの時代は禁欲であったといわれます。禁欲的な生き方がなければ救われない、修行や特殊な儀式に参加することも、あるいはその宗団のために献身的に勤めることなどもそうです。
【信仰義認】
しかし、信仰による義には人間的努力の入る余地はありません。救いは神の恵みによります。そうだとすれば、信仰者の人生の出発に、神の一方的恵みがあり、救いに関しては神に全てを委ねるしかありません。救いははじめから終わりまで神のなさるわざです。とすれば、私たちの信仰はいつも神に委ねるということになります。信仰による義の教えが私たちに教えるところはいつも神を信じ、神に信頼して生きて行け、ということになります。
信仰義認の教えは、人間な思いを決して無用、不要にするものではありません。それはいつも神に信頼し、神に委ねていく姿勢を生じるものなのです。信仰によって救われるという確信を持っていれば、救いの完成もまた神の大きな恵みによります。このことを、私たちが学んでいくとき信仰は空虚なものとはならず、かえって信仰は豊かな内容を持つものとなります。
【愛の実践を伴う信仰とは】
パウロはここで信仰がどういうものであるかをさらに続けて教えています。割礼の有無は問題ではない。大切なのは愛の実践を伴う信仰だと語られます(6節)。
愛の実践とは何を意味しているのか。1コリント7:19にも同じような文章が出てきます。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることだとパウロは語っています。すると愛の実践とは掟、つまり律法の遵守ということになります。イエス・キリストも教えています。律法の要約についてです。キリストによれば律法は結局、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛すること、また自分を愛するように隣意図を愛すること、とされます(マタイ22:34-40、ルカ10:25―27、マルコ12:28-34)。
パウロは今まで律法に関して否定的なことを語ってきました。律法はまるで害悪のようにも響くようなことを語っていました。律法の行いは有害なのでしょうか。確かに、律法によって救われようとするのであればそれは有害です。救いの手段、あるいは方法として、律法の行いを認めるならば、結局のところ、キリストを無縁とし、キリストがもたらしてくださる恵みは失うことになってしまいます。そのような律法の用い方は間違っています。ユダヤ主義者が言っているような意味で、律法の遵守は危険です。律法プラス信仰という立場こそパウロが激しく反対をしています。しかし、では律法は不要で有害で排斥すべきものか。そうではありません。
【信仰は愛の実践を含む】
信仰は愛の実践を含むのです。律法の遵守を含みます。そうであってこそ信仰は空虚さを免れます。愛の実践を伴わない信仰はやせ細った中身のない虚ろな心情になってしまいます。
愛の実践は神への愛です。その愛は、神に仕えること、神に従うことに表現されます。神を愛していると言いながら神に背を向けて生きることは矛盾しています。神を愛することは神を賛美し、神に感謝をし、神に献身の思いをささげることです。それは神を礼拝することに結びつきます。愛の実践はこのような神への愛によって具体化されます。これは信仰の中に含まれているものとなります。そういう信仰は決して空しい信仰にはなりません。
そして、隣人を愛するとはどういうことか。単に近くの人を愛するというだけに留まりません。隣人は神の似姿に創造されました。隣人の中に神を見出す。どういうことか。神は、御心を人間に示されます。人間の思い、行動を通して神の支配、神の力、権威を明らかにしようとされます。人間は単なる生物ではなく、神の意志を実行するものです。隣人と共に神の国建設の事業に参画することこそ、隣人を愛することなのです。愛を実践する信仰は神の計画を実現する営みでもあります。(おわり)
2014年07月13日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙
2014年7月6日、説教「キリストは自由にする」金田幸男牧師
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聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章28~5章1節
28 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。
29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、"霊"によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。
30 しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
31 要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。
5章1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
要旨
【アブラハムの2人の妻とその子】
アブラハムの2人の子ども、イサクとイシュマエルのそれぞれの母が比ゆとして取り上げられています。イサクの母はサラ、イシュマエルの母は奴隷身分であり、エジプト人でもあったハガルでした(創世記16:1)。
サラは自由民の身分でした。古代世界では自由民と奴隷の区別が厳然としていました。奴隷は人間扱いされず、物として扱われ、売買の対象でもありました。
【シナイ契約】
パウロはこの2人を比ゆとして、つまり、別の意味を見つけようとしています。その意味とはシナイ契約とアブラハム契約でした。
シナイ契約は、神がモーセを通してイスラエルに律法を与えられた契約であり、その律法によってイスラエルは民族、国家を形成するはずでした。律法は本来イスラエルが神の民を形成するのに必要な法規で、民法や刑法だけではなく、宗教的な規則も多く含まれています。ところがイスラエルにとって、律法は必ず守らなければならない法であって、神の国に属するためには必須の条件とされます。そこから、律法を持っていること、律法を守っていることが神の民であることの証拠、だから、律法は何とかして厳守しなければならないとされ、律法はイスラエルには拘束するもの、奴隷的に従わせるものとされました。
パウロの時代のユダヤ人、それはエルサレムの住民に代表されますが、彼らは律法遵守こそ救いの条件としたのでした。救いは律法を守る者に来る。だから、ユダヤ主義キリスト教といわれている教師は、信仰だけではなく律法の遵守を要求したのでした。
【アブラハム契約】
他方、サラの子イサクはアブラハムの契約に属します。神は自由に約束によって祝福を与えられます。イサクとその子孫は天のエルサレムに属します。神の力は彼らに現されます。パウロはここでイザヤ54章1節を用い、崩壊したエルサレムの奇跡的復興を一人の女性に喩えて語ります。
旧約聖書イザヤ書54:1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。
以前は不妊で、結婚の機会を失っていた、従ってエルサレムでは見下げられていた女性が、バビロンによるエルサレム崩壊の後、彼女は多産の女性になります。そんなことはありえないことですが、神はただ恩寵によって彼女の恥を削いで、もっとも祝福された女性と言われるようにされます。それは奇跡といわざるを得ません。そのようにして破壊され崩壊したエルサレムを神は復興されます。サラは90歳にもなってイサクを生みました。
神は恵みによってこの奇跡的はわざを行われます。律法に対して何とかこれを守ろうとしてかえって律法の奴隷となっているユダヤ主義者の言いなりになっている道と、神の恵みにのみ期待している道は決して両立などしないのです。
【敵対するガラテヤの教会】
パウロはさらに比ゆから出てくる結論を語り続けます。あなた方はイサクと同じく約束の子です。あなた方とはいうまでもなく、この手紙の受取人であるガラテヤ人です。彼らは今はパウロの敵対しています。ところが彼らのことをパウロは約束の子であると断言しています。今は離れて行きました。パウロとガラテヤの信徒の間は深刻な亀裂を生じています。
しかし、現状がどうであれ、ガラテヤの信徒は約束の子、神の約束を失ってはいない、神から引き離されて滅びに定められているとは見ていないのです。これが驚きです。しかし、パウロはガラテヤの信徒たちを信頼しています。今はパウロから離れているにしても必ず戻ってくると確信しています。教会員というのはこのような人たちです。簡単にすぐさま、敵となってしまった人たちを見過ごしにしません。今はどんなにパウロから離れているにしても必ず彼らは戻ってくる、こういう信念がこのような言葉を語らせたに違いありません。一時に現象だけですぐにもう教会とは関わりのないものだと断定してしまわないのです。
【約束の子と奴隷の子】
約束の子と律法遵守のために律法に対して奴隷的になっているものは並存できません。実際、肉によって生まれた子、イシュマエルは霊によって生まれた子であるイサクを迫害したと記されています。
この背景は創世記21:9の文章を反映しています。「サラはエジプトの女ハガルがアブラハムとの間に生んだ子がイサクをからかっているのを見」たと記されます。「からかう」を迫害するとパウロは受け止めています。「からかう」といってもイシュマエルとイサクの間はかなりの年齢差があったと思われます。幼児イサクから見ればイシュマエルの行為は単純なからかいを越えていたと思われます。また、からかう方は軽い気持ちでしても、からかわれる方にしてみれば、深刻に心を傷つけられることもあります。いじめとはそういうものです。いじめているものは軽い気持ちだけですが、いじめられているものは死にたくなるほどの苦痛となります。パウロの解釈は過剰な理解というわけではありません。イサクから見れば深刻は迫害と考えてもあながち極端とはいえません。
同じように、ユダヤ人キリスト教の教師たちはパウロたち、ただ信仰により、恵みに生きようとする者を文字通り迫害していたと容易に想像できます。ときにはパウロの命を狙う陰謀さえ起きました。ガラテヤの異邦人信徒はパウロに敵対していましたが、ユダヤ主義者の策謀はパウロを亡き者にしてしまおうという悪意から出ていたと考えても差し支えないのではないでしょうか。
30節は創世記21章10節の引用です。
創世記21:10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
しかし、よくみると創世記ではこれはサラの言葉です。アブラハムに、サラはハガル、イシュマエル母子の追放を願います。その意図は決して慈悲心などから出たのではありません。冷ややかな心から出た言葉です。サラはイサクを溺愛していました。ハガルに対する敵愾心からかもしれません。とても神の言葉とは言えないものです。
ところが、パウロは創世記のこの文章を神が語る言葉にしているかのようです。単なる人間の言葉を神の言葉に変えている。これは奇異に感じさせるものです。しかし、しばしば人間の言葉に過ぎない言葉が意外にも神の意志を伝えるものとされます。
詩編は人間的な言葉がたくさん記されています。怒り、嘆き、恐怖、不安などを表現しています。しかし、そのような言葉が私たちにとって神の意志を示します。サラには憎しみさえ加わっているような言葉でありました。ところが彼女の言葉は神の意志を表しています。これは驚くべきことです。神の直接的な語りかけだけではなく、人間自身の率直な言葉を通して神が意志を示されます。今でもこのようにして私たちは神の意志を知らされることがあります。思いがけない友人の言葉を通して神の御心を示されるのです。神の語りかけは決して単純ではありません。
サラの言葉はイシュマエルの追放を求める言葉ですが、イシュマエルが表しているもの、律法に対して奴隷状態であることと、神の恵みによって自由に生きる行き方は両立できません。霊によって生きるものは奴隷的な立場をよしとするものを並び立つことができません。信仰によって生きていこうとするものは結局信仰に律法の行ないも必要だというような立場を排除せざるを得ません。どういう場合であれ、律法の行いによっては救われないのです。
イサクは自由民に属する女性から生まれましたが、ただ恵みにより、信仰によって救われるものは自由の子とも言われます。それは律法に対して奴隷的な生き方と対照されます。
【霊的自由】
サラの場合、その自由は何よりも身分上の自由です。パウロはその自由の意味を用いて、霊的な意味での自由に転化しています。ここでは自由は何よりもキリストの贖いによる罪からの自由を意味しています。律法を行なって罪から自由になる道は開かれていません。自由は律法遵守義務からの自由です。律法を厳守して救われる可能性はありません。
【いろんな奴隷状態】
しかし、自由は単に律法の束縛からの自由だけではありません。私たちはいろいろな束縛の下に置かれています。例えば生きている環境としての地域の慣習に縛られています。地域は農村とは限りません。近代的な組織の中でもまた、私たちは現代社会を縛り付けている金銭の奴隷となっています。今日はお金のために生きるなどというと見下されてしまいます。しかし、それはあくまで建前です。就職することが要するにお金をもらうため。よい職を得るためには弱肉強食の競争社会を勝ち抜くしかありません。そのためには卑怯なことをしても仕方がない、生きていくためにはどうすることもできないといういいわけをして結局はお金の奴隷となっていることも多いのです。
ある人は運命に縛られています。全て個人ではどうすることもできないような定め、生まれ育ちだけでは計算できないようなどうしようもない運命に縛り付けられていると思って、あらゆることに諦念に生きている人もいます。死の恐怖に縛られている人、病にがんじがらめにされている人、孤独や不安に奴隷のように支配されている人、私たちは多くの束縛に生きています。
【キリスト者の自由は】
キリストはこのような束縛と関わりない自由を与えようとしているのではありません。キリストの自由はわたしたちを束縛している一切の制限から解き放つのです。
魂の自由は決して気分ではありません。自由は霊的な束縛、精神的な束縛からの自由です。その自由をキリストは与えられます。この自由は恵みです。そして、人間的にはどうすることもできないような束縛であっても私たちを全く解放する力が働きます。奴隷制度は決して解決できないと思われる制度でした。しかし、福音が浸透していくとき、奴隷所有者と奴隷の関係は一変します。お互いが仕えあうことを教えました。これでは奴隷制度は成り立ちません。このように福音の信仰は制度さえ変えるのです。単なる心の持ち方で終わるような自由ではありません。神はこの自由をキリストを通して信じる者に提供されます。(おわり)
2014年07月06日