2014年6月22日説 教「あなた方のうちにキリストが形作られる]金田幸男牧師

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2014622日説教「あなたがたの内にキリストが形作られる」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙4

18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。

19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。

20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

 

 

要旨

【はじめの信仰】

ガラテヤのキリスト信者はパウロが教えた福音から離れていきました。パウロは彼らが最初にパウロから福音を聞いたときのことを思い起こさせています。ガラテヤで伝道したころ、ユダヤ人の迫害のためにパウロは大怪我をします。肉体も精神も弱っているときでしたが、パウロは福音を宣教し、ガラテヤ人はパウロから見れば異邦人、外国人であり、異教徒でもありますが、彼をあたかも天使であるかのように、またキリスト・イエスでもあるかのように受け入れました。パウロのためならその目を抉り出してもよいと思うほどにパウロへの敬愛を示しました。

 

 なぜ、パウロにそのような敬愛の情を示しえたのか。それは彼が宣べ伝えた福音の故でした。その福音がガラテヤの人々の心を大きく動かしたのです。パウロが語った福音とは、「ただキリストを信じる信仰によって救われる」ということであり、「神の恵みにより罪赦され、贖われ、神の子とされる」ということでした。この福音を語ったとき、ガラテヤの人々は喜んで受け入れたのでした。

 

【ユダヤ主義キリスト者により変節】

ところが、ガラテヤのキリスト者は大きく態度を変えてしまいます。その原因は、ユダヤ主義キリスト者と呼ばれる(偽)教師たちの教えを受け入れたからです。ユダヤ主義キリスト者の立場は、信仰だけでは足りず、ユダヤ人のように暦を厳守し、割礼を受け、儀式を行い、食べ物のタブーを遵守することによって救われるというものでした。つまり、信仰にプラスアルファが必要としたのです。

 

こうして、ガラテヤの信徒はパウロの敵になりました。ガラテヤの信者たちが具体的にどういう態度に変わったのかは記されていませんが、パウロとの間には敵意というものさえあったのです。

 

【教会の一致】

福音の一致という言葉があります。キリスト者における一致、教会の一致は福音信仰における一致でなければなりません。しばしば、教会の一致は人間的な絆によるものが追及されます。強力なリーダーシップがあって教会が一致している。あるいは組織や制度で一致を保つ。このような一致は強固にさえ見えることがあります。しかし、人が変われば一致はあえなく崩壊し、教会はばらばらになることは珍しくありません。教会は福音を信じる信仰によって一致が保たれます。

 

ガラテヤのキリスト者たちを惑わせているユダヤ主義者たちの動機をパウロは明らかにしています。パウロからガラテヤの信徒たちを引き離そうとしている。つまり、彼らの側に引き入れようとしている。ユダヤ主義者たちの意図は、彼らの陣営にガラテヤ人を導きいれ、結果として彼らの集団を大きくするために他なりませんでした。

 

【間違った教会成長】

伝道の目的はその宗派の信徒数を増やすためである。こういうことはどんな宗派でも起こります。ですから、人数を増やすことが主となります。数の増大は結果なのですが、目的と化します。人数を増やすことが目的になる。どんな奇麗事を並べても所詮その教団の人数の増加が宣教活動の目的なのです。何が欠けているのか。それは愛です。ガラテヤの人々の魂を救うためにパウロは彼らを愛し、慈しみました。彼らのために苦しむことを厭わないといいます。それが本心であるといいます。

 

ユダヤ主義者もたぶん同じことを言うかもしれません。ガラテヤの人たちのために熱心に苦闘しているのだと主張したに違いありません。でも、パウロは見抜きます。その熱心は自らの仲間の数を増やすことが目的なのだ。パウロは違います。ひとりひとりの魂の救い。それがパウロの願いであったのです。

 

【産みの苦しみ】

パウロはガリラヤの人々に福音を宣べ伝えました。その時は大きな困難に見舞われていました。ユダヤ人の迫害はきわめてひどいものでした。パウロは圧迫されて命の危険もありました。そのような中で命がけの伝道を試みたのです。そのときの苦しみをここで思い出しています。パウロはその苦しみを女性の出産の苦しみに喩えています。

 

考えてみればおかしな比喩です。パウロは独身であったと思われています。古代社会では、男性は殆ど出産と関わることがありません。でから、パウロは出産の場所にも居合わせるというようなことはなかったと思われます。むろんパウロ自身出産の苦しみを知るはずもありません。だから、この比ゆは彼の体験からではなく、つまり、人間の痛みの中でもっともひどいとされている産みの苦しみを経験ではなく、一般的な知識として用いているのだと考えるべきでしょう。とにかく、ひどい苦しみを例に、伝道の苦闘を表現しているのです。ガラテヤでの伝道は激しい苦痛を伴ったのだと言いたいのです。

 

パウロはここではもう一度生む、産み直すという比ゆを用いています。これまた奇妙な表現です。いくらなんでもいったん産んだ子どもをもう一度産みなおすことなどできるわけがありません。しかし、パウロは出産の苦痛を比ゆに用いましたから、それをもう一度用いたのです。もう一度、一からやり直す。ガラテヤ伝道をもう一度はじめからやり直したい。この希望を語ります。どこでどうなったのか分かりませんが、ガラテヤの信徒たちはとんでもない方向に行ってしまいました。

 

パウロはガラテヤの人々の出会いをもう一度しなおそうというのです。時間を逆に進めることはむろんできません。ガラテヤ人との関係をはじめに戻すことなどとうてい不可能なことです。パウロはできないことを知りつつ、もう一度彼らに福音を宣教したい。そして、はじめから彼らを教え、彼らの魂を取り戻したいと思っています。

 

【眞の信仰の成長とは】

そして、この比ゆを用いましたので、成長する子どもの比ゆとして発展させます。子どもは成長します。成長が止まった子どもには死が待っています。子どもは成長するからこそ生きているのです。パウロは丁度出産するようにして、福音を伝道しました。ガラテヤの異邦人はキリストを信じました。生まれた子どもは成長します。そのように、ガラテヤの信徒たちも成長をしなければなりません。

 

ひとつのところに留まっていてはいけない。これがパウロの主張でした。成長しなければならない。はじめの信仰に留まっていたらその信仰は幼稚だ、そういう声があったのかもしれません。

 

だからユダヤ主義者たちは信仰だけではいけない、禁欲的なユダヤ人のような生き方、習慣が救いに必要だと教え、その信仰が不十分だと思った人たちを取り込んでしまったのです。

 

【内にキリストが形作られる】

キリスト者は成長しなければなりません。その成長は内にキリストが形作られることだといいます。これも比ゆ的な物言いです。エフェソ3:16-17どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

 

【内なる人】

ここにはキリストが内住し、それは内なる人とも語られます。ローマ8:8-10「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

 

神の霊が内に宿る。キリストの霊を持つ。こういうパウロの言葉から、キリストの霊が内住し、そのキリストが内にあって生きて働かれることを指しています。抽象的な印象を受けるかもしれません。禁欲的な律法のわざをすることのほうが具体的に思われます。分かりやすいといってもよいかもしれません。確かにキリストが私たちの内にあるとはどういうことか、よく考えなければなりません。

 

【聖餐式】

聖餐において、私たちはキリストのからだと血潮をさしているパンとぶどう酒を飲み食いしますが、信仰を持ってパンと杯が意味しているものを受け止めるとき、キリストは私たちの内に住まわれます。また、教会は神の宮であり、キリストがいつもおられます。

 

マタイ福音書18章20節で2人か3人がキリストの名で集れば、そこにキリストも共にいると約束されています。このような表現からも知られるように、聖霊の一方的な働きとしてキリストがわたしたちと共におられ、私たちと行動を共にしてくださいます。聖霊が私たちの内に働かれるとき、御言葉を信じ、神を愛し、神に従う歩みをします。神の言葉に忠実に生きていこうとします。このような歩みこそ、キリストが形作られている証拠なのです。

 

私たちと共にキリストが歩まれるところでこそ、キリストは内住され、そのキリストが私たちの全ての生を支配するときこそ、キリストが私たちの内に、明確に形作られます。神の側の働きとしてキリストが私たちの内におられるようにされます。 

 

【ガラテヤの信徒への手紙】

ガラテヤのキリスト者は成長をやめてしまったかのようでした。パウロはもう一度彼らに福音を語りたいと希望を語ります。しかし、彼が今いるところとガリラヤは離れすぎていました。交通機関が発達していない古代、直接会えません。そのために手紙を書いているのですが、直接会って話し合ったほうが手っ取り早いどころか有効でもあります。それができないので、途方にくれるといいます。どうしたらいいのか。

 

私たちはこの結果、益を得ています。パウロの書いた文書が残されているからです。むろん、直接彼らと会って説得できるほうが効果的です。これは実現したかどうか分かりません。でも、ここからパウロがガラテヤの信徒たちのこれからの行きし方を心から心配をしています。(おわり)


2014年06月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

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