2014年6月29日説 教 「自由と束縛]金田幸男牧師
L140629002.wav ←クリックして音声で説教を聴いてください説教「自由と束縛 」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章21―27
要旨
【初期のがラテやの信徒の信仰】
ガラテヤの信徒への手紙4章8-20でパウロはガリラヤ伝道をしたころのガラテヤ人のパウロに対する態度を思い起こさせていました。パウロが心身ともに弱くなっているときに福音を宣教しました。そういうパウロの状態にもかかわらず、ガラテヤの人々はパウロを好意的に受け入れました。まるで天使でもあるかのように、キリスト・イエスでもあるかのようにパウロを受け入れました。
【ユダヤ主義者キリスト教師の悪影響】
ところが今は両者は敵対関係になってしまいました。その理由はユダヤ主義キリスト教の教師たちの教えをガラテヤ人が受け入れてしまったからです。ユダヤ主義者たちはユダヤの宗教的な暦を遵守すること(4:10)、割礼を受けること(5:2)、その他のユダヤ人が守っている律法を異邦人キリスト者も守らなければ救われないと教えていました。
彼らはおそらく汚れの規定には神経質であったのではないかと思います。特別な病気になったり、死体に触れたり、あるいは汚れた動物の肉を食する外国人との付き合いで汚れるという考えです。このようなユダヤ人が厳格に守ろうとしている規則を異邦人キリスト者にも要求するという立場がユダヤ主義者で、彼らは信仰だけではなく、律法の行ないも救いに必要だと語っていたのです。
パウロはこのような律法を守らなければ救われないというユダヤ主義者の教えを採用した人々に問いかけます。律法のもとにいたいと思っている人たち、律法の行いで救われたいと思っているガラテヤの信徒に呼びかけます。あなた方は律法の言っていることに耳を貸さないのか。この場合の律法は、モーセの律法、旧約聖書のはじめに記されるいわゆるモーセの5書のことで、ここでは特に創世記を意味しています。
【アブラハムの2人の妻とその子ども】
そこにはアブラハムの子たちとその母親のことが記されます。アブラハムには2人の子どもがいました。ひとりはイシュマエルという名前で、母はハガルといいました。もうひとりはイサクです。イシュマエル誕生の次第は創世記16章に記されています。
アブラハムにその子孫が増え広がるという約束が語られていましたが、一向に実現しません。そこでサラは自分の奴隷であったハガルを夫に与えます。こうして生まれてきたのがイシュマエルでした。パウロはこのイシュマエルの誕生を「肉によって生まれた」と語ります。肉的な思いによって、という意味で、何とかして、子どもを獲得し、そのことで子孫増加という神の言葉を強制的に実現しようとするものでした。
これに対してイサクはアブラハム100歳、サラ90歳のときに生まれました(創世記21章)。高齢で子どもを産める年齢ではありません、しかし、サラはイサクを産みます。それは全く神の約束によるものでした。
確かにここには処女降誕のような奇跡が記されていません。アブラハムとサラは夫婦であり、2人の間からイサクは生まれました。天変地異、あるいは思いも及ばないような奇跡がここに起きたのではありません。しかし、やはり、奇跡と言わなければなりません。
【100歳の夫と90歳の妻が子を】
100歳の夫と90歳の妻から子どもが生まれてくるなどというようなことが普通起きません。しかし、それは神の約束により、神の介在によって実現しました。これは神の約束の実現でした。神の約束は神の言葉です。このみ言葉が成就したのです。それを信じることによって神は介入し、介在してくださいます。
【奴隷の女ハガイの場合】
ガラテヤ人は肉の思いで、神から祝福を引き出そうとするハガイの立場と同じです。何とかして人間的に神を思うように動かそうとしています。しかし、そこからは神の恩恵を期待することはできないのです。
【正妻サラの場合】
他方、アブラハムはただ神を信頼します。その信頼に応えて神は行動されます。神の言葉とおりに神は実行されます。律法の働きによって神は行動されることはなく、ただ神を信じ、神の信頼するところから神は行動されます。神は祈れと命じられます。主の御名によって祈ることは何でもかなえてあげようと約束されました。私たちはこの神の約束を信じるのです。そして、信じるものに約束を実現されます。祈るしかないのですが、祈ることは神の約束を基礎としています。
神の約束を放棄して、律法の行ないに頼ることほど愚かしいことはありません。
【イサクとイシュマエルの誕生をめぐる深い意味】
ところで、パウロはこの創世記のイサクとイシュマエルの誕生をめぐる記事には別の意味が隠されている(24)と言います。
これは当時の聖書解釈の方法です。表面上の言葉や意味に現れてきていない、あるいは関係のない意味を想像をたくましくして引き出す解釈の仕方がありました。寓話という文学形式があります。この巧者はイソップです。いくつもの寓話を残しています。それはただ面白い話というのではなく、表面には出てきていない隠された意味があります。例えばウサギとカメの喩え話ですが、競争して、はじめウサギが大きくリードします。ところがゴール寸前で、ウサギはカメがなかなか姿を現さないので、居眠りをし始めます。カメはその間、のろのろと、しかし休まず歩き続けたのでウサギに勝ちます。この話で、勤勉の徳が説かれます。ウサギとカメには勤勉とか忍耐とかの徳目が意味されているわけではありませんが、連想して、あるいは想像して、ときにはこじつけと思われるような仕方で、つまり、別の意味を引き出す解釈法で当時流行していました。
ハガルとサラはふたつの契約を意味する。ハガルとサラは直接契約と関係ありません。しかし、ハガルが奴隷であり、サラが自由人であるというところから連想して、旧約における有名な二つの契約を象徴するもの、そこから連想されるものとして取り上げられています。
【シナイ契約】
ひとつの契約はシナイにおける契約です。シナイ山でモーセは神から律法を与えられます。イスラエルはその律法を守らなければならないとされます。律法授与から始まってイスラエルは民族として国家として形作られていきます。そのための規範が律法でした。律法を完全に守って神から栄光を受けようとします。しかし、現実は律法違反の積み重ねでした。そのために、バビロンによるイスラエル滅亡を言う歴史的事件を招来しました。律法違反に対して神に赦しを求めるべきでした。
本来、律法はこのような目的に用いられるべきでありましたが、イスラエルは律法を神の民になるための必須の条件としてしまいました。律法を完全に守ることができる。だから守らなければならないとされたのです。律法はそのときからイスラエルを縛り付けるものとなり、律法の行いによって救いを勝ち取ろうとするのは律法の奴隷となることなのです。
シナイ山での律法授与はシナイ契約と呼ばれますが、イスラエルにとっては律法の遵守と結びつく契約とされてしまいました。本来はそうではありません。イスラエル国家の基本的な法規、そして、その違反に対しては神からの赦しを求めるべき契約でありました。だから、結局、当時のエルサレムの住民が律法を守ろうとしている態度と同じです。彼らは神殿で律法の通り儀式を守ったりしています。それによって神の恩寵を獲得できると思っていたのです。ユダヤ主義者と同じです。
パウロはハガル、シナイ山、エルサレムをこうして繋ぐようにしたのです。奴隷女であったハガルが現している別の意味は律法遵守を強制する契約理解です。
【サラによるアブラハム契約】
他方、イサクを生んだサラが示していたのは、もうひとつの契約です。アブラハムとの契約を指していることは言うまでもありません。ただ信じることによって神の義を確保できる契約です。ハガルが示しているのは、地上のエルサレム、つまり律法を何とかして厳守し、神の恩寵を引き出そうとする立場です。
サラはアブラハム契約を示し、ハガルは律法の遵守を求めるシナイの契約を意味するといいます。この聖書解釈は文字そのものや文法的解釈でありません。ある飛躍がなければ解釈できません。その意味でこの解釈は面白いのです。しかし、聖書の語句、語彙、あるいは文脈との照合などの解釈と違い、とんでもない推測まで突き進んでしまいます。恣意的な解釈は警戒しなければなりません。パウロはとても自制的に解釈をしています。特に文字や数字の恣意的な解釈は警戒しなければなりません。
サラは自由の女、つまり、奴隷ではありません。律法の奴隷ではありません。律法を遵守して神からの救いを獲得しようとするものは奴隷の系譜に属します。ただ神を信じて救われたいと願うものの自由な判断からそうするのです。
【不妊の女:イザヤ預言】
パウロはこのようにサラを、約束に従って生きていくものとして捉えています。先の創世記16章に記されるように、彼女こそイシュマエルの誕生に大きな役割を占めたのですが、そのことは触れられていません。サラは神に約束を保証され、それを信じて生きたとされます。このように神の約束に生きていく女性はサラだけではありません。
イザヤがそのことを預言しているとして、パウロは預言の1節を取り上げます。不妊の女。古代世界では蔑まれるべき存在でした。また、彼女は結婚もできなかったのです。そのような境遇の女性が幸福であるはずがありませんでした。ところが事態は一変します。エルサレムはバビロンに滅ぼされます。栄華を極めたダビデとソロモンの建設した町です。ところが徹底的な破壊を蒙ります。律法を誇りとし、律法を守れる自らを評価した民の都は滅亡します。しかし、神はある少数の者たちを残されたものとされます。その中の一人が不妊の女性、以前は未婚で過ごした女性がいました。
彼女はバビロン滅亡後、ひとり残されますが、彼女から多くの子どもが生まれてくる。それまで蔑まれ、ひどい扱いを受けていたこの女性が最高の祝福を受けることになります。それはただ神の御心によって実現することです。残された民から神はまことの神の民を起こされます。それは神の約束に依拠します。私たちが求められていることはただ約束を信じて生きていくことだけなのです。(おわり)
2014年06月29日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年6月22日説 教「あなた方のうちにキリストが形作られる]金田幸男牧師
L140622002.wav クリックすると説教が聴けます。2014年6月22日説教「あなたがたの内にキリストが形作られる」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章
18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。
19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
要旨
【はじめの信仰】
ガラテヤのキリスト信者はパウロが教えた福音から離れていきました。パウロは彼らが最初にパウロから福音を聞いたときのことを思い起こさせています。ガラテヤで伝道したころ、ユダヤ人の迫害のためにパウロは大怪我をします。肉体も精神も弱っているときでしたが、パウロは福音を宣教し、ガラテヤ人はパウロから見れば異邦人、外国人であり、異教徒でもありますが、彼をあたかも天使であるかのように、またキリスト・イエスでもあるかのように受け入れました。パウロのためならその目を抉り出してもよいと思うほどにパウロへの敬愛を示しました。
なぜ、パウロにそのような敬愛の情を示しえたのか。それは彼が宣べ伝えた福音の故でした。その福音がガラテヤの人々の心を大きく動かしたのです。パウロが語った福音とは、「ただキリストを信じる信仰によって救われる」ということであり、「神の恵みにより罪赦され、贖われ、神の子とされる」ということでした。この福音を語ったとき、ガラテヤの人々は喜んで受け入れたのでした。
【ユダヤ主義キリスト者により変節】
ところが、ガラテヤのキリスト者は大きく態度を変えてしまいます。その原因は、ユダヤ主義キリスト者と呼ばれる(偽)教師たちの教えを受け入れたからです。ユダヤ主義キリスト者の立場は、信仰だけでは足りず、ユダヤ人のように暦を厳守し、割礼を受け、儀式を行い、食べ物のタブーを遵守することによって救われるというものでした。つまり、信仰にプラスアルファが必要としたのです。
こうして、ガラテヤの信徒はパウロの敵になりました。ガラテヤの信者たちが具体的にどういう態度に変わったのかは記されていませんが、パウロとの間には敵意というものさえあったのです。
【教会の一致】
福音の一致という言葉があります。キリスト者における一致、教会の一致は福音信仰における一致でなければなりません。しばしば、教会の一致は人間的な絆によるものが追及されます。強力なリーダーシップがあって教会が一致している。あるいは組織や制度で一致を保つ。このような一致は強固にさえ見えることがあります。しかし、人が変われば一致はあえなく崩壊し、教会はばらばらになることは珍しくありません。教会は福音を信じる信仰によって一致が保たれます。
ガラテヤのキリスト者たちを惑わせているユダヤ主義者たちの動機をパウロは明らかにしています。パウロからガラテヤの信徒たちを引き離そうとしている。つまり、彼らの側に引き入れようとしている。ユダヤ主義者たちの意図は、彼らの陣営にガラテヤ人を導きいれ、結果として彼らの集団を大きくするために他なりませんでした。
【間違った教会成長】
伝道の目的はその宗派の信徒数を増やすためである。こういうことはどんな宗派でも起こります。ですから、人数を増やすことが主となります。数の増大は結果なのですが、目的と化します。人数を増やすことが目的になる。どんな奇麗事を並べても所詮その教団の人数の増加が宣教活動の目的なのです。何が欠けているのか。それは愛です。ガラテヤの人々の魂を救うためにパウロは彼らを愛し、慈しみました。彼らのために苦しむことを厭わないといいます。それが本心であるといいます。
ユダヤ主義者もたぶん同じことを言うかもしれません。ガラテヤの人たちのために熱心に苦闘しているのだと主張したに違いありません。でも、パウロは見抜きます。その熱心は自らの仲間の数を増やすことが目的なのだ。パウロは違います。ひとりひとりの魂の救い。それがパウロの願いであったのです。
【産みの苦しみ】
パウロはガリラヤの人々に福音を宣べ伝えました。その時は大きな困難に見舞われていました。ユダヤ人の迫害はきわめてひどいものでした。パウロは圧迫されて命の危険もありました。そのような中で命がけの伝道を試みたのです。そのときの苦しみをここで思い出しています。パウロはその苦しみを女性の出産の苦しみに喩えています。
考えてみればおかしな比喩です。パウロは独身であったと思われています。古代社会では、男性は殆ど出産と関わることがありません。でから、パウロは出産の場所にも居合わせるというようなことはなかったと思われます。むろんパウロ自身出産の苦しみを知るはずもありません。だから、この比ゆは彼の体験からではなく、つまり、人間の痛みの中でもっともひどいとされている産みの苦しみを経験ではなく、一般的な知識として用いているのだと考えるべきでしょう。とにかく、ひどい苦しみを例に、伝道の苦闘を表現しているのです。ガラテヤでの伝道は激しい苦痛を伴ったのだと言いたいのです。
パウロはここではもう一度生む、産み直すという比ゆを用いています。これまた奇妙な表現です。いくらなんでもいったん産んだ子どもをもう一度産みなおすことなどできるわけがありません。しかし、パウロは出産の苦痛を比ゆに用いましたから、それをもう一度用いたのです。もう一度、一からやり直す。ガラテヤ伝道をもう一度はじめからやり直したい。この希望を語ります。どこでどうなったのか分かりませんが、ガラテヤの信徒たちはとんでもない方向に行ってしまいました。
パウロはガラテヤの人々の出会いをもう一度しなおそうというのです。時間を逆に進めることはむろんできません。ガラテヤ人との関係をはじめに戻すことなどとうてい不可能なことです。パウロはできないことを知りつつ、もう一度彼らに福音を宣教したい。そして、はじめから彼らを教え、彼らの魂を取り戻したいと思っています。
【眞の信仰の成長とは】
そして、この比ゆを用いましたので、成長する子どもの比ゆとして発展させます。子どもは成長します。成長が止まった子どもには死が待っています。子どもは成長するからこそ生きているのです。パウロは丁度出産するようにして、福音を伝道しました。ガラテヤの異邦人はキリストを信じました。生まれた子どもは成長します。そのように、ガラテヤの信徒たちも成長をしなければなりません。
ひとつのところに留まっていてはいけない。これがパウロの主張でした。成長しなければならない。はじめの信仰に留まっていたらその信仰は幼稚だ、そういう声があったのかもしれません。
だからユダヤ主義者たちは信仰だけではいけない、禁欲的なユダヤ人のような生き方、習慣が救いに必要だと教え、その信仰が不十分だと思った人たちを取り込んでしまったのです。
【内にキリストが形作られる】
キリスト者は成長しなければなりません。その成長は内にキリストが形作られることだといいます。これも比ゆ的な物言いです。エフェソ3:16-17「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」
【内なる人】
ここにはキリストが内住し、それは内なる人とも語られます。ローマ8:8-10「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
神の霊が内に宿る。キリストの霊を持つ。こういうパウロの言葉から、キリストの霊が内住し、そのキリストが内にあって生きて働かれることを指しています。抽象的な印象を受けるかもしれません。禁欲的な律法のわざをすることのほうが具体的に思われます。分かりやすいといってもよいかもしれません。確かにキリストが私たちの内にあるとはどういうことか、よく考えなければなりません。
【聖餐式】
聖餐において、私たちはキリストのからだと血潮をさしているパンとぶどう酒を飲み食いしますが、信仰を持ってパンと杯が意味しているものを受け止めるとき、キリストは私たちの内に住まわれます。また、教会は神の宮であり、キリストがいつもおられます。
マタイ福音書18章20節で2人か3人がキリストの名で集れば、そこにキリストも共にいると約束されています。このような表現からも知られるように、聖霊の一方的な働きとしてキリストがわたしたちと共におられ、私たちと行動を共にしてくださいます。聖霊が私たちの内に働かれるとき、御言葉を信じ、神を愛し、神に従う歩みをします。神の言葉に忠実に生きていこうとします。このような歩みこそ、キリストが形作られている証拠なのです。
私たちと共にキリストが歩まれるところでこそ、キリストは内住され、そのキリストが私たちの全ての生を支配するときこそ、キリストが私たちの内に、明確に形作られます。神の側の働きとしてキリストが私たちの内におられるようにされます。
【ガラテヤの信徒への手紙】
ガラテヤのキリスト者は成長をやめてしまったかのようでした。パウロはもう一度彼らに福音を語りたいと希望を語ります。しかし、彼が今いるところとガリラヤは離れすぎていました。交通機関が発達していない古代、直接会えません。そのために手紙を書いているのですが、直接会って話し合ったほうが手っ取り早いどころか有効でもあります。それができないので、途方にくれるといいます。どうしたらいいのか。
私たちはこの結果、益を得ています。パウロの書いた文書が残されているからです。むろん、直接彼らと会って説得できるほうが効果的です。これは実現したかどうか分かりません。でも、ここからパウロがガラテヤの信徒たちのこれからの行きし方を心から心配をしています。(おわり)
2014年06月22日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙
2014年6月15日説教 「福音を知らせるきっかけ]金田幸男牧師
L140615004.wav ←クリックで説教が聴けます。2014年6月15日 説教「キリストを知らせるきっかけ」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章
12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。
13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。
15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。
16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。
17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。
要旨
【ユダヤ主義者の影響】
ガラテヤに信徒たちはパウロから福音を聞いて信じました。ところがユダヤ主義者といわれる教師たちの言葉に取り込まれ、ユダヤ人がしているような宗教的習慣、例えば、ユダヤの暦の遵守、割礼の実践、食物のタブーなどを守らなければ救われないと思うようになりました。
つまり、キリストを信じるだけではなく、プラス・アルファが必要だと思うようになったのです。このようなガラテヤの信徒たちの変心はパウロをいたく失望させ、落胆させました。あなた方のために苦労したことは無駄になってしまったのではないだろうかと正直に彼の気持ちを語ります。ここからパウロは彼の経験に基づいて、個人的な思いを述べていきます。
【パウロのガラテヤ伝道】
ガラテヤ地方へのパウロの訪問については使徒言行録に3回記されます。第1は、パウロの第1回伝道旅行の際、ピシディアのアンティオキア、イコニオム、ルステラ、デルベで伝道をしたことが記録されます。これらの町は広義のガラテヤと考えられます(13章以下)。
第2、第3は、使徒言行録16:6と18:23で、パウロがガラテヤ、フリギアを通過して旅行をしたと記されます。パウロははじめて福音をガラテヤで宣教したのは使徒言行録の記事のどれを指しているのか理解が違うところもありますが、第1回伝道旅行の際であるとすると、南ガラテヤ地方への伝道に当たります。あとの伝道旅行中であれば北ガラテヤ地方の伝道ということになります。
【体の弱っていること】
この解釈ですと、パウロが「体の弱っている」ことが何を指すか、使徒言行録に直接の言及がありません。パウロは2コリント12:7で「私の身にひとつのとげ」が与えられていたと言います。2コリント10:10では「実際に会ってみると弱々しい人に」見えたと記され、これらからパウロが目の病を得ていたと推論されます。
目がしょぼしょぼするような病であれば、見栄えが悪く、印象もよくなかったでしょう。しかし、この解釈よりも第1回伝道旅行の際、使徒言行録4:13が該当すると思われます。リステラの町で、「ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやってきて、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んだものと思って、町の外へ引きずり出した。」とあり、パウロはひどい目にあいましたが、パウロはもう一度リステラの町に入り、翌日はデルベの町に向かいました。
パウロはおそらく傷だらけで、全身包帯を巻いていたのではないかと思います。顔面は腫れ上がり、血だらけで、見るも無残な状態であったと推測します。生々しい傷を負い、よたよたと歩いていたのではないでしょうか。見栄えは最高に悪く、しかも、ユダヤ人のすさまじい乱暴は目撃されていました。一騒ぎがあったのです。
【ローマ帝国内でのユダヤ一神教】
当時のユダヤ人は、ローマ帝国から特別の許可を得てその信仰を守っていました。ユダヤ人の一神教信仰は、多神教世界では独善的だと思われることもしばしばで、そのために好意的に見られていたわけではありません。そのユダヤ教内部の争いです。はた迷惑に感じられたのではないでしょうか。ユダヤ人内部の争いがガラテヤの人々に持ち込まれ、騒ぎに関係のない人たちまでもが巻き込まれてしまう恐れもありました。厄介な事件が起きたと思われても当然です。
【ガラテヤの信徒たち】
ガラテヤの信徒たちとパウロの出会いはこのような状態の中で起きたのです。ところが、ガラテヤの人々はパウロを決してひどい扱いで接しませんでした。その逆です。彼らはパウロに不当な仕打ちをしませんでした(12節)。それどころか、まるで神の使い、天使のように受け入れ、それ以上に、キリスト・イエスででもあるかのように(14節)、パウロを見たのです。また、パウロのためにはその目を抉り出してもよいとさえ思うほどであったと記します(15節)。このようにパウロを厚遇しました。
【パウロを敬愛】
パウロは最悪の条件の中で伝道しました。彼は傷つき、体力もなく、おそらく口も充分聞けないような有様であったでしょう。ガラテヤ人の印象は悪かっても当然です。パウロを嫌い、彼に近づこうとしないとしても当たり前でありました。しかし、実際は反対でした。ガラテヤの人たちはパウロを親切に、敬愛をもって接しました。
パウロに対してガラテヤの人々は深く大きな敬愛の念を示しました。伝道者にとって最高の喜びは単に誉めそやされること、あるいは、特別待遇を受けることなどではありません。敬意と愛情をもって接してもらえることです。ガラテヤの人々はまるで天使であるかのように、それ以上にキリスト・イエスであるかのようにパウロを受け入れました。これ以上の、伝道者に対する敬愛の表現はありません。その感情表現は言葉にはなりません。
どうしてこんなふうにガラテヤの信徒はパウロと出会い、そしてパウロを敬愛したのでしょうか。パウロの風貌はそのとき見るも無惨な様子でした。パウロ自身、弱さの中にありました。気力、体力が衰え、伝道するどころではなかったとしても不思議ではない、そういう最悪の状態でしたが、ガラテヤの人々はパウロを受け入れました。
私たちは伝道するときに、伝道する側も最良の条件でなくてはならないと思います。準備万端、あらゆる備えをした上、気力の充実し、心構えも言うことなし、というような状態でこそ伝道ができるのだと思ってしまいます。あるいは、伝道者として最高の状態で伝道する、雄弁であり、言葉巧みであり、学力あり、学問もある、闘志もあり、熱心も誰にも負けない。勇ましく、勇気があり、困難など何とも思わない剛毅さがある、等々。そのようでなければ伝道できないと思うでしょうが、パウロは正反対でした。最悪の条件下でも伝道しました。息も絶え絶えとは行かなくてもパウロは伝道するに当たって少なくともベストコンディションではありませんでした。私たちも伝道する場合、好条件を整えてはじめてできるというものではありません。
ガラテヤのキリスト者はどうしてパウロをこのように厚遇し、親しく敬愛の念の駆られて接することができたのでしょうか。
【福音のゆえに】
それはひとえに彼が語った福音のゆえです。これ以外に考えられません。ガラテヤの人々にパウロは福音を語りました。別の哲学や高遠な思想を語ったわけではありません。福音はこのガラテヤの信徒への手紙の主題でもあります。信仰によって義とされる。ただ神の恵みによって神の国を継承し、神の子とされる。これが彼の語る福音でした。
キリストによって罪赦され、贖われ、救われます。ガラテヤの人々はそれまでギリシアと土着の宗教の混交である信仰の中で生きていた「異教徒」でしたが、福音の恵みを知らされました。そのとき、パウロに対して好感を示し、純粋な気持ちで受け入れたのでした。感謝と喜びに満たされたのです。彼らはそのとき幸福だと思いました。キリストにあって救われる喜びこそ幸福のきわみと確信しました。
福音こそ、ガラテヤの信徒がパウロに示した敬愛の理由です。パウロが立派で、今まで聞いたことのないような高級な宗教講話をしたから敬愛したのではありません。パウロが信仰をこの世的な幸福の手立てであるかのように語ったからこそ敬愛したのではありません。むろん愉快な話で、誰もが分かるような、しかし内容のないくだらぬお話に感動して敬愛したのではむろんありません。
ただパウロが福音を語ったからこそパウロを受け入れ、認め、敬愛したのです。それ以外の理由はありません。弱さの只中で、パウロがガラテヤの人々に受け入れられたのはその福音のゆえです。
パウロとガラテヤの人々とは初対面であったかもしれません。その可能性が大きいと思います。パウロが語った福音は決して難解ではなかったでしょう。単純そのものであったと思います。しかし、それこそ救いをもたらすよき知らせと聞かれたのでした。
今日でも同じことが言えます。私たちは言葉巧みに、相手が受け入れやすいように、また心理的抵抗がないように適当にゆがめたり、差し引いたりしたような福音で、相手から敬愛を期待できるのではないと心しておかなければなりません。人の心を巧みに誘導する説教者が敬愛を受けることはありません。朴訥(ぼくとつ)と、時には舌が回らないような下手なしゃべり方しかできなくても、福音の真理を明確に語ろうとしているところで敬愛を獲得することができます。
【パウロの敵】
しかし、ガラテヤの信徒は今やパウロの敵になってしまいました。なぜか。ユダヤ主義キリスト教の教師がガラテヤの信徒の中に入ってきて、パウロとの間を切り裂き、自分たちの見方にしようとしました。
その結果、ガラテヤの異邦人キリスト者との間に楔が打ち込まれ、パウロとは相反するようになりました。彼らの意図は不純です、パウロから引き離し、自分たちのほうの人数を増やすためです。
こうして、パウロからガラテヤの信徒は遠ざかりました。パウロはむろん初期の信仰を何とかして思い起こさせようとしています。福音を信じたときの信仰をもう一度思い起こすようにしています。
【はじめの信仰に立ち返れ】
ガラテヤの信徒は初期の信仰では物足りないと思ったのです。幼稚すぎ、単純だと思いました。もっともっと感覚的に充実したもの、あるいは知的にも、霊的にも高級な教説でなければならないと思い、おそらく禁欲的なものこそがそれだと思ったのでしょうか。しかし、そうすることでパウロに敵対してしまいます。はじめの信仰を忘れるな。パウロはこれを強調しようとしています。最初信じた福音に立ち戻るように願います。
パウロは彼とガラテヤの信徒の最初の出会いを思い起こさせようとするのはこのためです。パウロから伝えられた福音こそ宝物なのです。(おわり)
2014年06月15日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙
2014年6月8日説教 「神を知らずして]金田幸男牧師
L140608004.wav ←クリック説教が聴けます2014.6.8.説教「神を知らずして」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤ4:8―11
要旨
【福音の真理から逸れる】
ガラテヤの信徒はパウロがこの手紙で語っている福音の教理からはずれ、逸れて行きました。
彼らはかつてギリシヤの信仰と地元にある宗教の混合宗教の下で生きていたと想像されます。
【無宗教とか無信仰と言われるが】
生まれたときから、そのような宗教と結びつく慣習や習俗と関わってきたはずです。生まれたときに神殿に行き、そこで特別な儀式にあずかることがあったかもしれません。冠婚葬祭といわれていますような人生に節目ごと、その地方の祭りや習慣に参加していたことでしょう。知らず知らずの内にその地にある宗教生活に組み込まれていたと思われます。現在の日本人はこのような状態を無宗教とか無信仰と言います。しかし、日本人も不慮の事故で死んだ人の霊は現場にいつも留まっているからそこに花を供えたり、手を合わせたりします。全くの確信的な無心論者ならいざ知らず、たいていの人はいろいろな形の宗教や信心と関わって生きています。無宗教ではなく、特定の宗派に属さないだけのことです。
【まことの神を知らなかった】
ガラテヤのキリスト者もかつては土着の宗教の影響下にありました。このことをパウロはふたつの表現で表します。第一は、神を知らなかったと語ります。むろん、ガラテヤの人々が神など信じない無神論者、無宗教者であったというのではありません。れっきとした神々を信じていました。
けれども、パウロは神を知らない状態の内にあったと指摘しています。パウロにとって、それはまことの神、神という言葉に値する神ではないと言おうとしているのです。
人は神についていろいろな知識を持っています。宗教と政治を論じると延々と論じられます。伝道しているとそういう破目に陥ることがあります。人は神について論じるときりがなく語り続けます。普段無口な人が多弁になります。しかし、その神知識はその人の体験の集積、知識の寄せ集めである場合が多いのです。まことの神については何も知っていません。
神ご自身が自らを明らかにする啓示の書である聖書も知らず、読みもせず、また、その聖書からの告知にも目をそむけ、耳も塞いでいる状況では神を知りうるはずもありません。
ただ自分の経験や感覚だけで神を論じてもその神はそれぞれの人が作り上げたイメージでしかありませんし、そのような神観念は正しくはありません。聖書から謙虚に学ばなければ私たちは神を知ることがありません。
【神々の奴隷】
第二に、パウロは神ならぬ神々の奴隷であったと述べています。神ではない神々とは言葉の上で矛盾しているように思われます。実際自分たちが信奉している神々が神ではないなどと言われると腹を立てる人もいるのではないでしょうか。
パウロは神の子とされる前、つまり、キリスト者として洗礼を受け、子たる身分を与えられる以前、世を支配する諸霊に奴隷とされていたと語っています(4:3)。そこでは諸霊という語は神々と同じように用いられています。神々は、それ自体神的存在であり、また霊的存在であると言わなければなりません。
【諸霊:人間を超えた存在】
つまり、人間を超えた存在であるのです。霊それ自体は時間や空間を越えて存在するものです。また、人間の霊魂にも作用します。神々は霊的存在です。人間の理性を越えています。神々を奉じる宗教は単なる迷信とか人間の頭から出た創作などと片付けることはできません。それは宗教として機能を果しています。信徒に不思議なことを引き起こすこともあります。ご利益などとも言えるのですが、それは信徒の錯覚などではありません。諸宗教がさまざまな霊的な働きを担っていることを認めなければなりません。神々を信じている人々が霊的に下等な信仰者などということはできません。その宗教心の深さは並大抵のものではありません。
【罪を赦す神】
だからといって、その神々は、聖書においてご自身を現された神に等しく、力ある神的存在ではありません。パウロが「神ならぬ」神々というとき、まことの神には決して比較できないと語っているのです。イエス・キリストにあってご自身を現された神は何よりもキリストの十字架において、罪を赦す神です。私たちのためにただ一人子を犠牲にすることをあえて厭わない神です。
【私たちキリスト者の神】
また、死を打ち倒し、キリストをよみがえらせる神です。キリストにあって教会を建て上げ、今もその御座にあって世界を支配する神です。このような神に比肩する神はありません。全知全能、あらゆる物を支配するだけではなく、憐憫と恩恵をもって私たちを愛する神とガラテヤ人が信じていた神々とはあまりにも違いすぎます。
ガラテヤにキリスト者はかつてはそのような信心、信仰を生きていました。しかし、今では異なります。今は神を知っているのです(9)。以前には神的存在を知っていました。宗教的な雰囲気や環境に生きていました。けれども、かつての彼らの生きていた道は神を知らない道でした。
福音を聞き、キリストを信じ、神にしたがって生きるようになった結果どうなったのか。神を知ったのです。キリストにおいてご自身を現される神を信じたときに神を知りました。その以前も神的な存在やその威力を信じていました。混合宗教の下でそれなりに満たされていたかもしれません。けれども、まことの神に比べることが出来ません。
【神に知られている】
福音を信じたものは神を知っている、まことの神知識を持っています。卓越した知識です。パウロはこのあり方を神に知られていると言います。私たちのほうから知ったのではなく、神が私たちをまず認識してくださいました。選ばれたと言い換えてもいいでしょう。
【聖霊が私たちの内に住まう】
あるいは聖霊降臨日に相応しく、聖霊が私たちの内に働きかけてくださったとも言えます。聖霊は私たちの内に住まわれて私たちの心を刷新し、神を知るようにしてくださいました。
神を知る以前に、神は私たちの全てをご存知なのです。ガラテヤのキリスト者はこのように神の主導権で救いに導かれたのでした。それは神の大きな恩寵の結果です。
【諸霊のもとへの逆戻り】
ところが、ガラテヤのキリスト者は、パウロが語った福音を離れてしまいました。彼らは福音だけではなく、律法の行ないも救いに必要だというユダヤ主義キリスト教の教えに傾いてしまったのです。このような状態を諸霊のもとへの逆戻りだといいます。
日、月、時節、年などを守っている。これがガラテヤのキリスト者の現状でした。日は安息日など、月は新月、時節とは過ぎ越し、除酵祭など、年はヨベルの年を指していると見てよろしいでしょう。これらは要するにカレンダーを守っているということです。
ユダヤ教の実践のひとつはこのようなカレンダーの遵守がありました。厳格に特定の日を重視し、その日には付随した祭りや祭儀を行います。ここにはカレンダーのことしか書かれてありませんが、ユダヤ主義者が主張したものには、割礼の実行、食物規定の遵守(汚れた動物の肉を食しない)、(死体や特定の病気による)汚れの回避などがあったとも思われます。
おそらく、正義の重視などの道徳的な厳格さなどは後退してしまっていたかもしれません。善行、慈善なども挙げられていたかもしれません。とにかく、異邦人キリスト者もユダヤ人のような生活をしなければ救われない。このような慣習、実践は救いの要件であると主張するものがいたのです。
厳格な生活習慣は何か高度の宗教に進歩したというような感覚が生まれてきます。熱心や厳格な宗教的な修行などはそれ自体実行することで何かしら安心感を生み出すものです。
【ユダヤ主義キリスト者】
ユダヤ主義キリスト者は異邦人キリスト者にユダヤ人のようにならなければ救われないと教えたのです。なぜならユダヤ人こそ神に選ばれた最高の民族だからです。ユダヤ人は律法の規定を厳守することでユダヤ人としての誇りを確立しました。これらのありようは外見上ではかつての異教の習慣に戻ることではありません。それどころかより高度な宗教ヘに進歩とさえ考えられていたと思います。
【諸霊の奴隷】
パウロはこのようなガラテヤのキリスト者の状態を、もう一度諸霊の奴隷化と言います(9)。ガラテヤ人がその土着の信仰に生きていたときもこの諸霊の下にあったと言われました。しかし、ユダヤ主義キリスト教の傘下に入ってしまうこともまた諸霊のもとに逆行することだと言われます。
これらの律法の規定に従って生きていこうとすることは無力で頼りにならない諸霊のもとで奴隷的に生きることなのだとされます。律法の規定にしたがって生きていくとは所詮自分の力で生きていくことに他なりません。神の恵みではなく、律法を実践する意思、気力、熱心で生きていこうとすることです。そのような努力で生きていくことこそ諸霊の許での人生ということになってしまいます。
パウロのこのような教えは私たちとは関わりがないとはいえません。確かに私たちにとっては、ユダヤ主義キリスト教は縁遠いかもしれません。しかし、キリスト者にもその周囲に諸霊は生き、うごめいています。さまざまな神以外のものが人間を限りなく幸せにすると囁いています。
【科学や医学の進歩】
その代表的なものは、科学的知識や技術だと思います。科学の進歩は神を退け、神の位置に座してしまっています。科学技術が私たちの未来を開くと信じている人がいます。医学は無限に進歩すれば、あらゆる病気を駆逐するとも思っています。
お金もそうです。お金があれば人間は幸福になると確信している人がいます。このような思想がキリスト教会に入り込んできています。それはキリスト者となってまことの神をせっかく信じたのに、そして、神を知ったのに、再度また以前の霊的存在に支配されることになってしまいかねません。そういうことであってはならないのです。(おわり)
2014年06月08日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙
2014年6月1日説教「お父さんと呼ぶ霊を受ける」金田幸男牧師
L140601005.wav ←クリックで説教が聴けます
2014年6月1日説教「お父さんを呼ぶ霊を受ける」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章
1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。
3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。
4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
要旨
【モーセ律法は何のために与えられたか】
アブラハムは神を信じました。その信仰によってアブラハムは神から義と認められ、大きな祝福の約束を与えられました。その後約430年経ってモーセを通してイスラエルは神から律法を与えられます。このことは信仰によってのみ救われるという神の約束が変更されて新たに律法の行いによる救いが付加されたのでもなく、また、救いの道がふたつ並んだというのではありません。
それでは何のために律法が与えられたのか。パウロはふたつの律法の役割を語ります。
ひとつは罪の自覚を促すという役目です。律法に違反している事実を指摘します。もうひとつはたとえで言われますが養育掛のような役割です。
養育掛は多くの場合奴隷で、主人の命令通り子どもを厳しく躾けます。ときには鞭や棍棒を持って脅しながら主人の子弟の教育をします。律法それ自体は救いでも救いの道を提供するのでもなく、ただ脅迫しながらキリストに導いていくだけです。恐怖心を与え、絶望させてキリストしか救いがないということを明らかにします。
この子どもの比ゆを用いながら、さらにキリスト者の姿を言い表します。そのために当時の法律を援用します。ローマ法ではなく、ヘレニズム世界の法律であったそうですが、親は相続人のために遺言をします。それは相続人がある年齢に達したときに遺産を相続させるという遺言です。相続人である子どもは親が定めた年齢に達しなければその相続財産を手にすることができません。ある場合、社会的には成人と見なされる年齢でも、親が死んで直ちにその遺産を引き継げるのではなく、親は定めた年齢に達するまで後見人や財産管理人の監督下に置かれます。彼は相続の権利を持っていても親の遺言にある年齢になるまで奴隷と同じく無産者と同じ扱いを受けます。後見人や管理人が親の奴隷である場合もあって、その年齢に達するまではその奴隷の監督下に置かれる。なんとも不条理な話です。
【信仰以前の状態】
これが信仰の現われる以前の状態であったとパウロは明らかにします。つまり、キリストを信じて洗礼を受け、キリストを着るものとなる以前は権利があっても親の財産に指一本触れることができない子どものような有様であったというのです。しかし、キリストを信じ、キリストを愛し、キリストはとなったものはもう権利者でありながら無一物という惨めな状態ではありません。
パウロはこの状態を律法の下での束縛状態、自由の喪失した有様と語ってきましたが、3節では「世を支配する諸霊に奴隷として仕え」ると言います。
【諸霊】
この「諸霊」の解釈ですが、いくつかの理解があります。ひとつは当時のギリシヤ人の考え方で人間は肉体と精神=霊からなっている。肉体は劣等で、精神の支配下に置かれることが救済だという考えがありました。諸霊とはこの霊を指すというものです。しかし、ここでは単に肉体を支配する霊のことは何も言われていません。
第二はこの世界を構成する要素のこととされます。世界はこの要素に構成され、要素の運動や法則のもとで動いているとされます。しかし、ここでは、諸霊は8-9節から異邦人が仕えていた神々のことで、その神々は、「無力で頼りにならない支配する諸霊」と同義にされています。異邦人だけではなく、ユダヤ人にとってもキリストにおいてご自身を啓示される神ではなく、単なる神としてだけ崇め、律法の行いによって救いを勝ち取る相手としての神はやはり諸霊と同じです。なぜなら、その神は霊的存在と認められていてもまことの神とは言えず、したがって異邦人が信じる宗教の神々と同列なのです。
【現代人を支配する霊】
今日はこのような霊の存在は無視されています。そもそも神的な存在を頭から否定することが現代的だと考えられています。この世界は見えるものだけ、あるいは物質的なものだけしか存在せず、霊的なものなどないのだというのです。しかし、神とは言わなくても人間の精神を支配する霊的なものは存在します。例えば運命というものです。
これほど科学的なものしか信じない現代人があいも変わらず占いとかまじないの類に依存しています。また、お金という神が跋扈していて、まるで神のように振舞っています。マモンというお金の神が人間世界を支配し、それがあれば唯一人間に幸福をもたらすかのように信じられています。サタンという霊的存在は自分が存在しないと人間が語るとき大いに喜ぶと言われています。
霊的なものは一見して否定されているようで実は人間を今日も支配しているのです。パウロの時代の人々とよく似ています。私たちは科学的合理主義の時代に生きていますが、諸霊の支配という点では大きく変化したのではないと思われます。
私たちはキリストを信じるまでは相手が律法であろうと、異教宗教の神々であろうと、その下で奴隷状態でした。パウロの時代だけではなく、いつの時代も、キリストを心から救い主として信じない限り、この世界では、モーセ律法であれ、心の内に刻まれた良心という律法であろうとその下で閉じ込められ、聖霊とは全く異なる、ときには神々と呼ばれる霊のもとに置かれ続けます。
【キリスト来臨】
そのような状態はいつまでも続くのではありません。キリストは時が満ちてこられました。時の充満。時間は風船に吹き込まれるようにして膨らみ続け、ついに限界が着ます。そのようにしてキリストは来られました。キリストの来られるときは神が定められたときですが、その時は時間の充満が最高潮に達したときといえるでしょう。女から生まれさせるとは、ここでは処女降誕の教説ではなく、ただ一人の人間としてこの世に来られたと言うことを強調します。キリストは律法のもとに来た。まさしく一人の人間として、つまり、私たちと全く同じ人間性を採って、この世に来て、自ら律法のもとに置かれたのです。それは単にひとりの人間になったということに尽きるのではありません。律法の支配下にあるものをあがない出すためでした。ここではパウロは詳しく語っていませんが、明らかにキリストが律法のもとに置かれ、律法の呪いを一身に引き受け、十字架の上で死なれたことを指しています。そうすることでキリストは私たちをあがない出してくださいました。
【神の子】
この目的は私たちを神の子とするためであったとも記されます。十字架はただ身代わりの犠牲というだけではなく、また、私たちの罪の赦しということだけではなく、それと共に私たちを神の子とするためでした。キリストの十字架と私たちが子とされる恵みをここまで明確に記しているところはありません。
【アッバ、神は私たちの父】
私たちが神の子であるとすれば、神は私たちの父であってくださいます。その場合、イエス・キリストがそうされたように(マルコ14:36)、私たちも神をアッバということができます。
アッバとはアラム語でしかも幼児語の「お父ちゃん」という意味だといわれます。ちいさな子どもが使うこの言葉を神に使うとは革命的用法だと言っても過言ではありません。神はいと高く、はるかに偉大な神で本来近づきがたい方です。
ところがキリストは、この神をアッバと呼ばれたのです。アッバという語はこうして教会に保存されて行きました。今日ではあまり使われることがないようですが、教会では長くアーメンと共にこのアラム語が残されたのです。
アッバ、父よと神を呼ぶ、つまり祈るときそれは特別なことが起きています。アッバ、父よと呼ぶとき、それは御子の霊が与えられている証拠なのです。御子の霊とは御子によって私たちのところに遣わされる御霊のことです。御霊は私たちのうちで、神に、アッバ、父よと叫ばせてくださいます。
【わたしたちの祈り】
私たちは過酷な状態にしばしば置かれます。神から見捨てられたような有様になることも稀ではありません。悲劇に見舞われることもあります。思いがけない不幸に遭遇して絶望してしまうことも起こります。そのような時、私たちのできることが祈りしかありません。祈るしかないというとなんとも無力な様子と受け止められがちです。苦しんでいる人がいます。嘆いている人がいます。そういう人に向かってただ「お祈りしています」というと無情な響きがします。しかし、私たちがそのような人と共に、アッバ、父よ、憐れんでくださいと祈るときその祈りは空しい行為ではありません。
【御子の霊】
アッバ、父よと祈るとき、それは祈るものが神の子であることを示しています。神の御子の霊を授かっている証拠になります。アッバ、父よと祈る事実が何よりも私たちが御子の霊を持っている証拠であり、確証なのです。
御子の霊が授けられているものが神から見捨てられているはずがありません。これほど明確な証拠はありません。少なくとも私たちが祈れるということ自体、それが神の子としての大きな特権を与えられている証拠です。
【神の国の相続人】
神の子は天国を相続します。神によって立てられた相続人です。もはや私たちは後見人や管理人の下で何も持たない奴隷のような存在ではありません。すでに神の国を継承しています。かつて国を相続したのは王子だけでした。私たちはそのような王子のような存在です。これは光栄なことではないでしょうか。
2014年06月01日