2014.5.18.朝拝説教「神の愛」河内常男長老
2014.5.18.朝拝説教「神の愛」河内常男長老(音声メッセージはありません)
聖書:コリントの信徒への手紙一13章
1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(要旨)
信仰と希望と愛この3つはいつまでも残る。
今日は、特にここの愛についてみ言葉から学びたいと思います。
【わたしの若い頃】
もし、私にイエスさまを信じる信仰がなかったらどうであったかと思いますと、当時の私は20歳前後でしたが、おそろしいことであったと思います。信仰がなかったら、大変に恐ろしい自分の人生であったということが出来ます。
そのような私には毎日が、信仰はなく不信仰、希望ではなく絶望、愛ではなく憎しみと妬みの人生でありました。皆様は、それはちょっと言い過ぎではないだろうかと思われると思います。
昭和21年、私は台湾からの引揚者、とても貧しく、岡山県の津山の小学校2年生に転入しましたが、台湾とか、台湾人といじめられてとてもつらかったです。
台湾では戦争のためにほとんど学校には通えず、勉強は全くできずという状況でした。中学校、高校と劣等感を引きずった毎日でした。ですから学校の友達も出来ず、孤独でした。
親も大変苦労しました。父は小学校の校長でしたが、敗戦ですっかり自信を失って、また、復職という道もあったのですが、もう教師にはならんと商売を始めました。
うまくゆくはずもなく自転車で行商、夏はキャンデー、風船とか、駄菓子を売って回っておりました。母は、縫物をして生活を助けました。そのような両親の苦労を毎日見ていましたから、私の思いは、ともかく早く働いて親に楽をさせたいし、いやな津山を出て、大阪へ行き一生懸命働いて、お金を稼ぐこと、そうして私を馬鹿者にしていた連中を見返してやりたい、そういう思いでいっぱいでした。大阪へ行くことが夢でした。
就職してからは、自分でも良く働いたと思います。自慢話になりますが、私はまじめで忠実に良く働きました。骨身惜しまず、忠実に働きました。でも、職場では良く先輩たちと衝突しました。
あんまり、頑張るから嫌がらせを受けたり、喧嘩になったりしたこともありました。
そのころに私は、なにくそ、負けるものか、頑張るぞという何をやるにも、負けないと肩肘張った生き方でした。
しかし、職場で先輩や同僚とうまくゆかずそのような自分に嫌気がさして、どうすればよいのかと悩みました。
自分という人間は、自己中心でお金儲けのための人生、人にバカにされたくない、なめられてたまるかというゆがんだ闘争心がありました。戦争当時のつらさ引揚者としての貧しさとか、悲しみがずっと尾を引いていたと思います。台湾からの引揚船で亡くなる人も出て、葬儀もあり、死の怖さも体験しました。
【イエス様に出会う】
そのような中で、イエス様の福音に出会ったことは、本当に恵みです。主の憐れみとご愛を覚えるのです。子どもの頃日曜学校へ、5つ上の姉に連れられて、教会へ行ったのがきっかけでした。高校生の時に、洗礼を受けましたが、イエス様を信じることはどういう事か、イエス様の十字架と自分の罪との関係が、全くわかっていませんでした。就職してからは、ずっと教会から離れておりました。
【悔い改め】
伊丹教会では、若い林先生という方が歓迎して下さり、いろいろ相談に乗ってくださって、感謝でした。こうした牧師さんの温かい励ましをいただいて、導かれました。
真夜中に聖書を読んで涙ながらに、自分の罪が示されて心から悔い改めました。
その時、与えられた御言葉はローマ人への手紙 5章8節
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために、死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
津山の教会でも、牧師先生が説教などで読んで下さったり、教えてくださったのに、何一つ心の中には、み言葉は残っていませんでした。それが、今悔い改めてみて、初めてみ言葉が心に響いてきたのです。それは、今考えても不思議なことです。聖霊のお働きとしか思えません。
【罪について】
私は、愛というお言葉をお話しする前に、反対の対極的な悪、罪ということに、ついてお話ししたいと思います。
誰でもどなたでも一般的に私たちの周りの人々は、普段は、信仰を持っている人も、そうでない人も、親切ですし、事を荒立てることもなく、常識的で規則を守る生活を行っておられます。
でも、一旦重大な事柄、特に自分に不利益なことや、不当な言いがかりや、いわれもない厳しい批判にさらされますと、激しい怒りが込み上げてくるものです。
【心のどぶ川】
私たちの心は、どぶ川に例えることが出来ると思います。どぶ川も普段は、きれいに透き通って流れています。でも、とても厳しい言い争いになると、どぶ川に石を投げこんだように、下の方から怒りとか憎しみ妬みという罪が湧き上がってきます。
罪とは、一番の理由は、神から離れていること、神との正しい関係が損なわれて、的外れになっていることを言います。
そこから生ずるあらゆる、悪い思い、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他このたぐいです。(ガラテヤの信徒への手紙5章19)350P
【第1コリント13章4節~6節】
お話を聖書に戻します。もう一度読みます。
第1コリント13章4節~6節
「愛は忍耐つよい、愛は情け深い、ねたまない、愛は自慢せず、高ぶらない、
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかない、
不義を喜ばず、真実を喜ぶ、」ここまでは、特に難しいみ言葉ではないと思います。
【7節:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える】
でも、7節「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」、
注解書によれば、
すべてを忍びとは、我慢する、忍耐する、愛は簡単にあきらめたり、望みを捨て去ることはしない。放棄しない。駄目だと断言しない。放任しない。
全てを信じるとは、どのような困難なことがあっても信仰を失わない。
すべてを望みとは、どんなに苦しくても、困難でも、神に望みをかける、神にのみ信頼を置いて、失望、落胆しないことです。
すべてに耐えるとは、どのように絶望するような時にも忍耐し、望みを失わない。
すべてを信じるとか、すべてを望み、すべてに耐えるなんてことは出来ませんね。
表面的には、出来るかもしれません。しかし、イエス様は私たちの心の奥底まで見られます。どんなに繕っても、自分の心を偽ることは出来ません。
【愛の人になるには】
どうすれば、私たちは愛を持つことが出来るのでしょうか。
どうすれば、私たちは愛の人になることが出来るのでしょうか。神の愛の律法を少しずつでも身に着けることが出来るでしょうか。
イエス様は、私たちに出来ないことを、無理やり押し付けておられるのでしょうか。
その点、イエスさまのお教えは、信じなさい。ただイエスを信じるだけで良いとおっしゃいます。なんと、簡単なことでしょう。でも、これが又難しいことです。
【イエス様の衣に触れる】
そのような私たちにイエス様は、特別な衣を用意してくださいました。
マタイ福音書14章34~36)29P
「こうして、一行は湖をわたり、ゲネサレトという土地についた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで人々は、病人を皆イエスのところに連れてきて、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れたものは皆癒された。」
人々は、イエスがユダヤのいろいろなところで、福音を伝え、病人を癒されておられることを伝え聞いていました。ですから、この地へ来られたから、こぞって癒されることを願って、押し寄せてきたのでしょう。彼らは、イエスに触れさえすれば、病がいやされることを信じて触ろうとしたのです。
体でなければ、服のすそにでも触れさせてほしいと願ったのです。彼らは、このお方に触れさえすれば直していただけると、信仰によって触れたのです。触れた者は皆癒されたとあります。また、ルカ8:4312年間も長血を患っていた女の人がイエスの服に触れて、いやされた記事もあります。
【イエス様が与えてくださる白い衣】
ヨハネの黙示録3章18(456P)
「そこであなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金を私から買うが良い。
裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うが良い。」
白い衣とは、イエス様が用意して下さる、義の衣です。義とは神の正しさです。
イエスの衣を身にまとえば、私たちは日ごとに新しくされます。生まれ変わることが出来ます。信仰の素晴らしさは、ここにあります。
難行や苦行をして、絶食をしたり、座禅を組んだりする必要はありません。
【新しい歩みを始める】
イエスのご愛に触れた私たちは、日ごとに新しい歩みを始めることが出来るようになります。イエス様が用意して下さる衣を身にまとうことです。
愛のない自分にも衣を用意してくださいました。絶望と憎しみのわたしでしたが、衣を頂く良き贈り物を頂くことが来ました。
【クリスチャンに与えられる恵み】
クリスチャンになって何が素晴らしいか。いろいろあります。
一番は天国へ行けるという大きな望みがあります。
【この世における恵み:愛の実践】
でもこの世もご利益があります。新しい衣は、義の衣、神の正しさを意味しますが。神の愛を実践できるように導いてくださいます。聖霊の神様が私たちの内で働いて下さるからです。少しずつですが、パウロのような使徒を真似てゆくことが大切です。
クリスチャンは真似てゆくことが、大切です。あのようなクリスチャンになりたいと、真似ることも良いと思います。悪い所は別ですが。
イエスを真似てゆく、パウロもその必要性を述べています。
【罪のとげ】
義の衣の素晴らしさは、私たちの罪をおおって下さることです。私たちの罪は、表現は悪いかもしれませんが、体中から出ているとげのようです。普段は、とげは体の中にしまってありますが、一旦、憎しみとか、悪い思いが大きくなると、とげが体中から、飛び出してくるようです。でも、イエスの衣を着た私たちは、もうとげは体から出ないのです。出ても、少しだけです。相手を傷つけることは、以前のようではありません。
【私たちの信仰の歩みと悔い改め】
私たちの信仰の歩みは、洗礼を受けてからすぐに完成するわけではありません。時間がかかるものです。でも、教会生活を通して次第に、成長してゆくものです。
信仰生活の中で失敗は必ずといってあるものです。それはまた、私たちを悔い改めに導いてくださることにもなります。実際、悔い改めなしに、信仰は成り立ちません。御言葉の理解には、どうしても悔い改めが必須条件です。悔い改めがあれば、私たちの心の内に、聖霊の神様が働きかけてくださいます。悔い改めることによって、神様は祝福してくださいます。義の衣をもう1枚着せてくださいます。
【自分の罪を言い表す】
私は、大分前の事ですが、あるお名前も忘れましたが、ある牧師さんと、信徒のかたを訪問したことを覚えています。何か、人間関係の問題があったのだと思いますが、教会に来なくなった姉妹のおうちでした。しばらくお話しをしました。最後に牧師さんが、私が祈りますから、あなたも同じ言葉で私の後に続けて祈ってくださいとおっしゃいました。牧師さんが天の父なる神様とお祈りを始められます。姉妹も同じように天の父なる神様と同じ言葉を話されます。最後の方でしたか、どうか、私の罪を赦して下さいと牧師さんがお祈りをしたとき、どっと姉妹は泣き出してしまわれました。私も、熱いものがこみあげてきましたが、こうして正直に自分の罪を言い表すことの素晴らしさとか恵みなど、聖霊が働いて下さることを、実感しました。
【知恵の衣】
義の衣は、また知恵の衣であると思います。怒りとか憎しみを爆発させることは、決して得にはならないことが、判ってくるからです。失敗もありますけれど、だんだんと賢い知恵を頂けると思います。感情が、爆発すれば、それは悪魔の思うつぼです。
イエスさまを信じたから、すべての人間関係がうまくゆくということではありません。
やはり、クリスチャンとなっても、クリスチャン同志でも、誰とでもうまく人間関係が出来るという簡単なものではありません。苦手な方もおられるのです。でも、神様は本当に良くされます。合わない相性の悪い人とお付き合いをすればするほど、また、こちらも恵まれるからです。
丁度、自分と相手の間に、クッションのようにイエス様が入って下さるようです。同じ、クリスチャンですから、いろいろ気まずいことがあっても、許しあえることが出来ることは、大きな利得です。
【平安】
イエスを信じるようにされた私たちには、まだお得なことがあります。それは、義の衣を頂いた者への恵みです。イエスという衣をまとって寝る時には、とても感謝な思いで休息が与えられるのです。
もし、妬みや憎しみや怒りを持ったままで、床に就かなければならないとすると、その人は、みじめな夜です。平安の内に身を横たえることが出来ることは幸いなことです。
【罪を犯しても】
ダビデ王は偉大な王でしたが、大変な失敗もしてしまった不幸な王です。
彼は「平和の内に身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、たしかに、私をここに住まわせて下さるのです。」詩編4篇9(837P)
ダビデは王となってからも、敵対者から命を狙われることや、戦いをしかけられたり、自分の部下でさえ思うようにならないことがありました。
私たちには判らない、王としての悩み、苦しみ罪があった思います。そのような中で、夜平安の内に休息を与えられることは大きな慰めです。
【心に受けた傷も癒される】
クリスチャンになってさらにお得なことがあります。
それは、自分に対して中傷や、悪口や、嫌な思いを受けてもいつまでも、根に持たぬようになれるということです。
信仰によって、そのような悪い思いは、だんだんと忘れてしまうことが出来るということです。いつまでも、昔の嫌な思い出とか、心に受けた傷というものは、自分の心に残るものです。
【良心が疼くときも】
また、逆に自分が人々に、与えた悪ということも、心に傷となって申し訳ない、済まないことをしたという思いが、残るものです。自分が、されても、しても悪いことは、自分の良心を傷つけます。良心は神様が誰にでもお与えくださる、恵みです。
話が横へそれますが、今ガラテヤ信徒の手紙を朝の礼拝で学んでいます。神様は、私たちに律法という掟をお与えになりました。しかし、律法以前に、どの人にでも、神様は人としての良心をお与えになられました。律法を知らない私たち日本人だけでなく、全ての人に、良心という掟が与えられているのです。ですから、親を敬うとか、盗んではいけない、殺してはいけない、という気持ちが皆に与えられています。
【神様の律法の素晴らしさ】
しかし、神様の律法の素晴らしさは、一般の良心とは同じようでも、全く次元が違います。
まず、神様を愛する、隣人を愛する、これは、クリスチャンでなければ、判らないし与えられない掟です。これに照らして自分が、どのような者かわかってくるのです。
【イエス様に委ねられる恵】
クリスチャンになって素晴らしいご利益は、すべてをイエス様にゆだねることが出来る幸いということです。苦しみや、悩み、試練、恐れ不安、神を信じようとしても信じられない罪、隣人どころか、最も近い自分の家族さえ愛することの出来ない自分の愛のなさ、自己中心、いつも自分が大切にされないと腹立たしいとか、数えきれないほどの罪を覚えます。
これらを皆イエスに委ねることが出来るから、平安が与えられます。憎しみを忘れることが出来ます。クリスチャンは、昔の忌まわしい思いを捨てて、新しくされて、イエス様に向かって毎日、日々に新しい歩みを始まることが出来るのです。なんと幸いなことでしょうか。
もし、すべての人が、過ぎ去った嫌な思い出とか、憎しみなどから解放されて、どの隣人とでも新しい気持ち、相手を愛する気持ちで、良い関係で働こう、相手を労わる気持ちで相手を大切にしようと、今日も1日を励むならば、少しずつ私たちはキリストに似たものとされてゆくのです。
【最後に】
私は神を愛することと隣人を愛すること、この掟は、第1に罪人の自分を愛して許して下さったから、それで神を愛することが出来ると思います。
第2に、神の愛に感謝して、悔い改めの生活が出来るようにされます。そして神様からの平安が与えられるようになります。
第3に 自分が愛されたように隣人を愛せるように、導かれて行きます
真に少しずつではありますが、変えられてゆくことの恵みを味わいたいと思います。(おわり)
2014年05月19日
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1012
コメントする