2014年4月20日復活祭メッセージ「命は死に勝利する」金田幸男牧師
2014年4月20日復活祭メッセージ「命は死に勝利する」金田幸男牧師
聖書:ヨハネによる福音書1章
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2
この言は、初めに神と共にあった。
3
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
(説教要旨)
【死ぬのは怖いか】
かつて、わたしは親しいものに「死ぬのは怖いか」と尋ねたことがありました。そのときの答えは「怖い」でした。わたしはそのとき「死ぬことなんて怖くないよ」と言えませんでした。どうして言えなかったのかと後悔しています。
死が恐ろしいと言う人もいますが、死など全然怖くないと言う人もいます。人の心の中を探り知ることができません。ただ神だけができることですから、口では怖くないと言っていても本当は恐怖しているかもしれません。日ごろは死など怖くないと言っている人が死に直面して恐怖心に襲われてパニックに陥ることもありえます。
わたし自身、今「死が怖いか」と自問するとき、怖くないかもしれないと言えるだろうと思います。それは牧師として何人かの信徒の臨終に立ち会いましたが、安らかに死を迎える人が多かったと感じます。人が死ぬ瞬間はろうそくの火がすっと消えるように穏やかでした。むろん、そうではない場合も多いと思いますが。
【私自身の臨死体験】
わたし自身、4年ほどまえ小腸管出血を経験しました。丁度かかりつけの医院で大出血しました。かかりつけのドクターは、あまりの出血と血圧低下でこれはもうだめかもしれないと思われたそうです。あとでドクターがそのように言われました。わたし自身はそのときは意識を失っていて、何が起きていたのか知らないまま、痛みもなく、何も知らないまま死んでいただろうと思います。死の恐怖ないままに死を迎えていたことだろうと思うのです。
【最近の若い人は?】
最近の若い人と話をしていて、死をあまり恐れていないのではないだろうかと思うようになりました。死は一切の終わりと考えていて、死ねばそれで終わり、何も怖がることはないと思っているのです。
【昔の人は死後の世界を教えられた】
昔は、人はたいてい死後のことを教えられていました。死後、人間は必ず苦しい目にある、例えば、死んだ後、燃えさかる火の中を歩まなければならないとか、生きていたときの行動について裁かれなければならないとか、死ねば幽霊になってさ迷うとか・・・こういう死後のことを考えて死を恐れていたのかもしれません。死後のことをもはや作り話としてしか聞かず、死が一切の終わりと思うのです。むろん、強がりで死など怖くないと言っているだけかもしれません。
【死の苦しみと緩和ケア】
最近、がんで死ぬ人は多かったのですが、がんと言う病気の最後は激痛との戦いになっていました。もだえ苦しみながら死ぬ。それは恐ろしいことです。しかし、最近は緩和ケアで、痛みはコントロールされて、かつてのようにもだえ苦しむと言うようなことがなくなってきています。だから死も怖くはないといえるようになってきたのかもしれません。
死は本当に怖くなくなったのでしょうか。わたし自身、死そのものは恐ろしくなくなってきているとはいえ、本当に死の問題は解決したのかと言うと全く正反対に死がもたらす結果は決して軽くなってきているのではないと思います。
【肉親の死】
わたしは12歳の春、母親を亡くしましたが、そのときの悲哀は今も消え去ることがありません。もう50年以上も前のことですが、わたしの脳裏には今も鮮明にそのときの情景を思い出します。今も思い出すと悲しく、辛さがよみがえってきます。12歳の少年のときの、わたしの姿を思うときの哀れさを思い起こします。
死がもたらす悲しみ、心の傷は深刻で痛ましいものです。程度の差はありましょうし、悲しみの度合いはそれぞれに異なります。特に親しいものの死は一言で言えば「誰がこの悲しみを分かるのか。分かるものか」ということではないでしょうか。なまじ慰めなどと言うと「この悲しみは誰が分かるか」と反発を食らいます。親が子を失う悲しみ、それは激しく大きなものです。子が親を失う。これも悲しいものです。どちらが深刻などとはいえないでしょう。
【時代が変わっても死別の悲しみは変らない】
死がもたらす死別は、死別を味わうものに大きなダメージを与えます。それは喪失感と言ってもよいものかもしれません。決して取り戻すことができないものを失う。そのときの喪失感は何によっても補うことができません。何かを失うとき、私たちは惜しいと思いますが、愛するものを失ったときの惜別の思いは心に深く突き刺さり、激痛を催します。死がもたらす悲しみはこの死別でしょう。
死別の悲しみは時代がいくら変化しても変わりません。何世代を経ても、この死がもたらす悲しみは決して軽くなったわけでもないし、それを癒す術も有効になったのではないでしょう。いえむしろ、時代が下っても死がもたらす悲しみの深刻さは変わらないと思います。
わたしは何度か葬儀の司式をいたしました。その中には子どもの葬儀もありました。なぜ、将来もある子どもが死ななければならないのか、私は悲しみと共に怒りに似た感情を経験しました。子どもだけではありません。なぜ人は死ななければならないのか。不条理を感じます。誰からも惜しまれつつ死んでいく人、なぜ急に死んだのか。
たいていの人はこの解決を運命に委ねます。死は寿命であり、避けがたく、従って、避けられない運命、その人の定めなのだとします。そして、仕方がない、どうしようもないと言って諦めます。
【諦め】
ちなみに、諦めとは「ものごとの理由や原因を探って明らかにすること」とされます。なぜ人は死ななければならないのかの理由を明確にするとき、私たちは諦められるはずです。ところが諦めはそういう意味に使われていません。理由など分からない、分かるはずもないとして、それ以上考えることを断念することを「諦める」と言っているように思います。運命として諦める、これが多くの人の問題処理の仕方ではないでしょうか。
【神が召される】
キリスト教的に言えば「神が取り去られる」とか「神が召される」と言います。神が一切をご存知であり、神が運命を決められ、定められてように、定められたときに神は召す。このような表現で私たちは満足できるわけではありません。こうして、神を恨むことになります。ある人は神が与え、神が取り去られる、それですべてだと考えて納得しようとする人もいます。でもそんな人ばかりではありません。人に死をもたらすものが神だとすればそんな神は信じられない、神を恨むと言い切るのです。
【罪の支払う報酬は死】
聖書は人間の死を単に神の気まぐれに帰することはありません。聖書は何故死がもたらされるのかという点に対して、それは罪の結果であるといいます。ローマ6:23「罪の支払う報酬は死です」と明確に語っています。神が面白半分に好き勝手なことができるから、気ままに死をもたらすのではないのです。神は勝手にある人を取り去り、他の人にはそういうことをしないというわけではありません。それは罪を原因としてやってくるのです。
【罪とは】
罪とはこれも聖書が明白に語ります。1ヨハネ3:4「罪とは(律)法にそむくことです」律法は神の言葉です。罪とは神の言葉に背くことだと言えます。罪の結果が死です。これは聖書の語るところです。
【罪が人間に死をもたらす】
人は何故死ぬのか、それは神のせいでもありません。また単なる運命でもありません。それは避けがたいのですが、人間の罪がもたらすのだと聖書は語ります。この場合、特定の罪に対してそれ相応の死があるというのではありません。人が死ぬのは何か特定の罪が犯されたからではありません。ですから不幸な死を遂げた人が何か重大な罪を犯したからではありません。人間の中にある罪の全体がここで考えられます。人間の特性と言ってもいいかもしれません。誰もがこの罪を持っています、神に背を向ける傾向のある人は全て罪人です。
【神の遺棄】
この罪が人間に死をもたらしました。私たちは罪を犯します。罪など犯したことがないと言える人はいません。誰も意識して、あるいは意識しないで神に背いています。神の掟に犯しています。罪は神の遺棄を招きます。そして、そこにこそ死があるのです。神から捨てられるところに死があります。
【キリストは私たちの罪を背負って十字架に】
死の問題は罪がある限り解決しません。そうすれば私たちは絶望するだけなのでしょうか。キリストは私たちの罪を一切背負って十字架につかれました。これがキリスト教の根本の教えです。キリストは十字架で私たちの罪を引き受けられました。そして死んだのです。それからキリストは死に勝利するためによみがえられました。キリストは復活していのちの主となり、死を克服し、死に勝利されました。
【キリストの十字架と復活を信じて生きる】
キリストの死と復活はわたしたちの罪の問題を解決するものでありました。これを信じるものにキリストはその命を約束されました。私たちはキリストの十字架と復活を信じて、私たちも生きることを信じるようになりました。この信仰に全ての人が招かれます。
【死は栄光の御国への門出】
しかしながらなお、私たちはこの世で死の悲しみを回避することができません。死の悲しみはいっそう厳しくなっています。どういうことなのでしょうか。確かに私たちは生きている間に、問題を全て解決されたのではありませんが、私たちの死のとき、その死は栄光の御国への門出となります。私たちはそのことを望みます。私たちにはこの世にあってなお死の悲しみを味わうのですが、それでも死は終わりではなく、死の向こうを希望することができます。だからこそ死に真剣に希望をもって直面することができるのだと思います。死はそれで一切の終わりではなく、キリストと共に生きるはじめなのですから。(おわり)
2014年04月21日
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