2014年4月6日説教「信仰によって生きる人」金田幸男牧師

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2014年4月6日説教「信仰によって生きる人」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章5-7

5 あなたがたに"霊"を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。

 

(要旨)

【驚くべき経験】

パウロは信仰によってだけ人は義と認められるのであって、律法の行いによるのではないと語りますが、その立証のためにガラテヤの信徒たちの驚くべき経験に訴えます。

ガラテヤ教会の人々がキリスト教に入信したとき、霊を授けられ、奇跡が行われたのでした。

 

(4節あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに......。)

驚くべき経験とはキリスト者になったときの、ガラテヤのキリスト者が受けた迫害を意味しているととる解釈もあります。

異邦人がキリスト者になると、多神教の神々が信奉されている社会では奇異と見られ、社会的に異端視されました。またローマ政府は公認されていない宗教団体を秘密結社と見なし、取締りの対象としました。

このため、ガラテヤに成立したキリスト教会は初めから圧迫下におかれていました。キリスト者になることは有形無形の困難を引き受ける道をたどることになります。

 

ガラテヤのキリスト者の大きな体験とは何か意見が分かれるところですが、5節を素直に読めば、キリスト者になったときの、驚くべき体験をしていて、それは聖霊を受け、奇跡を目撃するような事柄であったと推測できます。それは初期キリスト教会で生じた特異な出来事とすることができるかもしれません。異言を語り、あるいは幻視のような不思議な体験を伴ったのかもしれません。

 

【奇跡、それは聖霊の働き】

そうであれば、その経験は今日では普遍化することができません。でも、全く無縁な出来事とは言えないとも思われます。私たちが信仰を持ち、神の言葉を理解することができるようになるのは奇跡的であり、それは聖霊の働きでなくて何でしょうか。

 

ガラテヤの人々と同じく、私たちも聖霊の特別な扱いを期待できるし、また聖霊は働かれるのです。信仰を持ったその当初、聖霊を受けた。

 

【偽教師】

だが、律法の行ないに腐心したとき、聖霊は降ったかとパウロは問います。そんなことは起こりません。

それなのに、ガラテヤのキリスト者は律法の行いがなければ救われないと主張するパウロの反対者、「偽」教師の言葉に惑わされたのです。

パウロの敵対者は異邦人キリスト者にも割礼を求め、そのほかのさまざまな規定の実行を求め、救いは行いを要すると主張したに違いありません。

 

【ギリシヤ文化の禁欲主義】

当時のギリシヤ文化の世界では、禁欲が重視されていました。肉体は汚れている、精神がその肉体の牢獄から解放されることこそ救済であるとされました。このような文化的背景の下で、ガラテヤのキリスト教信者は、パウロの反対者のいうことをいとも簡単に聞き入れてしまったのです。

 

パウロの反対者である「ユダヤ主義者」の主張とギリシヤ人が持っている禁欲主義への好みが一致します。ユダヤ主義者の言うことがキリスト教の完成と思われたのでした。

 

パウロは断固として言います。人は律法の行いではなく、信仰によって救われる。ガラテヤの信者たちが信じたときに大きな体験をしたのは、その真理を神が是認された結果なのだ。これがパウロの立証でした。

 

【アブラハムの選び】

そして、さらに第2の証拠を持ち出してきます。パウロは聖書からそれを証明しようとします。聖書に登場するアブラハムの場合はどうなのか。

 

聖書からの話では異邦人は理解しにくかったと推量されるかもしれませんが、当時、ヘブライ語の(旧約)聖書はギリシヤ語に翻訳されていました。初期キリスト教会はこの翻訳された旧約聖書をとても大事にしていました。キリスト教会は、聖書、この場合、旧約聖書のことですが、これを重視していました。キリスト教会はその出発点から旧約聖書を重視し、さらにそれをよく理解していたのです。ですから、ガラテヤのキリスト者も旧約聖書を熟知していたと考えてよいと思います。アブラハムは旧約聖書の中で大変重要な人物です。異邦人キリスト者もそのことを充分承知していました。

神はアブラハムに至って彼を選び出し、彼と契約を結び、救いの恵みに入れられます。アブラハム以前にも信仰の人はいましたし、敬虔な人もいましたが、アブラハムにおいて、神の救いへの選びの御心が明瞭に示されます。

アブラハムにおいて、贖いの歴史(神の救いの歴史)が明確になります。神はアブラハムにおいて、罪からの救済を明確にされ、ただ信仰によって救われると言う恵みの契約を明らかにされます。

 

【アブラハムの信仰とは】

そのアブラハムにおいて何が起きたのか。創世記15章6節をパウロは引用します。アブラハムの信仰とはどんな信仰であったのでしょうか。

まだ子どもがないアブラハムに対して神は、あなたの子孫は天の星のようになると約束されます。まだ子どもがないのにも関わらず、神はアブラハムに約束を与えられました。アブラハムはただ神の約束の言葉を信じました。それが彼の義とされた。

 

パウロはアブラハムの例を挙げて、信仰による義こそが真実であると論証したのです。決して律法の行いによるのではない。パウロは聖書から、つまり聖書の偉大な人物からその教理を立証します。聖書に通じている人はパウロの教えを受け入れるはずです。むろん、そうはなりませんが。

アブラハムの子らになるとは、神から特別な恵みをいただく方法でした。どうすれば、この神の恵みをいただけるのか。異邦人キリスト者にも重大な問いかけです。

どうすればアブラハムに起きたことと同じ神の絶大な祝福にあずかれるのか。アブラハムに起きたことはアブラハムの子らにも起きるのです。

 

【パウロの敵対者】

むろん、パウロの敵対者も聖書を用いたはずです。アブラハムはどうして祝福を受けたのか。行いによって救われたのだと主張をしたはずです。

 

アブラハムというと直ぐに私たちは行き先も知らないで、故郷ウルを去っていった行動を思い起こします(創世記1:31、使徒7:2-4、ヘブライ11:8)。あるいは甥のロトによい土地を譲って自分は困難な方向を選んだ決断(創世記13:5-9)、そして、老いて与えられた一人っ子のイサクをささげよと命じられたとき、そのとおりにした壮絶な姿を思い起こします。

また、彼は神との契約を結ばれたとき、一族全員に割礼を実施します。このような一連の英雄的な行動を挙げて、だから、アブラハムはその行動によって神から義人と認められたのであって、アブラハムの子となるためにはアブラハムのようにならなければならないとか、アブラハムのように行動しなければならないと教えるものがいたはずです。

 

アブラハムの子となるためにはアブラハムと同じ行動が必要である。これがパウロの反対者の言い分であったと思います。アブラハムのように、神に対して、禁欲的であり、厳しい行動を伴う立派さが必要だと言っていたのです。

 

このようなパウロの反対者の言い分に対して、私たちは迷わされるかもしれません。パウロも聖書を根拠にして主張をします。アブラハムはただ神を信じて義と認められた。パウロはこのことを強調します(ローマ4:1-3、13)。敵対者も聖書を挙げ、アブラハムを引き合いに出します。どちらも聖書を持ち出しますと、聞いているものは迷ってしまうからです。

結局は聖書の解釈に違いかと。人は信仰によってだけ救われるのか、それとも、律法の行ないも必要なのか。キリストを信じているだけではいけないのであって、割礼なしに人は救われないのか。真っ向から対立する信仰にもかかわらず、どちらも聖書を引き合いに出すのでは聞いているものは混乱します。

 

【真実はひとつ】

これは聖書解釈の違いではありません。真実はひとつだけです。

アブラハムの行動を模倣することが救いなのでしょうか。それはときには信仰的であるとすら思わされます。行く先も知らないでただ故郷を出発したアブラハムの行動を真似ようとするとそれは英雄的な決断が必要です。

ともすればキリスト教徒はそのような英雄的な決心に基づいて行動することだと主張する人がいます。アブラハムは自分の子どもを神にささげようとしました。キリスト教徒はそのように全てを投げ打って、何もかも捨てなければ本物にならないと言われます。

キリスト教信仰をこのような冒険的な、あるいは、英雄的、殉教者的、世捨て人的な生き方であるとすると、そのような信仰は所詮人間の必死の努力に救いはかかっているのだということになります。人間の最高の努力と決意がなければ救われないということになってしまいます。

 

それが信仰なのであれば少数のエリートというか、禁欲的、自制的な特別な人だけが救われることになります。キリスト教をそのような立場とすると所詮キリスト教は自律的な宗教となります。自己の手で救いを達成できるとする考えにもなります。

 

【ただ神を信じ】

パウロが否定したのはその立場でした。アブラハムが出立したのは、単なる冒険ではありません。まるで賭けをするかのように行動したのではありません。将来のことはどうにでもなれと自暴自棄になって決断したのではありません。アブラハムはただ神を信頼して出発したのです。イサクをささげるときでも神が最善のことをしてくださると言う信頼を失わなかったのです(ヘブライ11:19)。神が返してくださると言う信仰を持ってイサクをささげた。とことんまで神を信じてイサクをささげようとしたのです。まだ子どももないのに、天の星のように子孫は増え広がると約束されたとき、人間的には全くは可能でありましたが、それでも恵みの神を信じて疑わなかったのです。このように神を信じたのがアブラハムでした。

 

私たちは英雄的な行動や決断でアブラハムについていこうとすればとてもできません。アブラハムのように行動しなければ、ということは結局見かけだけでもアブラハムに倣うということになってしまいます。それでは誰もついていけません。私たちはアブラハムの信仰に倣うのです。(おわり)

2014年04月06日

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