2014年4月

2014年4月27日説教 「呪縛からの解放」金田幸男牧師

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2014年4月27日説教「呪縛からの解放」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章12-14

12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした。

 

要旨 

【律法の定めによって生きる】

パウロは旧約聖書を何度も引用しています。

12節「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」は、レビ記18:5の引用です。新共同訳聖書ではレビ18:5は「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行なう人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」とあって、この方がズバリ意味するところは明白です。

 

「律法を守れば永遠の命が与えられる」。だから、一所懸命になって律法を守らなければならないという結論が出てきて、それをそのまま受け入れられ、何とか律法を守ろうとする人も出てきます。

 

実際ユダヤ人、特にキリスト時代のファリサイ派は律法の掟を厳格に守ろうとしました。若いころのパウロもその一人でした。

 

【律法は、信仰をよりどころとしていません】

パウロはそのような聖書の読み方の誤りに気づきます。「律法は信仰をよりどころにしていません」。律法によって救い、永遠の命を獲得する道と信仰によって救いを得る道は全然違うのだという真実を見出したのです。救いに至る方法として律法と信仰は両立しないのです。

 

律法によって救いを獲得しようとする人は徹底的に律法を遵守しなければなりません。しかし、パウロはこのように語り、その不可能性を明らかにします。

 

「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らないものは皆、呪われている」(10節)。これは申命記27:26の引用ですが、「絶えず」と言われます。起きているときも眠っているときも律法を守らなければなりません。パウロはこのみ言葉によって自己吟味を求めます。実際にパウロはそれを実行した人物です。たいていの人は中途半端にしか自己評価しません。

 

【神は全てをご存知です】

残酷な行為をする夢を見ます。夢の中で淫らな思いにふけります。夢は無意識の中で見るものです。しかし、神は私たちの夢の中もご存知です。口には出さないけれども、腹の中で罵ったり、嘲ったりします。誰も知らないわけですが、神は心の中をご存知です。誰も人が見ていなければ恥ずかしいことも平気でやります。誰も非難しません。しかし、神は全てをご存知です。全て律法違反であって、神に呪われるに値します。

 

私たち自身は自己弁護に終始します。たまたまそうなったのだと偶然のせいにします。仕方がなかったのだと責任を放棄します。少しくらい構わないではないかと居直ります。私たちは誰でも罪の重大さを認めないことに長けています。律法は明白に罪過を明らかにします。律法の定めにそぐわないならばその人は神に呪われている。

 

パウロはかつてファリサイ派であって、人並み以上に律法に熱心でした。神と人に正しい人間であると評価されたいと思っていました。そのパウロが律法の所に記されていることを絶えず、全て守らなければ呪われるというのです。誰も神の前では誇ることができない。それどころか絶えず律法に逆らっている。これがパウロの実感でした。

 

【自分に正直とは】

パウロほど自分に誠実で正直な人はいません。自分に正直という表現はしばしば誤解されています。あるがままの自分でいいのだという居直りを自分に正直と言っているだけです。自分に正直とは真摯な自己批判のことです。パウロは自分自身を評価するときに、律法に完全に一致していない自己を見つけたのでした。誰も律法をことごとく守れないのです。

 

 他の人がどう見ようともそれに関わりなく、神の前で自分を判断しなければなりません。パウロはあるときそれに気づきます。それまで律法を完全に守ろうとし、守らなければならないと思っていました。パウロは神の前で自分自身を裸にして、どれほど神から離れているか気がついたのです。神の前で恥ずべき自分を発見したのです。神の前で絶えず律法を守っていなければ律法違反者であり、神に呪われるのです。

 

【律法違反者は神に呪われる】

「呪われている」と言われています。神の呪いとは不快を催す言葉です。躓きを感じる人もいるでしょう。

 

神に呪われているとは、不幸な目にあうこと、例えば愛するものとの死別、事業の失敗、病苦などに見舞われると、自分は呪われているとします。不幸は、ときどき連続してやってきます。不思議に不幸は繰り返され、積み重なります。運命に呪われているとか、神に呪われていると叫ぶ人もいます。

 

呪いという言葉はおどろおどろしいのですが、不運な経験をしますと、自分は呪われているとか、自分の家は呪われているとか・・・そして、そこにつけ込んで、何かの宗教に勧誘されたりします。不運の連鎖を切断する効果のある信心があると言うのです。厄払いとか、何かの呪詛で呪いを消し去ることができると言われるとそのような教えに傾いてしまうのです。

 

【呪いとは】

 呪いはそのようなものではありません。呪とは神に捨てられることです。神に遺棄され、見捨てられ、厳しいさばきを受けることです。永遠の滅びに投げ込まれることです。これがさばきです。

 

 このようなことを言いますと、そんなことは作り話、フィクションだとします。神のさばきだといってもそんなものはあるはずがないと反論します。不快感を示します。人間を怖がらせる創作だともいいます。別段深刻に考えません。むしろ、先に挙げた不幸や不運を呪いとしてしまうのです。神のさばきなど無視しながら、人間を襲う不幸に怖れます。

 

 【木にかけられるものは皆、呪われている】

不幸なことや不運なこと以上に、神のさばきのほうが深刻です。何故そんなことが言えるのでしょうか。13節に「キリストはわたしたちのために(「わたしたちに代わって」と訳すべきです)、呪いとなって(呪われたものとなって)」とあります。そして、申命記21:23を引用します。「木にかけられるものは皆、呪われている」

 

申命記の記された時代には十字架刑はありませんでしたが、パウロはこの申命記の文章とキリストの十字架を結び付けました。申命記では、神に呪われていると見なされたものの死体を木の上で曝し、見せしめとしたことを指しています。神に呪われたもの、それは犯罪人だけに限られていませんでしたが、たいていの場合、神に罪を犯し、神から罰せられたと思われるものと考えられたのです。

 

十字架刑はローマ帝国では、身分の卑しい出の犯罪人の処刑方法でした。また政治犯に対しても行なわれました。それは極刑でした。ちなみにローマ人は、処刑方法にもランクをつけていたのです。

一番高貴な処刑法は自死です。血管を切り開いて徐々に死に至るようにするやり方です。十字架刑はその反対に一番惨めで残酷は処刑法で囚人をもっとも過酷に苦しませるやり方でした。

 

キリストはこの残忍で恐ろしい処刑の仕方で処刑されただけではなく、律法によれば神に呪われたものとして死なれたのでした。

 

イエス・キリストは神の子であられました。神の愛するひとり子でした。キリストの中に私たちは神の現われを見ます。イエス・キリストは素晴らしい方です。ところがそのキリストが十字架にかけられて死なれました。キリストは呪われたものとなりました。キリストの十字架に神の呪いを見ました。

 神の呪いはこのように恐ろしいのです。

 

 キリストは私たちに代わって十字架につけられました。私たちの身代わりとなって十字架の上で神の呪いとなってくださいました。

 「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(13節)。

 

これはキリスト教のもっとも重大な核心部分を記します。ここに書かれていることは最大の神の真実であり、この真実は何度も繰り返して語られなければなりません。

 

贖い出すとは、奴隷を買い戻す意味もありますが、ここは出エジプト記21:23以下に記される、有名な「目には目を、歯には歯を」と対応します。死刑囚を解放するために支払いが必要ですが、その場合は、命が要求されます。その命は何よりも人間の命でなければなりません。身代わりの命です。

 

【キリスト教信仰の中心】

キリストは、身代わりに命を投げ出し、それによって私たちは死刑に値するところから解放されました。律法のもとで、律法を完全に守れないで、呪われたものとなっている私たちを呪から解放してくださったのはキリストであり、十字架のキリストなのです。ここにキリスト教信仰の中心があります。

 

【永遠の祝福】

14節は、6,7節の主題に戻ります。アブラハムに与えられた祝福とは、単に、アブラハムの子孫が天の星の数ほど増えると言うだけではありません。死後を越えて神は約束を反故にされることはなく、永遠にまで続く祝福だということです。歴史の中でそれが明らかになります。

 

約束の地はカナンの地にとどまらず、永遠の御国にまで拡張されます。その約束はまずユダヤ人に限られず、イエス・キリストにおいては異邦人にまで及びます。救いの恵みは決してユダヤ人に限定されません。そして、ここで「わたしたち」というのはパウロを含めたユダヤ人を指していることは明らかです。アブラハムに与えられた約束は単なる地上に存在するイスラエル民族の国家ではなく、約束された霊が与えられるという約束です。

 

この霊は、御霊なる神であり、全てを新たにし、力の源であり、新しい命を与える霊です。ユダヤ人であろうともそれは信仰によって与えられるのです。決して律法の行いによるものではありません。

 この祝福を受けるという点で、ユダヤ人も異邦人も変わることがありません。共通しています。信仰により恵みによるのです。異邦人が排除されることはありません。(おわり) 

2014年04月28日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

2014年4月20日復活祭メッセージ「命は死に勝利する」金田幸男牧師


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2014420日復活祭メッセージ「命は死に勝利する」金田幸男牧師

 

聖書:ヨハネによる福音書1

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

2 この言は、初めに神と共にあった。

3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

(説教要旨) 

【死ぬのは怖いか】

かつて、わたしは親しいものに「死ぬのは怖いか」と尋ねたことがありました。そのときの答えは「怖い」でした。わたしはそのとき「死ぬことなんて怖くないよ」と言えませんでした。どうして言えなかったのかと後悔しています。

 

 死が恐ろしいと言う人もいますが、死など全然怖くないと言う人もいます。人の心の中を探り知ることができません。ただ神だけができることですから、口では怖くないと言っていても本当は恐怖しているかもしれません。日ごろは死など怖くないと言っている人が死に直面して恐怖心に襲われてパニックに陥ることもありえます。

 

 わたし自身、今「死が怖いか」と自問するとき、怖くないかもしれないと言えるだろうと思います。それは牧師として何人かの信徒の臨終に立ち会いましたが、安らかに死を迎える人が多かったと感じます。人が死ぬ瞬間はろうそくの火がすっと消えるように穏やかでした。むろん、そうではない場合も多いと思いますが。

 

【私自身の臨死体験】

 わたし自身、4年ほどまえ小腸管出血を経験しました。丁度かかりつけの医院で大出血しました。かかりつけのドクターは、あまりの出血と血圧低下でこれはもうだめかもしれないと思われたそうです。あとでドクターがそのように言われました。わたし自身はそのときは意識を失っていて、何が起きていたのか知らないまま、痛みもなく、何も知らないまま死んでいただろうと思います。死の恐怖ないままに死を迎えていたことだろうと思うのです。

 

【最近の若い人は?】

 最近の若い人と話をしていて、死をあまり恐れていないのではないだろうかと思うようになりました。死は一切の終わりと考えていて、死ねばそれで終わり、何も怖がることはないと思っているのです。

 

【昔の人は死後の世界を教えられた】

昔は、人はたいてい死後のことを教えられていました。死後、人間は必ず苦しい目にある、例えば、死んだ後、燃えさかる火の中を歩まなければならないとか、生きていたときの行動について裁かれなければならないとか、死ねば幽霊になってさ迷うとか・・・こういう死後のことを考えて死を恐れていたのかもしれません。死後のことをもはや作り話としてしか聞かず、死が一切の終わりと思うのです。むろん、強がりで死など怖くないと言っているだけかもしれません。

 

【死の苦しみと緩和ケア】

最近、がんで死ぬ人は多かったのですが、がんと言う病気の最後は激痛との戦いになっていました。もだえ苦しみながら死ぬ。それは恐ろしいことです。しかし、最近は緩和ケアで、痛みはコントロールされて、かつてのようにもだえ苦しむと言うようなことがなくなってきています。だから死も怖くはないといえるようになってきたのかもしれません。

 

 死は本当に怖くなくなったのでしょうか。わたし自身、死そのものは恐ろしくなくなってきているとはいえ、本当に死の問題は解決したのかと言うと全く正反対に死がもたらす結果は決して軽くなってきているのではないと思います。

 

【肉親の死】

 わたしは12歳の春、母親を亡くしましたが、そのときの悲哀は今も消え去ることがありません。もう50年以上も前のことですが、わたしの脳裏には今も鮮明にそのときの情景を思い出します。今も思い出すと悲しく、辛さがよみがえってきます。12歳の少年のときの、わたしの姿を思うときの哀れさを思い起こします。

 

死がもたらす悲しみ、心の傷は深刻で痛ましいものです。程度の差はありましょうし、悲しみの度合いはそれぞれに異なります。特に親しいものの死は一言で言えば「誰がこの悲しみを分かるのか。分かるものか」ということではないでしょうか。なまじ慰めなどと言うと「この悲しみは誰が分かるか」と反発を食らいます。親が子を失う悲しみ、それは激しく大きなものです。子が親を失う。これも悲しいものです。どちらが深刻などとはいえないでしょう。

 

【時代が変わっても死別の悲しみは変らない】

死がもたらす死別は、死別を味わうものに大きなダメージを与えます。それは喪失感と言ってもよいものかもしれません。決して取り戻すことができないものを失う。そのときの喪失感は何によっても補うことができません。何かを失うとき、私たちは惜しいと思いますが、愛するものを失ったときの惜別の思いは心に深く突き刺さり、激痛を催します。死がもたらす悲しみはこの死別でしょう。

 

死別の悲しみは時代がいくら変化しても変わりません。何世代を経ても、この死がもたらす悲しみは決して軽くなったわけでもないし、それを癒す術も有効になったのではないでしょう。いえむしろ、時代が下っても死がもたらす悲しみの深刻さは変わらないと思います。

 

わたしは何度か葬儀の司式をいたしました。その中には子どもの葬儀もありました。なぜ、将来もある子どもが死ななければならないのか、私は悲しみと共に怒りに似た感情を経験しました。子どもだけではありません。なぜ人は死ななければならないのか。不条理を感じます。誰からも惜しまれつつ死んでいく人、なぜ急に死んだのか。  

 

たいていの人はこの解決を運命に委ねます。死は寿命であり、避けがたく、従って、避けられない運命、その人の定めなのだとします。そして、仕方がない、どうしようもないと言って諦めます。

 

【諦め】

ちなみに、諦めとは「ものごとの理由や原因を探って明らかにすること」とされます。なぜ人は死ななければならないのかの理由を明確にするとき、私たちは諦められるはずです。ところが諦めはそういう意味に使われていません。理由など分からない、分かるはずもないとして、それ以上考えることを断念することを「諦める」と言っているように思います。運命として諦める、これが多くの人の問題処理の仕方ではないでしょうか。

 

【神が召される】

 キリスト教的に言えば「神が取り去られる」とか「神が召される」と言います。神が一切をご存知であり、神が運命を決められ、定められてように、定められたときに神は召す。このような表現で私たちは満足できるわけではありません。こうして、神を恨むことになります。ある人は神が与え、神が取り去られる、それですべてだと考えて納得しようとする人もいます。でもそんな人ばかりではありません。人に死をもたらすものが神だとすればそんな神は信じられない、神を恨むと言い切るのです。

 

【罪の支払う報酬は死】

 聖書は人間の死を単に神の気まぐれに帰することはありません。聖書は何故死がもたらされるのかという点に対して、それは罪の結果であるといいます。ローマ6:23「罪の支払う報酬は死です」と明確に語っています。神が面白半分に好き勝手なことができるから、気ままに死をもたらすのではないのです。神は勝手にある人を取り去り、他の人にはそういうことをしないというわけではありません。それは罪を原因としてやってくるのです。

 

【罪とは】

罪とはこれも聖書が明白に語ります。1ヨハネ3:4「罪とは(律)法にそむくことです」律法は神の言葉です。罪とは神の言葉に背くことだと言えます。罪の結果が死です。これは聖書の語るところです。

 

【罪が人間に死をもたらす】

人は何故死ぬのか、それは神のせいでもありません。また単なる運命でもありません。それは避けがたいのですが、人間の罪がもたらすのだと聖書は語ります。この場合、特定の罪に対してそれ相応の死があるというのではありません。人が死ぬのは何か特定の罪が犯されたからではありません。ですから不幸な死を遂げた人が何か重大な罪を犯したからではありません。人間の中にある罪の全体がここで考えられます。人間の特性と言ってもいいかもしれません。誰もがこの罪を持っています、神に背を向ける傾向のある人は全て罪人です。

 

【神の遺棄】

この罪が人間に死をもたらしました。私たちは罪を犯します。罪など犯したことがないと言える人はいません。誰も意識して、あるいは意識しないで神に背いています。神の掟に犯しています。罪は神の遺棄を招きます。そして、そこにこそ死があるのです。神から捨てられるところに死があります。

 

【キリストは私たちの罪を背負って十字架に】

死の問題は罪がある限り解決しません。そうすれば私たちは絶望するだけなのでしょうか。キリストは私たちの罪を一切背負って十字架につかれました。これがキリスト教の根本の教えです。キリストは十字架で私たちの罪を引き受けられました。そして死んだのです。それからキリストは死に勝利するためによみがえられました。キリストは復活していのちの主となり、死を克服し、死に勝利されました。

 

【キリストの十字架と復活を信じて生きる】

キリストの死と復活はわたしたちの罪の問題を解決するものでありました。これを信じるものにキリストはその命を約束されました。私たちはキリストの十字架と復活を信じて、私たちも生きることを信じるようになりました。この信仰に全ての人が招かれます。

 

【死は栄光の御国への門出】

しかしながらなお、私たちはこの世で死の悲しみを回避することができません。死の悲しみはいっそう厳しくなっています。どういうことなのでしょうか。確かに私たちは生きている間に、問題を全て解決されたのではありませんが、私たちの死のとき、その死は栄光の御国への門出となります。私たちはそのことを望みます。私たちにはこの世にあってなお死の悲しみを味わうのですが、それでも死は終わりではなく、死の向こうを希望することができます。だからこそ死に真剣に希望をもって直面することができるのだと思います。死はそれで一切の終わりではなく、キリストと共に生きるはじめなのですから。(おわり)

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2014年04月21日

2014年4月13日説教「正しい人は信仰によって生きる」金田幸男牧師

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2014年4月13日説教「正しい人は信仰によって生きる」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章8-11

8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。

9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 

(要旨) 

【旧約聖書と新約聖書の本質は同じ】

私たちは、旧約聖書がユダヤ教の経典であり、またユダヤ人の救いの方法である律法について記されているのであって、新約聖書とは異なると考えている人もいます。

旧約は律法、新約は福音と内容を分けてしまい、旧約聖書の学びを不要とするか、軽視する人もいます。

イエス・キリストは旧約が教える律法の行いによる救いを否定して、新しい宗教を創設したのだという人もいます。しかし、それが間違いだということをパウロは旧約聖書を引用しながら語ります。

 

【創世記12章3「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」】

まず8節―9節において、パウロは創世記12章3を引用しています。ただし、旧約の正確な引用でありません。その理由は、ひとつは当時のキリスト者は一般にギリシヤ語聖書を使用し、それからもうひとつ、パウロは暗記して聖句を用いているからです。当時の聖書は羊皮紙といって羊の皮を薄くなめしたものか、パピルスという葦の一種の草の茎を細く切って乾燥したものを用いていました。当然聖書は分厚いものになります。それは運搬しにくいもので、パウロは年がら年中旅をしている状況でしたから、聖書の言葉を記憶するほかありません。だからといって不正確というのではありません。パウロが恣意的にみ言葉を改変しているわけではありません。内容をきちんと抑えているのは言うまでもありません。

 

創世記12章3「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。

これに似た箇所は創世記18章18です。

12章はアブラハムが神の大きな祝福を受けたことを告げる箇所です。アブラハムは神から大きな祝福を受けると約束されました。アブラハムは子孫であるイスラエルの祝福の根源であると思われています。それはそのとおりなのですが、その直後に神は全世界の民の祝福を宣言されたのです。

 

異邦人はアブラハムの子孫ではないからといって、異邦人をイスラエルの救いから排除することはないのです。アブラハムに対して与えられた祝福は異邦人にも及ぶのです。

その約束は、最近急に明らかになったのではなく、アブラハムのときにすでに神から明らかにされていました。

 

【アブラハムと異邦人(全世界)の救い】

イエス・キリストにある救いは、イエス・キリスト、あるいはパウロの発明ではありません。

神は予め異邦人の救いを語っておられました。

アブラハムは信仰によって神に義と認められました。その義によってアブラハムは祝福されます。祝福は単に地上の子孫の繁栄というものではなく、永遠の命の付与、永遠のみ国の相続権を示しています。なぜならキリストを信じるものはキリストを長子とする神の子とされます。

 

 10-11節では申命記27章26が引用されます。「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」 

【神の呪い】

「呪われる」とはおどろおどろしい言葉です。聖書が「呪い」などと言う言葉を使っていることに驚きを覚える人もいます。呪う神など到底受け入れられないというのです。神が呪うはずがない。

 

「呪い」とは神から忌み嫌われている状態を指しています。神から嫌われ、神から遠ざけられているものが呪われているのです。不幸な経験をし、不運な目にあっている人がすべて呪われているわけではありません。

神に近くあっても私たちはしばしば思いがけない事故に遭ったり、世間では不幸だとされる苦難を避けることはできません。しかし、そういう人が呪われているわけではありません。

 

外見上、あるいは人間的に見れば幸福の絶頂にある人でも、神に捨てられておれば呪われているのです。そして、呪われているものは、その実際はどうなのか分かりませんが、神から厳しい扱いを受けることになります。

 私たちは呪いということを決して軽く評価してはなりません。神から呪われるとは恐ろしいことです。現代人は神の呪いなどといってもあまり深く考えることがありません。そんなものは作り話、人間の創作だと思っています。

また、呪う神などという観念はありません。ですから神が呪うというとそれだけで拒絶反応を示します。

  

私たちが無視しようが嫌悪しようが、神は律法を行わないものを呪うと告げられます。律法は守られなければならず、守らないと呪われるのです。呪いの結果は滅びです。

 

【ファリサイ派の偽善】

ところが、申命記が書かれたころとガラテヤ書が書かれたときの間に、ユダヤ人の考え方に大きな変化が生じます。それがファリサイ派の立場に明白になっているものです。ファリサイ派は律法の厳守を主張し、それによって神の愛顧を蒙ると教えました。

 

律法を厳格に遵守することが清さの源であり、その清さが神の選びの証拠だとされました。

清さがなければ救われないと言っても良いでしょう。聖性こそ救いの必須条件で。そのためには絶対に律法を厳格に守ることが必要とされました。

律法を厳しく守るためにファリサイ派は律法を詳細に解釈し、その解釈された律法の規定を厳しく守ろうとします。

たとえば、穢れたとされる動物の肉を食しないだけではなく、そのような肉を調理した食器は使用しない、そのような肉を食する異邦人とは接触を避けると、規定を拡大解釈し、それを守っていることを誇りとしました。

 

このようにしてファリサイ派は自分たちは律法に忠実で、だから神の国に入れると確信したのです。そうではない人たちを侮蔑し、ファリサイ派ではない人を排斥したのです。異邦人だけではなく、イスラエルであってもファリサイと同等でなければ救いから漏れるとされてしまいました。

 

イエス・キリストはそのようなファリサイ派と対決されたのです。

 律法を形式に守っているだけではなく、文字とおり正確に守っていなければ呪われるとパウロが申命記を引用するとき、ファリサイ派的な考え方も否定しているのです。

 

ファリサイ派は律法を守っていると言いながらそれは相対的なもので、絶対に律法を犯していないとはいえません。

 

イエス・キリストは山上の説教でファリサイ的な善行を偽善としました。他の人よりも厳格に律法を守っているようで実は見かけに過ぎず、律法を形式的に守るだけでその律法において示される神の御心を踏みにじっています。

 

パウロもまた、当時のユダヤ人のエリートであるファリサイ派の生き方を否定していることになります。律法を完璧に守れなければ、たとえユダヤ人であったとしても罪人になってしまいます。そのような人は神の呪いのもとに属します。救いはありません。

 

たとえユダヤ人であっても律法を守らなければ救われず。この点、異邦人を律法から遠いために罪人と呼ぶのですが、ユダヤ人も異邦人も呪われていることになります。だから、ユダヤ人も律法の行いではなく、信仰による義によらなければ救われません。

 

【神に従う人は信仰によって生きる】

 11節では、ハバクク書2章4が引用されます。「神に従う人は信仰によって生きる」

 「従う」というと行いではないかと疑問を感じる人がいるかもしれません。

信仰とは頭の中で信じていることではありません。

信仰とはその生き方と関わります。不信仰とは神を忘れ、神を無視することです。神を信頼せず、神を畏れないことです。ハバククの時代を考えなければなりません。

 

【ハバクク】

ハバククはおそらくバビロンによる滅亡の直前(BC6世紀前半)に預言者の活動をしたと考えられていますが、バビロンによる滅亡の原因はイスラエルの背反、不信仰のゆえでした。神を忘れ、偶像に仕え、社会的不正義が蔓延していました。このような時代、預言者は神に立ち返るように語り続けました。

そこで神殿があり、形式的には犠牲がささげられていました。国家の制度があり、そこでは法律があり、裁判が行われていました。しかし、偶像がひそかに拝まれ、権力者は権力を乱用して、不正な利得をむさぼっていました。それこそ不信仰でありました。

 

神を信じて生きていくこと、それが救いの道であるとハバククはいうのですが、パウロはこれは新約の時代でも変わらないとするのです。

 

 旧約は律法の時代であって、律法によって救われるのではありません。旧約の時代も神を信じ、神により頼み、神から派遣される救い主の救いを信じて救われるのです。

このことは新約とは少しも変わりがありません。とすれば、パウロの敵対者が、異邦人は割礼を受けなければ救われないとか、律法を守らなければ救われないと主張することが彼らの拠り所とする旧約聖書にも反していることになります。

 

【聖書における救いの一貫性、それは神の恵み】

 このように、パウロは、旧約と新約の一貫性を語っています。その一貫性は救いの一貫性でもあります。

 神は神により頼むものを救われます。神を信じると言いながら、さらにその上、自力で救いを補完できるという人もいます。それは現代でも同じです。信仰だけではどうにもならない。不備がある。よき行いで補わなければならないと主張する人がいます。

 

そういう人は自分だけではなく他人にも同じ考えと生き方を要求します。それは結局のところ、自力での救いを自他に要求することになってしまいます。

 救いは徹底的に神を信じ信頼するところからやってきます。それは神の恵みとしてくるものです。神はユダヤ人であれ、異邦人であれ、私たちの救いをこのようにして与えられます。(おわり) 

2014年04月14日

2014年4月6日説教「信仰によって生きる人」金田幸男牧師

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2014年4月6日説教「信仰によって生きる人」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章5-7

5 あなたがたに"霊"を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。

 

(要旨)

【驚くべき経験】

パウロは信仰によってだけ人は義と認められるのであって、律法の行いによるのではないと語りますが、その立証のためにガラテヤの信徒たちの驚くべき経験に訴えます。

ガラテヤ教会の人々がキリスト教に入信したとき、霊を授けられ、奇跡が行われたのでした。

 

(4節あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに......。)

驚くべき経験とはキリスト者になったときの、ガラテヤのキリスト者が受けた迫害を意味しているととる解釈もあります。

異邦人がキリスト者になると、多神教の神々が信奉されている社会では奇異と見られ、社会的に異端視されました。またローマ政府は公認されていない宗教団体を秘密結社と見なし、取締りの対象としました。

このため、ガラテヤに成立したキリスト教会は初めから圧迫下におかれていました。キリスト者になることは有形無形の困難を引き受ける道をたどることになります。

 

ガラテヤのキリスト者の大きな体験とは何か意見が分かれるところですが、5節を素直に読めば、キリスト者になったときの、驚くべき体験をしていて、それは聖霊を受け、奇跡を目撃するような事柄であったと推測できます。それは初期キリスト教会で生じた特異な出来事とすることができるかもしれません。異言を語り、あるいは幻視のような不思議な体験を伴ったのかもしれません。

 

【奇跡、それは聖霊の働き】

そうであれば、その経験は今日では普遍化することができません。でも、全く無縁な出来事とは言えないとも思われます。私たちが信仰を持ち、神の言葉を理解することができるようになるのは奇跡的であり、それは聖霊の働きでなくて何でしょうか。

 

ガラテヤの人々と同じく、私たちも聖霊の特別な扱いを期待できるし、また聖霊は働かれるのです。信仰を持ったその当初、聖霊を受けた。

 

【偽教師】

だが、律法の行ないに腐心したとき、聖霊は降ったかとパウロは問います。そんなことは起こりません。

それなのに、ガラテヤのキリスト者は律法の行いがなければ救われないと主張するパウロの反対者、「偽」教師の言葉に惑わされたのです。

パウロの敵対者は異邦人キリスト者にも割礼を求め、そのほかのさまざまな規定の実行を求め、救いは行いを要すると主張したに違いありません。

 

【ギリシヤ文化の禁欲主義】

当時のギリシヤ文化の世界では、禁欲が重視されていました。肉体は汚れている、精神がその肉体の牢獄から解放されることこそ救済であるとされました。このような文化的背景の下で、ガラテヤのキリスト教信者は、パウロの反対者のいうことをいとも簡単に聞き入れてしまったのです。

 

パウロの反対者である「ユダヤ主義者」の主張とギリシヤ人が持っている禁欲主義への好みが一致します。ユダヤ主義者の言うことがキリスト教の完成と思われたのでした。

 

パウロは断固として言います。人は律法の行いではなく、信仰によって救われる。ガラテヤの信者たちが信じたときに大きな体験をしたのは、その真理を神が是認された結果なのだ。これがパウロの立証でした。

 

【アブラハムの選び】

そして、さらに第2の証拠を持ち出してきます。パウロは聖書からそれを証明しようとします。聖書に登場するアブラハムの場合はどうなのか。

 

聖書からの話では異邦人は理解しにくかったと推量されるかもしれませんが、当時、ヘブライ語の(旧約)聖書はギリシヤ語に翻訳されていました。初期キリスト教会はこの翻訳された旧約聖書をとても大事にしていました。キリスト教会は、聖書、この場合、旧約聖書のことですが、これを重視していました。キリスト教会はその出発点から旧約聖書を重視し、さらにそれをよく理解していたのです。ですから、ガラテヤのキリスト者も旧約聖書を熟知していたと考えてよいと思います。アブラハムは旧約聖書の中で大変重要な人物です。異邦人キリスト者もそのことを充分承知していました。

神はアブラハムに至って彼を選び出し、彼と契約を結び、救いの恵みに入れられます。アブラハム以前にも信仰の人はいましたし、敬虔な人もいましたが、アブラハムにおいて、神の救いへの選びの御心が明瞭に示されます。

アブラハムにおいて、贖いの歴史(神の救いの歴史)が明確になります。神はアブラハムにおいて、罪からの救済を明確にされ、ただ信仰によって救われると言う恵みの契約を明らかにされます。

 

【アブラハムの信仰とは】

そのアブラハムにおいて何が起きたのか。創世記15章6節をパウロは引用します。アブラハムの信仰とはどんな信仰であったのでしょうか。

まだ子どもがないアブラハムに対して神は、あなたの子孫は天の星のようになると約束されます。まだ子どもがないのにも関わらず、神はアブラハムに約束を与えられました。アブラハムはただ神の約束の言葉を信じました。それが彼の義とされた。

 

パウロはアブラハムの例を挙げて、信仰による義こそが真実であると論証したのです。決して律法の行いによるのではない。パウロは聖書から、つまり聖書の偉大な人物からその教理を立証します。聖書に通じている人はパウロの教えを受け入れるはずです。むろん、そうはなりませんが。

アブラハムの子らになるとは、神から特別な恵みをいただく方法でした。どうすれば、この神の恵みをいただけるのか。異邦人キリスト者にも重大な問いかけです。

どうすればアブラハムに起きたことと同じ神の絶大な祝福にあずかれるのか。アブラハムに起きたことはアブラハムの子らにも起きるのです。

 

【パウロの敵対者】

むろん、パウロの敵対者も聖書を用いたはずです。アブラハムはどうして祝福を受けたのか。行いによって救われたのだと主張をしたはずです。

 

アブラハムというと直ぐに私たちは行き先も知らないで、故郷ウルを去っていった行動を思い起こします(創世記1:31、使徒7:2-4、ヘブライ11:8)。あるいは甥のロトによい土地を譲って自分は困難な方向を選んだ決断(創世記13:5-9)、そして、老いて与えられた一人っ子のイサクをささげよと命じられたとき、そのとおりにした壮絶な姿を思い起こします。

また、彼は神との契約を結ばれたとき、一族全員に割礼を実施します。このような一連の英雄的な行動を挙げて、だから、アブラハムはその行動によって神から義人と認められたのであって、アブラハムの子となるためにはアブラハムのようにならなければならないとか、アブラハムのように行動しなければならないと教えるものがいたはずです。

 

アブラハムの子となるためにはアブラハムと同じ行動が必要である。これがパウロの反対者の言い分であったと思います。アブラハムのように、神に対して、禁欲的であり、厳しい行動を伴う立派さが必要だと言っていたのです。

 

このようなパウロの反対者の言い分に対して、私たちは迷わされるかもしれません。パウロも聖書を根拠にして主張をします。アブラハムはただ神を信じて義と認められた。パウロはこのことを強調します(ローマ4:1-3、13)。敵対者も聖書を挙げ、アブラハムを引き合いに出します。どちらも聖書を持ち出しますと、聞いているものは迷ってしまうからです。

結局は聖書の解釈に違いかと。人は信仰によってだけ救われるのか、それとも、律法の行ないも必要なのか。キリストを信じているだけではいけないのであって、割礼なしに人は救われないのか。真っ向から対立する信仰にもかかわらず、どちらも聖書を引き合いに出すのでは聞いているものは混乱します。

 

【真実はひとつ】

これは聖書解釈の違いではありません。真実はひとつだけです。

アブラハムの行動を模倣することが救いなのでしょうか。それはときには信仰的であるとすら思わされます。行く先も知らないでただ故郷を出発したアブラハムの行動を真似ようとするとそれは英雄的な決断が必要です。

ともすればキリスト教徒はそのような英雄的な決心に基づいて行動することだと主張する人がいます。アブラハムは自分の子どもを神にささげようとしました。キリスト教徒はそのように全てを投げ打って、何もかも捨てなければ本物にならないと言われます。

キリスト教信仰をこのような冒険的な、あるいは、英雄的、殉教者的、世捨て人的な生き方であるとすると、そのような信仰は所詮人間の必死の努力に救いはかかっているのだということになります。人間の最高の努力と決意がなければ救われないということになってしまいます。

 

それが信仰なのであれば少数のエリートというか、禁欲的、自制的な特別な人だけが救われることになります。キリスト教をそのような立場とすると所詮キリスト教は自律的な宗教となります。自己の手で救いを達成できるとする考えにもなります。

 

【ただ神を信じ】

パウロが否定したのはその立場でした。アブラハムが出立したのは、単なる冒険ではありません。まるで賭けをするかのように行動したのではありません。将来のことはどうにでもなれと自暴自棄になって決断したのではありません。アブラハムはただ神を信頼して出発したのです。イサクをささげるときでも神が最善のことをしてくださると言う信頼を失わなかったのです(ヘブライ11:19)。神が返してくださると言う信仰を持ってイサクをささげた。とことんまで神を信じてイサクをささげようとしたのです。まだ子どももないのに、天の星のように子孫は増え広がると約束されたとき、人間的には全くは可能でありましたが、それでも恵みの神を信じて疑わなかったのです。このように神を信じたのがアブラハムでした。

 

私たちは英雄的な行動や決断でアブラハムについていこうとすればとてもできません。アブラハムのように行動しなければ、ということは結局見かけだけでもアブラハムに倣うということになってしまいます。それでは誰もついていけません。私たちはアブラハムの信仰に倣うのです。(おわり)

2014年04月06日