2014年3月16日説教「キリストを信じる信仰と義」金田幸男牧師

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2014316日説教「キリストを信じる信仰と義」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章15-18節

15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。

18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。

 

(要旨)

【信仰により義とされる】

15-16節は、14節に直接繋がり、ケファ=ペトロにパウロが批判して語った言葉の一部だという解釈がありますが、ここに記されていることはペトロ一人への言葉ではなく、この手紙の読者全体へ宛てて書かれたと見たほうが自然です。

 

それに、16節は、ガラテヤの信徒への手紙の主題であるというだけではなく、聖書の中でも、重視されている聖句です。ある人は、黄金の聖句とも読んでいるほど価値ある聖句というのです。だから、ペテロ一人への言葉ではありません。

 

【異邦人と罪人】

まず15節ですが、パウロは自分が先祖以来のユダヤ人である、つまり生粋のユダヤ人であり、異邦人ではないと言います。同時に、私たち読者には不快を催すような言葉を続けています。異邦人はすなわち罪人という物言いです。これはユダヤ人の自意識をよく表しています。

 

ここで言う罪人はいわゆる法律を破る犯罪人という意味ではありません。

マタイ福音書9章11で、キリストはレビを弟子に招かれますが、そのとき、徴税人や罪人と食事を共にしているという批判を受けたとありますが、その場合の罪人は犯罪人というよりも、特にファリサイ派の人々からは、律法をきちんと守ることが出来ない、その意味で汚れている人々と見なされているものたちを指しています。

 

【ファリサイ派】

職業上の理由などで、当時のユダヤ人の中でも律法の厳格な遵守、ファリサイ派や律法学者が解釈しているような規則を守れない一群の人々が罪人とか「地の民」(地面に這い蹲る人)と呼ばれ、蔑まれていました。

 

パウロはこのような意味で、異邦人を罪人と呼んだのです。異邦人はユダヤ人のように律法に則って宗教的な営みを行ってはいません。厳格に律法を守ることのない異邦人は罪人、つまり汚れたものだとユダヤ人は異邦人を見て評価していたのでした。

 

【信仰義認】

ここに記されていることは信仰によって義と認められるという福音の真理です。

信仰には、「イエス・キリストを信じる信仰」と「キリスト・イエスを信じる信仰」の、二種類の表現が出てきます。これを厳密に区別することはできません。しかし、あるニュアンスの違いがあることは確かです。

 

イエス・キリストを信じる信仰とはイエス・キリストを信仰の対象として信じる信仰と言えます。キリスト・イエスを信じるとは、キリスト(救い主、油注がれた者)とはイエスのことであると信じる信仰と言えます。

 

 私たちの信仰観念は信じる対象をあまり詮索したり、探求したりすることを拒否するというものではないかと思います。「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行法師)という信仰です。信仰の対象は畏るべきもの、従ってはかり難く、極めがたい。だから、畏怖の思いを持って信心するだけ。

 

しかし、パウロがここで言う信仰は、イエス・キリストを信じる信仰に他なりません。ですから、キリストをしっかり認識しなければ信仰は成り立たないのです。逆に言えば、イエス・キリストを知れば知るほど信仰は深まっていくのです。

 

【信仰心】

信仰が浅いとか足りないとか、弱いとか嘆く人が多くいます。信仰心は人それぞれで熱心な信仰の人もあり、疑いと信仰の狭間で悩む人もいます。しかし、問題は私たちの信心のあり方ではなく、どれだけイエス・キリストを信じているかにかかっています。

 

聖書を学び、聖書から教えられて行くことで私たちの信仰の対象を明確に捉えることが出来、それが信仰を深め強化していきます。

 

【キリストはイエスであると信じる信仰】

キリストとはイエスであると信じる信仰とはどういうものでしょうか。

キリストとはヘブライ語のメシヤ(油注がれたもの)の翻訳で、メシヤとは神がそのようのために特に選んだ働き人を指しています。

 

王、預言者、祭司がそれにあたります。これらの職務を委託されたものはその働きによって神に代わってその務めを果します。その役目の究極的目的は神の国の確立にあります。ユダヤ人はこのメシヤを期待して待っていました。神は必ずメシヤを与える、特に苦難のときにメシヤを使わされると期待し、希望を持ちました。

 

この信仰がユダヤ人の信仰で、ユダヤ教は今日もなおメシヤの到来を望む宗教なのです。キリスト教は、その期待されていた救い主、メシヤがナザレのイエスであると信じ告白します。

 

このようにして、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは義と認められます。この義と認めること、義認ともいいますが、キリスト教信仰のもっとも大切な教えです。

 

【義とする】

義とするとは、法廷用語です。裁判官が被告人に無罪を宣告することを指しています。裁判の過程で裁判の席に引き出されたものが取調べを受け、結果として無罪であると宣告されます。他人がとやかく言っても、本人自身しか知らないような行動があっても、法廷で無罪とされたらその人は無罪なのです。

 

 私たちは誰でも有罪を免れません。心の中まで神はその罪を問われます。これに耐えられるものは一人もいません。しかし、神はイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちを義とされます。 

 

私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神に無罪とされ、義人とされます。義人は神の国を継承し、永遠の命を約束されます。信仰によって、とありますが、これは信仰が義とされる手段であるという意味です。

 

私たちは信仰によって義とされますが、その信仰には強い弱いがあり、熱心不熱心があるでしょう。それぞれの信仰のあり方は異なりますがただひとつ共通していることは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということです。

 

【救いは律法を守り行うことによるのではない】

パウロは、救いは、つまり義とされるのは、ただ信仰によるのであって、律法の実行、つまり律法を守り行うことによるのではないと断言します。誰も、律法の行いでは救われない。ユダヤ人もこの例外ではありません。

 

【パウロの回心】

律法は、命じ、禁じます。ただそれだけです。律法は完全に守ることを要求します。守れなければ有罪を宣告し、さばきに定めます。この律法の命令に完璧に従える人は一人もいません。だから、この律法の実行による義は断念して、キリストを信じる信仰によってだけ救われるとパウロは信じるに至ったのです。それが彼の回心でした。

 

【ユダヤ人キリスト者】

17節は、14節に続くと考えるとよいかと思います。この節は難解な節とされています。文章のつながりや構造がややこしいのです。しかし、単純に考えて、次のように考えるとよいのではないでしょうか。キリストを信じる信仰によって義と認めらます。そして、異邦人と同じような生活をします。実際ペトロやバルナバがそうでした。彼らはイエスを信じる信仰によって義とされるという福音の真理に立って異邦人と交わり、食事も共にしました。これでユダヤ人キリスト者が罪人となるのであれば(実際にユダヤ人からも見れば罪人になることです)、キリストを罪作りな方とすることになります。

 

しかし、イエス・キリストは私たちに罪を犯させるはずがありません。つまり、キリストが罪の奉仕者になるはずがありません。信仰によって義と認められたものが異邦人のような生き方をしてもそれは罪ではありません。かつてパウロは異邦人のような生き方を罪人のそれと思っていました。そのような罪もまた信仰によって許されています。異邦人と付き合ったからといって罪人になるわけではありません。

 

それなのに、ペトロもバルナバも異邦人と付き合えば汚される=罪を犯すと考えて、今までの行動をすっかり止めてしまったのです。これは信仰によって義とされたものには相応しいとは言えません。異邦人と食事を共にしたからといってそれで、ユダヤ人キリスト者が罪を犯すわけではないのです。まして、キリストを罪の作者とすることは決して出来ません。

 

【壊したのに再建する=自分を違反者にする】

18節もケファ(ペトロ)を念頭において語られていると見てよいと思います。自分で打ち壊したものを再建する。何を破壊したのでしょうか。ここでは明らかに律法の行いによる義です。ユダヤ人の大半が律法の行いによって自ら義とされると確信していました。ファリサイ派はそのなかではもっとも厳格に律法を守っている。自分たちこそ神の前で義とされると信じていました。だから、自分だけではなく、ユダヤ人全般が律法を遵守すべきであると考えていました。

 

パウロもペトロも律法の行いによる義を断念しました。ところがそれを再建する、つまり、壊し、廃絶したものが価値あるとされるならいったいどうなるでしょうか。律法の行いによる義をまた正当とすることになります。そういうことは、自分を違反者にすることだとパウロはここで語ります。

 

それはケファやバルナバのしていることです。エルサレムから来たユダヤ人がペトロたちの生き様を攻撃したに違いありません。彼らは律法に従い、割礼を受けなければ救われないと主張していました。

 

ペトロはその攻撃を避け、ユダヤ人に伝道をしようとしたにちがいありません。ペトロが律法の行いによる救いを信じる信仰に戻ってしまったのではないと思います。ユダヤ人に対する伝道をペテロは心に抱いていました。ユダヤ人に伝道するためには、異邦人のような生き方をやめ、それどころか、異邦人キリスト者との交わりさえ回避するようになったのだろうと思います。

 

しかし、それは古いもの(律法の実行の義)をせっかく壊したのに再建するようなものだとパウロは言いたかったのです。それは違反者であることを証明するようなものです。

 

 私たちは、信仰による義を信じています。それなのに、私たちにとってさらに何か付け加えないといけないかのように思う誘惑があります。あるいは古い生活の様式を再興したくなってきます。その結果は、イエス・キリストを信じる信仰を揺るがしてしまいます。かつての生き方に何か幸福があるかのように、また救いがそこにあるかのように思い、ただ神の恵みによって救われるという信仰をなおざりにしてしまっては、私たちは自ら大きな損害をこうむることになります。(おわり

2014年03月17日

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