2014年3月30日説教「御霊を受けて福音を信じる」金田幸男牧師

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礼拝時に去る2月2日の伊丹教会会員総会で選出された山口耕平兄の執事任職/就職式がありました。


2014年3月30日説教「御霊を受けて福音を信じる」金田幸男牧師

 

 聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章1-4

1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。

2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。

3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、"霊"によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに......。

 

 (要旨)

【物分かりの悪いガラテヤ人】

3章1節から、パウロは「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人」と嘆きとも怒りともつかない言葉で始めています。実際のガラテヤ人自身は決してそうは思っていなかったはずです。ギリシヤ文化のもとで生きるものにとって、その文化は当時最高水準にあると信じられていました。

 

だから、愚か者扱いする、このような言葉を聞かせられるなら憤慨したはずです。あえてパウロがこのようにいうのは、ガラテヤの教会員の状態が信じられないという気持ちの表れと見てよいと思います。

 

【偽教師】

誰が惑わしたのか。むろんパウロは、それがパウロの敵であり、ガラテヤ教会に入り込んだ偽教師であることを承知しています。分かりきったことをいうパウロの内心には、そんなにあっけなく偽教師に惑わされて・・・という失望の念が満ちています。

 

ガラテヤのキリスト者が陥った現状はあまりにもひどい。パウロには内心怒りがこもっていました。そして、福音から逸れていくものへの悲しみの心も含まれていたはずです。福音ならざるものがあたかも福音の位置を奪い取ってしまう、これはパウロには許しがたいことでありました。

 

【怒り】

人には怒ってよいときがあります。といっても、現在の世の中、腹立たしいことばかりで、腹が立たないときはありません。キリスト者はむやみに怒って、われを忘れて、冷静さを失ったり、神の道から外れてしまうようなことがあってはなりません。怒りは制御しにくい感情ですから、余計に注意しなければなりません。だから、パウロが何に怒っているかを見なければなりません。パウロはガラテヤの教会員が福音から逸れていくのを怒っています。ただ神の恩寵によって救われる。この福音の真実を曲げたり、歪めたりすることには耐えられないのです。このときパウロは激しく怒り、度外れな表現も厭いません。

 

【十字架のキリスト】

 目の前に描き出された、十字架のキリストが惑わされて見えなくなっている。これはどういうことか。

 

3-4節から見て、ガラテヤのキリスト者が福音信仰を持ったとき、御霊を与えられたと考えるのは正しいと思います。異邦人がキリストを信じたとき、聖霊が彼らに降ったと記されている個所は複数あります(使徒言行録8:14-17=サマリヤ人、10:44-46=コルネリウス一家、19:6=エフェソ人)。

このとき、ガラテヤのキリスト者は不思議な体験、つまり肉眼で十字架のキリストを見たのかもしれません。ただし、パウロは明確に報告してくれていませんので正確には語ることができません。

 

むしろ、ここは、パウロの言葉による証言、宣教によって、ガラテヤの信徒が、まざまざと十字架のキリストを見るように、心に思い浮かべることができたと理解したほうがいいと思います。御霊を受けたことは事実ですが、それがどのような現象を伴ったかは明瞭ではありませんし、使徒言行録に記載されていることも実は明確ではありません。

 

【御霊を受ける】

御霊を受けるとき、それに伴う賜物の中には異言とか預言がありますが(コリント2 14章)、その場合でもパウロはどんな現象であるか詳細には語っていません。異言が恍惚状態になって理解不能な言葉を語る状態であるとしてもそれ以上は不明です。だから、ガラテヤ人が福音を信じたとき、十字架につけられたキリストを目前で見るかのように示されたことが、肉眼の視覚経験であったかどうかは全く分かりません。だから、実際、パウロの言葉により宣教を通してガラテヤにキリスト者がその十字架の意味するところを明確に信じたことを指していると解釈したいと思います。それならば私たちが経験していることと同じです。

 

【見えないことを信じる】

確かに、視覚を通して真理が伝えられるというあり方は一般的です。今日は視覚による情報伝達が一般的です。テレビでニュースが伝わります。しかし、人間は視覚という感覚によって得られる情報を確実と信じてきました。見ないと信じないと宣言する人は今も昔もいました。聖書の奇跡を読んで、奇跡を見せてくれ、そうしたら信じると宣言する人はたくさんいます。目で見ることがもっとも確かである。これは科学時代の現在の特質ではありますが、人は目で見なければ信じないという特質をもっています。

 

【言葉による真理の伝達】

言葉により真理の伝達。これは人間だけができる特質です。そして、言葉にとって説得され、説明され、知性や理性によって理解し、受け止め、そして信じることができます。心を打たれ、感動し、そして納得して受容した確信は強力であり、人自身の精神を強固に形作ることができます。

 

 すぐれた福音の説教は聴衆の心に、十字架のキリストを示します。それは視覚で描かれる十字架のキリスト以上にその人に影響力を及ぼすものです。言葉による説得は決して空しくはありません。

 

【画像による福音】

もちろん、絵画の効力を否定するものではありません。所詮、私たちが描くイメージは、目で見たものの再構成である場合が多いものです。宗教改革は教会堂から絵や像を除去しました。それは、絵や像が無学な信徒のための教科書として用いられたことによります。宗教改革者はそれを否定して、文字、つまり聖書の言葉を通して真理を伝えようとしました。画像は聖書の言葉に変えることはできません。しかし、私たちは聖書を題材として描かれた絵画を見て、作者の信仰理解、聖書の把握を認めることができます。絵画を見ながらあれこれ考え瞑想することは大きな益を生むものです。それは作家の創作であることを考慮しつつ、聖書に記されている事件や出来事、神の働きを想像たくましくして、思い描くことは信仰にとってマイナスにはなりません。

 

 【聖霊を受けた体験】

パウロはガラテヤの教会員に尋ねます。ただひとつ尋ねたいと言われますが、そのひとつで充分であるという意味です。それを聞けば、その答えにすべてが隠されている。

 パウロが問うたのは、御霊を受けた時期についてです。先に触れましたように、ガラテヤの信徒もまた福音を信じたときに、聖霊を受けました。使徒言行録にガラテヤ人の経験したことは記録されていませんが、2:3-4から、彼らも聖霊を受けるという経験をしたことは容易に想像できます。御霊を受けた際の現象については不明です。パウロにとっては重要なことは別にあります。それは福音を信じたときに御霊を受けたということです。

 

律法のわざを行なったときに聖霊を受けたのではありません。これは簡単に分かることです。ガラテヤの信徒ははっきりパウロに答えることができます。福音が宣教されたとき、ガラテヤの信徒は確かに信じました。そのときに、聖霊を受けたのでした。それに伴って、どんな現象が起きたかは記されていませんけれども、重要なことは、福音を受け入れたときに聖霊を受けるという経験をしたのです。それは紛れもないガラテヤの信徒たちの体験でした。

 

【御霊で始めたものを肉で完成しようという誤り】

ところが、偽教師から、割礼も必要だ、律法の実行が求められると教えられて、律法を行なって救いを完成しようとしたのです。パウロはいいます。律法を行なって信仰を完成させようとしたが、そのときに御霊を受けるという経験をしたのか。むろんそんな経験をしたわけではありません。

 

福音を信じたときに御霊を受け、そして、その信仰の完成は律法の行いによるとしているが、それは大きな誤りだと指摘します。御霊で始めたものを肉で完成しようとしている。肉による完成とは律法の行いであることは言うまでもありません。律法の行いによって救いを完成しようとする。彼らはイエス・キリストへの信仰を否定していたのではありません。ただ、信仰だけでは不十分だとされたのです。プラスアルファが必要である、それが律法遵守というのです。ガラテヤの教会員が説得されてしまった教えがこれなのです。

 

 福音を信じたとき、御霊を受けたのであるが、律法の行いによってしては御霊の拝領などなかった。この事実を見て、ガラテヤのキリスト者ははっきり気がつかなければならないのです。福音によって、ただ神の恵みにより罪人は救われるのです。  

 

今日ではガラテヤのキリスト者と同じような現象が起きているわけではありません。でも、共通の出来事があります。コリントの信徒への手紙一 123 「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。

 福音を信じ、キリストを愛し、キリストにあって生きていくものは聖霊によってそれができたのです。

 

私たちは、福音を信じて、洗礼を受けました。これには、聖霊の入る余地がないように見えて、実は聖霊を抜きにしてこのようなことはありません。聖霊が働かれたからこそ、私たちはイエスを信じ告白することができるようになったのです。御霊が私たちの心のうちで働かれなければ主を信じることはなかったのです。

 

【私たちの陥る罠に注意】

ところが、私たちは信仰を始めていくばくも経たないうちに、信仰のマンネリに陥ります。スランプと表現する人もいます。すると、その信仰を強化するために、何か努力をしなければならないと考え出します。難行苦行を自分に課する。熱心に善行を行なう。自分を厳しく律する。こういう営みをしなければ信仰は成長しないと考えるのです。

 

これは私たちの陥る罠です。ガラテヤの信徒も同じような心理状態ではなかったか。信仰だけでは不十分だから、律法の行いを加えないといけない。そう思ったのに違いありません。そこで、律法を守って救いを完成しようとしたのです。

 私たちにとっても信仰の成長は、私たちの何らかの努力によるものではありません。イエスを主として信じて生きていくのはまさしく聖霊なる神の働きです。私たちはこの聖霊に信じてより頼むべきなのです。信仰を始め、維持し、成長させ、完成するのは聖霊の働きです。(おわり)

2014年03月30日

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