2014年3月23日説教「キリストが私のうちで生きている」金田幸男牧師

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204 323日説教「キリストが私の内で生きている」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2

19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。

20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 

 

(要旨)

【ペトロ、バルナバの変節】

ことの発端は、エルサレムからユダヤ人キリスト者がやってきたことでした。パウ口もケファ= ペトロ、バルナバもイエス・キリス卜を信じたために、もはや律法に従って生きていくことをしなくなっていましたが、ところが、ペトロやバルナバ、あるいはその他のユダヤ人キリスト者は異邦人との付き合いをやめ、再びかっての律法に従う生き方を始めたのです。パウロはそのようなぺトロたちの生き方に否を宜します。

 

それはいったん崩したもの(律法の実行という生活原理)を再建するような生き方です。ペトロたちは、キリスト教信仰から逸脱したとは思われません。彼らは相変わらず初代キリスト教会の指導者でありました。キリストを信じる信仰によって救われると言う確信を維持していたはずです。

 

【異邦人は汚れている】

ただ、彼らはユダヤ人伝道に派された使徒たちでした。だから、ユダヤ人に伝道するために異邦人のような生き方、異邦人との付き合いをやめてしまったのです。 異邦人は汚れている、特にユダヤ人が汚れた動物としている食材を好みます。ユダヤ人は異邦人が汚れていると考えます。汚れたものと付き合えば汚されています。

 

これでは異邦人キリスト者はペトロたちとは交わりを持っことが出来ません。異邦人も割礼とか安息日、汚れた食物規定などを遵守しなければユダヤ人キリスト者と付き合えなくなります。

 

要するに異邦人にも律法を強制することになります。そうしなければユダヤ人と異邦人は共同で礼拝も守れなくなります。結果として律法を生活原理にして生きていくように強制されることになっています。これでは逆戻りです。

 

【キリスト教信仰の核心】

そして、信仰だけで神の救いを受けるというキリスト教信仰の核心部分が危ういものとなります。 律法が神の民として救いにあずかるための条件にされてしまいます。信仰プラス律法の行いと言う救いの道の複数路線が出来上がってしまいます。これでは「ただ自由な恵みのみ』と言う福音の真理が危うくされかねません。

パウロはだから断固としてこのことについてはペトロに抗議をしたのでした。異邦人キリスト者にとっては大きな戸惑いを引き起こすものとなります。

 

【ユダヤ人と律法】

律法に従って生きるとは、狭い意味でのモーセの律法を意味していません。ここでは生活の原理と言うべき、人生全体を支配する規範であり、生活全体を律する根本原則でした。

 

ユダヤ人はこれを実践することでユダヤ人としてのアイデンティティを確保していました。つまりユダヤ人であるという自意職は律法の遵守であり、それこそが神の民のよりどころであり、生き様でありました。ユダヤ人には決して手放せない精神、ユダヤ人の魂というべきものです,

 

【律法に対しては、キリスト者は死んでいる】

ところがパウロはその律法に対しては、キリスト者は死んでいると言います。

律法は命じ、禁じ、 さばき、死刑を宣します。それが律法の役割であって、罪に定める役割を果たします。それ以外のものではありません。要するに救いをもたらす手段ではありません。

このために、律法に対して死ぬということは、もはや律法は命じたり、禁じたり、死を宜告することも出来ないのです。

 

【キリストとともに十字架につけられた】

奴隸所有者は生きている奴隸を酷使することはできますが、死んだ奴隸に対してはもはや何もすることが出来ません。奴隷所有者と奴隷の関係は生きている間に実効性があります。私たちは律法に対して死にました。どうしてそんなことが起きるのか。パウロはキリストとともに十字架につけられたからだといいます。

 

このようなことはどうして起きるのか。キリストの十字架は2千年も前に起きました。私たちは 今日生きています。時間と空間はかけ離れています。リァルな(現実の)世界ではこんなことは起きるはずがありません。でも、このパウロの発想、思索、理解はとても重要でパウロの特質です。

 

【新しい命に生きるため】

ロ一マの信徒への手紙63 -- 6節にこのように記されます。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」。

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復させられたように、 わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隸にならないためであると知っています。

 

【洗礼の意味】

洗礼は教会への入会式の意味があります。その点では儀式です。しかし、 儀式以上の意味があります。洗礼において神が働かれ、キリストと共に死んで、キリストと共に復活するという「奇跡」が起きるのです。それは聖霊の働きですが、私たちは霊的にキリストの死と復活に預かります。私たちは今肉体的に死んだり、復活したりするのではありません,しかし、聖霊の働きによって神秘的に今すでにキリストと共に生き死にしています

 

ちなみに洗礼にはもうひとつの意味があります。それは水が穢を洗い淸めるように、洗礼に働く聖霊は水の洗いで罪を淸めることを示します。むろん水そのものは罪の汚染をきよめることは出来ません。

それが出来るのはキリストの犠牲、キリストの流された血潮です。聖霊の働きをおぼえるとき、キリストも尊い御血潮が私たちを清めます。罪を清められたものが救いに入れられます。

 

私たちは死んでいます。それは洗札においておきました。だから、律法はもう私たちに対して何もできません。命じたり、要求したり、禁じたり、脅したり出来ません。キリストと共に死んだ。

 

でも現実に生きています。私たちはいまここで息をし、手足を動かし、頭を働かせています。まさしく肉体的に生きています。律法に対して死んだ私たちはどうなっているのでしょうか。

 

【キリスト、わが内に生きる】

パウロ はキリストがわたしたの内にあって生きているのだといいます。これは驚くべき御言葉で、しかし、 多くのキリスト者に暗記され、その人生に活力を与えてきた聖句です。かつて律法が生活原理、生命的根源であったのですが、今ではキリストはその位置にあります。しかも律法のようにいわば外から指示したり命じたりするのではなく、わたしのうちにあってキリス卜は生き方を決定されます。 キリストが新しい生活原理として、私たちの思いを越えて導きとなられます。

 

このことは私たちにとって神秘であって不可知な出来亊かと言うとそうではありません。パウロ 2 0節で、私たちは肉にあって生きている。つまり現実に生きているのですが、その場合キリス卜がわたしの内に生きておられます。キリストこそわたしの生活原理、いのちそのものとして内在されています。そのことは知りえない神秘、一切自できないことなのかと言うとそうではないのです。御自身を私たちのためにささげられて神の子、キリストを信じる信仰によって、私たちは内在するキリストと共に現実に生きているのです。

 

【聖霊の働き】

信仰があるところでキリストは内にあって生きておられます,聖霊が働かれ、聖霊の不思議な業のゆえに、私たちはキリストを生命原理、生命そのもの、根源的な力として与"えられ、キリストと共に歩んでいます。

 

このように律法に対しては死に、キリストがわたしの内にあって生きておられるのは神の恩寵により神の一方的な働きです。キリストは私たちの内におられます。キリストは今も生きておられますが、復活の体は天上にあります。肉体的にはいかなる形でもこのキリストと関わることはできませんが、聖霊のくすしい働きで、私たちはキリストと共に生きるのです。私たちはキリストにあって生きていくのです。

 

このようにされたものはキリストの計り知れない恩恵の故です。私たちが覚えなけれ.ばならないのはこのことです。

神の恵みが、もはや律法に対してその支配下で生きる必要のないようにされました。律法によって義とされることはありえないのです。どんな形でも律法の要求に従う必要はなくなりました。それが割礼であれ、安息日規定であれ、食物の清潔規走であれ、そのようなものを遵守すれば神の前で義とされるという考えはいかなる場合でも有効ではないのです。

 

再び、律法の行いで義とされようにするならば、律法による義を求めることに他ならず、それではキリストの贖いの業が無駄になってしまいます。キリストの十字架における犠牲がもはや無効になります。何のためにキリストが十字架につけられたのか、分からなくなります。キリスト教信仰は崩壊します。

 

ペトロやバルナパはキリストへの倌仰を蔑ろにしたわけではありません。しかし、律法に向かって生きていく、つまり律法を生活原理とするならば、キリストは不要となり、キリストの排除されたキリスト教はもはやキリスト教ではなくなります。パウロはペトロやバルナバの行動にその気配をみて取ったのだと思います。

 

【信仰プラス何かと言う誘惑】

律法に従って生きていたユダヤ人がキリストを信じた以上はもはや律法は神の前で正しい人間 として(神に義とされ〉見なされる道を歩みます。律法ではなく、信仰が神の民に加えられる唯一の道です。しかし、私たちはペトロやバルナバの落ち込んだ誘惑、罠に警戒をしなければなりません。私たちも信仰を持って出発したのに、ふとしたきっかけで信仰プラス何かと言う誘惑に曝されます。信仰だけではだめなのではないか,信仰以外にもっと救いを確保できるものはないのか。そこでいろいろな人間的な努力が加えられます。修行などその典型でしょう。

 

律法に従って、あるいは自分の力で道を切り開き、神はせいぜいその協力者だと見なされます。 人間が神の救いの業に協力できると考える考え方もあります。けれども、あらゆる点で私たちを生かしていくのは私たちの固有の能力や熱心、努力やまして特別な能力によるのではありません。(おわり)

2014年03月23日

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