2014年3月

2014年3月30日説教「御霊を受けて福音を信じる」金田幸男牧師

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礼拝時に去る2月2日の伊丹教会会員総会で選出された山口耕平兄の執事任職/就職式がありました。


2014年3月30日説教「御霊を受けて福音を信じる」金田幸男牧師

 

 聖書:ガラテヤの信徒への手紙3章1-4

1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。

2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが"霊"を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。

3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、"霊"によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。

4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに......。

 

 (要旨)

【物分かりの悪いガラテヤ人】

3章1節から、パウロは「ああ、物分かりの悪いガラテヤ人」と嘆きとも怒りともつかない言葉で始めています。実際のガラテヤ人自身は決してそうは思っていなかったはずです。ギリシヤ文化のもとで生きるものにとって、その文化は当時最高水準にあると信じられていました。

 

だから、愚か者扱いする、このような言葉を聞かせられるなら憤慨したはずです。あえてパウロがこのようにいうのは、ガラテヤの教会員の状態が信じられないという気持ちの表れと見てよいと思います。

 

【偽教師】

誰が惑わしたのか。むろんパウロは、それがパウロの敵であり、ガラテヤ教会に入り込んだ偽教師であることを承知しています。分かりきったことをいうパウロの内心には、そんなにあっけなく偽教師に惑わされて・・・という失望の念が満ちています。

 

ガラテヤのキリスト者が陥った現状はあまりにもひどい。パウロには内心怒りがこもっていました。そして、福音から逸れていくものへの悲しみの心も含まれていたはずです。福音ならざるものがあたかも福音の位置を奪い取ってしまう、これはパウロには許しがたいことでありました。

 

【怒り】

人には怒ってよいときがあります。といっても、現在の世の中、腹立たしいことばかりで、腹が立たないときはありません。キリスト者はむやみに怒って、われを忘れて、冷静さを失ったり、神の道から外れてしまうようなことがあってはなりません。怒りは制御しにくい感情ですから、余計に注意しなければなりません。だから、パウロが何に怒っているかを見なければなりません。パウロはガラテヤの教会員が福音から逸れていくのを怒っています。ただ神の恩寵によって救われる。この福音の真実を曲げたり、歪めたりすることには耐えられないのです。このときパウロは激しく怒り、度外れな表現も厭いません。

 

【十字架のキリスト】

 目の前に描き出された、十字架のキリストが惑わされて見えなくなっている。これはどういうことか。

 

3-4節から見て、ガラテヤのキリスト者が福音信仰を持ったとき、御霊を与えられたと考えるのは正しいと思います。異邦人がキリストを信じたとき、聖霊が彼らに降ったと記されている個所は複数あります(使徒言行録8:14-17=サマリヤ人、10:44-46=コルネリウス一家、19:6=エフェソ人)。

このとき、ガラテヤのキリスト者は不思議な体験、つまり肉眼で十字架のキリストを見たのかもしれません。ただし、パウロは明確に報告してくれていませんので正確には語ることができません。

 

むしろ、ここは、パウロの言葉による証言、宣教によって、ガラテヤの信徒が、まざまざと十字架のキリストを見るように、心に思い浮かべることができたと理解したほうがいいと思います。御霊を受けたことは事実ですが、それがどのような現象を伴ったかは明瞭ではありませんし、使徒言行録に記載されていることも実は明確ではありません。

 

【御霊を受ける】

御霊を受けるとき、それに伴う賜物の中には異言とか預言がありますが(コリント2 14章)、その場合でもパウロはどんな現象であるか詳細には語っていません。異言が恍惚状態になって理解不能な言葉を語る状態であるとしてもそれ以上は不明です。だから、ガラテヤ人が福音を信じたとき、十字架につけられたキリストを目前で見るかのように示されたことが、肉眼の視覚経験であったかどうかは全く分かりません。だから、実際、パウロの言葉により宣教を通してガラテヤにキリスト者がその十字架の意味するところを明確に信じたことを指していると解釈したいと思います。それならば私たちが経験していることと同じです。

 

【見えないことを信じる】

確かに、視覚を通して真理が伝えられるというあり方は一般的です。今日は視覚による情報伝達が一般的です。テレビでニュースが伝わります。しかし、人間は視覚という感覚によって得られる情報を確実と信じてきました。見ないと信じないと宣言する人は今も昔もいました。聖書の奇跡を読んで、奇跡を見せてくれ、そうしたら信じると宣言する人はたくさんいます。目で見ることがもっとも確かである。これは科学時代の現在の特質ではありますが、人は目で見なければ信じないという特質をもっています。

 

【言葉による真理の伝達】

言葉により真理の伝達。これは人間だけができる特質です。そして、言葉にとって説得され、説明され、知性や理性によって理解し、受け止め、そして信じることができます。心を打たれ、感動し、そして納得して受容した確信は強力であり、人自身の精神を強固に形作ることができます。

 

 すぐれた福音の説教は聴衆の心に、十字架のキリストを示します。それは視覚で描かれる十字架のキリスト以上にその人に影響力を及ぼすものです。言葉による説得は決して空しくはありません。

 

【画像による福音】

もちろん、絵画の効力を否定するものではありません。所詮、私たちが描くイメージは、目で見たものの再構成である場合が多いものです。宗教改革は教会堂から絵や像を除去しました。それは、絵や像が無学な信徒のための教科書として用いられたことによります。宗教改革者はそれを否定して、文字、つまり聖書の言葉を通して真理を伝えようとしました。画像は聖書の言葉に変えることはできません。しかし、私たちは聖書を題材として描かれた絵画を見て、作者の信仰理解、聖書の把握を認めることができます。絵画を見ながらあれこれ考え瞑想することは大きな益を生むものです。それは作家の創作であることを考慮しつつ、聖書に記されている事件や出来事、神の働きを想像たくましくして、思い描くことは信仰にとってマイナスにはなりません。

 

 【聖霊を受けた体験】

パウロはガラテヤの教会員に尋ねます。ただひとつ尋ねたいと言われますが、そのひとつで充分であるという意味です。それを聞けば、その答えにすべてが隠されている。

 パウロが問うたのは、御霊を受けた時期についてです。先に触れましたように、ガラテヤの信徒もまた福音を信じたときに、聖霊を受けました。使徒言行録にガラテヤ人の経験したことは記録されていませんが、2:3-4から、彼らも聖霊を受けるという経験をしたことは容易に想像できます。御霊を受けた際の現象については不明です。パウロにとっては重要なことは別にあります。それは福音を信じたときに御霊を受けたということです。

 

律法のわざを行なったときに聖霊を受けたのではありません。これは簡単に分かることです。ガラテヤの信徒ははっきりパウロに答えることができます。福音が宣教されたとき、ガラテヤの信徒は確かに信じました。そのときに、聖霊を受けたのでした。それに伴って、どんな現象が起きたかは記されていませんけれども、重要なことは、福音を受け入れたときに聖霊を受けるという経験をしたのです。それは紛れもないガラテヤの信徒たちの体験でした。

 

【御霊で始めたものを肉で完成しようという誤り】

ところが、偽教師から、割礼も必要だ、律法の実行が求められると教えられて、律法を行なって救いを完成しようとしたのです。パウロはいいます。律法を行なって信仰を完成させようとしたが、そのときに御霊を受けるという経験をしたのか。むろんそんな経験をしたわけではありません。

 

福音を信じたときに御霊を受け、そして、その信仰の完成は律法の行いによるとしているが、それは大きな誤りだと指摘します。御霊で始めたものを肉で完成しようとしている。肉による完成とは律法の行いであることは言うまでもありません。律法の行いによって救いを完成しようとする。彼らはイエス・キリストへの信仰を否定していたのではありません。ただ、信仰だけでは不十分だとされたのです。プラスアルファが必要である、それが律法遵守というのです。ガラテヤの教会員が説得されてしまった教えがこれなのです。

 

 福音を信じたとき、御霊を受けたのであるが、律法の行いによってしては御霊の拝領などなかった。この事実を見て、ガラテヤのキリスト者ははっきり気がつかなければならないのです。福音によって、ただ神の恵みにより罪人は救われるのです。  

 

今日ではガラテヤのキリスト者と同じような現象が起きているわけではありません。でも、共通の出来事があります。コリントの信徒への手紙一 123 「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。

 福音を信じ、キリストを愛し、キリストにあって生きていくものは聖霊によってそれができたのです。

 

私たちは、福音を信じて、洗礼を受けました。これには、聖霊の入る余地がないように見えて、実は聖霊を抜きにしてこのようなことはありません。聖霊が働かれたからこそ、私たちはイエスを信じ告白することができるようになったのです。御霊が私たちの心のうちで働かれなければ主を信じることはなかったのです。

 

【私たちの陥る罠に注意】

ところが、私たちは信仰を始めていくばくも経たないうちに、信仰のマンネリに陥ります。スランプと表現する人もいます。すると、その信仰を強化するために、何か努力をしなければならないと考え出します。難行苦行を自分に課する。熱心に善行を行なう。自分を厳しく律する。こういう営みをしなければ信仰は成長しないと考えるのです。

 

これは私たちの陥る罠です。ガラテヤの信徒も同じような心理状態ではなかったか。信仰だけでは不十分だから、律法の行いを加えないといけない。そう思ったのに違いありません。そこで、律法を守って救いを完成しようとしたのです。

 私たちにとっても信仰の成長は、私たちの何らかの努力によるものではありません。イエスを主として信じて生きていくのはまさしく聖霊なる神の働きです。私たちはこの聖霊に信じてより頼むべきなのです。信仰を始め、維持し、成長させ、完成するのは聖霊の働きです。(おわり)

2014年03月30日

2014年3月23日説教「キリストが私のうちで生きている」金田幸男牧師

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204 323日説教「キリストが私の内で生きている」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2

19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。

20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

 

 

(要旨)

【ペトロ、バルナバの変節】

ことの発端は、エルサレムからユダヤ人キリスト者がやってきたことでした。パウ口もケファ= ペトロ、バルナバもイエス・キリス卜を信じたために、もはや律法に従って生きていくことをしなくなっていましたが、ところが、ペトロやバルナバ、あるいはその他のユダヤ人キリスト者は異邦人との付き合いをやめ、再びかっての律法に従う生き方を始めたのです。パウロはそのようなぺトロたちの生き方に否を宜します。

 

それはいったん崩したもの(律法の実行という生活原理)を再建するような生き方です。ペトロたちは、キリスト教信仰から逸脱したとは思われません。彼らは相変わらず初代キリスト教会の指導者でありました。キリストを信じる信仰によって救われると言う確信を維持していたはずです。

 

【異邦人は汚れている】

ただ、彼らはユダヤ人伝道に派された使徒たちでした。だから、ユダヤ人に伝道するために異邦人のような生き方、異邦人との付き合いをやめてしまったのです。 異邦人は汚れている、特にユダヤ人が汚れた動物としている食材を好みます。ユダヤ人は異邦人が汚れていると考えます。汚れたものと付き合えば汚されています。

 

これでは異邦人キリスト者はペトロたちとは交わりを持っことが出来ません。異邦人も割礼とか安息日、汚れた食物規定などを遵守しなければユダヤ人キリスト者と付き合えなくなります。

 

要するに異邦人にも律法を強制することになります。そうしなければユダヤ人と異邦人は共同で礼拝も守れなくなります。結果として律法を生活原理にして生きていくように強制されることになっています。これでは逆戻りです。

 

【キリスト教信仰の核心】

そして、信仰だけで神の救いを受けるというキリスト教信仰の核心部分が危ういものとなります。 律法が神の民として救いにあずかるための条件にされてしまいます。信仰プラス律法の行いと言う救いの道の複数路線が出来上がってしまいます。これでは「ただ自由な恵みのみ』と言う福音の真理が危うくされかねません。

パウロはだから断固としてこのことについてはペトロに抗議をしたのでした。異邦人キリスト者にとっては大きな戸惑いを引き起こすものとなります。

 

【ユダヤ人と律法】

律法に従って生きるとは、狭い意味でのモーセの律法を意味していません。ここでは生活の原理と言うべき、人生全体を支配する規範であり、生活全体を律する根本原則でした。

 

ユダヤ人はこれを実践することでユダヤ人としてのアイデンティティを確保していました。つまりユダヤ人であるという自意職は律法の遵守であり、それこそが神の民のよりどころであり、生き様でありました。ユダヤ人には決して手放せない精神、ユダヤ人の魂というべきものです,

 

【律法に対しては、キリスト者は死んでいる】

ところがパウロはその律法に対しては、キリスト者は死んでいると言います。

律法は命じ、禁じ、 さばき、死刑を宣します。それが律法の役割であって、罪に定める役割を果たします。それ以外のものではありません。要するに救いをもたらす手段ではありません。

このために、律法に対して死ぬということは、もはや律法は命じたり、禁じたり、死を宜告することも出来ないのです。

 

【キリストとともに十字架につけられた】

奴隸所有者は生きている奴隸を酷使することはできますが、死んだ奴隸に対してはもはや何もすることが出来ません。奴隷所有者と奴隷の関係は生きている間に実効性があります。私たちは律法に対して死にました。どうしてそんなことが起きるのか。パウロはキリストとともに十字架につけられたからだといいます。

 

このようなことはどうして起きるのか。キリストの十字架は2千年も前に起きました。私たちは 今日生きています。時間と空間はかけ離れています。リァルな(現実の)世界ではこんなことは起きるはずがありません。でも、このパウロの発想、思索、理解はとても重要でパウロの特質です。

 

【新しい命に生きるため】

ロ一マの信徒への手紙63 -- 6節にこのように記されます。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」。

 

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復させられたように、 わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

 

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隸にならないためであると知っています。

 

【洗礼の意味】

洗礼は教会への入会式の意味があります。その点では儀式です。しかし、 儀式以上の意味があります。洗礼において神が働かれ、キリストと共に死んで、キリストと共に復活するという「奇跡」が起きるのです。それは聖霊の働きですが、私たちは霊的にキリストの死と復活に預かります。私たちは今肉体的に死んだり、復活したりするのではありません,しかし、聖霊の働きによって神秘的に今すでにキリストと共に生き死にしています

 

ちなみに洗礼にはもうひとつの意味があります。それは水が穢を洗い淸めるように、洗礼に働く聖霊は水の洗いで罪を淸めることを示します。むろん水そのものは罪の汚染をきよめることは出来ません。

それが出来るのはキリストの犠牲、キリストの流された血潮です。聖霊の働きをおぼえるとき、キリストも尊い御血潮が私たちを清めます。罪を清められたものが救いに入れられます。

 

私たちは死んでいます。それは洗札においておきました。だから、律法はもう私たちに対して何もできません。命じたり、要求したり、禁じたり、脅したり出来ません。キリストと共に死んだ。

 

でも現実に生きています。私たちはいまここで息をし、手足を動かし、頭を働かせています。まさしく肉体的に生きています。律法に対して死んだ私たちはどうなっているのでしょうか。

 

【キリスト、わが内に生きる】

パウロ はキリストがわたしたの内にあって生きているのだといいます。これは驚くべき御言葉で、しかし、 多くのキリスト者に暗記され、その人生に活力を与えてきた聖句です。かつて律法が生活原理、生命的根源であったのですが、今ではキリストはその位置にあります。しかも律法のようにいわば外から指示したり命じたりするのではなく、わたしのうちにあってキリス卜は生き方を決定されます。 キリストが新しい生活原理として、私たちの思いを越えて導きとなられます。

 

このことは私たちにとって神秘であって不可知な出来亊かと言うとそうではありません。パウロ 2 0節で、私たちは肉にあって生きている。つまり現実に生きているのですが、その場合キリス卜がわたしの内に生きておられます。キリストこそわたしの生活原理、いのちそのものとして内在されています。そのことは知りえない神秘、一切自できないことなのかと言うとそうではないのです。御自身を私たちのためにささげられて神の子、キリストを信じる信仰によって、私たちは内在するキリストと共に現実に生きているのです。

 

【聖霊の働き】

信仰があるところでキリストは内にあって生きておられます,聖霊が働かれ、聖霊の不思議な業のゆえに、私たちはキリストを生命原理、生命そのもの、根源的な力として与"えられ、キリストと共に歩んでいます。

 

このように律法に対しては死に、キリストがわたしの内にあって生きておられるのは神の恩寵により神の一方的な働きです。キリストは私たちの内におられます。キリストは今も生きておられますが、復活の体は天上にあります。肉体的にはいかなる形でもこのキリストと関わることはできませんが、聖霊のくすしい働きで、私たちはキリストと共に生きるのです。私たちはキリストにあって生きていくのです。

 

このようにされたものはキリストの計り知れない恩恵の故です。私たちが覚えなけれ.ばならないのはこのことです。

神の恵みが、もはや律法に対してその支配下で生きる必要のないようにされました。律法によって義とされることはありえないのです。どんな形でも律法の要求に従う必要はなくなりました。それが割礼であれ、安息日規定であれ、食物の清潔規走であれ、そのようなものを遵守すれば神の前で義とされるという考えはいかなる場合でも有効ではないのです。

 

再び、律法の行いで義とされようにするならば、律法による義を求めることに他ならず、それではキリストの贖いの業が無駄になってしまいます。キリストの十字架における犠牲がもはや無効になります。何のためにキリストが十字架につけられたのか、分からなくなります。キリスト教信仰は崩壊します。

 

ペトロやバルナパはキリストへの倌仰を蔑ろにしたわけではありません。しかし、律法に向かって生きていく、つまり律法を生活原理とするならば、キリストは不要となり、キリストの排除されたキリスト教はもはやキリスト教ではなくなります。パウロはペトロやバルナバの行動にその気配をみて取ったのだと思います。

 

【信仰プラス何かと言う誘惑】

律法に従って生きていたユダヤ人がキリストを信じた以上はもはや律法は神の前で正しい人間 として(神に義とされ〉見なされる道を歩みます。律法ではなく、信仰が神の民に加えられる唯一の道です。しかし、私たちはペトロやバルナバの落ち込んだ誘惑、罠に警戒をしなければなりません。私たちも信仰を持って出発したのに、ふとしたきっかけで信仰プラス何かと言う誘惑に曝されます。信仰だけではだめなのではないか,信仰以外にもっと救いを確保できるものはないのか。そこでいろいろな人間的な努力が加えられます。修行などその典型でしょう。

 

律法に従って、あるいは自分の力で道を切り開き、神はせいぜいその協力者だと見なされます。 人間が神の救いの業に協力できると考える考え方もあります。けれども、あらゆる点で私たちを生かしていくのは私たちの固有の能力や熱心、努力やまして特別な能力によるのではありません。(おわり)

2014年03月23日

2014年3月16日説教「キリストを信じる信仰と義」金田幸男牧師

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2014316日説教「キリストを信じる信仰と義」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章15-18節

15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。

18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。

 

(要旨)

【信仰により義とされる】

15-16節は、14節に直接繋がり、ケファ=ペトロにパウロが批判して語った言葉の一部だという解釈がありますが、ここに記されていることはペトロ一人への言葉ではなく、この手紙の読者全体へ宛てて書かれたと見たほうが自然です。

 

それに、16節は、ガラテヤの信徒への手紙の主題であるというだけではなく、聖書の中でも、重視されている聖句です。ある人は、黄金の聖句とも読んでいるほど価値ある聖句というのです。だから、ペテロ一人への言葉ではありません。

 

【異邦人と罪人】

まず15節ですが、パウロは自分が先祖以来のユダヤ人である、つまり生粋のユダヤ人であり、異邦人ではないと言います。同時に、私たち読者には不快を催すような言葉を続けています。異邦人はすなわち罪人という物言いです。これはユダヤ人の自意識をよく表しています。

 

ここで言う罪人はいわゆる法律を破る犯罪人という意味ではありません。

マタイ福音書9章11で、キリストはレビを弟子に招かれますが、そのとき、徴税人や罪人と食事を共にしているという批判を受けたとありますが、その場合の罪人は犯罪人というよりも、特にファリサイ派の人々からは、律法をきちんと守ることが出来ない、その意味で汚れている人々と見なされているものたちを指しています。

 

【ファリサイ派】

職業上の理由などで、当時のユダヤ人の中でも律法の厳格な遵守、ファリサイ派や律法学者が解釈しているような規則を守れない一群の人々が罪人とか「地の民」(地面に這い蹲る人)と呼ばれ、蔑まれていました。

 

パウロはこのような意味で、異邦人を罪人と呼んだのです。異邦人はユダヤ人のように律法に則って宗教的な営みを行ってはいません。厳格に律法を守ることのない異邦人は罪人、つまり汚れたものだとユダヤ人は異邦人を見て評価していたのでした。

 

【信仰義認】

ここに記されていることは信仰によって義と認められるという福音の真理です。

信仰には、「イエス・キリストを信じる信仰」と「キリスト・イエスを信じる信仰」の、二種類の表現が出てきます。これを厳密に区別することはできません。しかし、あるニュアンスの違いがあることは確かです。

 

イエス・キリストを信じる信仰とはイエス・キリストを信仰の対象として信じる信仰と言えます。キリスト・イエスを信じるとは、キリスト(救い主、油注がれた者)とはイエスのことであると信じる信仰と言えます。

 

 私たちの信仰観念は信じる対象をあまり詮索したり、探求したりすることを拒否するというものではないかと思います。「何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行法師)という信仰です。信仰の対象は畏るべきもの、従ってはかり難く、極めがたい。だから、畏怖の思いを持って信心するだけ。

 

しかし、パウロがここで言う信仰は、イエス・キリストを信じる信仰に他なりません。ですから、キリストをしっかり認識しなければ信仰は成り立たないのです。逆に言えば、イエス・キリストを知れば知るほど信仰は深まっていくのです。

 

【信仰心】

信仰が浅いとか足りないとか、弱いとか嘆く人が多くいます。信仰心は人それぞれで熱心な信仰の人もあり、疑いと信仰の狭間で悩む人もいます。しかし、問題は私たちの信心のあり方ではなく、どれだけイエス・キリストを信じているかにかかっています。

 

聖書を学び、聖書から教えられて行くことで私たちの信仰の対象を明確に捉えることが出来、それが信仰を深め強化していきます。

 

【キリストはイエスであると信じる信仰】

キリストとはイエスであると信じる信仰とはどういうものでしょうか。

キリストとはヘブライ語のメシヤ(油注がれたもの)の翻訳で、メシヤとは神がそのようのために特に選んだ働き人を指しています。

 

王、預言者、祭司がそれにあたります。これらの職務を委託されたものはその働きによって神に代わってその務めを果します。その役目の究極的目的は神の国の確立にあります。ユダヤ人はこのメシヤを期待して待っていました。神は必ずメシヤを与える、特に苦難のときにメシヤを使わされると期待し、希望を持ちました。

 

この信仰がユダヤ人の信仰で、ユダヤ教は今日もなおメシヤの到来を望む宗教なのです。キリスト教は、その期待されていた救い主、メシヤがナザレのイエスであると信じ告白します。

 

このようにして、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは義と認められます。この義と認めること、義認ともいいますが、キリスト教信仰のもっとも大切な教えです。

 

【義とする】

義とするとは、法廷用語です。裁判官が被告人に無罪を宣告することを指しています。裁判の過程で裁判の席に引き出されたものが取調べを受け、結果として無罪であると宣告されます。他人がとやかく言っても、本人自身しか知らないような行動があっても、法廷で無罪とされたらその人は無罪なのです。

 

 私たちは誰でも有罪を免れません。心の中まで神はその罪を問われます。これに耐えられるものは一人もいません。しかし、神はイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちを義とされます。 

 

私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神に無罪とされ、義人とされます。義人は神の国を継承し、永遠の命を約束されます。信仰によって、とありますが、これは信仰が義とされる手段であるという意味です。

 

私たちは信仰によって義とされますが、その信仰には強い弱いがあり、熱心不熱心があるでしょう。それぞれの信仰のあり方は異なりますがただひとつ共通していることは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということです。

 

【救いは律法を守り行うことによるのではない】

パウロは、救いは、つまり義とされるのは、ただ信仰によるのであって、律法の実行、つまり律法を守り行うことによるのではないと断言します。誰も、律法の行いでは救われない。ユダヤ人もこの例外ではありません。

 

【パウロの回心】

律法は、命じ、禁じます。ただそれだけです。律法は完全に守ることを要求します。守れなければ有罪を宣告し、さばきに定めます。この律法の命令に完璧に従える人は一人もいません。だから、この律法の実行による義は断念して、キリストを信じる信仰によってだけ救われるとパウロは信じるに至ったのです。それが彼の回心でした。

 

【ユダヤ人キリスト者】

17節は、14節に続くと考えるとよいかと思います。この節は難解な節とされています。文章のつながりや構造がややこしいのです。しかし、単純に考えて、次のように考えるとよいのではないでしょうか。キリストを信じる信仰によって義と認めらます。そして、異邦人と同じような生活をします。実際ペトロやバルナバがそうでした。彼らはイエスを信じる信仰によって義とされるという福音の真理に立って異邦人と交わり、食事も共にしました。これでユダヤ人キリスト者が罪人となるのであれば(実際にユダヤ人からも見れば罪人になることです)、キリストを罪作りな方とすることになります。

 

しかし、イエス・キリストは私たちに罪を犯させるはずがありません。つまり、キリストが罪の奉仕者になるはずがありません。信仰によって義と認められたものが異邦人のような生き方をしてもそれは罪ではありません。かつてパウロは異邦人のような生き方を罪人のそれと思っていました。そのような罪もまた信仰によって許されています。異邦人と付き合ったからといって罪人になるわけではありません。

 

それなのに、ペトロもバルナバも異邦人と付き合えば汚される=罪を犯すと考えて、今までの行動をすっかり止めてしまったのです。これは信仰によって義とされたものには相応しいとは言えません。異邦人と食事を共にしたからといってそれで、ユダヤ人キリスト者が罪を犯すわけではないのです。まして、キリストを罪の作者とすることは決して出来ません。

 

【壊したのに再建する=自分を違反者にする】

18節もケファ(ペトロ)を念頭において語られていると見てよいと思います。自分で打ち壊したものを再建する。何を破壊したのでしょうか。ここでは明らかに律法の行いによる義です。ユダヤ人の大半が律法の行いによって自ら義とされると確信していました。ファリサイ派はそのなかではもっとも厳格に律法を守っている。自分たちこそ神の前で義とされると信じていました。だから、自分だけではなく、ユダヤ人全般が律法を遵守すべきであると考えていました。

 

パウロもペトロも律法の行いによる義を断念しました。ところがそれを再建する、つまり、壊し、廃絶したものが価値あるとされるならいったいどうなるでしょうか。律法の行いによる義をまた正当とすることになります。そういうことは、自分を違反者にすることだとパウロはここで語ります。

 

それはケファやバルナバのしていることです。エルサレムから来たユダヤ人がペトロたちの生き様を攻撃したに違いありません。彼らは律法に従い、割礼を受けなければ救われないと主張していました。

 

ペトロはその攻撃を避け、ユダヤ人に伝道をしようとしたにちがいありません。ペトロが律法の行いによる救いを信じる信仰に戻ってしまったのではないと思います。ユダヤ人に対する伝道をペテロは心に抱いていました。ユダヤ人に伝道するためには、異邦人のような生き方をやめ、それどころか、異邦人キリスト者との交わりさえ回避するようになったのだろうと思います。

 

しかし、それは古いもの(律法の実行の義)をせっかく壊したのに再建するようなものだとパウロは言いたかったのです。それは違反者であることを証明するようなものです。

 

 私たちは、信仰による義を信じています。それなのに、私たちにとってさらに何か付け加えないといけないかのように思う誘惑があります。あるいは古い生活の様式を再興したくなってきます。その結果は、イエス・キリストを信じる信仰を揺るがしてしまいます。かつての生き方に何か幸福があるかのように、また救いがそこにあるかのように思い、ただ神の恵みによって救われるという信仰をなおざりにしてしまっては、私たちは自ら大きな損害をこうむることになります。(おわり

2014年03月17日

2014年3月9日説教「一致と調和を求めて」金田幸男牧師

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2014年3月9日説教「一致と調和を求めて」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2

11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。

12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。

13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。

14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

 

 (要旨)

【パウロのペトロ非難:教会のスキャンダルか】

パウロとケファ=ペトロの間に亀裂が走った。ここに記されていることは最初期のキリスト教会の最大のスキャンダル(躓き)という見方も成り立ちます。聖書は写本という形で後世に伝えられますが、その過程で、この記事を省略することはありませんでした。

 

この記事が残ったということは、それだけにこの問題が抱えている重大さを教会は認識していたことを示します。省略できないほどの重大問題であったのです。

 

けれども、教会の指導者であり、第一人者であるペトロがパウロから非難されていることは、ペトロを尊敬する人たちには許しがたいと見られます。初代の教皇とも見なされています偉大な使徒です。そこで、ある人はこのケファは12弟子の一人、シモン・ペトロではなく、別人、例えばルカ10章1以下の72人の弟子の一人であるという説明がなされます。この考え方は到底受け入れるわけにはいきません。このケファは間違いなくキリストの12に弟子、しかもその筆頭の人物であることを否定する根拠は何もありません。

 

【初代教会は分裂したか】

事実はパウロがペトロを非難した、あるいは、なじったのです。しかも、面と向かって、つまり公然と非難をしたのです。ペトロはヤコブと共に教会の指導者です。これは穏やかな行動でありません。教会の指導者が互いに非難をしたために教会が分裂した例は数えるのに暇がありません。それだけ始終起こっています。その結果多くの教派が出来てしまいました。

 

ところが、パウロがペトロを非難した事実にもかかわらず、この2人が争いを起こし、その結果教会は分裂したというような痕跡はありません。教会の歴史から見て、パウロとペトロはこの後も教会の指導者であり続けたと思われます。彼らの間に信仰の不一致はありませんでした。

 

異なった説もありますけれども、(例えば、使徒言行録では12章以下の記事で、ペトロが出てくるのは15:14だけで、ここから、教会の指導者はヤコブになっていたという考えもあります)、ペトロは教会の指導者であり、教会の伝承、あるいはペトロに対する主の予告(ヨハネ21:19)などから見てもペトロは使徒の筆頭として、福音の伝道者であり続けたと見るべきでしょう。そして、パウロもペトロも同じキリストを、そして、同じ福音を宣教していたのであって、この両者の間に亀裂は生じませんでしたし、教会が分裂することもありませんでした。

 

 教会が分裂しそうな出来事ではありますが、それが起こらなかったのはなぜか。

具体的には記されていませんが、パウロは賢明に行動したことは確かです。すべては語られていませんが、それでも肝心な点はいくらか教えられます。

 

【ペトロに非難すべきところがあった】

まず、第一に、ペトロに非難すべきところがあったと、パウロが語っていますが、この言葉は、非難に値するところがあって、あるいは、罪とされるところがあって、という意味です。パウロはペトロの行動が非難されるべきだと思ったというだけではなく、誰が見ても、さらに大切なことはペトロ自身もまた、自分の行動が非難に値すると見なすようなところがあったという意味で、この言葉が用いられています。

 

パウロの非難は決して些細な問題を大袈裟に、過大に非難するというようなことはありませんでした。あるいは、ただあしざまにペトロを非難するだけというやり方をしているのではありません。私たちの間での非難はしばしば非難自体が目的であるような、あるいは非難するもの自身の感情、あるいは好みで批判している場合が多いものです。相手の立場など考慮せず自らの正当性を訴えるために、相手を非難するということもしばしば起こっています。パウロはそのような非難をしませんでした。

 

【福音の真理をゆがめる】

第二に、パウロは、ただペトロの行動が非難に値するというだけで非難をしているのではありません。彼はペトロ、そしてバルナバの行動が福音の真理をゆがめてしまう恐れを感じ取ったのでペトロに反対を表明したのでした。

 

パウロが信じ、そして、ペトロ自身も信じていた福音は、救いはただ恵みにより、キリストを信じる信仰によって救われるというものです。無代価の恩寵というべきもの、自由な恵み(つまり、1円も支払うことなく与えられる恵み)によって、私たちはキリストにより救われます。

 

それは異邦人であれ、ユダヤ人であれ共通しています。この福音の真理が危険に瀕していると見なされています。そのとき、パウロは黙っていることができなくなったのです。問題はどうでもいい、周辺的な、小さな問題ではありません。福音が蔑ろにされる恐れがあり、それによってキリスト教信仰が変質してしまう恐れがあるとパウロはみたのです。

 

 問題は福音の真理に関わることでした、だから、パウロは沈黙できなかったのです。相手がキリストの12人の弟子の筆頭に位置する人物であっても、それは放置しておくわけには行かなかったのです。

 だからこそ、ペトロとの間が決定的に分かれ、修復できないような分裂を生じることはなかったのです。パウロ自身そのことを充分に弁えてペトロに言葉をかけたのだろうと思います。単なる非難のための非難、譴責だけ目的の批判ではなかったのです。こうして、最初期の教会の危機は回避されたと見てよいのだと思います。

 

【食事の問題】

パウロが非難した点は、ペトロが急にその言動を変えたところにありました。特に食事の問題が関わっていたと想像できます。食事を共にすることは友好のしるしでした。同時に宗教的な意味もあります。

 

【ユダヤ人は異邦人と食卓をともにしない】

ユダヤ人は異邦人と一緒の食卓に着くことを警戒していました。その理由は、異邦人が汚れているとユダヤ人が確信している食材を口にするところにありました。今日では、食事の宗教的な意味をあまり問うことはありません。食事は楽しんで取るものだと考えられています。しかし、聖書の世界では、つまりユダヤ人の世界では、汚れた食材、ここでは豚肉が典型的ですが、食すると人自体も汚れてしまうと見なされていました。そればかりではなく、異邦人が使った食器を用いることも汚れの原因であると思ったほどであったのです。

 

汚れは神との交わりを阻害するものと見なされます。そのために、ユダヤ人は異邦人と食事を共にすることを避けました。

 

【なぜこんなことになったのか】

ペトロは初めは異邦人と共に食事をすることをためらっていませんでした。それはパウロが指摘しているとおりです(12節)。ペトロはローマの軍人、コルネリウスの回心の際に、幻の中で、汚れた食物を食べよと命じられています。彼には、異邦人との交わり、特に、食事の問題は克服されていました。ところが、エルサレムのヤコブのところからユダヤ人が来ると突然に彼は異邦人と食事をしなくなります。ペトロだけではなく、バルナバやその他のユダヤ人キリスト者も同じ行動に出ました。

 

なぜこんなことになったのか。パウロは異邦人に、ペトロはユダヤ人のために福音を宣教する使命が与えられていました。ペトロがアンティオキアに来た理由は記されていませんが(11節)、おそらくアンティオキアでもユダヤ人に対する伝道を試みようとしたのではないかと思われます。

 

【エルサレムの教会から来たユダヤ人】

ユダヤ人と接するにあたって、エルサレムの教会から来たユダヤ人は、律法の規定と称して、ユダヤ人の守っている習慣の厳守を主張したのだろうと思います。ユダヤ人に伝道するのであれば、異邦人との交わりを絶たなければならない。なぜなら、異邦人の汚れが及ぶからだ。ユダヤ人伝道のためには異邦人との接触をしてはならない。ユダヤ人はそれだけで拒絶することになる、というものであったと想像されます。

 

【ペトロの立場/動機】

そのようなペトロの行動は、異邦人にユダヤ人のような生活を強制しようとすることになります。そればかりか、結局は異邦人に割礼を求めることになります。ペトロはユダヤ人への伝道のために、異邦人との交わりを断とうとしたかもしれません。あえてユダヤ人の救いのために、異邦人との接触を断つ。異邦人伝道はパウロの領域です。

 

けれども、パウロはこのようなペトロの行動を容認できませんでした。結果として、ペトロの行動は異邦人に割礼を求めること(ユダヤ人は改宗した異邦人に割礼を要求しました)になりかねません。つまり、ユダヤ人のようにならなければ、神の民に加えられないということになります。

 

これでは救いはただ神の恵みであるという福音の真理を危うくしてしまうのです。いくらユダヤ人伝道が口実であっても、異邦人への福音宣教がゆがめられてはならないし、まして、異邦人の救いにとって割礼などのユダヤ人の慣習が条件となるようなことは避けられなければなりません。

 

【福音の真理は曲げられない】

ペトロの動機が正しくても、理由があっても、福音の真理が疎かにされてはならないのです。パウロはこのために公然とペトロを非難しました。パウロのしたことは、単純であるかもしれません。実用的、現実的な必要のために福音の真理が曲げられてはならない。言うことは易しいものです。

 

しかし現実に誤っている人を公然と責めることは困難です。まして、その人には正当な理由があると思われている場合は特にそうです。面と向かって非難することは修復しがたい亀裂を生じかねません。まして、それが伝道のためという理由で行われた場合です。結果を予測して、行動することは大変難しい問題です。

 

【パウロは信頼の上にペトロを批判できた】

パウロは、ペトロと決定的な分裂を意図していません。しかし、真理のためにはっきりと非難しなければなりませんでした。このはざ間で最善の方法は何か真剣に考えなければならないのです。多くの場合失敗します。では、パウロはなぜペトロとの決定的な分裂を避けることができたのか。

 

それはペトロ自身も認めざるを得ない真理に基づいていたからです。ペトロもパウロから指摘されるとそれが非難に値するものだと認めざるを得ない形で批判をしたからです。さらに言うならば、ペトロもパウロも福音理解では一致していました。そこには相違はありません。だから、パウロは信頼の上にペトロを批判できたといってよいと思います。そうでなければ、批判は決定的な亀裂を生じます。福音の本質を守れたからこそ、ペトロもパウロも袂を分かつことがなかったのです。(おわり)


2014年03月09日

2014年3月2日説教「与えられた恵みを認める」 金田幸男牧師

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2014年3月2日説教「与えられた恵みを認める」 金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章6~10

6 おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。

7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。

8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。

9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。

10 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

 

 

(説教要旨)

【3人のおもだった人々】

パウロはガラテヤの信徒への手紙2章1-10で、「おもだった人々」という表現を3度も用いています。これは単にくどい表現というだけはなく、ヘブライ人の世界では、同じ言葉を2度も3度も繰り返すのは強調であったのです。

 

「おもだった人々」とは「影響力のある人々」「何者かと認められている人々」「評価を受けている人々」を意味しています。このおもだった人々とは9節から「ヤコブ、ケファ=ペトロ、ゼベダイの子ヨハネ」であったことが知られます。

 

ヤコブはいわゆる大ヤコブ、つまりゼベダイの子でヨハネの兄弟のことではなく、イエスの兄弟であるヤコブを指します。大ヤコブはすでにヨハネのために殉教の死を遂げていました。彼らが当時のエルサレム教会の重鎮であり、指導者でありました。この「おもだった人々」という表現を3度も用いている理由は何か。

 

ヤコブたちをこのように呼んでいたのは誰であったのか。まず可能性としてはエルサレム教会の会員がこのように3人を呼んでいたと挙げることができます。しかし、パウロが3度もこの言葉を使ったのはこれ以上に特別な思いが含まれていたと思われます。

 

【パウロの敵対者】

すると、このようにヤコブたちをさして呼んでいたのは、パウロの敵対者と考えられます。彼らはヤコブたちを持ち上げていました。そして、当然、パウロはおもだった人とは区別をします。

 

彼らはヤコブやペトロ、ヨハネを「おもだった人たち」とすることでパウロをけなし、軽んじたのです。それは、パウロが語る異邦人への福音否定するためでした。

 

異邦人キリスト者にも割礼は必要であると彼らは主張していました。パウロはおもだった人から認可を受けずに語っている。権威のない人間が語る教えには権威がないと反対者は主張しました。

 

パウロは、その祭り上げている、当のエルサレムの使徒たちから福音に関して何ら修正を受けることはありませんでした。同行しているテトスは彼らから割礼を要求されませんでした。

 

反対者がおもだった人々と呼んでいるそのヤコブ、ペトロ、ヨハネはパウロの教えている福音に関して否定したり、反対したりすることはありませんでした。パウロの反対者がおもだった人々と言っている、当のキリストの弟子たちからパウロはその教えているところを決して反対もされなかったし、否定もされませんでした。パウロはこのことを強調するために「おもだった人たち」と表現したと考えられます。

 

【おもだった人々に対するパウロの尊敬】

むろんパウロ自身もエルサレムの指導者を「おもだった人々」という、つまり尊敬をこめて語っていたと思われます。彼らは地上にいたイエスとしばらく行動を共にしました。おそらく、彼らはイエスと共に野宿をし、その説教を聞き、時には奇跡を目撃しました。

 

ヤコブの場合、イエス・キリストの復活後、教会のメンバーとなったのですが、それでも彼はイエスの幼少時代からよくイエスを知っていたのは容易に推測できます。パウロはそうではありません。その点でパウロはヤコブたちとは違いがあります。パウロはそのようにイエスと一緒に起居を共にしたゆえに彼らを「おもだった人々」と呼んだのではないことは明らかです。

 

それでヤコブやペトロ、ヨハネが重視したわけではないでしょう。しかし、彼らがその目でイエスの言動を目撃していました。イエスの説教を聞き、奇跡を見、とりわけイエスの苦難をその目で見ました。彼らはキリストの十字架の苦難をその目で、耳で見聞しました。このことはパウロには経験できないことでした。ヤコブたちはキリストの目撃証人です。

 

この故に、パウロは彼らを尊敬に値するとも見ていたはずです。自らにないもののゆえに他者を尊敬できたのです。自分にないからねたみを起こすことはありませんでした。これがパウロの態度でした。

 

パウロは決してヤコブ、ペトロ、ヨハネに劣ってはいません。彼らと同様キリストに任命された使徒です。その点で決して区別されることはありません。しかし、パウロは彼らを尊敬します。キリストを臆することなく証しをし、目撃証言を憚らず語ったのです。この点でパウロは自らにないものを認めて、彼らへの尊敬を示します。

 

 【異邦人宣教に召されたパウロ】

パウロは彼らがおもだった人々であり、しかも、彼らはパウロの語る福音を切り捨てることなどせず、むしろ、ケファ=ペトロは割礼のある人々=ユダヤ人への伝道を委ねられ、パウロには異邦人への福音宣教を委ねられたのです。同じ福音を別の領域で宣教することになったのです。パウロはおもだった人たちからその決定を示されたのです。だから、この事実を強調するために「おもだった人々」という言葉を繰り返したのです。

 

【おもだった指導者とパウロは同じ福音を】

パウロもヤコブたちも同じ福音を語っていました。指導者たちの間で相違はありませんでした。教会はその歴史の初めから同じ福音を語っていました。それはパウロがこのガラテヤの信徒への手紙の中で強調しているところです。語る人は異なりますが、福音は同じです。キリストを信じる信仰によって、ただ神の恵みによって人は救われます。この福音において教会は一致していました。

 

おもだった人はパウロを支持していました。他でもない、あの、おもだった人々と誰もが認めている最初の使徒たち、あるいは最高指導者であったヤコブがパウロと信仰を同じくしているのです。

 

他でもない、あのヤコブが、あのペトロが、あのヨハネが、パウロと同じ福音を語っているのでした。そのおもだった人々から、ペトロがユダヤ人への宣教をその責任分野としたように、パウロは異邦人宣教を認められました。

 

【右手を差し出した】

ただ役割分担しただけではありません。彼らは、パウロのその役目を「恵み」と認め、しかも右手を差し出します。右手を差し出す行為は友好のしるしというだけではなく、契約締結の行為だとされます。パウロと彼らは何の契約を結んだのでしょうか。

 

【福音を宣教する恵み】

それは、同じ福音を語るという契約であったと思われます。相手が誰であろうとも同じ福音を語るのだという固い約束を結んだのでした。パウロはこれを、彼ら、つまりおもだった人々が恵みとしたと申します。この指摘は見逃すことはできません。同じ福音を宣教することは神の恩寵なのです。同じ信仰を奉じ、その福音信仰を伝道することができる、それは神の恵みであるといいます。

 

【神の恵みと伝道について】

伝道はキリスト教という宗教団他の布教活動、つまり、信者を増やす働きと見られがちです。伝道は結局人数を増やさないと意味がないと考え、信者獲得に奔走します。入信する人数が少ないと失敗したとか成果が上がっていないとかと評価されます。

 

パウロはこの点に関して、エルサレムの指導者は同じ福音の宣教を指して、恵みだと言ったと申しました。同じ信仰を持っていること、また、その信仰を伝道することは神の恵みなのだといいます。

 

神の恵みは小さくありません。それは神の付与されるよきことです。私たちは神が与えてくださる有形無形のたまものを恵みといいます。とりわけ救いに関して神の恵みが指摘されます。

 

私たちが救われるのは神の恵みである、これが福音です。この恵みにまさる恵みはありません。しかし、恵みはこの救いに関わる部分に限られるのではありません。パウロはさらに拡大して私たちが同じ福音信仰を持って、それをのべ伝えることを恩寵といいます。

 

神は私たちに、伝道という恵みに機会を備えてくださっています。伝道は恵みの機会なのです。ですから、そこからよきことが溢れるばかりに与えられます。

 

伝道に関わるときに、私たちは伝道の結果であるさまざまな幸い、よきことにあずかります。伝道から、私たちは具体的にさまざまな神の働きに触れます。恵みを経験します。伝道を通して神が生きて働いておられることを体験できます。伝道に関わるとき、文字通り、伝道という神の恵みに私たちはあずかりうるのです。伝道を義務、あるいは単なる責任とするだけでは伝道は重荷になります。

 

伝道を神の恵み、したがって伝道を通して神の恵みにあずかると考えるのは、伝道を単に教会員獲得とだけしか考えない立場とは根本的に異なります。キリスト教会の伝道は発想の転換を求められます。

 

【エルサレム使徒会議と異邦人宣教への配慮】

この個所は使徒言行録15章のいわゆるエルサレム使徒会議を並行記事とされています。すると、使徒15章20-21の決議事項とガラテヤ2章10の記事の整合性が問題となります。使徒言行録は四つの禁止事項が記されます。ところが、ガラテヤでは貧しい人たちヘに配慮だけしか記されてされていません。矛盾があるとか、聖書の記事には間違いがあるとか、と指摘されます。しかし、それは表面的な見方に過ぎません。

 

使徒言行録とガラテヤの信徒への手紙が書かれた目的を考えれば分かります。使徒言行録は福音の進展、教会の発展に重点がかかっています。エルサレム会議の決定はユダヤ人を躓かせないためです。ユダヤ人への伝道が妨げられないようにとのエルサレム使徒会議の決定が記録されたのです。

 

ガラテヤの信徒への手紙は、異邦人教会に対する福音の宣教からエルサレム会議の配慮を記します。エルサレム教会は異邦人に対する伝道において、割礼、律法の行いを強制しないこと、これがこの手紙の中心課題です。

 

ですから、異邦人教会には1点だけ要求があったと記すのです。割礼は要求されない。ここに強調があります。エルサレム教会会議ではいくつかの合意事項があったはずです。そのすべてが克明に記録されたのではありません。ただ、ひとつのことは確かです。それは異邦人への福音とユダヤ人キリスト教会の信仰が別個のものだということは決してなかったのです。この点では一致していました。

 

重要なこと、本質的なことでは教会は一致していましたし、その点では、私たちは確かな情報を聖書から得ることが出来ます。聖書は細かなところをすべて書いているわけではありません。だから聖書には間違いあるとするのは早計すぎます。(おわり)M140302001.wav

2014年03月03日