2014年2月16日説教「福音信仰を告知する」金田幸男牧師

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2014年2月16日説教「福音信仰を告白する」金田幸男牧師

 

聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章18-24

18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。

20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。

21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。

22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。

23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、24 わたしのことで神をほめたたえておりました。

 

 

 (説教要旨)

【サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか】

パウロは劇的回心を経験しました。天からの突然の光と「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声に圧倒され、地に投げ倒され、目が見えなくなり、人に手を引かれてやっとダマスコの町に入ります。そして、そこで主に遣わされたアナニヤという人に導かれて、キリスト者になり、そればかりではなく、福音の宣教者、使徒に召されました。このような一連の体験を通じて彼は福音の真理を獲得しました。この劇的体験は神の特別な働きによるものであり、啓示経験でした。

 

【天からの啓示】

パウロの受けた福音は、その点では天からの啓示であり、彼の思索の所産であるとか、彼の独創、創作ではありませんでした。また、他の人から教えられて到達した結論でもなく、つまり二番煎じの教説ではありません。まして、人に喜ばれ、歓迎されるために福音の真理を歪曲したものではありません。

 

【アラビアに退いた】

イエス・キリストの啓示によって、この福音を受けたのだとパウロは強調します。エルサレムでなく、その後アラビアに退いたとありますが(17節)、これもアラビアの静かな、人のいないところで祈りつつ瞑想しながら、イエス・キリストからさらに深く福音の真理を教えられたと受け止めていいのではないかと思います。

 

【ただ、神の恵みにより】

ただ、神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって人は救われます。律法の行いではなく、善行でもなく、生まれ素性でもなく、才能能力によらず、経歴に関わりなく、人は神の恵みにより永遠の命に至る道を確保できます。

 

この福音は、パウロはイエス・キリストの啓示によったのです。すなわち、彼が奉じている福音は神的起源を持つのです。人間から出たものではありません。だからこそ福音は信じるに値する価値があります。パウロはこの福音の啓示性を強調しますが、それこそが福音が信じる根拠となるのです。

 

【ダマスコを脱出】

ところで、パウロは18節以下で、3年後にエルサレムに行ったことを記します。実は、使徒言行録9:23-25には、ダマスコを去った経緯が記されます。当時、ユダヤ人の陰謀があり、パウロを見張るものがいました。そこで、パウロは城壁から籠で釣り下ろされてやっとのことで脱出しました。

 

【アレタ王】

さらに、2コリント11:32で、アレタ王がパウロを逮捕しようとしていたと記します。アレタ王(アレタ4世=BC9AD40)は、娘がユダの支配者ヘロデ・アンティパスの妃となります。ところがヘロデ・アンティパスは彼女と離婚し、兄弟フィリポの妻であったヘロデヤと再婚しました。このために起きた事件は、洗礼者ヨハネがこれを非難し、そのためヘロデの怒りを買い、ヨハネは逮捕され、のちに理不尽にも殺害されたことです(マタイ14:1-12)。

 

また、アレタ王は娘に対するヘロデの行為を怒り、戦争を仕掛けます。戦いはアレタ王の勝利でした(AD36)。しかし、ローマはヘロデの味方をし、アレタ王を懲罰に処する計画に至るのですが、皇帝ティベリウスの急死で実行されないままに終わります。その後、カリグラ帝の時に、アレタ王はダマスコを一時占領します。彼の反ユダヤ的感情はダマスコのユダヤ人を圧迫する行動に駆り立てたかもしれません。

 

【エルサレム教会】

ユダヤ人とキリスト者の対立を口実に両者を追放する計画であったのではないかと思います。パウロは危うくこのような計画を逃れ、エルサレムに赴きます。使徒言行録9:26では、パウロはエルサレム教会に加わろうとしたとあります。ところがエルサレム教会の会員はパウロを信用しなかった、つまり彼の加入を認めなかったのでしょう。このような経過をパウロ自身、ここで記していません。それらはガラテヤ教会と関係なかったせいでしょう。

 

【ペトロと主の兄弟ヤコブに会う】

パウロの関心はエルサレムで、ケファ=ペトロと知り合いになろうとした点を強調しています。彼はエルサレム教会から拒否された形になりました。しかし、そういうことよりも、ペトロと知り合いになったことを強調しています。さらに主の兄弟ヤコブとも知り合いになったとも語ります。この2人だけに会ったとパウロは言おうとしているのです。エルサレム訪問のはじめには、他のキリスト者とは親しくなることが出来ませんでした。ただ、ペトロとヤコブだけに会ったのです。この2人はもちろんエルサレム教会の重鎮でした。だから、他の信徒から拒否されてもこの二人に会えたことでエルサレム行きの目的は充分に満たされました。そう考えてよいと思いますが、それだけではありません。

 

なぜ、パウロはこの2人にだけ会ったことを強調しているのでしょうか。このことは嘘偽りではないと強い調子で語っていますが(20節)、なぜそんなに強調するのでしょうか。エルサレムでは当初はエルサレム教会の仲間になれなかったことよりも、ペトロとヤコブに会ったことをなぜそんなに力を込めて言うのでしょうか。

 

【ペトロ】

会ったのがペトロとヤコブでした。この2人に共通しているところを考えます。言うまでもなく、ペトロはイエス・キリストの弟子の筆頭に位置します。彼はキリストの働きを親しく見聞きできる立場にありました。実際、ペトロはイエス・キリストのもっとも親しい弟子の一人でした(他はヨハネとヤコブ)。ペトロほどイエス・キリストの説教された言葉をよく記憶し、また、さまざまなところで行われた奇跡の目撃者はいません。

 

マルコ福音書は、著者がペトロから聞いたところを文章化したといわれていますが、それが事実なら、ペトロはイエス・キリストの地上での歩みをよく記憶し、詳細に伝えることが出来る人物であったからです。

 

【ヤコブ】

ペトロは、キリストの肉の兄弟(肉親)で、キリストが復活してからキリスト教会に加わり、指導者になったと考えられている人物ですが、ヤコブほどイエスについて知る人はいなかったでしょう。幼少期からイエスと共に生活しました。彼はイエスについてよく知っていました。

 

パウロは15日にわたり、この2人と雑談したなどとは考えることは出来ません。パウロは詳細に、そして明確に、イエス・キリストについて聞いたはずです。イエスが地上にあったとき何をし、何を語ったのか、パウロは15日間ずっと聞き続けたのでしょう。ペトロとヤコブから肝心なところを聞いたのです。15日間があまり長い時間と取ることも可能かもしれませんが、ぶっ通して聞くとなればそれで十分であったのではないでしょうか。

 

【キリストの贖罪の真理】

パウロはガリラヤ、ユダヤでのイエスの言動を一生懸命になって聞き取ったと思います。特に、キリストの最後のとき、つまり十字架の苦難をめぐるイエス・キリストの言葉と行為を聞いたと思います。そして、パウロの福音理解にはそれは決定的に重要でした。パウロはキリストの十字架の死を、贖いの死、私たちの罪のための犠牲として受け止めています。パウロの書簡にはその真理がちりばめられています。

 

例えば、ローマの信徒への手紙3章23,24をご覧ください。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で(自由に、何の支払いをせず、ただで)義とされ」救われ、永遠の命を与えられます。このパウロの使信はイエス・キリストが地上にある間になされたみわざと決して切り離せないことを明確に示しています。

 

【罪を除いて私たちと同じになられてキリスト】

キリストが人間であったことはパウロの信仰の重要な要素でした。キリストは人間として私たちの罪の犠牲となってくださり、身代わりを果されたのです。キリストは罪を除いては私たちと全く同じになり、私たちのあらゆる重荷を背負ってくださいます。だから、キリストは私たちのすべての思いを理解してくださるお方なのです。十字架のキリストはパウロの福音の欠くべからざる内容でもあります。

 

その中核部分をペトロやヤコブとの会話から確信できたと思います。むろん、これを二人にあって発見したとか、創作したということではありません。それはパウロが今まで否定してきたところです。ただ、ペトロとヤコブの証言を通じて、その会話によって、地上に生きて行動したイエス・キリストのみ姿をパウロはありありと実感できたのだと思います。キリストの人間性を信じることは私たちのキリスト教信仰の本質です。

 

【エルサレムにとどまり】

パウロは、このあと、しばらくエルサレムにとどまり、他の使徒と連絡はあったようです(使徒言行録9:28、使徒たちと自由に行き来した)。ただ、彼らからパウロは宣教している福音を教えられてはじめて受け入れたというのではないのは明らかです。

 

【シリアとキリキヤに行く】

パウロはシリアとキリキヤに行ったとありますが、この順序は時間的経過ではありません。使徒言行録によればパウロはキリキヤに行きます。そこには彼の出身地であるタルソスがあります。彼はそこで宣教に従事したはずです。ところが使徒言行録もガラテヤの信徒への手紙でもこのタルソス伝道の成果については沈黙しています。ユダヤの諸教会という表現が出てきますが(22節)、ユダヤ人が主である教会という意味でしょう。

 

キリキヤの故郷でも彼はユダや人の教会に出入りしたと思われます。彼はキリスト教会で受け入れられたようですが、伝道が推進されたことについては沈黙しています。

 

【シリアのアンティオキア】

後にバルナバがタルソスまで来て、パウロを探し出します。そして、シリアのアンティオキアに連れて行きました。当時のアンティオキアはこの地方最大の都市で、キリスト教会も成長をしていました。パウロはそこで教師となって聖書を教える立場を得たのですが、その後バルナバと共に異邦人伝道を推し進めることになりました。書かれていませんが、パウロの故郷の伝道は芳しい成果はなかったのではないかと推測されます。

 

【異邦人に福音を】

よく顔の知られているところでの伝道はいつの時代でも難しいもので、イエス・キリストも故郷では受け入れられませんでした(マタイ13:53-58)。バルナバはパウロの才能を見出した、というよりもパウロの信奉している福音を正当に評価して、パウロをアンティキアに誘い出したのだと思われます。そして、異邦人に対する働きにおいて、彼の福音は大きな力を発揮します。神の計画はパウロを通して大きく前進することになりました。(おわり)

2014年02月16日

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