2014年1月26日説教「恵みの福音とそこからの分離」金田幸男牧師

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2014年1月26日、説教「恵みの福音とそこからの分離」金田幸男牧師

聖書:ガラテヤの信徒への手紙16--9

6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。

ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。

8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。

9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。

 

(要旨)

【福音】

「福音」=よき知らせと訳されるギリシャ語は、戦場で、味方の軍勢が勝利したという知らせを意味します。古代世界では、使者の知らせをかなければ戦いの結果を知ることはできませんでした。マラトンの戰いの結果をアテネの町に伝えた使者の知らせ、「われら、勝てり」こそ、アテネの住民にはよき知らせ=福音そのものでした。マラトンの野とアテネの間の距離が近代マラソン競技の走行距離となったと言われています。不安と恐怖に襲われているアテネの住民は、まだかまだかと知らせを待つのですが、 勝利の知らせは歓喜、安心を引き起こします。

 

「福音」という言葉はいろいろのところで用いられています。例えば、難病に特効薬が発明されたというニュースこそ患者やその家族には「福音」といわれるのに値します。絶望や極度の不安にさいなまれている人にとって、その苦しい状況からの解放のニュースは「福音」とされます。この ように、福音を待ち焦がれる人は多いのです。

 

【キリストの福音】

ガラテヤ17では「キリストの福音」と記されています。「の」は重要な意味があります。日本語では助詞「の」には二つの意味があります。一つは所有を意味します。

キリストのものである福音を意味することになります。

 

もう一つの意味は、福音の内容、中身そのもの、主題、主体を表します。

キリストが福音の内容であり、またその主語、主格であるという意味です。福つまりよき知らせの内容はキリストそのもの、キリストの御業であるということになります。

 

【キリストの御業】

そのキリストは1:4では「キリストは・・・この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」とあります。

ただ単に悪い世の中というのではなく、 罪が支配する世、その罪の結果が蔓延している世界、つまり、死が強大な力を、猛威を振るうような この世から、私たちをその縄目から解放し、自由にするために、つまり救出するために、御自身を身代わりの犠牲とし、贖いとし、十字架の上で死んでくださいました。

聖害が教える福音とはこのキリストの福音なのです。

 

【ほかの福音】

この世の中にはさまざまな福音があるように思われています。実際、ガラテヤのキリスト者には 「ほかの福音」に乗り換えるものがいました。福音はいくつもあるように考え、パウロが語り教え、受け入れたのに、そこから外れてしまったのです。

 

特に重大な間題は、はじめ信じた福音を捨てて、「別の」福音のほうに行ってしまったことです。純粋に、単純に、パウロが伝えたキリストの福音を、安易に、簡単に捨ててしまいました。

 

【あきれ果てている】

パウロはこの亊態を「あきれ果てている」と語ります。 あいた口が塞がらないというだけではありません。この言葉には、驚愕だけではなく、深い悲しみ、 失望が含まれています。

 

その果てに何があるのか。パウロが宣教し、告知したキリストの福音とは別の福音と称するものに傾いていったガラテヤのキリスト者にパウロは大きな心の痛みを慼じ、また、彼らを誤らせたたものに激しい怒りを示します。パウロが教えたキリストの福音と異なるようなことを教えたり、語ったりするものは「呪われるがよい」と宣告します。

 

【呪われるがよい】

この言葉をパウロは二回繰り返します。「呪われるがよい」=「アナテマ」という言葉が用いられますが、これは、本来、神にささげられたものを表す言菜から出ています。

 

神にささげられたものは神に属し、ささげた人すら、もう触れたり、さわったりすることもできなくなってしまいます。ですから、ささげられたものをどうするかは神の決定によります。もし神が唾棄すべきものと決められたら、そのささげられたものは徹底的に捨てられます。神の憎悪と嫌悪の対象となります。それが「アナテマ」の言葉の持っている恐ろしい意味です。

 

この言葉は安易に使われてはなりませんでした。今日、言葉が安易に、無造作に乱用されていても不思議と思う人はいませんが、言葉を疎かにするのは現代の特徴かもしれません。その言葉を使えば致命的な被害を与えることになりうる。言葉にはそのような力があります。

 

パウロはこの言菜を二度も使います。聖書の用法でもありますが、同じ言葉を重ねることは強調を意味します。だから、ここでは、絶対に「呪われる」を意味します。呪われたものは絶対に大きな災害を引き受け、避けられないのです。それは滅びという破局を意味します。

 

パウロはこのように、彼がガラテヤのキリスト耆に伝えた福音と異なる福音を語るものに、当然のことながらそれを受け入れるものに、この上なく大きな警告を与えています。それほどこの問題は重大であることをわたしたちに思い知らせます。

 

【キリストの福音は唯一】

ということは、いろいろの福音があり、並立したり、共存したりするというようなことは決してありえないという結論が出てきます。

 

キリストの福音というべきものは唯一である。これがパウロ の最も主張したいところなのです。このことに関して一切妥協しない、譲歩しないというパウロの強い意志が伝わってきます。

 

【解放を与える福音】

キリスト教は偏狭だという批判がしばしばキリスト教に投げつけられます。最近は、キリスト教が一神教だから排他的であって、多神教はそうではない、という主張が平然と語られます。偏狭で排他的なのは一神教だからとは思えません。一神教であれ、多神教であれ,偏狭で排他的である宗派は多いものです。キリスト教信仰が偏狭で頑迷、堅苦しいと感じさせられるのはキリスト教の特徴ではありません。

むしろ、キリスト教信仰はこの世でその魂を縛り付けているものからの解放を教え、自由な生き方を指し示します。人々を拘束している因習、古い不合理な迷信的な習慣からの解放を結果として生み出していく信仰でもあります。

 

しかし、ことキリストの福音に関して一歩も退くことはありません。キリストの福音はパウロが語り教えるものだけです。

 

この福音からはずれていくことを、パウロは「キリストの恵みから逸れていく」と言いました。

 

この福音から別の福音に乗り換えていくことは、キリストの恵みからの逸脱です。恵みは誰もが期待すべきです。神の恵みを軽んじることはできませんし、そういうことをしてはなりません。救いからの離脱となります。このことは許されてはならないのです。どうでもよい些細な問題ではありません。惠みを軽んじるようなことがあればそれは最大の悲惨、悲劇です。

 

パウロが宜教した福音と異なったことを語るものは、それが天使であろうとも許されません。天使は神に仕える霊的存在です。神に最も近くあることができるものですが、そういうものであっても、キリストの福音を正当に語らなければ呪われてしかるべきなのです。あってはならないことでもあります。パウロは必死になって訴えています。

 

むろん、パウロ自身が語り続けている福音をあるときから捻じ曲げてしまう、周囲を恐れて歪曲するということもあってはならないとします。それでは;パウロ自身、神の呪いを受けることになってしまいます。このような激しい思いが伝わってきますし、ここを読むものはそれを感じなければなりません。

 

パウロが語った教えとは異なる福音と称するものを語る人々はおそらくキリスト教会内部の教師や伝道者であったと思われます。彼らは、その語るところを、これこそ福音だと主張していたに間違いありません。どんな宗教団体でも、自分たちが教えている教えを「真理」というもので、 初めから「この教えは誤り」などとは言いません。

 

パウロの語った福音と異なる教えを語るものも 「これこそ福音」あるいは「パウロの教え以上に高貴で価値ある福音」と教えたに違いありませんし、「自分たちの宗派が教えている教説はまことの福音」と主張していたはずです。彼らの主張は、 救いのためには信仰だけではなく、プラス、何かが必要というものでした。信仰だけでは救われるためには不十分であり、完全に救済されるためには不足がある、それは律法の行いというものでありました。これはキリストの福音を覆し、ひっくり返し、元もこうもなくしてしまう働きなのです。

 

【信仰プラス良い行い?】

ガラテヤのキリスト者は信仰プラスよい業という教説に「早く」乗り換えてしまいました。あっけないほど早くパウロが宣教し、伝道した教えから離れてしまいました。そんなことが起きるのは、 パウロの反対者たちの教えが魅力的であり、容易に傾いてしまうほどであったからでしよう。パウロが教えるキリストの禧音を信じるだけでは物足りないと感じたせいかもしれません。

 

【真実を見分ける】

誰もが自分のほうにこそ、まことの福音があると強弁するものです。ではいったい、私たちはどのようにして「真の」キリス卜の福音を見分けることができるのでしようか

みんな自分にこそ 真実があると語っています。どれでもよいとか、結局、真理は所詮分からないものと追求を中止したり、思考停止することは正しくありません。私たちは、一方で聖霊は正しい識別力を与えてくださると信じつつ、キリストをもっと見なければなりません。キリストとそのなされたこと、そこで約束されているところをしっかり、しかし、冷静に見極めていくとき、そこにかけがえのない真実な 「福音」を見出します。

 

この作業を慎重に、しかも辛抱しながら、続けていかなければなりません。 神の言葉である聖害から、キリストを学ばなければなりません。ここにこそ「福音」があるなどと聞かされても、惑ったり、混乱したり、不安がって怖れたりする必要はありません。

 

キリストとその御業の素晴らしさ、かけがえのなさに気づいたとき、私たちはここにこそ「キリストの福音」があると確信できます。聖霊なる神はわたしたちの最も深いところで働いて、キリストの福音の真理に到達させてくださいます。(おわり)

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2014年01月26日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙

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