2014年1月26日説教「恵みの福音とそこからの分離」金田幸男牧師
M140126001.wav ←クリックで音声で説教が聞けます2014年1月26日、説教「恵みの福音とそこからの分離」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章6--9
6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
(要旨)
【福音】
「福音」=よき知らせと訳されるギリシャ語は、戦場で、味方の軍勢が勝利したという知らせを意味します。古代世界では、使者の知らせを閜かなければ戦いの結果を知ることはできませんでした。マラトンの戰いの結果をアテネの町に伝えた使者の知らせ、「われら、勝てり」こそ、アテネの住民にはよき知らせ=福音そのものでした。マラトンの野とアテネの間の距離が近代マラソン競技の走行距離となったと言われています。不安と恐怖に襲われているアテネの住民は、まだかまだかと知らせを待つのですが、
勝利の知らせは歓喜、安心を引き起こします。
「福音」という言葉はいろいろのところで用いられています。例えば、難病に特効薬が発明されたというニュースこそ患者やその家族には「福音」といわれるのに値します。絶望や極度の不安にさいなまれている人にとって、その苦しい状況からの解放のニュースは「福音」とされます。この
ように、福音を待ち焦がれる人は多いのです。
【キリストの福音】
ガラテヤ1章7では「キリストの福音」と記されています。「の」は重要な意味があります。日本語では助詞「の」には二つの意味があります。一つは所有を意味します。
キリストのものである福音を意味することになります。
もう一つの意味は、福音の内容、中身そのもの、主題、主体を表します。
キリストが福音の内容であり、またその主語、主格であるという意味です。福眘、つまりよき知らせの内容はキリストそのもの、キリストの御業であるということになります。
【キリストの御業】
そのキリストは1:4では「キリストは・・・この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」とあります。
ただ単に悪い世の中というのではなく、 罪が支配する世、その罪の結果が蔓延している世界、つまり、死が強大な力を、猛威を振るうような
この世から、私たちをその縄目から解放し、自由にするために、つまり救出するために、御自身を身代わりの犠牲とし、贖いとし、十字架の上で死んでくださいました。
聖害が教える福音とはこのキリストの福音なのです。
【ほかの福音】
この世の中にはさまざまな福音があるように思われています。実際、ガラテヤのキリスト者には 「ほかの福音」に乗り換えるものがいました。福音はいくつもあるように考え、パウロが語り教え、受け入れたのに、そこから外れてしまったのです。
特に重大な間題は、はじめ信じた福音を捨てて、「別の」福音のほうに行ってしまったことです。純粋に、単純に、パウロが伝えたキリストの福音を、安易に、簡単に捨ててしまいました。
【あきれ果てている】
パウロはこの亊態を「あきれ果てている」と語ります。 あいた口が塞がらないというだけではありません。この言葉には、驚愕だけではなく、深い悲しみ、
失望が含まれています。
その果てに何があるのか。パウロが宣教し、告知したキリストの福音とは別の福音と称するものに傾いていったガラテヤのキリスト者にパウロは大きな心の痛みを慼じ、また、彼らを誤らせたたものに激しい怒りを示します。パウロが教えたキリストの福音と異なるようなことを教えたり、語ったりするものは「呪われるがよい」と宣告します。
【呪われるがよい】
この言葉をパウロは二回繰り返します。「呪われるがよい」=「アナテマ」という言葉が用いられますが、これは、本来、神にささげられたものを表す言菜から出ています。
神にささげられたものは神に属し、ささげた人すら、もう触れたり、さわったりすることもできなくなってしまいます。ですから、ささげられたものをどうするかは神の決定によります。もし神が唾棄すべきものと決められたら、そのささげられたものは徹底的に捨てられます。神の憎悪と嫌悪の対象となります。それが「アナテマ」の言葉の持っている恐ろしい意味です。
この言葉は安易に使われてはなりませんでした。今日、言葉が安易に、無造作に乱用されていても不思議と思う人はいませんが、言葉を疎かにするのは現代の特徴かもしれません。その言葉を使えば致命的な被害を与えることになりうる。言葉にはそのような力があります。
パウロはこの言菜を二度も使います。聖書の用法でもありますが、同じ言葉を重ねることは強調を意味します。だから、ここでは、絶対に「呪われる」を意味します。呪われたものは絶対に大きな災害を引き受け、避けられないのです。それは滅びという破局を意味します。
パウロはこのように、彼がガラテヤのキリスト耆に伝えた福音と異なる福音を語るものに、当然のことながらそれを受け入れるものに、この上なく大きな警告を与えています。それほどこの問題は重大であることをわたしたちに思い知らせます。
【キリストの福音は唯一】
ということは、いろいろの福音があり、並立したり、共存したりするというようなことは決してありえないという結論が出てきます。
キリストの福音というべきものは唯一である。これがパウロ の最も主張したいところなのです。このことに関して一切妥協しない、譲歩しないというパウロの強い意志が伝わってきます。
【解放を与える福音】
キリスト教は偏狭だという批判がしばしばキリスト教に投げつけられます。最近は、キリスト教が一神教だから排他的であって、多神教はそうではない、という主張が平然と語られます。偏狭で排他的なのは一神教だからとは思えません。一神教であれ、多神教であれ,偏狭で排他的である宗派は多いものです。キリスト教信仰が偏狭で頑迷、堅苦しいと感じさせられるのはキリスト教の特徴ではありません。
むしろ、キリスト教信仰はこの世でその魂を縛り付けているものからの解放を教え、自由な生き方を指し示します。人々を拘束している因習、古い不合理な迷信的な習慣からの解放を結果として生み出していく信仰でもあります。
しかし、ことキリストの福音に関して一歩も退くことはありません。キリストの福音はパウロが語り教えるものだけです。
この福音からはずれていくことを、パウロは「キリストの恵みから逸れていく」と言いました。
この福音から別の福音に乗り換えていくことは、キリストの恵みからの逸脱です。恵みは誰もが期待すべきです。神の恵みを軽んじることはできませんし、そういうことをしてはなりません。救いからの離脱となります。このことは許されてはならないのです。どうでもよい些細な問題ではありません。惠みを軽んじるようなことがあればそれは最大の悲惨、悲劇です。
パウロが宜教した福音と異なったことを語るものは、それが天使であろうとも許されません。天使は神に仕える霊的存在です。神に最も近くあることができるものですが、そういうものであっても、キリストの福音を正当に語らなければ呪われてしかるべきなのです。あってはならないことでもあります。パウロは必死になって訴えています。
むろん、パウロ自身が語り続けている福音をあるときから捻じ曲げてしまう、周囲を恐れて歪曲するということもあってはならないとします。それでは;パウロ自身、神の呪いを受けることになってしまいます。このような激しい思いが伝わってきますし、ここを読むものはそれを感じなければなりません。
パウロが語った教えとは異なる福音と称するものを語る人々はおそらくキリスト教会内部の教師や伝道者であったと思われます。彼らは、その語るところを、これこそ福音だと主張していたに間違いありません。どんな宗教団体でも、自分たちが教えている教えを「真理」というもので、
初めから「この教えは誤り」などとは言いません。
パウロの語った福音と異なる教えを語るものも 「これこそ福音」あるいは「パウロの教え以上に高貴で価値ある福音」と教えたに違いありませんし、「自分たちの宗派が教えている教説はまことの福音」と主張していたはずです。彼らの主張は、
救いのためには信仰だけではなく、プラス、何かが必要というものでした。信仰だけでは救われるためには不十分であり、完全に救済されるためには不足がある、それは律法の行いというものでありました。これはキリストの福音を覆し、ひっくり返し、元もこうもなくしてしまう働きなのです。
【信仰プラス良い行い?】
ガラテヤのキリスト者は信仰プラスよい業という教説に「早く」乗り換えてしまいました。あっけないほど早くパウロが宣教し、伝道した教えから離れてしまいました。そんなことが起きるのは、
パウロの反対者たちの教えが魅力的であり、容易に傾いてしまうほどであったからでしよう。パウロが教えるキリストの禧音を信じるだけでは物足りないと感じたせいかもしれません。
【真実を見分ける】
誰もが自分のほうにこそ、まことの福音があると強弁するものです。ではいったい、私たちはどのようにして「真実の」キリス卜の福音を見分けることができるのでしようか。
みんな自分にこそ 真実があると語っています。どれでもよいとか、結局、真理は所詮分からないものと追求を中止したり、思考停止することは正しくありません。私たちは、一方で聖霊は正しい識別力を与えてくださると信じつつ、キリストをもっと見なければなりません。キリストとそのなされたこと、そこで約束されているところをしっかり、しかし、冷静に見極めていくとき、そこにかけがえのない真実な
「福音」を見出します。
この作業を慎重に、しかも辛抱しながら、続けていかなければなりません。 神の言葉である聖害から、キリストを学ばなければなりません。ここにこそ「福音」があるなどと聞かされても、惑ったり、混乱したり、不安がって怖れたりする必要はありません。
キリストとその御業の素晴らしさ、かけがえのなさに気づいたとき、私たちはここにこそ「キリストの福音」があると確信できます。聖霊なる神はわたしたちの最も深いところで働いて、キリストの福音の真理に到達させてくださいます。(おわり)
2014年01月26日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙
2014年1月19日、説教「キリストと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師
M140119002.wav ←クリックすると音声で説教が聞けます。2014年1月19日説教「キリトと神の使徒からのよき知らせ」金田幸男牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章1 -- 5
1 人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、2
ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。3
わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。5
わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
(説教要旨)
【使徒とは】
まず最初に、パウロは、自分のことを、「使徒」であると語ります。「使徒」とは全權を委託された使者、国家間では「全権大使」のような役割を与えられたものを意味しています。
外交官である大使は本国政府や(古代世界では)王侯の意志を正確に伝える義務があります。勝手に自分の所信や考えで.発言したり、行動することは許されていません。使徒も同様です。
【父なる神とイエス・キリストの使徒であるパウロ】
パウロは、自分は、父なる神とイエス・キリストの使徒であると言います。つまり、パウロは父なる神とイエス・キリストから派遣されて語るものです。彼は神とキリストの言葉を語るものだと主張しているのです。
これはとても重要なことです。神が不在と思われ、神の言葉など聞けないと思っているこの世の中に生きる人閬に、パウロは神の言業を語るものなのだと主張しているからです。
【聖書は神の言葉】
聖書は、聖なる書というのですが、多くは、しかし、普通の人間が書いたもののように思われて
います。古代のひとつの宗教的文書に過ぎない、あるいはユダヤ教という民族宗教の経典に過ぎないとも思われています。
また、聖書は神の言葉と言われます。でも、所詮人間が書いた書物に過ぎないと考えられています。つまり多くの古典のひとつに過ぎないと見られています。けれども、パウロの主張によれば、彼の書いているこの書物こそ神の言葉だということになります。
古代世界では、私的な手紙のほかに、書簡といわれる公的な手紙が用いられていました。私的な
ことは、多くの場合、蝋の張った板に鉄筆で書きます。これはすぐに消すことができます。それと共に、羊皮紙あるいはパピルス紙という材料に書かれる公的な文書がありました。
【神の言葉であるパウ口の手紙】
パウ口の手紙は 私的な内容を含んでいるから単なる私信と言うのではありません。彼は使徒として、その資格で公的な權威ある書簡を書いているのです。それは神の言葉もあります。
こうして、私たちは神の言葉を読み、また聞くことができるのです。この亊実はとても重いことです6
【牧師も神の言葉を語る】
牧師は説教を主とする働きに従事しています。牧師の説教は神の言葉だといわれます。それを聞いて多くの人はそんな馬鹿なと思うに違いありません。牧師も一人の人間に過ぎません。その牧師がどうして神の言葉を語ることができるのか。畏れ多いことではないでしょうか。神の言葉を語れるのは、牧師もまた神から派遣されているからです。どうしてそれが分かるのか。
【パウロの驚くべき体験】
パウロの場合、使徒言行録にある劇的な経験をしました。彼はキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコという町に行く途中、そこで驚くべき体験をします。それはイエス・キリストの出現ですが、それと同時に彼が経験したことは、主イエスのために仕えるものとされたという亊実です。
パウロはそのときアナニヤという人物から洗礼を受けていますし(使徒9:18〕、彼が使命を伝えられたのもアナニヤによりますが、パウロはそのような一連の出来事を経験して、主が直接使徒に任命されたのだと確信をしています。
それがガラテヤ1章1節の言葉となっています。「人からでも、人を通して
でもなく」、いかなる団体の任命によってでもなく、自分はキリストと神から使徒として任じられた と強く断言しています。
これはパウロの、特異ではあるが単なる宗教体験だと切り捨てることはできるかもしれません。しかしどうであれ、パウロはおそらくその体験は真実であると語るはずです。
これはパウロにとって否定しがたい事実であるのです。
【牧師の召命感】
牧師の体驗はパウロと違います。けれども、似たような経験を踏んで牧師になっています。それは召命感と言われています。それぞれの体験は異なっている様相を示します。どうして牧師になったのかは人それぞれ千差万別です。同じ体験はありません。強烈な自覚を持っている人もおれば、そうでない人もいます。
共通していることは、牧師として神から召しだされたという思いです。あるいは確信と言ってもよいと思います6この召命感はその人の確信で、そんなの自己満足だと他人は言っても、妄想だと批判しても、牧師に召されたと思っている人には通じません。それを確かめる方法を教会の組織や制度は有していますが、決定的なものではありません。人間的な能力という点では、牧師以上の知識を持ち、話術や雄弁さをはじめ多くの才能に恵まれた人はいます。牧師にそういう能力が不要と言うのではありませんし、だからこそ自己修練は常に求められるのですが、牧
師の立っているところは神から牧師に召されたという確信です。
パウロは自分が使徒に任命されたという信念に生きていました。だから、彼は自分の語るところは神の言葉だと確信できました。派遣した方の権威をもってその意志を忠実に語る限り、彼は神の言葉を語ったのです。
牧師もまた、自分は牧師として立て、召してくださった方の意志を語っていると確信するところ
で神の言葉を語りうるのです。むろん、牧師の権威を振りかざして、何事でも自分のいうことを聞 け、と命じるなどは乱暴な話です。牧師にはこの誘惑を避けることができません。自分の言っていることがどうして受け入れないのか、言うこと、つまり説教を聞かないのかと思うのです。牧師が
いうことは何でも神の言葉だというほど単純でほありません。パウロ自身、彼が書いたり、話した りする何でもかんでも神の言われることだと主張しているわけではありません。神の言葉であるの
は根拠があるのです,
2 -- 3節は今回省きす。
【死者を復活させる神】
パウロは,自分が神に使徒とされたと言いますが、1節では、キリストを死者の中からよみがえらせた神とも語ります。彼は確かに神の使徒であり、その神から遣わされました。それだけではないのです。その神は死者を復活させる神なのです。つまり、彼は復活の力を持ち、それを行う神の 使者なのですから、彼が語る言葉はこのことを切り離すことほできません。っまり、パウロは確か に神の言葉を語るのですが、懣然と神を語るのではなく、死者を復活させる神の言葉を語るのです。
復活の力はイエス・キリストにおいてはっきり示されていると語ることを含みます。換言すれば、 復活のない神の言葉はありえないということです。いろいろな神の言葉があるようで、実はキリス
トを復活させるほどまで死を打ち倒す神でなければ、その言葉は神の言葉とは言いえないのです。
【罪の支配下にある世界】
さらに、4節で、そのキリストは、この悪の世から私たちを救い出そうとして、ご自身を私たちのためにささげた方と言います。悪の世とはいうまでもなく、私たちが住んでいるこの世界です。ただし、この世界は悪の世界だと言う場合、ただ悪人がのさばっている世(事実そうなのですが)、 あるいは災害などの災いが生じる生きにくい世に中を指しているのではありません。この世は私たちには去って行きたいところと思っている人がたくさんいます。この世界は天国でも極楽でもありません。ただパウロがここで言うのは、単純な悪の世ではなく、罪の支配下にある世界という意味であり、罪の結果である死の支配する世界と言うべきです。
【罪と死の世界を打ち破られたキリスト】
死は大きな力を有します。人間のあらゆる部分を侵食しています。キリストはこの世界から私たちを救い出そうとしているのです。
キリストは私たちの罪のために自らをささげられました。あるいは犠牲としてささげられたというべきです。それはキリストが十宇架にかけられたことを意味しています。キリストが十本架につけられた亊実を誰も否定しないでしょう。事実間題として、復活のほうは信じられないと語る人は多くいます。でも、同時に、キリストの十字架の「意味」を否定する人も多いのです。単なる亊実
ではなく、そこに大きな意味があります。
【あらゆる罪を赦すキリスト】
キリストはあらゆる罪のためにご自身をささげ、十字架の上で死なれました。キリストはあらゆる罪を赦されます。例外はありません。ときどき「聖霊を汚す罪は赦されない(ルカ12
:10)」 とあり、赦されない罪もあると主張する人がいますが、聖霊を汚す罪とは神を拒否し、キリストを 否定し、背を向ける罪で、赦されない罪があるなどいうのもこれにあたります。
キリストはあらゆる罪を赦すために十字架にかかられたのです。そして、それはただ恵による
というのがパウロの堅い信仰でした。
このキリストの使徒ですから、パウロはキリストの十字架を語り続けました。そのとき、パウロ はキリストの使徒として語っています。
【説教の生む実】
説教もまた同じことが言えます。牧師が自分の信念や聖書研究の結果だけを語っていてそれで神
の言葉だというわけではありません。牧師を召した方の御心を語るのでなければ、説教が自動的に神に言葉に変化するのではありません。
会衆はただの聞き手ではありません。説教で十字架と復活が真実に語られているかどうか吟味しなければなりません。語られておれば、好き嫌いの問題ではなく神の言葉として受け入れなけれ ばなりません。会衆には、その「義務」があります。他でもない、神が語るからです。
この職別する営みが説教を聞く人の中で生じてくるのでなければ牧師の説教はいかなる結果も生じないと言えましょう。(おわり)
2014年01月19日 | カテゴリー: ガラテヤの信徒への手紙 , 新約聖書
2014年1月12日説教「神が望まれるもの」金田幸男牧師
M140112001.wav2014年1月12日説教「神が望まれるもの」金田幸男牧師
聖書: 旧約聖書、詩編147篇
1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。
2 主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
4 主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。
5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。
6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。
8 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。
9 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。
10 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。
11 主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。
12 エルサレムよ、主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。
13 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。
14 あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。
15 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。
16 羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし
17 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。
18 御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。
19 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。
20 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。
(説教要旨)
【主を賛美する礼拝】
詩編147もハレルヤで始まっていて、ハレルヤ詩編といわれます。ギリシヤ語訳旧約聖書では1-11節と12-20節を分け、二つの別個の詩編とされていますが、主題からも、内容から特別に分割する必要がないと思われます。ただ形の上では、主を賛美する促しの呼びかけ(1,7,12節)から、三つの部分からなっている詩編と見てもよいと思います。その三つの部分とは、1-6節、7-11節、12-20節です。
神を賛美せよ、ハレルヤと、賛美を促しているのは詩人の役割ですが、この詩編を学ぶものも互いに主を賛美するように呼び出されています。賛美は、神礼拝の重要な要素です。神を礼拝するとは、神を賛美することに他なりません。その賛美の方法は、讃美歌を歌うこと、祈りの中で神を賛美することなどです。
【喜ばしい礼拝】
詩人は、冒頭の1節で、神を賛美することは、喜ばしく、うるわしく、快いと記します。だから、神礼拝は喜ばしいのです。礼拝は喜びに満ちた礼拝でなければなりませんし、礼拝者は喜びをもって神を賛美し、ほめたたえ、礼拝するように導かれています。
喜ばしく、楽しく、快活になるような礼拝を守る。この課題は多くの教会の礼拝で思案され、試みられています。
【コンテンポラリーな(現代的な)礼拝】
そのひとつがコンテンポラリーな(現代的な)礼拝といわれているものです。形式ばった、伝統的な礼拝形式から脱皮して自由な礼拝を守ろうとされます。古い讃美歌ではなく、現代的な音楽をもって賛美を歌い、オルガンだけではなく、リズミカルなさまざまな楽器を用い、説教者も説教壇を取り払って、ジェスチャーを多用したり、説教の中で会衆と会話したり、礼拝堂もいろいろのアイデアで装飾されます。これらは礼拝を喜びに満ちたものとする工夫に違いありません。わたしは新しい礼拝の守り方をもって、礼拝そのものを喜びに満ちたものとするあり方をことごとく否定するものではありませんが、礼拝は教会の営みの中心にありますから、これを変革することは教会にとって慎重な判断と決断する勇気が必要です。
【心に喜びが溢れ出るには】
礼拝を喜びに満ちたものとするためにどうしたらよいのでしょうか。喜びは心の問題です。喜びに満ちた礼拝を守るための工夫は、まずは、礼拝するものの心に喜びが溢れ出るようにしなければなりません。どうしたら、心から喜ばしい礼拝となるのでしょうか。
礼拝者が、礼拝している方はどういうお方かを深く知るようになれば、つまり、私たちの礼拝をしている神が喜びに値する神であることを知り学べば、それだけ喜びに満ちた礼拝となるでしょう。
【礼拝で聖書の神を知る】
神はどういう方か、どんなことをしてくださったのか。この答え。キリスト教信仰においては、創造主であり、イエス・キリストの父である神、神の子、つまり神ご自身である御子、イエス・キリスト、そして聖霊なる神とその働きは、聖書から明らかにされます。聖書のみ言葉から、私たちは神とその大きなみ業を知ることができます。教会で、その礼拝で、私たちはその神を繰り返し、またさまざまな方向から知ることができます。礼拝のたびに私たちは聖書の神を知らされます。
【詩編147篇の主題】
詩編147篇から私たちはどのような神を、そしてその神がなさったことを教えられるのでしょうか。
結論から申し上げますと。二つのことです。ひとつは私たちの神は贖いの神、回復の神であること、もうひとつは神は被造物を支配し、守り、支える神だということです。
その被造物とは、無生物である自然であり、被造物の冠である人間です。このふたつの真理を知ることが神賛美の基礎です。
【回復する神】
回復する神であることは、エルサレム再建という歴史的事実によって証明されます。
この詩編は、紀元前586年のバビロンによるエルサレム滅亡とその後のエルサレム再建を背景にしています。
エルサレムの破滅。列王記下やエレミヤ書、エゼキエル書に、その惨状が描かれています。空前絶後、言葉で記すことができないような悲惨な破局を経験しました。なぜそのような苦難がイスラエル、エルサレムを襲ったのか。聖書は一貫してイスラエル、ユダの罪のせいだと強調します。
偶像礼拝、あらゆる社会的不正義、神の掟の無視、神への背反、霊的汚辱が、エルサレムの惨劇を招きました。
神は長い忍耐のあと、厳しいさばきを下されたのです。それで神はイスラエルを忘れてしまったのでしょうか。見捨てたままにされるのでしょうか。そうではなかったのです。
エルサレムは再建され、捕囚として遠くの地に散らされた民が戻されました。このことは、神がただ憐れみによってイスラエルの過去の罪を許し、贖われる神であることを物語ります。
同様に、神は私たちの罪を赦し、神ご自身との関係を回復し、私たちにいのちを約束されます。
契約を再び思い起こし、恵みと憐れみを示されます。歴史の中であったように、私たちの個々の人生においても、現実に回復し復興されます。私たちは罪の結果である悲惨を背負っています。
【「打ち砕かれた心」】
3節の「打ち砕かれた心」は罪がもたらす悲しみ、苦しみに傷ついて破断された心という意味です。神から離れて、結果、災いと不運を味わい、立ち上がれないほどまで傷ついている私たちの心と思いを回復されます。罪に沈み、神との交わりを失い、霊的にさ迷うものとなった私たちを贖い出す方です。この神を知れば知るほど、そして、この神を礼拝し、賛美していることをしっかり弁えるのであれば、きっと私たちの心は喜びに満たされるでしょう。
【被造物を維持する神】
また、神は被造物を維持する神です。4-6節では、星と貧しい人が出てきますが、神の被造物を代表するものとして描かれます。
星は、満天の星、その数を私たちは数え上げることができません。神はその数を知り、それだけではなく、名前を与える。これは神が世界の隅々まで知り、統治していることを意味します。神の支配下にないものは一切存在しません。神はすべてを治め、調和させられます。
また、人間の中で貧しさは人間の弱さを示します。しかし、神はその弱いものを守られます。
以上の二つの神のみ業は以下でも繰り返されています。
【大地を潤されるお方】
第2部、7-11節では前半で、神が大地に適切な雨を与える方だといわれます。聖書の舞台となっている地域は乾燥したところ、砂漠も含まれます。水は貴重であり、いのちを支えるものです。
過酷な自然環境の中でも、神はみ手を伸ばされます。だから、野獣もからすをも守れられ、食物を備えられます。まして、人間を憐れまれないはずがありません。
イエス・キリストも同じことを語られています(マタイ6:25-34)。私たちは食べることで心配をします。明日どうなるのだろうと不安に襲われます。しかし、私たちは神を知り、神に信頼し、神に希望を抱き、神を信じるときに心安らかになり、喜びに満たされます。
【神が喜ばれるもの】
後半(10-11節)では、神の御心が示されます。神が好まれるのはいかなる力強さ、人間的な力ではありません。神が喜ばれるのは信仰、神への恐れ、希望なのだといわれます。神はこのような人を救い、神の国に受け入れてくださいます。
【神が築かれる神殿】
第3部ではどう記されているでしょうか。神はエルサレム、その丘シオンに神殿を築かれます。古代世界では都市は堅固な城壁に囲まれていました。敵が町を包囲しても容易に占領することはできませんでした。しかし、構造上の弱点があります。それは門です。
門を破れば退去して兵士が突入し、町は破壊されます。神は門のかんぬきを堅く守られ、敵がどんな攻撃をしてもその町の中にあるものは安全なのです。敵がどんなに強力でも、神が守られる城壁のうちは平和で、繁栄を享受できます。
【私たちの敵とは】
私たちはどのような敵に囲まれているでしょうか。私たちの敵は何でしょうか。病気、事故、不運な出来事、災害、経済的社会的混乱、さまざまな不幸、愛するものとの別離。さまざまな敵は私たちを囲み、私たちを滅ぼそうとしています。神はそのような敵の侵入を許されません。
最大の敵は死です。罪の呪いは死です。この敵に抵抗できるものはいません。しかし、神はこの強大な敵から、私たちを守られます。
【冷たい気候】
15節以下では、雪、霜、氷が挙げられています。聖書の世界、パレスティナではめったに雪は降りません。ですから、ほとんどの人、特に社会的に弱者とされるような人々、戦争難民などはその備えをしていませんので、ひとたび降雪などになれば人々は凍えてしまいます。過酷な環境に耐えなければならなくなります。私たち以上に冷たい気候は人を苦しめます。
私たちの人生においても、さまざまな冷気が襲い掛かってきます。過酷な人生経験をしている人にとっては、多くの艱難、困難に苦しめられます。
【人間関係の冷たさ】
私たちの心を冷え冷えとさせるものがあります。人間関係の希薄さ、そして、孤独、心無いことに傷つけられること、今の時代は「自己責任」の時代です。言葉はきれいですが、お互いにそ知らぬ顔ですれ違う関係を肯定しているだけです。人間関係の冷たさは、友人知人関係だけではなく、血が繋がっている家族にも及んでいて深刻になってきています。人間は意図しないまま、冷酷な存在になりもします。
この人間と人間の間にある冷たさを暖かくして癒すものがあるでしょうか。心の冷たさを融解させるような暖気、温風は吹いてくるのでしょうか。
【心を暖かくする御言葉】
詩編の作者はそれが神の御言葉であると語ります。御言葉は速やかに冷たい世界に流れ込み、たちまち世界を暖めます。このような神の業を経験するものは世界中、他にないと詩人は宣言し、だからこそこの主を知り、心を暖かくする御言葉が語られる礼拝できることこそ喜び根源なのだと私たちに示し、神賛美を促すのです。私たちはこのように神を礼拝し、喜びに満たされるようになります。(おわり)
2014年01月12日 | カテゴリー: 詩篇
2014年1月5日説教「神は私の目を開いてくださる」金田幸男牧師
2014年1月5日説教「主はわたしの目を開いてくださる」金田幸男牧師
聖書:旧約聖書、詩編146篇1 ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
2 命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
3 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
4 霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
5 いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
6 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は
7 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち8 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
参照:ヨハネ福音書9章1~12節
要旨
【ハレルヤ詩編集】
詩編146から150までは、ハレルヤという言葉で始まる、まとまった部分で、ハレルヤ詩編集と分類されています。そのほかにハレルヤ詩編集は三つあり、113-118(エジプト・ハレルヤ集)、120-136(大ハレルヤ詩編集)となっています。
なお、111と112もハレルヤという言葉が含まれていますが、省かれています。「ハレルヤ」はヘブライ語で、聖書がギリシヤ誤訳されたときでも翻訳されず、原語のまま残されました。アーメンとか、インマヌエルという語もそうです。翻訳されなかったのは、ギリシヤ語に変えてしまえば語彙が持っている意味と音の響きの結合が失われると思われたからではないかと思います。音の響きが宗教生活において聞きなれていたせいかもしれません。「ハレルヤ」とは「主を賛美せよ」という意味です。神賛美に促す歌です。
【人生の中で最も重要な営みとは?】
ところで、人生の中で最も重要な営みは何であるか考えます。あまり深くこんなことを考えたことがないかもしれません。人間が人間である最も根本的な行為、生き方は何か。
ただ食べたり、飲んだりだけの、いわば本能に従って生きているだけではどうなのでしょうか。人間の格好はしているでしょうけれど人間らしい生き方とはいえません.
人間とは何か。人間が人間であるためには何が決め手なのか。現在は人間と人間でないものの境界があいまいでぼんやりしてきている時代になったのではないでしょうか。
しかし、私たちは人間です。人間が人間であることの特質とは何か。有名な哲学者は「人間は考える葦だ」といいました。思惟すること、思索すること人間の固有性を保証するというのです。わたしは、意図して意識的に礼拝する人間、これこそ他の被造物と区別される特色ではないかと思います。人間とは礼拝する存在です。
【牧師として】
わたしは牧師として教会で40年以上礼拝のために奉仕をしてきました。牧師としていったい今まで何をしてきたのかと思います。説教を1万回くらいしてきました(1年に250回以上説教をしたら。たぶんそれ以上やっていると思います)。葬儀や結婚式の司式を何度かやってきました。
成果はともかく、伝道、牧会も精一杯しました。信徒の世話も何とかやってきました。でもわたしは牧師として一番力をこめたのは何であったのか。礼拝の遵守、特に主の日を礼拝の日とするために労してきたと思わざるを得ません。
【神礼拝】
礼拝は、人生の中で最も基本的で肝心な営みです。そのことに奉仕的たことは光栄でありました。思い通りの理想的な礼拝を守れたわけではありません。礼拝出席者を増やすこと、安息日厳守を訓練すること、充実した喜びに満ちた礼拝を守ること。こういうことを列挙するとわたしは恥ずかしくなります。でも、わたし自身、人生の下部構造として、40年以上、信徒が礼拝を守るために奉仕をしてきました。
礼拝なしの人生は宗教のない人生です。礼拝なしの人生とは神なしの人生です。現代人は自己責任を強調されて生きています。神などなくして、自分の決断、判断で行動し、その結果責任は当人が負うというものです。
しかし、神なしに、自分の力だけで生きていく人生は、いつも恐怖と不安に付きまとわれます。特に、私たちは老いてついには死んでいかねばなりません。誰かが看取ってくれていても一人で死ぬほかはありません。充実した人生も一寸先の将来は見えません。先がどうなるか分からない人生は不安に付きまとわれます。不明の将来に突進する人生に耐えられる人はいません。
神を礼拝するということは、そのような宗教なき人生、神なき人生の対極にある生き方です。私たちは何か分けが分からない相手を拝んだり礼拝したりしたりしているのではありません。神がどうのようなお方であるかを知るからこそ確信して礼拝できます。
【礼拝とは】
礼拝とは何か、改めて考えます。ある人は説教を聞くことと思っています。ある人はミサ儀礼のような儀式(プロテスタントでは聖餐)にあずかることと思っています。ある人は祈りに行くことだと思っています。ある人信徒同士の交わりに参加することと考えています。これらは間違いではありませんが礼拝の一面を見ているだけです。
礼拝の中で肝心な部分を占めているのは賛美です。賛美は礼拝の業の中で筆頭を占めていると考えることは間違っていません。神を賛美することのない礼拝は人間中心の、人間が工夫している儀式に終わります。
礼拝とは賛美することと定義できます。賛美のない礼拝はありえます。聖書研究、聖書講義だけの礼拝もありえます。儀式、香をたいたり、ともし火を挙げたりする行為を伴う恭しい礼拝もあります。集まって祈っているだけの礼拝もありえます。
でも、それだけではあまりにも単純、無味乾燥した礼拝であるといってもよろしいでしょう。賛美なしの礼拝は考えられません。礼拝において、私たちは賛美します。ハレルヤと神に叫びます。
ただ、わたしたちの教会の礼拝においての賛美の営みは、賛美歌を歌うことによります。ですから、礼拝の奏楽者の役割は決して小さいものではありません。会衆の歌はとても価値があります。
そして、賛美は祈りの重要な要素です。私たちはまず賛美から祈りを始めるのが普通です。
さらに、説教の中でも神が賛美されますし、賛美に促されます。賛美は礼拝の中で重層的に行われます。礼拝は賛美そのものでもあります。
礼拝は神をほめたたえることです。ではどのようにして私たちは神を心から賛美できるのでしょうか。相手も分からないままに真実な礼拝はできません。漠然と何かを礼拝しているか分からないままにただの恐れから礼拝することもありえます。ありがたい,霊験あらたかな神的なものに礼拝を捧げているのです。それは礼拝には違いありませんが、相手がどういう言う方であるか知って礼拝することと、相手も分からないで礼拝することは全く特質が異なります。
【礼拝の対象】
礼拝は礼拝する相手を深く知る機会でもあります。礼拝において、神を正しく賛美できるのは、この詩編の作者が教えてくれています。礼拝とは、つまり賛美とは、一生の営みです(2節)。気が向いたときとか人生のわずかの時間だけ礼拝するべきではありません。礼拝となると、いのちのある限りでなければなりません。礼拝は長時間であればいいというのではありませんが、礼拝は人生の中で繰り返されるとき、私たちは神を深く知り、神がどういうことをなされるか分かります。
礼拝なしに宗教なし、信仰なし、そして神なしと行っても過言ではありません。礼拝なしの年限が多くなってきたこの時代は神をもたない人が圧倒的に多くなってきたことを示します。それが時代の風潮だと決め付けることはできません。神なしの人生こそ最も不幸なことなのです(5節)。
【君侯に頼るな】
どうすれば、私たちは心から神を賛美できるでしょうか。この詩編は二つのことを教えています。ひとつは人間に賛美を帰すべきではないということです(3-4節)。君侯は古代世界では権力の保持者でした。君侯が国民に平和と繁栄をもたらすと信じられていました。君侯、つまり政治や、政治の仕組みが人間の魂を救うとまで期待されています。何でもかんでも政府の力が頼りです。私たちは人生のさまざまな局面で制度や体制が安心を与えてくれると思っています。
しかし、私たちは経験上それらが本当に頼りにならないことを知っています。究極的には政治の仕組み、福祉政策が人間の幸福を保証しません。時代と共に変化します。そして、頼りになりません。
人間は、その中に自分も含まれていますが、所詮、土から造られた人間は土に帰るだけです。そのようなものに頼れない、これは地上的もの、人間的なものに信をおけない以上は、それらを賛美などできないという結論に導かれます。神賛美に向かわざるを得ません。
だから、人間的なものの救いを断念すれば、神に賛美を向けざるを得ません。その神はどういうことをされたのか。7節以下に列挙されています。
① 虐待されている人に正当なさばき、正義に基づく裁判を行われます。人間の裁判には間違いがあります。人間の判断には不正があります。神はそうではありません。
② 神はその人間として最も基本的な生の糧を用意されるかたです。
③ 捕虜を解放されます。戦争捕虜だけではなく、私たちを縛り付けているものは多くあります。そのために不自由な目にあっています。
私たちは多くの欲望、願望に縛られ、人間関係に縛り付けられています。ある人は運命や宿命に縛られていてがんじがらめとなっています。主はあらゆることの解放者です。
④見えない人の目を空けてくださる方です。私たちは見えるべきものも見ていません。特に真実が見えていません。見えなければ闇に住んでいます。神は私たちに真理の光を提供してくださいます。
⑤ うずくまり、打ちのめされ、打ちひしがれている人がいます。立ち上がることができず、苦悩のどん底に呻いている人がいますが、主は立ち上がらせてくださいます。
⑥ 社会的に弱者といわれている人は不当な扱いを受けてきています。しかし、神は寄留の外国人、孤児や寡婦を豊かに守られます。神は大王であって、ここで列記されていることを実現することができる方です。
しかし、ここに書かれているような神を体験できなく、それどころか神の助けを期待できない目に遭うものです。私たちの人生は不幸と不運に見舞われます。そのような時、とても神を賛美できない心境になるものです。神に恨みでも言いたくなるかもしれません。
そのとき礼拝から遠ざかるのではなく、礼拝においてますます神を知る、神がどういうことをして下さるかを知り、その真実を信じます。
信仰から、たとえ失望のどん底にあっても神を礼拝して、神を知ります。その神を信じます。この循環、つまり、礼拝、信仰、賛美、礼拝、信仰、賛美を繰り返すときに、私たちの礼拝は喜びと幸いの源泉となるでしょう。(おわり)