2013年12月15日(日)説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)
2013年12月15日説教「王であり、僕(しもべ)でもあるイエス・キリスト」姜世媛先生(WEC派遣宣教師神戸改革派神学校特別聴講生)
聖書:新約聖書マルコによる福音書10章45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
【僕(しもべ)である王】
皆さん、こんにちは。今日は、主イエス・キリストのご生涯を一緒に考えてみたいと思います。
私は韓国で「十字架への道」というアメリカからきたセミナーに出たことがあります。
そこで私が1番印象に残った事はServant King「僕である王様」ということです。
イエス様は王であるということに依存ありませんでしたが、イエス様が僕であるという事は私にとって驚きで貴重な機会になりました。
日本に来て、イエス様のことを王でもあられ、僕でもあるとのまとめを皆様とともに分かち合いたいと思いました。
私は中学三年のとき、クリスチャンになって高校生、大学生とキャンパス クルセードというところで活動しました。
キャンパスクルセードは世界宣教をする団体で、高校一年生の時、新入生歓迎会に行きました。その時の牧師先生のメッセージを今も覚えています。
【真の人生の目的は何か】
その内容は人間はどこか来てどこに行くのか、真の人生の目的は何か。どのような目的のために人生はあるのかと言うことでした。
その時まで私は深刻に考えたことがありませんでした。
高校一年生の私にとっては、正直な内容だったのです。神様からこの世に遣わされた人間は動物と違って人生に目的を持っているということでした。
愛する兄弟姉妹の皆さん。皆さんはご自分の人生の目的が何であるか考えたことがありますか。
ある方はその人生の目的を見つけて、そのために努力しておられるでしょう。
ある方はそれがなんであるかわからないで悩んでおられるかもしれません。
ある方はそれを一度も考えたことがないかもしれません。
私たちの人生の目的はなんでしょうか。考えるだけでも難しい、そのためにそれを達成するのは本当に難しい。
【イエス・キリストは王】
今日、皆さんにある方を紹介いたしましょう。
その方はご自分の人生の目的が何であるかご存知の上、その道を歩まれたのです。この方はイエス・キリストです。
今日のメッセージを通してイエス・キリストがこの世にこられた目的は何であるか、またイエス・キリストはどんなお方であるかを一緒に考えていきたいと思います。
一番目はイエス・キリストは王であるということです。
イエス・キリストは神の独り子として、この世に来られたお方です。
ヨハネによる福音書3章16 節を一緒に読みましょう。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
神様はこの世のすべて作られたお方です。神様は御言葉でこの世作られました。神様がこの世を創られたときイエス・キリストも神様と一緒に居られました。
ヨハネによる福音書1章~3節を一緒に読みましょう、
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
私たちが読んだ聖書で言葉と書かれているお方はイエス・キリストです。
イエス・キリストははじめから存在されたお方です。神様と一緒に居られました。
またその方こそ神であったと聖書は語っています。
イエス様は神様と一緒にこの世を創られました。
マタイによる福音書28章18 を一緒に読みましょう、
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
イエス・キリストは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われています。イエス・キリストは天地を創られましたが、また創られた全てを治めるお方です。
イエス様は全てを治める王様であられます。
フィリピの信徒への手紙2章9 節~11節を一緒に読みましょう、
9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
神様はイエス・キリストにあらゆる名に勝る名をお与えになった。それはどういった意味でしょうか。
天と地の全てのものがイエス・キリストは主であると告白するということです。
イエス様はすべてを治める王であられるということです。
【世に降られた御子イエス・キリスト】
では王さまでおられるイエス・キリストはこの世に来られて何をなさいましたか。
この世の国の王様になって治められましたか。
それは次のことを通して考えてみましょう。
二番目はイエス・キリストが僕であるということです。
【馬小屋で生まれた神の御子】
皆さんクリスマスのお話を覚えておりますか。始めてイエスさまに会いに来た東方の博士達はどこに行きましたか。
彼らが王様にふさわしい場所だと思って行ったのはヘロデ王の宮殿でした。しかしイエス・キリストはエルサレムの宮殿ではなくベツレヘムの小さい馬小屋でお生まれになりました。
皆さんはどこで生まれましたか。昔は家で生まれる方が多かったですが最近は病院で生まれる方が多いです。
皆さんは大体病院でお生まれになった方が多いいかもしれませんが、ルカによる福音書2章7節にイエス様のおうまれがこう書かれています。一緒に読みましょう、
ルカによる福音書
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
愛する兄弟姉妹。イエス様のお誕生はイエス・キリストの謙遜を顕しています。
皆さん。その時の光景を考えてみましょう。王様であられるイエス様が宮殿でもなく、家の中でもない馬小屋でお生まれになりました。イエス様のお父さん、お母さんがエルサレムに来たとき泊めてもらう場所がありませんでした。
愛する兄弟、姉妹。飼い葉桶に寝かされたイエス様は主の謙遜を示しています。
皆さん。この世の創り主であるイエス様が本当に小さくて人間の姿として来てくださいました。その上、人の住むところでなく馬小屋に生まれたまいました。
これは何ということでしょうか。
【仕える主イエス】
フィリピの信徒への手紙2章5~8節を一緒に読みましょう、
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
兄弟姉妹。イエス様は神の身分でありながら僕の身分になり人間と同じようになられました。今日私たちが読んだ聖書には書かれています。イエス様は人に尊敬されるお方なのですが、尊敬されるよりも人に仕えました。
人間の基本的欲望の中に偉くなりたいということがあります。イエス様の時代でも同じでした。
ルカによる福音書22章24~26節を一緒に読みましょう、
24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
【だれが一番偉いか】
イエス・キリストが十字架にかけられる前の最後の晩餐の時にその晩イエス弟子達はイエス様と最後の食事をしながらイエス様と時間を共に過ごしました。その時こそ本当に貴重な時間ではなかったでしょうか。それなのにイエス様の弟子達はどんなことを話しましたか。彼らの中で誰が偉いかと言う議論が起こりました。イエス様は最後のご自分の任務のためにとても辛い、いちばんつらい任務のために準備をしておられますのに、弟子達の中では誰が一番偉いかと言う議論がありました。
皆さんは聖書の中の弟子達の姿を見てどう思いますか。本当に愚かなことだと思いませんか。イエス様はご自分の任務のために本当に辛い時間を過ごしておられますけど、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していました。イエス様は彼らにこう訴えられました。あなた方の中で一番偉いと思うものは一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者になりなさい。
【お互いに仕え合う】
夫と私が属しているWECに導かれた理由の一つはWECが国際的なチーム宣教の団体だということでした。
私は自分が韓国人であることを誇りに思っています。韓国の伝統の1つは年上の人を尊敬して、目上の人に従うことです。それは個人的にとても素敵だと思いますが、時々否定的に表すことがあります。人に会うときありのままの姿でなく、その人の年齢、学歴、社会的な地位、経済力、家柄また体験などで先入観を持って、相手を判断するという根拠です。もちろんこれらがある程度人間にとって役立ちます。しかしこれが人の本来の姿を隠します。
例えばある団体のリーダーを選ぶとき、その人の実力や人格より、その人がその、団体に入って何年経つかそれが1番重要視されます。
夫と私は韓国の上下関係の中にいましたが、もっと平等な人間関係を求めてこのWECに入りました。
ところが私たちは平等な人間関係を求めてWECに入ったはずなのに、私たち自身が尊敬されたいという気持ちがあるということに気付きました。
私たちはまだまだ信仰も人格も成長が必要です。
ヨハネによる福音書13章12~17節を一緒に読みましょう、
12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
私たちもイエス様を見習ってお互いに相手の足を洗い合いましょう。これが神様が私たちに願っておられることではないでしょうか。
【主イエスさまを見習う】
最後の三番目は私たちはイエス様を見習って王にもなり僕にもなりましょう。
今までの御言葉を通してイエス様は王でもあり、僕でもあることを考えてみました。
イエス・キリストは統べ治める王様でありながら同時にへりくだって人々に仕える見本を見せてくださいました。
イエス・キリストを信じて告白する皆は神様の子どもになるとヨハネによる福音書1章12書かれています。一緒に読みましょう、
ヨハネによる福音書1章12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
子どもになるということはイエス・キリストと共に神様の跡継ぎになるということです。
【神の相続人】
ローマの信徒への手紙8章17を一緒によみましょう、
もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
イエス・キリストを信じる私たちは神様の子どもになりました。またイエス様と共に神様の相続人になりました。すなわち私たちの身分が変わったということです。
王様であられる神様の相続人になったということは、つまり王様の権力を持ったということです。
ペトロの手紙一2章9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
私たちが神様の全てを受け継ぐ相続人で王様の権威を持っています。
私がクリスチャンになった15歳までは私がどれだけ神様に愛されているか知りませんでした。
家庭はそれほど裕福ではなかったからです。でもクリスチャンになって世界中の王様である神様がわたしのお父様になってくださいました。そのとき私は王様である神様の子どもである。だから私がお姫さまになりました。
当時よく教会の中で歌った歌の中で「私は姫様です。私は王子様です」という歌を今も覚えています。日本語なら「私は神様のひーひーひーひー姫様です」。「私はおーおーおーおー王子様です」という感じで韓国の教会で歌いました。
それから私は王様である。神様の娘であって王様の権威を持っていることを信じるようになりました。
それは私の自己形成に肯定的な影響を与えました。
でも私が下僕でもあることにはあまり気がついていませんでした。私は教会で奉仕は熱心にしましたが、深く実感していませんでした。
私は神学校に入るまで皆さんと同じように教会で熱心に奉仕をしました。日曜学校のスタッフとして、聖歌隊のメンバーとして、讃美のリーダーとして、青年会のリーダーとして奉仕しました。時に教会で掃除もしました。
【人に仕えるために宣教師として】
神学校を卒業して、夫は牧師として私は伝道師として働くことになりました。
面白いことに韓国の教会では奉仕に対して偏見があるように思いました。奉仕を霊的な奉仕と非霊的な奉仕に分けます。説教、祈祷、聖書を教えることは霊的で重要で、掃除、皿洗い洗濯などは、霊的奉仕に劣る余り重要でない仕事と考えることです。
それで自分が神学校に入るまでは教会で掃除をしたりしたんですけれど、もし私が、夫が教会で掃除をしたら、「先生。それ止めてください。先生はもっと大事なことがあるんじゃないですか。説教の準備をしてください」という感じで話されます。それで教会で掃除や皿洗いから離れて偉そうな格好で歩き回るという感じだったのです。
それで私はWECの宣教師になったとき神様からいろいろ教えていただきました。
神様の愛で人に仕えること、奉仕に重要な奉仕とか、そうでない奉仕の別がないと分かりました。
ある日私たちはアメリカで食事をしに行ったら一番偉い方が、改革派神学校なら理事長に当たるような方が皿洗いをされるのを見て、私たちがびっくりしてやめてくださいと言いたかったほどだったのです。70代の方で、ちょっと身体の不自由な右半分麻痺の方で手が震えている方でした。その先生が皿洗いをされているのを見て、私は遠慮して欲しいと思いました。でも思いました。牧師でも自分できることは自分でやるということです。例えば牧師という、30年以上宣教師として働いた先生も、掃除をされるのを見て私たちの考え方がちょっと違うのだなあということが分かりました。
私たちのWECという団体はみんながそういう働きだったので、日本に来て滋賀で働いて、今は関西神学校の校長をされている中沢先生がおられて、その先生の下で協力宣教師として働いたのですが、その先生はいつも30分まえに教会に来られて準備をされたり、お茶を入れたりしてくださって「とても恐れ入ります」といって遠慮したいなと思いました。
西谷にきたらコーヒーを入れてくださったり、皆がお互いに仕え合う姿をみて考えて見ました。
マルコによる福音書10章45 節には「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と書かれています。
皆さん。イエス様は王様であられる尊い御方なのですが、この世にこられたのは人に仕えるためだと書かれています。イエス様のご奉仕はただの口先だけの言葉でなくて本当に多くの人の贖いの代価としてご自分の命を捧げられました。皆さん。私たちは神様の全てを与えられている王様です。また同時に私たちは神様の愛する人に仕える下僕です。イエス・キリストを見習って神様が私たちに与えてくださった人々に仕えましょう。これが神様が私たちに望んでおられることではないでしょうか。
お祈りしましょう。
愛する天のお父様。あなたの愛と恵みを感謝します。私たちをあなたの子供として選び受け入れてくださってありがとうございます。あなたから与えられた愛をもって、その愛を待っている方々を愛することができるように助けてください。王様であられるイエス・キリストが僕(しもべ)となって大勢の人々に仕えられました。私たちも神様の権威を戴いたものとして堂々とこの世の人々、また周りの人々に謙遜に仕えるように祝福してください。
王様でもあり、僕でもあられる主イエス・キリストの尊い御名によってお祈りいたします。アーメン。
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