2013年12月8日説教「落ち着いて静かにしていられるために」赤石純也牧師
131208003.wav2,013年12月8日.説教「落ち着いて静かにしていられるために」伊丹教会赤石純也牧師
新約聖書:マタイによる福音書1章18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
説教
【処女が妊って男の子を産む、その名はインマヌエル】
今日お読みしたところはよく知られているクリスマスの箇所ですけれども、今日は思い切ってこの23節のみ言葉のみに集中したいと思います。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
つまりどうしてこのクリスマスにキリストがお生まれになったか。何故ここに23節のみ言葉が引用されているかと言うことですね。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
どうして旧約聖書のこの言葉を新約聖書は引用したかと言うことの意味を今日はハッキリさせたいと思います。ここにクリスマスの意味が非常に明確な言葉で書かれているからです。
【イザヤの預言】
そこで今日はこの新約聖書のページを離れて元々の旧約聖書の箇所であるイザヤ書7章に移りたいと思います。7章の1節ですから14節をお読みしましょう。
イザヤ書7章1 ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。
2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
3 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、4 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。
5 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、6 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、7 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。
8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
今日はこの箇所から説教をしましょう。一読してもなんだか分かりづらいですね。歴史上の人の名前だとか国の名前が出てまいります。
今日は思い切って過去の歴史の国の名前や王様の名前を考えずに、込められているメッセージだけを取り出したいと思います。ここに込められている意味は何なのか、そのことだけをはっきりさせたいと思います。
【木々が風にゆれ動くように動揺した】
まずは歴史の事件は置いておいて今どういう状況なのかを見ていきたいと思います。7章の2節あたりをご覧ください。どこかの国とどっかの国が同盟し、そういう報がユダの王に届きました。その時にこう書いてあります、「王の心も民の心も森の木々が風にゆれ動くように動揺した」。
聖書の中でも珍しい見事な比喩、聖書の中にこんな文章があるんですね。森の木々が風に揺らぐように動揺した。いま民の心も王の心も動揺している時だと思います。風に揺れ動くように私たちの心が揺れ動くときを想像して頂きたいと思います。その時に何が言われるかということですね。
【深く陰府に、あるいは高く天に】
動揺している王様に主は言われた。何を言われたか。4節「主なるあなたの神に印を求めよ。深く陰府のほうに、あるいは高く、天のほうに」、どっちなのでしょうか。高いんでしょうか、深いんでしょうか、どちらにしても今のあなたの立っている場所でなく、別の次元で神の答えを求めよ。神の印を求めてみよと言われます。
10節の頭で主はさらにアハズ王に向かって言われた。動揺しているこの王様に向かって預言者イザヤを通して言われたのです。私たちで言えば説教を通して神は私たちに何かを問われる。その時に今なんと言われたかというと「神に印を求めてみよ。高いか、深いか、いずれにしても今のあなたの立ち位置でなく、別の次元から神がお答えになるから、その神に求めてみよ」と言われています。
動揺している民たち、王たちという事は、今あなたの問題や悩みがあるでしょう。あなたの身の回りに具体的な問題があるでしょう。だからあなたの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺する。その時に説教を聞いて別の次元で答えてくださる神に求めてみよ、いうことが言われています。
私たちがそれぞれの生活、事情、身の回りの事柄がありますが、そういう中で心が揺れ動く、私たちは自分の立ち位置であれこれ悩むしかありませんけれども、今言われる事は神に求めてみよ。その時に今のあなたが立っているその立ち位置から違った次元から神の答えが与えられる。それは説教の中で与えられる。こんな状況なんですね。
【あなたは神にも、もどかしい思いをさせる】
それに対して王様はなんと言うでしょうか。12節をご覧下さい。「私は求めない。主を試すようなことはしない」。何かもっともらしいですね。神様はそんな試してみてもいいような方ではない、こんなもっともらしいことを言っている。今自分の心はゆれ動いているけれども、こんなささいな問題で神様を試すなんて、そんな事を私は求めない、そんな風にずいぶん強がっている感じですね。
それに対してイザヤと言う預言者の説教の最後の言葉、結論が13節です。「よく聞け、あなたは神にも、もどかしい思いをさせている」こういうのですね、今のあなたの現実の問題がある、その中であなたは強がって神様に求めたりしない、そのような強がりは実は神にもどかしい思いをさせているのだ。聖書はこう言うのですね。
どうやら神様は私たち一人ひとりがいろんな出来事の中で、心が揺れ動く時に、もう助けようと思って待ち構えていてくださる方なんでしょうね。
【信仰以前の自分】
それなのに私たちは何か強がっている。尤もらしいことを言う。心は本当に揺れ動いているのに神様には頼られない。こんなふうに思っているようですね。私にも覚えがありますけれども私たちは誰しも信仰というものに入る前は皆こうだったんじゃないでしょうか。
神様に求めるなんて私は私で頑張る。身の回りにいろんな問題がある、悩みがあるけれどもそんな風に言って私たちは誰しも信仰より前の時代と言うものに覚えがあるわけです。
【不確かな自分】
そのことは実は神様には、もどかしいことだと言われているんですね。9節の最後をみてください。「信じなければあなた方は確かにされない」。
今私たちにはこの言葉がよく分かると思います。かって信じていなかった自分が、どれほど確かでなかったか。
それに比べて今は神様に求め、身の回りのどんな出来事もその解決を神様に求める、神様を信じていいんだ。そういう信仰生活に入っている時に、やっぱり私たちは誰しも、確かさというものを感じることができる。それは自分には無いはずの確かさなんですね。信じなければ私たちは確かにされないのです。今日、天野さんとイサさんが信じるという告白を神と教会の前にされました。
今日からお二人は確かにされたと言ってよいのであります。身の回りの色々なことに心を揺れ動かすような出来事がありますが神に頼ることができる、信じて行くことができる。信じなければあれこれ思い悩むだけではないですか。
だけど今日からお二人は信じていい、他には無い確かな生活をこれから立てて行くことと思います。
【信仰生活の長い者も】
皆さんの多くの方々はずっと信仰生活をされています。けれども私たち長く信仰生活を送ってきた者たちでもやっぱり心が揺れ動くという事は毎日の生活の中でも出てきます。
しかも信仰を与えられた後も私たちの内にはどこか強がっている信仰があるということがありうると思います。
あるいは先の王様のように尤もらしいことを言うだけで本当は心は様々に揺れ動いている。「神様を試すようなことをしない」こんな風に尤もらしい事を言っている態度では、やっぱり神様は遠くにいることになってしまう。
そして神様はそんな風に強がっている私たちのことをもどかしく思っておられるかもしれません。
【様々に揺れ動くわたしたち】
具体的な毎日の現実の中で私たちの心は当然様々に揺れ動きます。そういう全く身近な悩みの中でそのまま私たちが神様に向かわないなら、それは神様にはもどかしいことなんだ。
そういうとき私たちは実は「確かにされていないんだ」ということが言えそうです。
わが身を振り返ってみると確かにそうだと言えそうです。だとすればすでに何10年も前に洗礼を受けた私たちも、そして今日洗礼を受けられたお二人も、なお現実の生活の中で様々なことがあるわけです。心が動揺するわけですね。
天野さんもイサさんも、私たちも含めて私たちを確かで無くするいろんなことが、やっぱり起こってくる。いろんな試練というものがあるでしょう。人には言えない、人には共有できない自分の問題というものがあるでしょう。
あるいは身内の死ということだって起こりますね、最終的には自分の死と言うものが近づいてきますね。そんな時に私たちの心が揺れ動いて当然ではないですか。
【主は共におられる】
私たちは確かな心でいられなくなるのが当然ではないですか。そういう時、実は神様はいつも待っておられるのですね。
信じなければあなた方は確かにされない。心の動揺を抱えたまま神様に求めるという事を私たちはいつもやり直していいんですね。
そしてこのクリスマスのような機会にこそ私たちはもう一度自分の問題というものをはっきり見据えてこの現実の中から神様に頼っているということを意識してきてみてよさそうですね。
その時、違う次元から自分が確かにされると言う事がもう一度起こる。こう言うんじゃないですか。14節。
イザヤ書7章14節「 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」すなわちイエス・キリストです。
先程イサさんと天野さんはこのイエス・キリストを信じますと誓約しました。この方のみを受け入れると誓約された。この誓約をもってお二人は確かにされた。イエス・キリストのことを「その名をインマヌエルと呼ぶ」と言ってますね。最初にお読みしたマタイの福音書がインマヌエルという意味を教えてくれましたね、「神は我々と共にいる」。
キリストによって神は我々と共におられる。これが「乙女が身ごもって男の子をクリスマスに産んだ」という意味です。
キリストを受け入れる、キリストを信じるという事は神を味方につけた、神が我々と共におられるということで、神様は遠くにおられるのではなく、遥か上に居られて、遠い空の下でその方を私たちはただ拝むんだ、そういうことでは無いのです。
神は我々と共におられる方だ。なんだかもっともらしいことを言って遠ざけてしまうお方では無いのです。もっともらしい信仰の言葉なんか言わなくていいんじゃないですか。
そんな風に神様を遠くに敬って、遠くから拝んでいるというのではなく、そんな信仰は私たちの信仰には無いんですね、神様はそんな神様でなくて、揺れ動くあなたの隣にいてくださる、来てくださっている神様です。それが「インマヌエル」、「我等と共におられる神」です。
【主はクリスマスに来たりたもう】
イエス・キリストを味方につけたのですから、あなたの具体的な問題の解決を求めていいのです。求めることができるのです。そのためのクリスマスだ。
そのためにこそ、いま現に悩んで心を迷わしているあなたのすぐ隣にまで降りて来てくださった。それがクリスマスなのだ。
そして今新たに思いもよらないような解決をいわば別次元からあなたに与えてくださるために主はクリスマスに生まれてくださった。
確かでなかったあなたに確かなあなたにされるためにクリスマスがある。
いかがでしょうか。今天野さんとイサさんはそういう確かさに入った。私たちはともどもにもう一度この確かさ帰って行く事が出来る、それがクリスマスだということが言えそうですね。
【落ち着いて静かにしていられるために】
最後にもう一つだけ4節の言葉を見ていただきたいと思います。
「落ち着いて静かにしてなさい」。今こんなふうにいわれてるこの人は落ち着いていることのできない状況にあった。静かにしていることができない状況にあった。何かその試練に襲われようとしていた時です。
どうしてその人は落ち着いてることができなかったでしょうか。静かにしていることができなかったでしょうか。それはさきほどの12節の言葉に現れています。
彼は言った「私は求めないし、試すようなことはしない」。こんなふうに強がっているから、神様に頼っていないから聖書の事柄が知識に終わっているからです。
だったら私たちのそのような信仰は神様にはもどかしいことですね。
私たちが聖書の解き明かしを礼拝ごとに聞いても、その聖書の言葉がただの知識に終わってしまって、そんなことを置いていて自分ひとりでそんなことに悩み強がっているなら、それは神様にはもどかしいことです。私たちはそんな風に自分で強がって神様に頼るるということをしないなら、私たちは落ち着いてることができません。悩みばかりのせわしないばかりの人生ではないですか。
次から次に問題が起こってくるではないですか。落ち着いていることなんかできませんよ。
私たちは本当は落ち着くことができる。落ち着いていいんですね。静かにしていていいんですね。あたふたしなくていい。
そういう確かさを、落ち着いていられる生活を、これが私たちに与えられた最大の恵みでないですか。そういう生活の中に今日天野さんとイサさんが加わってくれました。
これは全くクリスマスのシーズンにふさわしい。私はともどもに今年のクリスマスを喜ぶことができます。
繰り返します。クリスマスは私たちが強がることをやめて、そして真実に神様に頼るという事を、それによって「落ち着いて静かにしていることができる」ための祝いです。
せわしなく自分の悩みと戦い体調と戦い、また様々の試練と戦うだけであったら私たちの人生は忙しさと虚しさだけしか残らない。それでは生きた心地がしないからクリスマスが今年も来たのです。クリスマスにこそ私たちはもう一度本来の私たちの落ち着きを取り戻すことができる。
そのために「見よ。乙女が身ごもって男の子を産む」だのですね。
あっという間に2013年も終わりです。振り返ってみると今年も私たちにはそれぞれ揺れ動くことがあったと思います。
だからこそ今年もクリスマスがきた。私たちがもう一度「落ち着いて静かにして確かな自分というものを取り戻す」。そのために今年もクリスマスが巡ってきました。
【クリスマスに与えられたイエス・キリストとともに歩む】
確かに私たちはこのクリスマスにせっかく与えられたイエス・キリストと共に生きるものです。
この方に真実頼る私たち、それが落ち着いて静かにしていられる私たちなのですね。
これからだって来年も様々なことが起こると思います。
今年中にも色々な事が起こってくる。しかしその中にあって私たちは落ち着いて静かにしておれる。ゆったりとした心で静かにしていることができる。
不安な病があるでしょう。あるいはだんだん年齢を重ねて身内の死ということを味わい、また自分の死というものが思いよぎってきます。そんな時に私たちの強がりは何にもなりません。
強がっている限り私たちの心は森の木々が風に揺れ動くように動揺している。皆そうです。だからそれが「もどかしい」から神様はクリスマスを約束してくださった。その時を今私たちは過ごしているんですね。
皆さんの中にはまだ洗礼を受けておられない方もおられるでしょう。どうぞこの確かな生活にその方々にも入っていただきたいと思います。
安心して静かに落ち着いていられる、そのゆったりとした命の味わいという物を本当に味わっていただきたいと思います。どうぞ自分のことを例外だと思わないで、洗礼を受けていただきたい。
【光と確かな道を】
やはり光の道というものはあるのです。そしてこのクリスマスに私たちの光の道が確かに示されているのですね。
試練が、身内を襲う様々な事柄に、自分も向かっていかなければならない死という恐ろしさ、そんな物を前にして私たちは怖じ惑うばかり、心配ばかりです。
だけどここに別の次元から神様は本当の確かさというものをお与え下さった。この道を本当に見つめたいと思いますね。
そして私たちは皆、この道に入ることができるという、この道を共に安心して歩んでいくことができる。どうぞ皆さんお一人ももれなくこの道を、ともに歩みたいと思います。
その光の道を今日、天野さん、イサさんは歩きはじめられました。私たちもともどもに歩みを続けたいと思います。
【祈り】
お祈りしましょう。クリスマスは私たち一人一人にとって本当に喜ばしい命の祝祭です。
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