2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師
2013年12月22日説教「神の秘かな愛の決起」佐々木弘至牧師
【ヨハネ福音書3章16〜21節】
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
《説教の主题》暗い世を愛され神の愛の光・キリストを見上げよう
《I》今年一年を顧みて
本年もクリスマスを迎えました。クリスマスの時季になりますと、私は一年を振返って様々の事を回顧することがあります。1年を回顧すると言っても、個人的 なことも回顧もするのですが、クリスマスは何と言っても全世界的な出来事でありますから、自己の一年を回顧すると同時に、むしろ社会に現れた特微的な事共に想いが向けさせられるのであります。
今年も社会の世相を振り返ってみて同様の事を感じるのですが、今年も明るさを觉えた事柄と、暗い事柄を比較してみますと、暗い出来事の方が圧倒的に多かったことであります。皆さん、如何でしょうか?今年のニュースの中で明るい事柄をどれだけ想い起すことができますでしょうか?私の個人的な性格の故であるかどうか解りませんけれども、どうも明るいニュースを明確に思い出すことがあまりないのです。一~二
想い起すなら、富士山の世界遺產登録と、2020年に東京オリンピックの開催が決まったこと、東北楽天が日本シリーズで優勝したこと、最近では日本料理が無形文化遺産に登録された位のものです。健忘症ではないか、と言われてしまうかもしれませんが、あまり明るい事柄が思い出せませんでした。
それに引き替え、暗い出来事はと言いますと、枚举にいとまがないほどに思い出される訳です。特に、暗さの頂点と言えるものには、今年一年で消え去るようなものではなく、むしろ将来に亘って日本の国を暗黑に包み込んで行くような法案の強行採決がありました。
【巷のクリスマス】
このように、年末を象微するクリスマスになりますと一年を回顧するのでありますが、もう一つ、クリスマスの持っているクリスマス特有の特微について想いを向けさせられることがあるのです。
それは、クリスマスの掛け声と共に、年々日本の国がまるでキリスト教国にでもなったかのように、クリスマスツリーが主要都市などの駅前や目技き通りなどに色とりどりのイルミネーションで豪華に飾られ、道行く人々にクリスマスのムードを盛りあげていることであります。
【イエス・キリストの御降誕】
しかし、その賑やかなクリスマスムードの中身であるイエス・キリストの御降誕を記念するという本質は、殆ど認識されることはなく、人々は唯何となく年末のお祭り気分のようなものを感じているだけではないかと想われる訳です。
けれども、そのことを思います時に、それは現在の日本の場合に限る事ではなくて、そもそも、イエス・キリストの御降誕という出来事自体が、同じように多くの人々にその事実が認識されていた訳ではなく、世界の片隅のごく一部のわずかな人々によって、認識され、祝われていた秘かな出来事であったことを想い起すのであります。
【不思議な星に導かれて】
確かに、イエス・キリストの降誕は、神様が広大な天体にその誕生を表明したと聖書は記している訳ですが、その天体に現わされた星を発見し、そこに救い主の降誕を認識することが出来たのは、イスラエルの東方の国(現在のイラン、イラク)の占星術の学者達だけだったというのです。それも現代ならば、先月末太陽の熱で蒸発してしまったアイソン彗星のように、きっと世界中の人々が見つめることになったであろう出来事ですが、わずかニ〜三人の專門学者にしか知られていなかった事実だったのです。
マタイによる福音書2章1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
【夜野宿をしていた羊飼たち】
もう一つ、ルカ福音書が伝えています救い主御降誕の出来事は、降誕の地ベツレヘムの町は全ての宿屋が滿杯になるほど賑わっていましたが、誰一人イエス.キリストの誕生を認識せず、唯、真っ暗な野原で羊の群れの番をし ていた僅かな羊飼達だけであったと言われているのです。*ルカ2:4〜20
このように、クリスマスは元々多くの人々が認識した出来事ではなく、ごく僅かな人々にだけ認識された、秘かに起こった出来事であったのです。
そのように思います時、現代社会が、キリストの御降誕を認識することなく、 唯クリスマスのムードだけを盛り上げている姿も、それ程驚くべきことではなく、
唯教会とクリスチャンたちが、東方の学者達や羊飼達に倣って、真実にイエス・キリストの御降誕を記念し心から感謝し、日ごろ心にかけている人々をクリスマスに招待する事が出来れば良いのだと思うのです。
そこで、私たちは、救い主イエス・キリストの降誕を記念しますこの時、一年を振り返りながら、改めて神様の御心は何であるのかを示されたいと思います。
《Ⅱ》現在の世の闇の只中に现わされた神の愛
そして、私たちはこのような暗く悲しいニュースの方が圧倒的に多い現代の社会に現れている、本質を知らないままに迎えているクリスマスは、2000年前のキリスト誕生の時の情景と類似していることを憶えるのであります。
イエス・キリストの降誕は、月明かりだけの真っ暗な闇夜に一つだけの星の輝きと、これまた深夜の野原に救い主の誕生を告げる天使が神の泶光を照 らしましたが、それを見たのは羊飼い達だけであり、マリアとヨセフ夫婦が泊まる宿さえもなく、馬小屋の飼葉桶に寝ておられたというイエス様の御降誕の貧しい光景は、神様が正に暗闇の世に秘かに現わされた出来事でありました。
【暗き世に贈られた神の御子】
現代の私たちの社会のこの暗い有様と、イエス様の誕生を告げる光景は、 真に良く類似しているのではないでしょうか?そしてこの類似にこそ、神様の御心が現わされたのだ、と聖書は告げているのであります。
つまりクリスマスの御心は、神様が、敢えて悲しむべきことや忌まわしい悲惨なことの多いこの暗い世の只中に、その苦しみや悲しみを受け止めて下さり、
確かな希望と朽ちることのない喜びをお与え下さる為に御子をお贈り下さったのだ、と告げられているのであります。
①悲惨の暗闇の中に見る人の敵意
では、世の暗闇とは何なのでしょうか?そこには物理的な暗さというよりも、 むしろ聖書が語る暗闇とは、霊的そして精神的、倫理的、人道的な暗黑を意味している訳です。そしてそれらを一まとめにするなら「人の罪と死とそこに伴うあらゆる悲惨」ということになります。
そして人間の「罪と死に伴うあらゆる悲惨」が現わす霊的・精神的・倫理的、人道的な暗黑は、神と人、人と人との愛と信頼を失っている暗黑なので
す。
政治は「民主主義は数の多さによって成立つ」とばかり、主権者である 国民の声に耳を傾けようともせずに、内閣と与党の意のままに危險を孕んだ
法案を強行採決してしまう。そこに国家の暗がり度合いが色濃くなっている。
社会には、詐欺事件や食品の偽装表記が身の周りに存在して、何をどこまで信用して良いのやら解らない暗闇があります。教育や子どもたちの世界においてさえ、体罰や虐待、虐めの増大が神と人、人と人との愛と信頼が色
あせて暗い影が覆っている。
【資本主義経済の行き詰まりの原因】
経済の主導権を握っている資本主義経済といえども今や行き詰まりを見せて困迷しているのです。元々資本主義経済は、根本にプロテスタント・キリ
スト教の倫理から生み出された精神がありました。その倫理とは「神の栄光のために」という精神でした。
それを解いたマックス・ウェーバーは、その説を机上の空論でないことを檢証しようと資本主義の国アメリカに旅行して色々と調查をしました。
ある時アメリカで働くドイツ人の友人医師からこういう話を聞いたという。
その医師が話した事は、一人のアメリカ人患者が診察を受けに来た。診察台に橫になったその男は、さっと起き上がって、こう言ったという。なんと言ったかと言うと「先生,私はこの町の〇〇教会の会員です」と言ったと言う。
つまり、キリスト教会の会員を表明するという事は、私は治療費を踏み倒すような人間ではありません。診察して下さい。そういう意味だと言うのです。その友人は、その言葉を聞いてびっくりしたのだ、とウェーバーに語ったという。
マックス・ウェーバーは、そのような実地検証を伴って「資本主義の精神」 はプロテスタント・キリスト教の倫理に基づいて形成されたのだ、というのです。
けれども現在では、資本主義経済は、いつの間にか「神の泶光のために」という基本理念が技け落ちてしまって、単に機構だけが残って、全ては市場に委ねられる事になった結果、資本主義経済は「神の栄光」ではなくて「唯利得追求のため」というものに変わってしまっているのです。
そこに資本主義の暗闇の源があるのです。神の泶光を拒否し、神に敵対するところに暗黑があるのです。かつては唯物主義経済が「神の泶光」を拒否しましたが、その唯物主義経済は70年で立ち行かなくなり、今では独裁政治のために資本主義絰濟を導入して利用しています。
【まず神の国と神の義を求めよ】
そもそも、聖書の教えによりますと、この世の衣食住生活は、神様が保証してくださるものだと教えているのです。
マタイによる福音書6章25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
まず何事よりも神の国と神の義を第一に求める生活を誠実に行いなさい。 そうすれば、この世の生活は、思い悩まなくとも保証されるのですと。
現在の社会生活は、このような聖書の教えに照らすとき、如何に最も肝心な事を失っていることでしょうか。即ち現代社会と現代人は、何と神に対して敵対をしていることでしょうか?!そして、この神と人への敵対こそが、現代の暗闇の源泉なのです。
② 悲惨の中に見える神の痛みと愛
そもそも神様は決して冷酷な方ではありません。むしろ人間の悲惨を共に 悲しまれる神なのです。神の御子イェス様は、災害の悲惨に苦しむ人々のように、言葉を失うような苦恼を味合われました。
旧約聖書イザヤ書53章6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
新約聖書ヘブライ人への手紙2章16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
神の御子キリストは、他ならぬ私達人間の罪を贖うために正に未會有の試練を受けて苦しまれたと言っているのです。
《Ⅲ》神は敵意の只中に御子を赠る程に世への愛を決起された
さて、今までは今年一年の、私たちの社会の暗闇のことを中心に話して来ました。しかし今日はクリスマス記念の礼拝です。それにしては今までのお話は、
クリスマスを祝うのに相応しくないのではないかと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私自身そのように感じながら説教準備をしておりました。
けれども、どうしても今までお話して来たことを語ることなくしてはクリスマスのメッセージは語れなかったのです。つまりクリスマスは、私たち人間が神に対して如何に鈍感であり、その心と思いがどんなに神を離れ、どんなに神に敵対しているのかを悟らなければならない出来事だからなのであります。
〜アガペーの愛と全ての人の希望の光・キリスト〜
そこで、今日選んだ聖書の箇所を見たいと思います。ヨハネ3:16『神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。』
先程来お話して来ましたとおり、人は心の奥底に神への拒絶反応を表わし、神を拒否し、確かに神に敵対する暗闇の中に生きているのです。
ところがです。神は驚くべきことにそのような世の暗闇に御子をお与えになったいうのです。神は敵対する敵の只中に、正に暗闇の真只中に御独り子を送り込んで来られた。それがクリスマスの出来事なのです。
人間同士の関係であったなら、自分を無視し自分を拒んでいると思える人、自分に敵対している人に対して、心尽くしの贈物などすることは考えられないことです。却って、自分もその人を無視して、敵对閧係を保ったままにするのではないでしょうか。贈物をするような価値のある相手ではないからです。
しかし、神は御子イエス・キリストを、敵であるこの世に贈られたのであります。
神は何故そこまでなさったというのでしょうか?神は『その独り子をお与えになった程にこの世を愛された。』つまり、神は無視し敵対する世を愛されたからだというのです。神がそこまでなさったのは、ご自分を拒絶するこの世を愛するが故だ。その愛の証として御子を送ろうと決起されたのだといわれるのです。
神様はどんなことがあろうとも、私たち人間を永遠に愛するのだ、と愛の決意を表明されたのです。それがクリスマスの出来事なのです。
人間同士の愛はどうでしょうか?相手に愛するに価値が在るかどうか、それが判断の基準になるのです。そこには、当然愛する相手に見返りを期待するのです。けれどもクリスマスに表わされた神様の愛は『アガベ一』という愛で、
相手に価値を求めない愛、お返しを期待しない無償の愛です。無償(只のこと)の愛といっても、どうでもいいような安っぽい愛ではありません。無償の愛といっても、それを戴くならば、価値のない私たちであっても、高い価値のある者になることが出来るのです。
ですから神様が私たちに求められる事は唯、その無償の愛の証であるイエス・キリストを、感謝と喜びをもって受容れることだけが求められるのであります。ヨハネ福音書3章
「16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がー人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなぐ御子によって世が救われるためである。」
御子イエス・キリストが世の暗闇に送り込まれたのは、イエス様が暗闇の故に悲惨に恼み苦しむ私たちの仲間となり、私たちの苦しみ恼みを背負い、私たちに永遠の命を与えて下さるために贈られたことを意味しているのです。
現代社会が、あらゆる面で暗闇の中に行き詰まっている原因も、天地万物の創造者なる神を忘れ、神を無視し、神を拒絶しながら気付かないで唯ひたすら走っているからなのです。ですから、まず全ての人が、悲惨の只中で
自分自身の罪を自觉し、神を見上げることが必要なのです。
そしてこのクリスマスを通して、神様の愛の決意表明に気付いて頂きたいのです。神の無償の愛のしるしであるイエス・キリストを心に迎え入れる備えのときとして欲しいと思います。
人となられた神の独り子キリストこそが、全ての人と、現代社会が真に希望を託すことが出来る唯一つしかない光だからです。何故なら、神様は敵であった私たちを、永遠に愛して下さる証として御子イエス様を世にお与え下さいました。この良き知らせこそ、本日記念致しますクリスマスの出来事です。神様の無償の愛に感謝をお祈りしましょう。
《祈り》西谷伝道所の愛する兄弟姉妹と共にクリスマス記念礼拝を捧げることが出来ました事を感謝致します。尊い独り子イエス・キリストをお与えになった程に、あなたに背いたこの世を愛して下さいました父なる神様、御名を褒め称えます。御子イエス様のご降誕を記念しますこの時、この世があなたとあなたの御心を忘れ、その誤った歩みの故に、多くの悲惨を招き、恼み苦しみを抱えつつクリスマスを迎えています。けれどもあなたは、私たちの思いを超えて、そのような忘恩の罪をもって敵対した世を尚も愛すること止めず、独り子をお与え下さいました。この計り知れない神様の無償の愛を,私達を初め全ての人々がクリスマスを通して改めて知る機会となり、救い主イエス様を心を開いて迎えることが出来るように祈ります。東北の被災者の方々、今年天災に遭って家族や家を失い悲しみと不安の中にある人々の上に豊かな慰めを祈ります。
貴き主イエス・キリストの御名によりて祈り願います。アーメン。
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