2013年12月29日説教「"霊"に助けられて祈る」赤石めぐみ先生
2013年12月29日説教」「"霊"に助けられて祈る」赤石めぐみ先生(伊丹教会)
聖書:ローマの信徒への手紙8章26 同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
31 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(説教要約 文責近藤)
【祈りにおける"霊"の執りなし】
ローマの信徒への手紙8章26節のみ言葉「同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」を愛唱聖句としておられる方も多いと思います。
今日はこの26節を中心に神様がどのように私たちの祈りを聞き入れてくださるのかということについて一緒に考えたいと思います。
【「同様に」】
愛唱されているわりには読み飛ばされていると思われるのが、この冒頭の「同様に」という言葉であります。
「同様に」と言われているのですから、前からの続きであるという事がわかるのですが、それがどの箇所であるかということは少しわかりにくいです。
26節の中のキーワードは"霊"という言葉と「うめき」という言葉であります。この二つ言葉をキーワードとして辿っていきますと23節にこれらの言葉があります。
【「被造物」だけでなく「私たちも」うめいて待望む】
ローマの信徒への手紙8章
23 「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
という続き具合であります。
23節の「被造物」だけでなく「私たちも」とあります。さらに戻って辿っていきますと19節から22節の間で「被造物」も共にうめき、共に生みの苦しみを味わってることを私たちが知っていますと。被造物だけでなく霊の初穂をいただいて私たちもと続くわけです。被造物が「うめいて」いるように、私たちも「うめき」ながら待望んでいる。
「同様に」「霊」も「うめき」を持って執りなしていてくださるという流れになります。
それでは「被造物」と「私たち」は何を「うめき」ながら待望んでいるのでしょうか。
それはローマの信徒への手紙8章19節によれば
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」。
21節によれば 「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」
23節によれば8章23 「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。
「心の中でうめきながら待ち望んでいます」と。
【「うめき」】
「うめき」という事ただ単に自分の心の中でのモヤモヤとした感じではなく、神の子となるという点に集中している言葉に注目したいと思うのです。
26節に戻りますと私たちはどう祈るかを知りませんが、何を祈るかは知っているのです。
「神の子とされること、からだの贖われる」ことを心の中で祈っているわけです。23節に「神の子とされること、体の贖われる事」を心の中でうめきながら待ち望んでいますと明確に書かれています。そのことを望みながら「うめいている」のです。けれども今祈る相手は神様です。正しいお方である神様でありますから、こういうお方に対してどう祈るべきかは私たちには分からないのです。どういうことかというとその理由は7節以下
ローマの信徒への手紙8章
7 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
ここに書かれているように、わたしたちには罪の問題があるからです。私たちは罪人であるからです。私たちは体を贖っていただきたい、神の子としていただきたい、この体に本当の命をいただいて生き生きと生きたいと願いつつも自分のなかの罪の故に祈ることとは反対のことをしてしまうのであります。私たちは自分中心の祈りをなし、神様のみ心にかなう祈りはできないのです。
そういう自分の罪の問題、それからまた周りの罪の問題、それは36節、
ローマの信徒への手紙8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
罪の世の中で神の子として生きる、新しく生まれ変わったものとして生きる事は本当に難しいのです。自分は神様に従ってこの世を生きたいと願いつつも、でもこの罪の世の中では本当に難しいのであります。
それで祈りに向かうことさえむずかしい状況に陥ってしまうこともあります。こういう自分の罪の問題、そして周りの罪の問題があります。そういう中で弱い私たちを助けて「霊」自らが言葉に表せない「うめき」をもって執り成して下さる。
【"霊"が言葉に表せない「うめき」を持って執り成して下さる】
言葉に表せない「うめき」を持って執成して下さるとは具体的にはどういう風にしてくださることでしょうか。
大変誤解されていることですけれどもここで「うめく」のは私たちではないのです。「霊」が「うめく」のですね。「霊」が「うめき」を持って執成して下さるのです。
【イエス様の「うめき」】
イエス様が「うめかれ」た場面があるのをご存じ事でしょうか。マルコ福音書7章31節から37節のところですけれども、
31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
耳が聞こえず、舌の回らない人を癒すという記事がございます。全部は読みませんがこの中で33節、イエス様が指を両耳に差し入れて、そして天を仰いで深く息をして、その人に「エッファタ、開け」と言われました。この「深く息をし」てというのが「うめく」という言葉と同じ言葉であります。
ここはイエス様が天を仰いで、「うめい」て「開け」と言われた。「開け」というのは「口」が開けと言われたのではなく、この「人」に向かって「開け」と言われたのです。
ですから、この人は耳が聞こえるようになっただけでなく舌のもつれが解けて話すことができるようになった。
マルコ7章の結論は、耳が聞こえず、口の利けない人を話せるようにしてくださったという事です。
この「口の利けない」と言う言葉は、ローマ書8章の26節
"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
マルコ7章37節のところは「口の利けない、言葉に表せない人を言葉が話せようにしてくださった」ということと言われています。
イエス様が「うめい」て、この人に向かって「開け」と言われた。そしてこの人は言葉に表せない者から話せるようになったと言う出来事であります。
ロマ8章に戻りますと26節「霊」自らが言葉に表せない「うめき」を持って執り成して下さるからです、とあります。というのはイエス様ご自身が言葉に表せないうめきを持ってこの人を話せるようにしてくださった出来事と同じようにイエス・キリストによって遣わされた「霊」が私たちを同じように言葉に表せない多くうめきを持って「開け」と言ってくださって、言葉に表せるようにしてくださるということであります。
私たちは「神の子とされる」こと、「体の贖われる」ことを明日に信じながらも罪の故にどう祈るべきか分からないのですけれども、「霊」が私たちを「うめき」ながら、罪の問題を解決して祈りの中心を言葉に表せるようにしてくださる。
【「キリスト・イエス」の執成し】
ところで26節27節「霊」が「執り成して下さる」とありますが、下の段の34節は執り成して下さるのはキリスト・イエスと書かれています。執り成して下さるのは「霊」なのか「キリスト・イエス」なのか、これは矛盾なのでしょうか。三位一体の教理を知っている私たちは、つい同じことだと片付けてしまいます。
【「霊」と「キリスト」による二手の執り成し】
神様はここで一方では「霊」が執り成して下さる、一方でキリスト・イエスが執成して下さるというのです。という事は深い意味があるという事をある注解者から教えられました。
どういう事かといいますと、「霊」は私たちの心のうちに働いて祈りがふさわしい言葉になるように、この罪の体をもって地上にある私たちに働いてくださるのです。そして「キリスト」は神の右に座して天上で執りなして下さる。「霊」と「キリスト」は罪人の私たちの祈りが神に届くように地上から、また天上から支えてくださるのです。
物を運ぶときに大事なものは両手でしっかりと持っております。それと同じように神様は私たちを地上では「霊」によって私たちの心を執成してくださり、天上ではキリストが執りなして下さる。このように二手から私たちの祈りを神のみ許に届けてくださり神は聞き入れてくださるのであります。このように書かれているのがわかります。
これほど確実な祈りはありません。取りこぼす祈りもありませんし、聞き入れられない祈りもありません。これほど確実に私たちの祈りは神のみ許に届けられるのであります。こう書かれているのを見るとこれは矛盾ではなく非常に大切なことが書かれてあると思います。
パウロはこのように確信したので非常に強気な語調でこう書くのです。
「神が私たちの味方であるならばだれが私たちに敵対するのですか」
これはこんなに確実に私たちの祈りは神様のもとに届けられるとの信念を持っているからです。
【祈りの中心】
けれども忘れてはならない事は言葉になる前からの祈りを言葉に表せるようになるという事、わたしたちの祈りを聞いている下さるということですけれども、祈りの中心というのはあくまでも、私たちを「神の子としてください」、「私たちの体を贖ってください」という祈りであります。
私たちを罪の体でありましても新しい命を与えられて生きることができるようにしてくださいという祈りの中心を忘れないでください。
このことをどういう言葉で祈っていけばいいのかと考えながら8章全体を読んでいきますと、その祈りの言葉のヒントがあります。
【具体的な祈りの言葉のヒント】
ローマの信徒への手紙8章
2 節、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
6節、 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
11節、 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
13節、 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
14、15節、神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
【現在の苦しみは将来の栄光に比べると取るに足らない】
神が確実に祈りを聞き届けてくださるので、「現在の苦しみは将来私たちにもたらされる素晴らしい栄光に比べると取るに足らない」と確信できるのです。そして被造物が神の子たちの現れるの切に待ち望んでいるとあります。この世界が神の子たちの現れるのを待望んでいるのです。
「霊」と「イエス・キリスト」とによって執成していただいた祈りが神のみもとに届けられ聞かれるのは、私たちが神の子として、この世の中で生きるのは世界がもっと良くなるためです。
{神の子たちの現れるの切に待ち望む〕
新しい年もすべての被造物のために私が神の子としてふさわしく生きられるように、私が神から与えられた命を生き生きと生きるられるように苦難のなかでも祈りを下げていきたいと願います。
神が確実に祈りを聞き届けてくださるので現在の苦しみは将来私たちにもたらされる素晴らしい栄光に比べると、それは取るに足りないと確信できるのです。そして被造物が神の子たちの現れるの切待ち望んでいるとあります。
世界が神の子達の現れるのを待望んでいるのです。「霊」と「イエス・キリスト」とによって執成していただいた祈りが神のもとに届けられ聞かれたなら、私たちが神の子としてこの世の中で生きるのは世界がもっと良くなるためです。
2013年12月29日
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