2013年11月3日説教「一つになるように」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
2013年11月3日説教「一つになるように」崔 宰鉉牧師(WEC派遣宣教師・神戸改革派神学校特別研修生)
新約聖書ローマの信徒への手紙15章1~13節。
1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2
おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9 異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10 また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11 更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。
12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
(説教要約 文責近藤)
【はじめに】
今日の御言葉に基づいて私たちが主にあって1つになるようにとの説教をいたします。
私は2週間、タイに行ってまいりました。そこでアジアで働くWEC宣教師たちが集まり会議がありました。
いろんな国から宣教師がきていました。日本の宣教活動ほど難しいことはないと思っておりましたが、もっと宣教の困難な場所に遣わされている宣教師もおりました。日本は宣教の一番難しい国ではないということがわかって悔い改めました。ラオス、ミヤンマー、中国で働く宣教師達の苦労と比べると日本で宣教活動しているのは幸いと思いました。
【七日間の命】
皆さんに残された人生が一週間だけだと言われたら、あなたはどのように過ごしたいですか。
私は韓国で居たとき学生達に質問しました。彼らの答えを五つに分類してみました。
世界を観光旅行してから死にたい観光タイプ。一本のリンゴの木を植えたいという哲学タイプ。恋愛をしたいというロマンチストタイプ。何も考えないで生きるという忘却タイプ。食べたいものを全部食べると言う食欲タイプです。
皆さんはどの様な答えですか。私が期待した答えは祈りながら過ごしたい、神様を礼拝しながら、聖書を読みながら死を迎えたいという答えを期待したのですが、だれもそのように答えなかったです。
【受難週】
私たちが見習うべきイエス・キリストは何をなされながら最後の1週間を過ごされたでしょうか。私たちはその最後の1週間を受難週と言います。
イエス様がその時なされた事は二つありました。1、弟子たちを教えることと2、お祈りをすることです。
主イエスが弟子たちに教えらた核心はヨハネによる福音書13章35 節にあります。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
最後の夜はゲッセマネと言うところでお祈りをなさいました。そこで十字架を背負うための祈りをなさいました。
祈りの中で弟子たちのための祈りが一番長かったです。 ヨハネ福音書17章全体がその祈りの内容です。その中でイエス様が強調されているのはヨハネ福音書17章21節です。
【すべての人を一つにしてください】
ヨハネによる福音書17:21 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。
言い換えれば、父と私が一つであるように弟子達も一つであるようにと言うことです。イエス・キリストの弟子たちへの最後の頼みは、世界に福音を述べ伝えることです。
その使命は12人の弟子たちに与えられました。お互いに彼らが愛することができず1つになることができなければ、その使命を果たすことができるでしょうか。
弟子達が至上命令を果たすためには互いに愛し、一つになることがどうしても必要なことでした。
皆さんにもう一度聞きます。皆さんに残された人生が1週間だけだとすればどのように過ごされますか。
私たちが神様の恵みによって救われ、クリスチャンになったならイエス・キリストの命令に従うのは当然ではないでしょうか。
「互いに愛しあう」という至上命令を果たすことが私たちが死ぬまでするべきことではないでしょうか。
パウロは今日の箇所で弟子たちがどうすれば一つになれるかを教えています。そして
私たちクリスチャンはイエス・キリストの教えに従って一つになるために何をすべきでしょうか。
【互いを喜ばせる】
1つ目はお互いを喜ばせることです。
今日の箇所ローマの信徒への手紙15章2、3節を共に読みましょう。
「2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。3 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」。
キリストもご自分の満足をお求めにはなりませんでした。2節を見ますと「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」、すなわち隣人の徳が高められるように隣人を喜ばすことです。
英語でPlease his neighbor ,隣人を喜ばす、この御言葉の意味は隣人の利益のために自分の利益を犠牲にしなければならないと言うことです。
それが真に一つになる出発点です。
コリントの信徒への手紙一13章(愛の教え)は、5節に
「5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」。
と、自分の利益を求めずと言います。自分の利益を犠牲にすべきです。殆どの人は他人が自分の為に犠牲を払ってくれるのを願っているではありませんか。私もそのタイプです。
私は妻と一緒に住んでいるんですが、私は家で掃除をすることと皿洗いをすることが私の担当です。それをしないとご飯がないです。ある日、皿洗いをしたくなかった、その日は夕ご飯がなかったです。これが人間の心ではないでしょうか。相手が何かしてくれれば私も何かしてあげようというのです。
しかし聖書はどう書いていますか。今日の箇所1節を皆さんと声を合わせて読みましょう。
ローマの信徒への手紙15章「1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」
自分の信仰が強いと思う人は信仰の弱い人のためになるべきです。主イエスが天国の栄光の御座を捨ててこの世に来られ、自分のすべてを犠牲にされたその理由は、私たちを喜ばせるためです。
【愛の御心】
私たちを救って下さるために、新しい命を与えてくださるために、すべてを主イエスは犠牲にしてくださいました。3節「 キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」これは神様の御心を現された箇所と思います。神様の御心にあるのはなんでしょうか。私たちが救われ真実の信仰を持つことでないでしょうか。イエス様はこれらをもたらすためにご自身を犠牲にされました。
【十字架の死に至るまで】
使徒パウロはピリピの信徒への手紙2章6節から8節に次のように言っております。
「6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
私たちはどうでしょうか。イエス・キリストのように真実の一のためにすべてを犠牲にして生きているでしょうか。教会や隣人の弱点を補うようにキリストのように生きているでしょうか。皆さん、真実の交わりを願っているなら自分自身を犠牲にして相手を喜ばせるために心を尽くしてみませんか。
【同じ心を持つ】
2つ目は同じ心を持つことです。同じ心を持つことによって私たちは一つになることができると思います。
私たちが一つになるために一番必要な事は同じ心を持つことです。今日の言葉の5節6節を共に読みましょう。
ローマの信徒への手紙15章「5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。
韓国語では6節「心が一つになるようにしてください」と書かれています。
どうすれば皆さん私たちの心を一つにすることができるでしょうか。
【御言葉を教える】
私たちは育った環境また性格皆それぞれ違います。物と見る観点も違います。私と妻は中学生時代からずっと同じ教会で育ち同じ神学校にも入り3年間寮生活をしながら一緒に生活しました。今まで一緒に住んでいますが時々物の見る観点が違うのです。こんなに長く一緒に住んでいたら物事を見る観点が一つになると思うのですが。このような問題がイエス・キリストの弟子たちの中にもありました。様々な出身があり、ロマのための収税人もいれば、熱心等の人もいました。金持ちも貧乏人もいました。格式のある人も学識のない人もいました。
イエス・キリストは彼らの心を一つにされるために何をされましたか。神様のみ言葉を教えること以外は何もされませんでした。主は弟子達の心が一つになるためにどう生きるべきだと教えたでしょうか。4節にその答えがあります。
ローマの信徒への手紙15章「4 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」。
【主の忍耐と慰めを学ぶ】
この箇所で強調されていることは二つのこと、忍耐と慰めです。5節では「忍耐と慰めの源である神様」と書かれています。
クリスチャンは神様に従うべきですと思います。私たちの神様が忍耐と慰めの神なら私たちも神に従って人々に出会う時、忍耐と慰めによって、希望を持たせるべきです。
フィリピの教会は本当にいい教会ですが少し問題がありました。どんな問題でしたか。
フィリピの信徒への手紙4章「2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」
【相手を自分よりも優れた者と考え】
ここに二人の女性の名前が出てきます。ピリピの教会で熱心に奉仕をしていたようですが二人の仲は良くなかったのです。パウロがこの手紙を書いた背景は2章ピリピリの信徒への手紙の2章2節から4節を共に読んでみましょう。
フィリピの信徒への手紙2章「2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
私たちが持つべき同じ心の共通要素は何ですか。その答えは5節にあります。
フィリピの信徒への手紙2章5 「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。
仲の悪い二人にイエス・キリストの心を持ってくださいと言うものです。イエス・キリストの心を持って仲良くしないといけません。どうして私たちはイエス・キリストの心を持つべきでしょうか。それはイエス・キリストの心は忍耐と慰めとで満たされているからです。
【主の忍耐】
主はどれほど忍耐されたでしょうか。主は弟子達の中でご自分を裏切る者を知っておられた。ユダによって裏切られ、そして十字架にかけられることも知っていました。
しかしイエス・キリストのお姿はどうでしたか。
彼に他の弟子たちと同じように暖かい心を持ってパンをお与えになりました。ヨハネ福音書13章を見ると、イスカリオテのユダにたいして深く愛を持っていたことが記されています。この御言葉の意味は、裏切る彼を許して受け入れられる忍耐を、イエス・キリストの忍耐を表している言葉では無いでしょうか。
こんな本を読んだことがあります。それは戦場のヒューマニズムを書いています。ある軍人が武器を捨てながら敵に話すところです。
『あなたは血や肉のある人間、私もそうです。あなた失敗する人間、私も失敗する人間。あなたはいずれ死ぬべき人間、私もいずれ死ぬべき人間。どうして武器を受けなければなりませんか。どうして敵になるのでしょうか。』
皆さん、神様によって作られ、神様の息子となりました。ですからイエス・キリストを信じる信仰によって私たちは家族になります。家族である私たちはどう生きるべきでしょうか。
イエス・キリストのように忍耐と励ましを持って心を一つにしてイエス・キリストのためにイエス・キリストの教会のために生きるべきではないでしょうか。
【互いを受け入れる】
最後はお互いにを受け入れることです。
今日の箇所の7節を読みましょう。
ローマの信徒への手紙15章「7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」。
【良い交わり】
皆さんどうして人間関係において互いに受け入れることが大切でしょうか。それは受け入れることによって良い交わりが作られるからです。
私は韓国人です。日本にきて四年立ちます。今年5年目になります。滋賀県ではこっちとより田舎ですが田舎で外国人として生きる事はあまり易しいことではありません。わたしがいくら頑張って日本人と同じようになるとしても私はいつもよそ者でした。日本人のように受け入れてもらうには私は生涯を通して頑張って生活してもできない事だと思います。
今日の前の箇所14章3節は声を合わせてみましょう。
ローマの信徒への手紙14章「3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」。
ここでは食べない人を軽蔑してはいけないといいます。「兄弟たちを侮るな」と新改訳では記されています。その理由はどういうことでしょうか。それは兄弟を侮れば人間関係に傷がつくからです。そのような問題に対してイエス・キリストはどんな手本を見せてくれましたか。イエス・キリストが私たちをどう受け入れてくださったかを見てみましょう。
皆さん、イエス様は私たちを救ってくださったとき私たちに何を期待されましたか。もちろん私たちに対してイエス様は私たちに何かを期待して、私たちがその期待に応えたから受け入れてくれましたか。私たちの生き方は今日もイエス様の期待には及んでいません。
それなのに聖書は神様が私たちを無条件に受け入れて下さったと記しています。
まるで放蕩息子を受け入れた父親のように神様は私たちを受け入れてくださいます。
放蕩娘息子が遠い国で財産を食いつぶして父親のもとに帰ったときに父親は真っ先に息子を抱いて無条件に彼を受け入れました。その素晴らしい父親の愛を受けた息子は父親に申し訳ない、父親のために人生を送ろうと思いました。その父親は期待に応えたから放蕩息子を受け入れたですか。
それとも父親に受け入れられたから父親に応えられるように生きようと思ったのですか。後者の方です。
私たちは隣人をどう受け入れるべきでしょうか。神様が私たちを無条件に受け入れてくださったように私たちも神様の様に人々を受け入れるべきではないでしょうか。
皆さんは周りの人々に対する期待がありますか。それなら彼らを受け入れてください。それが神様が私たちを受け入れてくださった生き方です。友人関係が壊れるのは私たちの期待のせいではないでしょうか。
【薔薇の刺】
ある韓国人の歌があります。「薔薇の刺」と言う歌です。歌詞の内容は信仰の告白的内容です。
『私の心には自我が多すぎる。あなたが休むところがない。私の心には儚い夢であなたが安らげるところがない。私の心にある暗闇があなたの休むところを奪い、私の心には私が消すことのない悲しみが檻のようにあるのであなたが休まれるところがない。風が吹けばそのするどい薔薇の枝はお互いにぶつかって突かれて、休めるところを探していた幼い鳥たちも薔薇の枝で刺されてしまうので休まず飛んでいってしまった』。
皆様、神様の愛によって新しい人になって神様の救いの恵みを味わって私たちが真実のクリスチャンであったら、疲れている隣人に向かって私たちの暖かい心の中で隣人を休ませる人生を送るべきではないでしょうか。
最後にマタイによる福音書11章28節を皆さんと一緒に読みましょう。
「28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
(おわり)
2013年11月04日
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