2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師
2013年11月24日、説教「神の恵みの深みを知る」佐々木弘至牧師
【聖書】ルカによる福音書5章1〜11
1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
【主題】キリストの御言葉に聞き従う祝福の偉大さ
《Ⅰ》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト
《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる
①人知を超えた御言葉の深みへ(全知の神への信頼)
②生ける神を知る畏れ
《羾》イエス.キリストに従う光栄
《I》私たちの人生(悲喜こもごも)をご覧になっているイエス.キリスト
【ガリラヤ湖畔で主の周りに集う群衆】
今日のルカ福音書の御言葉は、読者である私たちの胸をワクワクさせるような楽しさを持っています。この出来事は、恐らくちょうど今くらいの時刻か、あるいはもう少しお昼近い頃のことであったと思います。イエス様は、ゲネサレト湖、別名ガリラヤ湖の湖畔に立っておられました。
私たちにもそういうことがあるのですけれども、湖などの岸辺に立ちますと、湖畔の美しい景色や、湖に浮かぶ舟を眺めたりして、神様が創造された自然界の美しさに心を和ませられるものです。私もこの西谷伝道所を訪れるとき,
千刈キャンプ場近くに静かに流れる美しい流れが好きで眺め、一寸車を止めて眺めています。イエス様が岸辺に立っておられたのも、そのような美しい湖の風景を見ておられたのではなかったでしょうか。
するとそこへ、御言葉を聞こうとする大勢の群集がイエス様の周りに押し寄
せてきたといいます。そして、その群集の数は段々盛り上がって、恐らくイエス様も段々群集に押されるようにて水際までさがってお話しするような、足場もない状況になって来た程でありました。
イエス様は、この状態では、舟に乗って舟の中からお話する以外にないと考えられたのでありましょう。西谷伝道所のこの会堂も舟です。でもシモン達が乗っていたような漁師の小舟とは違います。ですから大勢の人が入ることが出来ますので、ガリラヤ湖畔の時のように、説教者の居場所に困る位、会堂が礼拝する人々でいっぱいになったらどんなに望ましいことだろうかと思うのです。
神様は、このような会堂を建てさせて下さったのですから、私たちにはこの地域の全ての人々をイエス様の許へ招く責任があると思います。さて、イエス様は岸辺を見渡して、ニ艘の舟が岸にあるのをご覧になったといいます。
そして、舟の傍には漁師たちが船から上がって、今しがた漁で使った網を洗
って繕っている姿をご覧になったというのです。*朗読2節そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
この網を洗う漁師たちの姿は、一日の激しい勞働や様々な働きに疲れた姿であります。そしてそれは、彼らの社会生活・市民生活の姿であります。
【網を洗うシモンたち】
そしてこの網を洗う光景には、彼らの生活が抱えている苦しみや喜びや悲しみ、彼らの生活の香りが漂っています。そしてイエス様は、そのニ艘の舟と漁師たちの姿に、この世に生きる彼らの人生とその労苦をご覧になっておられるのです。そして、彼らの心の中をもご覧になっているのです。
そして片やこちら側には、イエス様を囲む、神の国,天国の福音に耳を傾けている夥しい人々の集まりがあるのです。そして、ガリラヤ湖畔における、このニつの光景のコントラストは、今このように西谷伝道所の会堂に集まって、神を礼拝している私たちの光景と、私たちの外で營まれているであろう地域の人々の様々な活動の光景と同じコントラストがあるのであります。
私たちは今、この世の唯中であれやこれやと働いたり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、悩んだりしている人々の生活の直ぐ近くで、こうしてルカ福音書の言葉を語り聞き、神を贊美し、神に祈り、神の安息に与るという神の国・天国
の活動の真唯中に身を置いているのです。
この私たちと教会の外側の地域の人々とのコントラストと、ガリラヤ湖のイエス様を囲む群衆と、漁師たちのコントラストは重なるものがあるのです。
【シモンはイエス様を乗せた舟を】
そしてイエス様は、この二つの別々の活動を、決して無関係のものとして見ようとしてはおられなかったことを3節に見るのです。*朗読3節 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
イエス様は、この世の只中で、網を洗っているシモンの持ち舟に乗って、「岸から少し漕ぎ出してくれるように」と頼んだのでした。イエス様は、この世の働きから、神の国の働きの中に参加し、天国の働きのために奉仕し貢献することを願って、シモンに船を出してくれるよう頼まれたのです。
すると、頼まれたシモンはどうしたのでしょうか。
恐らくシモンは夜通しの漁で疲れ果てていたことでしょう。それも、少し位収穫があったなら、その疲れはあまり苦にならなかったでしょうけれども、その日は、
雑魚一匹取れなかったというのですから、疲労の上に落胆の気持ちが重な
って、大変辛い思いを抱いていたに相違ありません。シモンとしては正直のところ、網を洗い終えたら、すぐにも家に帰って休みたいところだったと思います。
しかし、イエス様は、そんなことが分からない訳ではないのですけれども、むしろそれを承知の上で、シモンに舟を出してくれ、と賴まれるのです。
そして、その賴みを聞いたシモンはどうしたかと言いますと、むげに断ることもなく、快くイエス様の賴みに応じたのでした。
そして、シモンはイエス様を乗せた舟を漕ぎ出しましたので、②
イエス様は舟に腰を下ろして、岸辺に集まった多くの群集に向かって無事に説教を語ることが出来たのでした。
しかしシモンとしては、まだこの時、自分が神の国・天国の働きに仕えている のだという意識はなかっただろうと思います。そして、くたびれており失意の中にありましたけれども、唯イエス様から賴まれたので、それを断ろうとはせずに、唯親切心から自分の舟を出しただけのことだったと思います。けれども、イエス様は
彼の人生を良く知っておられ、彼はこの時意識せずして、この世から召し出されて、神の国・天国の勸きに用いられてぃたのでした。
そして、やがて彼はこの湖の出来事の後に、後日イエス様によって正式に使徒として召されることになるのです。そしてイエス様は、現在も神の国・天国と教会のために、この世をも見ておられるのです。そして主イエスは、この世には、世の労苦やしがらみの中から、神の国・天国の平安の中へ招き入れようと神が定めておられる人々がおり、神の国と教会に奉仕する人々を召し出そうと望んでおられるのであります。
《Ⅱ》主は私たちの生活の中に語りかけて下さる
さて、このシモンとは誰かといいますと、4章38節を見ますと、 妻の母親の病を癒やして戴いたシモンであります。そして彼は、この日の出来事の後でイエス様から「シモン・ペトロ」と呼ばれる人になる訳です。
ルカによる福音書4章38 イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。
【イエス・キリストからの召し】
そして私たちは、この時の彼の態度から、素晴らしい手本となるものがあることを学ぶのであります。それは、彼がイエス様の突然の賴みに対して「自分は疲れていますから、今お手伝いすることは出来ません」と言って断らなかったことであります。むしろ快くイエス様の言葉に応じたことであります。このシモンの態度がこの後、神様の大いなる祝福と惠みを体験するきっかけになり、そして神の国,天国の福音に仕える働きに召されることになって行ったのであります。
私たちが、教会の役割や奉仕などに召される場合に、つい自分の都合や、
自分のしたいことを優先させて、あるいはこの世の働きを優先して、教会の御用を後に回したり、場合によっては逃れてしまうというようなことがありはしないでしょうか。シモンの姿に見習わねばならないと思ぃます。
私たちは、礼拝を始めとして、教会の活動には、全て必ずイエス・キリストからの召しがあること、そして神の国の働きのためにイエス・キリストが私たち一人一
人を賴みとして下さるものがあるのだ、ということを覚えている必要があると思います。そしてシモンのように、自分の思いを後に回してでも、まずは神の召しに応えて行くことを優先させるように心がけていきたいものであります。
① 人知をはるかに超えた神の惠みの深みへ(全知の神への信頼)*4~7節
さて、シモンとしましては、イエス様の語る御言葉を聞いて感激もし、同時に自分の舟がイエス様に用いられたことに対する満足感を覚えて舟を岸に戻そうと思っておりました。その時でした。御言葉を話し終えたイエス様の口から、シモンに向って思いもよらぬ言葉が告げられたのでした。
【沖へこぎ出し、網をおろして漁を】
4節 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
イエス様は、このような言葉をもってシモンに語りかけてくださいました。そしてこの御言葉は、シモンにとって少し意外なものに聞こえたのでした。
私たちの日常生活において、神様の御言葉というものは、この場合のように
現実とはかけ離れた、思いもよらない内容の言葉である場合が以外に多くあるのであります。このシモンに対する言葉が正にそうでありました。それは、漁師シモンの返事にその驚きが表われています。
5節 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
シモンにしてみれば、このイエス様の言葉は、あまりにも現実離れした啞然とするような言葉であったのかと思います。シモンは、プロの漁師だったからです。
しかもガリラヤ湖の漁については、知り尽くしているベテランの漁師でした。いつ
頃、どのくらいの深さで、どうやって網を降ろしたら魚が最も良く獲れるのか。
それをよくよく知っている玄人であります。そのベテラン漁師のシモンを始め、
いずれ劣らぬその仲間達が、頃合を見計らって、夜通し最善を尽くして苦労したけれども、何故か雜魚一匹獲れなかったというのです。そもそも長年の漁師生活の中でも、朝まで網を降ろして一匹も取れないというようなことは滅多
にないことでした。それなのに、イエス・キリストは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、
漁をしなさい。」これは、漁のことを知り尽くした腕に自信のある漁師にしてみれば、なんと現実的でない無益なことではないか。
シモンはイエス様の提案を内心そう思ったかもしれません。シモンだけではなく、漁師仲間たちは皆、そう思ったことと思います。
確かにイエス様の言うことは実情に合わないことでした。何故なら、第一、
漁に適した時間带は夜間から夜明けまでであって、自分たちはその時間带に朝まで漁をして、しかも一匹も獲れなかったのでした。
そのため身体はくたくたに疲れているのです。たまたま折り良くイエス様の御言葉も聞けたので、もう家に帰りたいところなのです。叉当時の資料によると、網による漁は投網漁と引き網漁があったと言われますが、投網漁ならもちろんのこと、引き網漁にしても沖,即ち深みに網を降ろすということも、当時の漁法としては考えられない方法だと言われます。
けれども、イエス様は時間も場所も関係ないかのように「さあこれから漁をしなさい。」と言われるのです。
【お言葉ですから】
しかも「沖に漕ぎ出して深みに網を降ろしなさい」と、なんとも無知とも、無邪気とも思われることを言われるのです。シモンは、それに対して答えました。
「先生、わたしたちは夜通苦労しましたが.何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
この、前半分はイエス様の提案に否定的な答えであります。「これから漁をしても無馱でしょう」という気持ちの表れであります。しかし、ですけれどもシモンは「私の経験や知識はともかくとして、イエス檨お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えているのです。
このシモンの思いには「何か変わったやり方だから試してみましょう」というものはないのです。「はっきり言って私の知識や経験とは全く違います。けれども、
イエス様あなたの言われる言葉、あなたの御意志であるならば、網を降ろしてみましょう」と言うのです。沖に網を降ろすことは、彼らの人生の未絰驗ゾーンでありましょう。しかし、シモンのこの柔軟な判断と決断は素晴らしい驚くべき結論をもたらしました。*5節B~6節。
イエス・キリストの教え,聖書の教えというものは、全てが、私ども人間の知惠や一般常識と違うものであるという事ではありません。聖書の教えは、多くの場合、天地自然の法則と矛盾するものではありません。しかしある信者は、薬や化学的な治療に頼らない方が良いと言って、神様に祈る事を強調して失敗する人がいます。もちろん病気のために祈ることは必要です。が、迷信的に祈りに頼るべきではありません。しかしまた、科学的でさえあれば、祈りは不要であると言う考えも、これ又迷信的な生き方であることを現代人は知るべきであると思います。そもそも、私たちは自然と言うものをどう考えるかが大切なのであります。
つまり、自然は偶然に存在していると考えるのか、それとも自然は偶然に存在しているのではない、と考えるかは重大な違いがあるのです。それは無神論と有神論の違いです。
有神論はこの天地自然は神が創造されたものと考えるのです。そして神の創造を信じることは神の摂理(自然は神が保存し统治している)と信じる訳です。
しかしこの自然界が自然に、言い方を変えれば偶然に発生し存在しているという無神論的な考えからは、自然の中に神の働きを考えませんから、病のために神に祈ることは愚かなことになる訳です。けれども同時にこの自然界を神が摂理(保存し统治)しているという有神論的な考えは、
自然の秩序も神が創造し、神が摂理しておられると考える訳です。
ですから、私どもは自然の秩序から学んでいる科学を常識として重んじますけれども、科学万能を信じる訳でもありませんから、神に祈ることを大切にするのです。しかし、近頃の社会は、大気汚染や地球温暖化等の現象から、
科学万能に疑義を感じるようになりました。
ですから天地の創造者であり摂理の主である神を知りませんと、唯やたらに科学を否定してカルト的な奇跡や、怪しげなスピリチャルカウンセリングなどに惑わされる危険性もある訳です。そういう意味からも、私どもは、全ての物事を摂理しておられる天地の主なる神であり、救い主であるキリストの言葉を、隣人に証する責任が大いにあるのです。そしてキリスト者は、生活において有神的な人生観・世界観を世に証する者として召されているのです。
そこで、イエス様の言葉に率直に從ったシモンたちの様子を見ましょう。
朗読6〜7節、6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
彼らはイエス様の言われるままに、沖へ深みへと舟を漕ぎ出しました。そして網を降ろしますと、そこに恐ろしいほどの手応えを感じたというのです。
確かに、彼らのプロの漁師としての絰驗と知識は科学的に適うものでした。
しかし、彼らは謙虛に自分の絰驗を横に置いて、とにかくキリストの言葉に率直に從ったのです。あるいはその行動は岸辺にいる群衆からはからかわれる事かもしれませんでした。しかし反面、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦そういう世間的な考方から離れる事でもあったのです。
彼らが沖へ漕ぎ出すことは、彼らが沖へ漕ぎ出すということは、一旦一般世間の環境から離れて、心を解放し自由にしてイエス様と面と向き会うときともなったのです。そうすることによって彼らは、この社会で每日生きている処とは異なる世界を、湖の沖の深みに体驗するのです。
彼らは、神の言葉に從うという体験の中に、それまでの自分知識や経験をはるかに超えた、神の支配・.神の深い恵みの支配を見たのです。シモンは、 この時はまだそこまでは自觉していたかどうかは分かりません。
けれども、シモンの成功の鍵は、神の言葉に対して自分を無にしたことにありました。自信に滿ちた自分の知惠も知識も经驗も、この際横に置いて、とにかく神の言葉に生きてみようとした結果、彼はこの世界の全てを創造し、全てを摂理しておられる神の図り難く深い知恵と、大いなる力に触れたのでした。そして、その結果は大変なものになりました。
ここでイエス様が教えようとしたことは、決して大漁になる極意をシモンに伝授するためではありません。叉、プロの知識や絰驗が間違っているということでもありませんでした。神の摂理の計り難さ、それ故の人生の計り難さ、神様の御心の計り難さ、驚くべき神の恵み深さ・.豊かさ、正に驚くべき恵み、ァメージン グ・グレースを実感させられる事だったのです。
② 生ける神を知ることの畏れ
恐らく彼らは網に入った魚を二つの舟いっぱいに引上げて、舟が沈みそうになるまでは無我夢中でした。事の成り行きを落ち着いて考える余裕も何もありませんでした。しかし、この驚くべき収穫に気付いた時、シモンはイエス様の足元に平伏して叫びました。
ルカによる福音書5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
ここにシモンの言葉と態度に大きな变化が起こりました。
5節ではイエス様を「先生」と呼んで、その提案を半ば否定的に思っていましたが、ここでは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」
この福音書記者ルカも叉、唯[シモン]ではなく、「シモン・ペトロは」 と書き変えています。彼はイエス様の言葉に、自然を超えて働く神の力を知らされたのです。そして神の力が彼自身の心に届いたのです。それ迄イエス様は
単なる尊敬する「先生」でしたが、ここで'は「主よ、即ち神よ丨という呼び方に 変化しているのです。真の神に触れたとき、彼は自分が「罪深い者」である事を悟る人になっているのです。自分の罪深さを認識する。それは神の御業なのです。私たちは、イエス・キリストの言葉に聞き從って生きて行きますとき、その惠みと力を味合うことが出来るのです。そして、神の患みと祝福溢れるばかりの豊かさを知りますなら、私たちは生ける神の前に自分が罪に汚れた不信仰な存在であることの畏れを実感させられるのであります。
皆さんの信仰に至るプロセスも同様です。初めはキリストは単に世界的に有名な宗教家か人生の偉大な指導者であり、愛の人に過ぎないのかも知れません。しかし、その福音を聴いていて信じ、従って行きますと、次第にイエス様
が天地の主なる神であることが分かり、自分が罪人であることが分かって来るのです。そして、イエス様が惠み豊かな救い主であることが分かって来れば来る程に、自分の罪が鮮明に見えてくるのです。
《Ⅲ》イエス・キリストに徙う光栄
【人間をとる漁師】
そしてシモン,ベトロの信仰は更に深くされる必要がありました。何故なら、真のキリストへの信仰は、決してキリストから遠く離れて恐れおののくことではないからです。イエス様はシモンに言われました。
「10節後半」すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
確かに真のキリスト信仰には「私は不信仰で汚れた罪人であります」という意識が伴います。
けれども、それはイエス様に対して「どうかわたしのような者から離れて下さい」というところから、逆にキリストの懷に飛び込んで行くのがキリスト信仰なのです。信仰は、
謙遜そうに,聖なる神から,イエス・キリストから遠く離れて生きるものでは決してありません。イエス様は「恐れることはない」と救しを宣言して下さるのです。
キリスト信仰は、恐れおののいて神を離れて生きるのではありません。罪人が罪赦されて、神を畏れ敬いつつも、その恵みに信賴してキリストと一緒に生きるのです。そればかりか、キリストの使命に生きることが真の信仰なのです。
「人間を獲る」は「人間を生け捕りにする」という意味です。
「人間をとる漁師になる」これは直接的には、シモンを使徒として:召された言葉ですが、
元の意味は「人を真に生かすために漁る」という意味です。
酸素の欠乏し濁った溜まり水の中から、生け捕って、酸素を豊かに含んでいる生きた水の中に移す、それを「人間を漁る」というのですね。
ですからこの出来事全体は、将来の教会の使命を予表した出来事なのでした。つまりこの出来事は、教会とキリスト者は、この世の人生に唯衣食住を追求して、神もなく希望も平安もなく唯労苦し、思い患いつつ生きている人を、
イエス・キリストが恵み深く支配する神の支配の幸いと喜びの中に、伸び伸びと自由に生きる人生へと漁る働きに召されていることを、前もって表す出来事でありました。
神様は私たちの日常生活の中に啄木が「働けど働けど猶(なほ)わがくらし楽にならざり,じっと手を見る」と歌ったそういう現实を体驗することがあります。 ベトロ達のこの日の漁も似ています。神は通常の人間生活の中に、時として、
労苦が無駄であるかのような試練を与えられることがあります。神が通常の惠みの御手を控えられることがあるのです。
今の社会も、かつての右肩上がりの絰济情勢がまるで夢であったように想われる行き詰った状態が繞いています。そればかりか、自然の大災害や原発事故のような恐るべき人災が相次いで起こります。高級有名ホテルやレストランが誤表示や偽表示を行い、政治や経済や教育の世界までもが人間の生命の大切さを見失い、人間としての正常な感觉が麻痺して来ているので
す。子どもたちの、友達を自殺にまで追い込む虐めが心を痛めます。
【一般恩恵と特別恩惠】
これが近・現代社会に現れている頸著な兆候です。神が恵みの御手を控えられているのです。余りにも、人間が人間の知恵・.知識・経験だけを良しとし、神の恩恵への感謝を忘れて歩むとき、神はそこに一般的な恩恵(コモン グレース)を差控えられることがあるのです。ペトロ達の夜通しの漁のように、雜魚一匹取れない試練を与えられるのです。
しかしそのような試練は、同時に、神の言葉という特別な恩惠(スペシャル グレース)を教え示されるときでもあるのです。それは、人間の思いを遥かに超えた神の恩恵を伴う言葉です。それは人間の罪を救し、救いを与えるキリストの十字架の福音です。
【福音の網を社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ】
キリストの福音、それは、救い主であるイエス・キリストが十字架の上に死に、
死から甦ることによって罪人の罪を救し、救いを与えるという良き知らせです。
ですが、キリストの十字架の福音程、人の経験や知惠や常識とかけ離れたことはありません。ある人には十字架の言葉は、愚かにも思えるのであります。
しかしこの十字架の福音にこそ、実は滅びゆく人を生かす神の知恵と力が
秘められているのです。*1コリント1:18〜25 18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
人は天地万物を創造し保持し統治しておられるキリストの恵み深い支配を受けて生きてこそ、真に生かされるのであります。
そして神の言葉を聴くためのキーポイントは、漁師ペトロのように自分の心を低くし空しくてイエス・キリストの御言葉に聞いて従うことにあるのです。
人を罪と死に結び付ける人生から、キリストのいのちの中に漁どるキリストの言葉・福音というものは、確かにこの世の知惠とも常識とも異なるのです。
そういう訳ですから私たち教会・キリスト者は、この世の常識や経験を絶対視するのではなく、むしろこの世にはない神の測りがたく深い御心に素直に聽き従って、キリストの言葉・福音の網をこの社会の沖へ、浅瀬ではなくて深みへ、
つまり私たちの知識や経驗を超えて、滅び行く人の心の深みまで、福音の網を投げる努力をすることによって、神の恵み深い支配〔摂理〕を知って行くのであります。そのようにして人を天国へ移し漁る、この西谷伝道所の舟「西谷丸」の使命を果たして頂きたいのです。この光泶ある使命に感謝しつつ共にイエス・キリストに仕えてまいりたいと思います。
《祈祷》
天地万物の造り主にして、救いの主でいます父.御子.御霊なる神様。御名を讚美し、その豊かな御心と、大いなる愛の御業の故に心から感謝を申し上げます。
愛する西谷伝道所の公同礼拝に奉仕を許され感謝致します。あなたは私共を、この世から御名を礼拝するようにと、御許へと呼出して下さり、御言葉を通してあなたの御心を教え、大いなる 恵みを与えて下さいましたことを深く感謝申上げます。
私共は、しばしばこの世の生活の中に埋没して、あなたの深い御心を意に介さず、社会の風潮や習慣、自分の知恵.力に賴んで生きる愚かな罪ある者であります。しかしあなたは、そのような私共の現实をご存知であって、時宜に適って御言葉を語りかけ、あなたの惠み豊かなご支配を明らかに示して下さいます。又あなたは私共を常にあなた御自身の御許へと招き、神の国の御用に用いようとしていて下さることを教え示されました。どうか、私共が如何なるときも、あなたのみ言葉とあなたの御用を優先する自由で開かれた心を常に抱いて生きて御言葉に從い、御心を行う者とならせて下さい。そして、あなたの大いなる恵み深い摂理の中に感謝しつつ生きる者として下さい。
神よ。昨年の震災の苦恼から回復出来ない東北の人々を顧みてください。そしてそれに伴い生じた原発事故は、正に人間の傲慢と、至らぬ知患に過信した結果が招いた災いでありました。神よ、どうか今なお先が見えないままに恼み苦しむ福島県の人々を憐れみ助けてください。国が相応しい援助を与えるべく用いて下さい。渦中にあります教会・
伝道所を顧みて下さり、主の豊かな恵みに支えられて、周囲の人々に希望を与えるために福音の光を高く掲げ、主の恵みを執り成すものとしてください。尊き主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
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